『晴れのちシンデレラ』宮成楽――余地としての未去勢さ。
2009/03/05/Thu
『まんがライフMOMO』がわたしの趣味から微妙にずれてきた。いろいろ連載入れ替わったしなー。まあこれから気に入る作品もあるんだろうけどね。『だってヤンママ』なんかは後から好きになった。
碓井尻尾さんに期待。『店長の憂鬱』は好きだ。同人っぽくて。
大体わたしという人間はマンガでもその他の表現作品でもあまつさえ人でも趣味から微妙にずれてきたらきたでいろいろ考えてしまうのだな。なんで趣味に合わなくなったんだろう、と。最近なら笙野頼子がそうだな。
その問いの答えが出ることはほとんどない。出たとしてもどうにもならないだろう。別に相手(作品)へわたしに合わせろなんて言いたいわけでもないしわたしが向こうに合わせることもない。っていうかそんなこと不可能。趣味を合わせたい、趣味が合っていた頃に戻りたいという気持ちがあってなんとかしようと頭の中でごちゃごちゃやることもあるが大抵うまく行かない。ごくたまーに再び合う場合もあるが。なんていうか、みんな不規則に動き回るブラウン運動を生きていて、その運動の中で再び同じ二つの粒子が衝突するのって運じゃない。そういう感じ。わたしの「趣味が合う」は「袖触れ合うのは縁ではなくただの偶然」なのだ。よく言えば「一期一会」。ただし「だからこの一時を大事にしましょう」とはならない。そうしたくてもできない。つーかそれこそ執着じゃん、仏教が克服しようとした。生の欲動だな。
「袖触れ合うも多生の縁」や「一期一会」という言葉が示す意味自体は、芸術の感動の本質だとわたしが考えているシニフィアンスに親近してはいると思う。ところが、巷で言われているそれらの言葉には、それこそ「だからこの一時を大事にしましょう」のごとき、事後的でパラノイアックな妄想が補足されている。権力者的な解釈によって劣化されている。あなたたち正常人という本質的権力者のせいである。正常という精神疾患の症状である。あなたたちは権力にものを言わせてただの妄想であるメタ言語を勝手に付加させている。
要するにインチキなのだ。ラカン論においては「メタ言語は存在しない」。この記事から。
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「わたしの苦しみをわかって」
って言葉が
「わたしの苦しみを癒して」
ってなるのが正常人なんだな。
論理が飛躍している。
「苦しみをわかる」ってことは、現実的に可能かどうかは脇に置いて考えれば、「同じ苦しみを感じる」ってことじゃん。
つまり、
「あなたも苦しんで」
ってことなわけで、むしろ、
「わたしはあなたを苦しめたい」
という意味になるのだよな。論理的に。
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この場合、「わたしの苦しみをわかって」というわたしの言葉に「わたしの苦しみを癒して」というパラノイアックな妄想即ち権力者的な解釈即ちメタ言語を付加させているわけだな。正常人が。
『まんがライフMOMO』に戻ろう。
「だからこの一時を大事にしましょう」なんてわざわざ言われなくてもそうしたい。そうしたいのにできない。この抗いを、たまたま『まんがライフMOMO』という四コママンガ雑誌が対象となって、言語化してみようというわけだ。
さて。
宮成楽さんの『晴れのちシンデレラ』がおもしろいと以前に書いた。正直言うと一時期マンネリを感じてそれほど好きじゃなくなっていた。しかしここ最近またおもしろくなってきた。単純に爺や以外の、ししまいに恋する子や三条さんやその弟という個性的なキャラが立つようになった、などと王道的なマンガ論めいた言い方も可能だろう。
しかし、そういった論とは違った感覚をわたしは覚えている。この感覚を説明するために少し迂回したい。
カラスヤサトシさんも大概好きなのだが、その作品『キャラ道』で、「四コマ王子」小坂俊史さんとアイデア対決を行なったことがある。当然王道的なマンガを書けないのがウリのカラスヤさんが惨敗したわけだが、その時審判員が言った「(小坂さんは)さすが安定感がありますねー」という一言に注目しよう。
安定感。うん、わかる。小坂さんはどの作品でも安定している。安定感があるのは男性作家に傾向的に多い気がする。連載終了してしまったが『いんどあHappy』の森ゆきなつさんも安定している。『ちとせげっちゅ!!』の真島悦也さんや重野なおきさんや大井昌和さんも安定している。もちろん男性作家全員がと言うわけではない。それこそカラスヤさんの作品は王道的なマンガを描けないという意味で安定していない。では女性作家はどうか。女性作家も安定している人が多いのに気づく。竹書房系四コマ雑誌は女性作家が多いから男性作家の傾向が目立っただけか。ともかく、安定感抜群なのは佐藤両々さん、山野りんりんさん(この二人はどうしても混同してしまう)、樹るうさんなどになろう。わたしが珍しくファンと公言している小池恵子さんも安定している側になろう。
よくよく考えてみれば、ここでの「安定感がある」とは王道的なマンガを安定的に描けるという意味なので、商業誌にとってすれば安定している作家を選択するのは当然のことなのだ。王道というか、一般ウケ、大衆ウケする作品をコンスタントに描き続けることができるかどうか。
一般ウケ、大衆ウケなる事象は、『週刊少年ジャンプ』のアンケート主義などが象徴的となるが、いわばその作品がある母集団の好みの平均値に即している、ということである。
しかしそれだけだと雑誌としてマンネリ化してしまう。固定化されてしまう。一方「好みの平均値」などといったものは幽霊のようなもので、定性的ではない。たとえアンケートの集計のごとく数値化されたとしてもある数値で固定されない。従って、「好みの平均値」からその感性が離れた作家をキープしておくのは、一つの戦略として理解可能だ。たとえるならここのコメントでも触れているが「進化論における突然変異」や「機械工学的な意味でのアソビ」なるものである。平均値の周囲に電子雲のごとく漂う余地である。この突然変異やアソビや余地があるからこそ、目まぐるしく変化する環境に適応できる。以下便宜上、突然変異やアソビや余地と呼んでいるものを「平均値の余地」と述べる。
突然変異やアソビや余地たる「平均値の余地」が感じられるから、わたしはカラスヤさんなどといった「王道的なマンガを描けない」「安定感がない」作家の存在に安心する。
そもそもあたしゃジャンプも読んでたけど月刊の方が好きだったしサンデー派だったしサンデーも月刊(増刊号)が好きだった。マーガレットは別冊が本体だという刷り込みもあったかもしれんが。『鉄腕バーディ』は好きだったけど『究極超人あ~る』は「ゆうきまさみ日和ったな」と思った記憶がある。っと余談申し訳ない。
つまり、『週刊少年ジャンプ』と相対して『週刊少年サンデー』は「平均値の余地」であり、『週刊少年ジャンプ』や『週刊少年サンデー』と相対して『月刊少年ジャンプ』や『週刊少年サンデー増刊号』は「平均値の余地」であり、小坂さんと相対してカラスヤさんは「平均値の余地」である、というわけだ。
この「平均値の余地」の必要性は、表象文化論的に言えば「マイナー志向」や「サブカル」などと呼ばれる事象の原因でもあろう。
ここで留意しておきたい。余地は平均値があるからこそ余地である。『週刊少年ジャンプ』がなければ『週刊少年サンデー』は「平均値の余地」として必要とされなかったろうし、『週刊少年ジャンプ』や『週刊少年サンデー』がなければ『月刊少年ジャンプ』や『週刊少年サンデー増刊号』は「平均値の余地」として必要とされなかったろうし、小坂さんや森ゆきなつさんや真島悦也さんや重野なおきさんや大井昌和さんがいなければカラスヤさんは「平均値の余地」として必要とされないだろう。マイナー志向やサブカルはメジャー文化があるからこそ「平均値の余地」として必要とされるのである。「平均値の余地」をテーマにしたマンガ雑誌がたとえば『ガロ』などに当たるだろうが、『ガロ』もメジャーなマンガ文化がなければ「平均値の余地」として必要とされなかっただろう。
ある平均値に事象を統一させようとするのは、平均値自体が変動することを考えれば常に目標を後追いしていると言える。ゴールである平均値は辿り着いた時既にもうゴールではない。それでも人は不定性な目標に向かう。仮設にすぎないゴールに集中する。現実には変動しているが幻想として中枢化されたゴールに固定されている。俗に言えばマンネリ化である(とはいえマンネリにはマンネリのよさがある。いわば治療的なよさが。「神経症の精神分析治療とはトラウマをマンネリ化させることである」などと暴論的に換言可能である)。精神分析ジャーゴンで言えば生の欲動であり、ラカン論で言えばファルスによるせき立てである。
一方、事象を取り巻く環境は、さまざまな事象が相関し合って(まさしく空観だな)目まぐるしく変化していく。
であるならば、統一させようとする固定化の力と目まぐるしく変化する環境の接触領域がここでの「平均値の余地」である、とも言えよう。それはこうも言い換えられるだろう。ネゲントロピーとエントロピー増大の境界が「平均値の余地」である、と。精神分析理論で考えると、統一させようとする固定化の力即ちネゲントロピーは生の欲動であり、空観的に目まぐるしく変化する環境即ちエントロピー増大は死の欲動である、となる。生の欲動と死の欲動がせめぎ合う接触領域が、ラカン論で言う享楽あるいはクリステヴァ論で言う前-対象の領域であり、ラカン論で言う対象aあるいはウィニコット論で言う移行対象の領域である。それら両面を合わせ持つ環境がクライン論で言う部分対象の世界である。そこに全体はない。ガタリ論で言えば「部分が部分を横断して事後的に全体が生じる」のである。そこでは全体は幻想となる。
「平均値の余地」と言える作品のうち、どきどきはらはらするのが享楽的あるいは前-対象的な作品で、安心するのが対象a的あるいは移行対象的な作品となろう。わたしにとってカラスヤさんという作家の存在は、対象aのごとき、ライナスの毛布のごときものである、ということになる。
わたしは先にこう書いた。「みんな不規則に動き回るブラウン運動を生きていて」と。エントロピーが大きい環境を、主観世界をわたしは生きている。そこでは人や物に限らず何もかもがブラウン運動を生きている。不規則に動いている。予測不可能だ。みんながみんな気まぐれで自分勝手。物たちも物たちで全て気まぐれで自分勝手。製造業に身を置いていた時期があったのだが、物に直接的に関わっていた時そんな印象を持った。ここのコメント欄から。
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一方、機械設計をやっているとわかるのですが、実際の機械の部品一つ一つってほんと言うことを聞きません。
機械のご機嫌伺いが仕事である生産技術的な視点で言うと、むしろ、機械の部品一つ一つより、集団という機械の部品である人間の方が聞き分けがよいのです。
よく、社会に対し従順することを「社会の歯車になる」みたいな言い方をしますが、わたしから言えば、実際の歯車の方が機械全体というものに対し反抗的です。
他人から正常だと言われることが、既に、フィードバック機能を持った、高度な技術を施された、歯車なのです。
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この主観世界はわたしは好きじゃない。しかしこの世界がないと不安になる。あればあったで不安になる。そこでは全ての人や物が不規則で予測不可能な運動をしているのだから。行くも地獄退くも地獄という話にすぎない。
だからわたしはネゲントロピーとエントロピーの接触領域を生きるしかない。享楽と対象aが、前-対象と移行対象が入れ替わる領域を。さっきまでライナスの毛布であったものが次の瞬間どろどろぐちょぐちょした屍肉に変わる領域を。きれいは汚い、汚いはきれい。ファルスはアブジェ、アブジェはファルス。
ここでようやく『晴れのちシンデレラ』の話に入る。迂回しすぎ。
一時期マンネリを感じておもしろくなくなった、と書いた。もう少し正確に述べると、読者に気を遣いすぎている感じがした。作家の心性として、そこそこ人気が出るとそれを保持しようと受取手の感性に迎合しようとするのはよくあることだ。実際連載開始後すぐにカラーページをもらっていることを考えると評判はよかったのだろう。とはいえ宮成さんの場合、迎合というより戸惑っている感じを受けた。「自分の作品のどこがおもしろいと思われているのかわからない」というような。平たく言えば、思いも寄らずそこそこ人気が出てしまい、戸惑った挙句作品として大人しいものしか描けなくなっていたのではないか、ということ。
キョドってしまった挙句定型の文句しか言えなくなることは、あなたたちにもよくあるのではないか。初期は主人公の晴さんにもこの傾向が見られた。彼女の場合キョドってしまった挙句わけのわからない行動に出てしまったが。
思うにこの作品の魅力はこういったキョドり感ではないだろうか。もちろんわたしにとっての魅力である。
しかし晴さんもある程度お嬢様学校の生活に慣れたのか、キョドり感は薄くなっていった。精神分析的に言うと、「語る主体」即ちここでは作者本人と短絡するが、宮成さんの「思いも寄らずそこそこ人気が出てしま」ったことへのキョドりが作品内のキョドりを薄くさせていったのではないだろうか、ということだ。リアルのキョドりがナラティブなキョドりを抑圧する。いわばコンプレックス状態である。
このキョドり感は恐らく「語る主体」即ち宮成楽という作者本人の本質的な主体傾向なのだろう。一種オーバーとも言えるキャラのキョドり描写は、宮成さん本人のキョドりがちな性格を根拠にしているように感じられる。キョドりがちな性格で生きてきた彼の主観世界をモチーフにしている。だからキャラのキョドりに説得力が生じる。『まんがライフMOMO』今年の一月号に掲載されたドキュメントマンガ『央美ちゃんとセラピー体験』においても登場人物である作者のキョドり感が見て取れる。ここでもキャラとしての作者は自身のキョドりを抑圧しているのが窺える。
従って、キャラとして晴さんのキョドりに作者自身のキョドりを投影するのが難しくなったのだろう。キョドった挙句わけのわからない行動をする晴さんは、恐らくキョドった挙句キョドりを抑圧する、(極端に言えば)フリーズしてしまう作者にとってうまく自身を投影できないキャラになってしまった。そういう仮説も成り立たないだろうか。
リアルでキョドる故ナラティブでキョドりを抑圧するのは(精神分析的な意味での)コンプレックスだと書いた。であるならば主体は裏返しを欲望するだろう。ユング論における影という元型や補償の機制である。エディプスコンプレックスにしろエレクトラコンプレックスにしろカインコンプレックスにしろ劣等コンプレックスにしろ同様の構造である。主体は自分の裏返したるキョドりを解放する人間に憧れている。その一形態として晴さんという主人公が生み出されたのではないだろうか。
しかし憧れは自身を抑圧する。自分が憧れるキャラとして晴さんという幻想を生み出したはいいがそれが自身を抑圧することになる。理屈として因果関係が混乱しているように思われるかもしれないが、それがコンプレックス状態である。陳腐なフレーズで言うとアンビバレンツな心理状態である。
リアル作者のキョドりはナラティブなキョドりを抑圧する。抑圧する幻想的な能動者として晴さんというキャラが(恐らく事後的に)スライドしてきたのだ。
従って、自身の内面を解放する象徴としての晴さんというキャラは、同時に内面を抑圧する役割を担ってしまう。
これは何も難しいことを言っているわけではない。たとえば、あなたはあなたが思う「本当の自分」なるものを声に出して述べたとする。他者と共有された「本当の自分」なる言葉は同時に本当の自分を抑圧する。言葉になってしまったそれに自分は束縛されてしまう。それと同様のこと。「本当の自分」なる言葉が抑圧する大文字の他者としてスライドしてしまったわけだ。
束縛された自分は「本当の自分」という言葉の陰で本当の自分を訴える。隠喩である。シニフィアン連鎖即ち隠喩的連鎖の隙間に主体の真理即ち本当の自分は落ちている。ラカン論の重要な定理である。
『晴れのちシンデレラ』の場合、晴さんというキャラに抑圧・隠喩されている主体即ち作者自身を投影するキャラが脇役として登場した。晴さんをライバル視しながら憧れているコンプレックスのお手本のような三条さんである。主役たる晴さんという隠喩が示す主体の真理として三条さんという脇役が生じたのである。隠喩などというシニフィアンに重心を置いた言い方となっているが(ラカン論ってなそういうものである)、ユング論における影という元型であり補償であると言えばわかりやすいだろう(ユング論は物語解釈には便宜的だしね)。晴さんという主人公の影として、補償として三条さんという脇役が定立している。
三条さんの晴さんを目の前にした時のキョドり具合は尋常ではない。今年四月号の彼女のキョドり方など読者を置いてけぼりにせんばかりのものである。しかし本当のお嬢様である彼女は自身のキョドりを必死に押し隠そうとする。抑圧している。
要するにこういうことだ。宮成さんは自身の理想として晴さんを描いていたが、それは同時に自身を抑圧するものとなっていった。従って、隠喩的なあるいは補償的な登場人物、即ち脇役に自身を投影できる三条さんというキャラを配置した。作者の無意識がそうさせた。
このような晴さんと三条さんという二人の関係に、リアル作者の内面の代理表象としての魅力をわたしは感じている。
とはいえ、これらはいわずもがな推論の域を出ない話である。そもそもテクスト解釈は全て推論である。ラカンの言う「(本当の現実たる)現実界は到達不可能なものである」ということでありデリダの言う「全てが誤読である」ということだ。また、推論が正しいとしても、あくまでも現時点においての話である。代理表象はどうあっても主体を抑圧するものとなる。即ち三条さんも、作者が思い入れて描けば描くほどいずれ彼を抑圧する代理表象となるかもしれない。その時はまた違うキャラに隠喩的役割を担わせるのかもしれない。
要するに、三条さんというキャラを立たせることで、わたしが一時期感じていたマンネリは打破された、というよくある話である。学術的にデコレートしてみただけ。
もっとデコレートしてみよう。
キョドっている状態とは混乱している状態である。まさに人や物が自分勝手にブラウン運動するエントロピーが大きい主観世界である。
人は誰しも人や物問わない周囲が自分勝手な世界を経験してきた。生まれたばかりの赤ん坊の主観世界である。大人になったわれわれにとって人や物問わず周囲の事象は全て所有・把握可能なものである。ところが赤ん坊にとっての主観世界はそうではない。所有・把握不可能な、即ち予測不可能な、即ち自分勝手な前-対象たちに囲まれている。
生まれたばかりの赤ん坊は常にキョドっている。
やがて赤ん坊は、生後二年以内に起きる鏡像段階即ち去勢を経て、周囲の事象が所有・把握可能になっていく。事象として予測可能になっていく。事象として統御されていく。
結果、赤ん坊だった彼はキョドらなくなる。大人になる。去勢済みの主体となる。
であるならば、キョドりまくりな連載開始直後の晴さんや現時点の三条さんは、未去勢的な主体であると言える。とはいえ本当の未去勢者とはわたしの論においては統合失調症者やスキゾイドや自閉症者たちとなる。晴さんや三条さんがそれら精神疾患・障害を抱えているとは言えない。だから未去勢者と呼ばず未去勢「的」な主体と書いた。恐らく宮成さん本人も去勢済みな主体なのであろう。去勢済みな主体とはいえ未去勢者が生きる主観世界に近寄ることはできる。それが神経症という状態である。晴さんはともかく三条さんは(晴さんを目の前にしている時に限れば)対人恐怖症的な症状を醸し出している。
未去勢な赤ん坊の世界においては、たとえば体内に摂取された母乳でさえそれまで未知のものだったはずである。自分勝手にブラウン運動しているのは大人のわれわれが考える外界だけではない。赤ん坊は自分の体すら思うように統御できない。母乳を飲み込むという動作ですらうまくできないため空気を一緒に飲み込んでしまう。従ってゲップをさせなければならない。
そういった意味でこの「自分勝手にブラウン運動するエントロピーが大きい主観世界」は自他混淆的であると言える。
余談になるが、未去勢な赤ん坊は完全に自他が混淆しているかどうかは、議論の分かれるところであろう。ラカンは赤ん坊などといった未去勢者(ファルスがない人間即ち机上の空論としての女)は去勢済みな主体の主観世界に存在しないとしている。クラインも「悪い乳房の取り込み」などといった言葉でこの世界に一歩踏み入れてはいるが、「自分勝手にブラウン運動するエントロピーが大きい主観世界」を駆逐する愛について主に論じている。クリステヴァなら想像的父たるアガペーである。ラカンのファルスの裏面としてクラインやクリステヴァの述べる愛やアガペーがある。ラカンの鏡像段階の裏面としてクリステヴァのアブジェクシオンがある。一方、スターンなどは生後直後の赤ん坊も完全に自他は混淆していないとし、新生自己感なる概念をそこに当てはめた。
そういった学問村の事情はさて置き、生後直後の赤ん坊であっても自分なるものは感じているのかもしれないが、大人のわれわれが考える主観世界でそれを説明する場合、自他混淆「的」と述べるのが便宜的である、とわたしは考える。
先に「読者を置いてけぼりにせんばかり」と書いた。宮成さんのキョドり描写は読者の王道的な想像・予測の枠の、それを超えているとまでは言わないが、境界領域にある。キョドり描写に限って言えば、宮成さんは自分勝手に作品を描いている。
ここが全体としての未去勢的な魅力になっている。
最後に、三条さんというキャラに焦点を当ててみよう。もし同一作者で三条さんを主人公に描いた場合の作品分析みたいなものと考えてくれればよい。
三条さんにとって晴さんは鏡像的他者である。晴さんを目の前にすると彼女の主観世界に鏡像段階が回帰する。彼女のファルスは不安定になる。晴さんを目の前にした時に限って彼女は未去勢的だ。
鏡像段階とは「欲望のシーソー」でもある。であるならば、三条さんにとってのシーソー相手は彼女の主観世界における晴さんとなる。晴さんの方はそう思ってなさそうだが。
ライバルであり憧れの人であるなどというアンビバレンツな対象としての他者に接している時、主体には鏡像段階が回帰している。コンプレックスはなべて鏡像段階の回帰である、と理屈上はなる。ラカン論において。
この問題について野島直子著『ラカンで読む寺山修司の世界』が具体的に説明している。野島の綿密なテクスト分析から、寺山は未去勢者であったとは言わないが、未去勢的素質が強かったことが窺い知れる。野島は青年期の寺山にとって句作りのライバルであり親友であった京武久美を彼の鏡像的他者だとし、寺山が京武の句を盗作した問題を挙げ、鏡像段階における攻撃的な欲動を論じている。この攻撃的な欲動は、まだ歩くこともできない少女が隣家の少年について平然な顔で述べた「わたし、潰すの、頭、フランシス」という言葉に象徴されているものだ。
限りなく未去勢的である幼児は鏡像的他者を殺すことで去勢を承認する。
であるならば、三条さんは晴さんを殺すことでキョドらなくなるだろう。ここでの「殺す」とは何も実際に殺すとは限らない。ライバルであり憧れの人である晴さんを普通にキョドることなく接することができる友人にしてしまうことなども含まれる。この時、三条さんの主観世界においていつもキョドらされていた晴さんは存在しない。一度キョドることなく普通に接することができたなら恐らくもう二度と彼女に対してキョドることはないだろう。そういった意味で、いつもキョドらされてしまっていた鏡像的他者である晴さんを、三条さんは存在させなくした、即ち殺した、となるわけだ。二月号で「お手玉なら晴さんに勝てるかも」と思った三条さんは、目の前にするとキョドってしまうその瞬間の晴さんを主観世界から抹殺しようとしている、と言える。精神分析ではこういう言い方になるのだ。
二月号に限らず、三条さんは未だに晴さんと張り合おうとしている。攻撃的な欲動が存在している。だから彼女を目の前にするとキョドってしまう。混乱した主観世界が回帰する。未去勢な主観世界が回帰する。
現時点における三条さんの主観世界における自分と晴さんの関係は、欲望のシーソーがやじろべえ状態になっている。『鉄コン筋クリート』のシロとクロのごとき緊張感のある関係である。
だからおもしろい。だから三条さんのキョドりに説得力がある。
以上をもって、この作品は未去勢的な魅力に溢れた作品である、と言うことが可能である。
わたしは「進化論における突然変異」や「機械工学的な意味でのアソビ」について言及したコメントでこんなことを言っている。
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あれですよ、わたしはそういったこぼれ落ちる人間は、進化論でいう突然変異の個体たちだと思うんですね。
進化とは完璧な生体を目指すものではなく、(地球の歴史スパンで見れば)目まぐるしく変わる環境に適応していくものであり、いわば行き当たりばったり的なものなわけで。
この環境に適応するための、種にとっての(機械工学的な意味での)「アソビ」みたいなものかなあ、と。
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ここでの「こぼれ落ちる人間」はわたし語用におけるキチガイ即ち未去勢者を指している。
であるならば、この作品はカラスヤさんという作家性と同様「平均値の余地」としての必要性に応えるものだとも言える。とはいえカラスヤさんのように「平均値の余地」を前面に押し出しているわけではない。あくまで宮成さんという「語る主体」はキョドりを抑圧している。隠喩的にキョドっている本質を述べている。この作品における「平均値の余地」は隠喩的に隠されようとしている。しかし隠しきれていない。
わたしは中島みゆきの魅力について似たようなことを指摘したことがある。この記事から。
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確かに、中島みゆきのこの歌は、「傷つかない」と言うことで「傷ついている」という逆の意味を示しているのかもしれない。後に続く歌詞を考えればそれは明らかと言えるだろう。しかしここには初歩的な隠喩構造がある。「傷ついている」事実に対する稚拙な隠喩が、隠しきれていない隠蔽が、日常的な演技ではない舞台役者的な演技がある。この初歩的で稚拙な隠喩が、中島作品の未去勢的(去勢の不完全さと言ってもよい)な魅力となっている。
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隠しきれていないのに隠そうとしている。これがまさに三条さんというキャラの魅力であり、欲望のシーソーがやじろべえ状態になっている緊張感を醸し出す。
ラカン論において隠喩的に連鎖した言語構造(S2と表される)は超自我の抑圧となる。稚拙な隠喩とは超自我の弱さと等値である。
念のために断っておくが超自我が弱いことは何も悪いことではない。物事にはいい面悪い面両方ある。そもそもいい面悪い面という価値判断こそが非現実界という意味で幻想なのである。ここのコメント欄から。
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超自我が弱いことは何も悪いことじゃない。物事には全ていい面もあれば悪い面もある。「いい/悪い」っつーのが既に恣意的な区分だから。要するに幻想だから。
女は超自我の軸であるファルスが弱い、という風に考える。
ファルスは全てのS2(シニフィアン群)に隠喩作用を及ぼす。この隠喩作用によりS2は構造化される。「無意識(超自我)は言語のように構造化されている」って奴だ。
これはつまり、ファルスが強いと思考回路が固定観念的になることでもあるわけだ。要するに超自我が強いということは固定観念が強いということ。自由な発想が困難であるということ。
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脊髄反射的に「女性は傾向的に超自我が弱い」という言葉に反発するフェミニストなどただの馬鹿だから無視しておけばよい。
他にもこのような隠しきれていない稚拙な隠喩・抑圧としての未去勢さ即ち超自我の弱さが感じられる作家はいる。たとえば四月号で連載終了となってしまったが『カギっこ』の山口舞子さんなど「平均値の余地」を感じる。そういった作家たちはどこか「読者を置いてけぼり」にしている感じがある。自分勝手に作品を描いているところがある。ただし『カギっこ』の場合わたしにはぐっと来なかった。冒頭の「袖触れ合うのは縁ではなくただの偶然」で言えば、たまたま『晴れのちシンデレラ』がわたしの袖に触れ、たまたま『カギっこ』は触れなかった、という話である。
当該雑誌の看板作家であるももせたまみさんなども、隠しきれてないとは言えないが、稚拙な隠喩としての未去勢さを感じる。『せんせいのお時間』の小林辺りは未去勢的だわなあ。とはいえももせさんの場合、宮成さん山口さんと相対して隠しきれているとも言える。隠す能力と稚拙な隠喩としての未去勢さが高いレベルで両立している・せめぎ合っているからこそ、彼女の作品が当該雑誌の看板作品となってアニメ化までされたのではないだろうか。ただし看板作品だからこそ好き勝手に描ける即ち自分勝手さが滲み出ている、という事後的な要因も考慮せねばなるまい。
以前竹書房系四コママンガ雑誌についてこう述べたことがある。この記事から。
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あれだよ、竹書房系のおもしろいところは「萌え」が一般的な「萌え」と微妙にずれているところであって、
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この「微妙にずれているところ」が「平均値の余地」である。
ところがやはり商業誌の宿命、平均値に重点を置いてしまうのは仕方のないことである。笙野頼子と大塚英志の文学論争と同じテーマである。最近の『まんがライフMOMO』は余地が少なくなってきている感じがする。全体的に。要するに『ガロ』的なマイナー志向(商業的にはニッチ戦略などとも言えよう)が弱くなり商業主義が強くなってきた、ということだ。だからこそカラスヤさんや宮成さんなどといった作家が相対的に映えて見えるのだろう。
一般的な「萌え」と微妙にずれたままであって欲しいなあ……。余地ばっか生きてきたわたしの個人的な意見だけどね。
とまあそんなお遊び記事でした。
お遊びにしちゃ長いじゃねーかって? わたしここでこう書いてるじゃん。
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っていうか知り合いを思い出して不快だった。遊んでいる子ではあるがわたしを軽蔑するような目で見てた奴。「遊びが遊びになってないじゃん」とでも言いたげな。そりゃそうだ。さっきも書いたようにわたしは遊びだから本気なんだから。
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遊びだから本気なのよ。余地を生きるってそういうことだと思う。
ある演劇人が「芸術とは非生産的なことを真剣にやることだ」と言っていた。お笑いなんか顕著よね。非生産的なことばっかするキャラが本気に見えるほどおもしろい。
そういうことだと思うよ。
ああ、疲れた。
『せんせいのお時間』で石川啄木の『ローマ字日記』がネタにされてたのでいろいろ調べてたらこんなサイトを見つけた。
啄木の言葉。
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病気をしたい。この希望は、ながいこと 予の頭の中にひそんでいる。
病気!
(中略)
――ああ、あらゆる責任を 解除した 自由の生活! それらが それをうるの道は ただ病気あるのみだ!
死だ! 死だ! わたしの願いは これ たった ひとつだ! ああ!
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この言い方とこの記事におけるガタリの「ビョーキ」という言い方の違い。
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「二人ともビョーキだからね」と言って、また笑っただけだった。
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本当の狂気の淵に、ニーチェの言う深淵に近寄った者ならば、笑いなど浮かべられるはずがない。実際に病気だったアルトーはルイス・キャロルのテクストを批判してこう述べる。
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この詩(『ジャバーウォックの歌』)は知的なご馳走を頂こうとする人間、結構な食卓で他人の苦しみを賞味しようとする利殖者の作品だ。……人が存在の、また言語のウンコを掘り下げるとなれば、その詩は快適であろうはずがない。
(中略)
ぼくは飢えた者たち、病人たち、非人たち、中毒患者たちの詩が好きだ――ヴィヨン、ボードレール、ボウ、ネルヴァル。そして書くものの中で身を亡ぼしてしまっている言語の死刑囚たちの詩が好きなのだ……。
(高橋康也訳、藤田博史著『性倒錯の構造』より。()内筆者補注)
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啄木の言う「病気」とガタリの言う「ビョーキ」を対比すると、アルトーの思想とルイス・キャロルの症状との対比と同じ構造になっているのがわかるだろう。ガタリのその言葉を「ビョーキ」とカタカナで書いた松岡正剛のセンスはある意味正しい。
ガタリはアルトーのテクストを引用しておきながら、アルトーが心底嫌っているルイス・キャロルと同種の症状でそれを劣化しているのだ。
この一点においてわたしはガタリに殺意を催す。本気の殺意を。もう死んでるけどね。
わたしは理屈だけの問題ではなくガタリのパラノイアックな症状について批判している。「利殖者」たる彼の人格を批判している。ラカン論では「人格とはパラノイアである」わけだからこれは人格攻撃である。わたしはガタリの人格を攻撃している。アルトーはルイス・キャロルの人格を攻撃している。
何故人格攻撃はいけないことなの? 何故あなたは人格攻撃を不快に思うの?
お前がパラノイアックな人格者だからだ。
お前がパラノイアックな境界例だからだ。
お前がパラノイアックに人格に執着しているだけだ。
それはお前の正常という精神疾患の症状だ。
わたしは精神分析というメスでガタリの人格を攻撃している。ガタリが自分のちんちんを防衛するために振り回しているのと同じメスで。
ガタリのやっていることは正常な(去勢済みな主体である)殺人犯が「自分はキチガイだ」と言って罪を逃れようとしているのと同じである。彼の主張する「逃走」とはそういう意味である。彼という症状あるいは人格とはそういうものである。
彼はパラノイアックな境界例(何度も言うがラカン論では「人格とはパラノイアである」わけだからパラノイアックな境界例とは正常人を指すことになる)だからこそ深淵に歩み寄ることを「逃走」などと表現するのだ。
再びアルトーのルイス・キャロルへの人格攻撃から引用する。
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だがこの詩の作者(ルイス・キャロル)は知性の精巧さによって事実を――幼児言語の衝動が持つ肛門性欲という事実を――喚起しようとしているのであって、肛門的幼児性があるとき自然に彼の詩の中で赤裸々に語り出したというわけではないのだ。
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ドゥルーズ=ガタリの著作はこれと全く同じ構造している。分裂症という狂気の淵を、深淵を「結構な食卓で他人の苦しみを賞味しようとする利殖者」の立場から喚起しようとしている。アルトーのこの言葉はわたしがこの記事で述べた「正常人(つまりパラノイアックな境界例患者)は気持ちの資本家である」という言葉と呼応している。少なくともガタリは「結構な食卓で他人の苦しみを賞味しようとする利殖者」であり「気持ちの資本家」である。正常という精神疾患に罹患しているとわたしは診断する。
それは彼らの人格というパラノイアックな精神疾患の症状なのだ。
ガタリアンたちよ、わたしの殺意を受け止められるかい?
ちっちゃなちんちんたちよ、お前は享楽を知っているのかい?
保育器で育ったおぼっちゃまたちよ、わたしの狂気から目をそむけずにいられるかい?
死ねよ。マジで殺意を覚える。
殺してやる。
わたしの主観世界から抹殺してやる。
「わたしの苦しみをわかって」
わたしの苦しみを味わわせてやろう。
本当のアブジェを味わわせてやろう。
碓井尻尾さんに期待。『店長の憂鬱』は好きだ。同人っぽくて。
大体わたしという人間はマンガでもその他の表現作品でもあまつさえ人でも趣味から微妙にずれてきたらきたでいろいろ考えてしまうのだな。なんで趣味に合わなくなったんだろう、と。最近なら笙野頼子がそうだな。
その問いの答えが出ることはほとんどない。出たとしてもどうにもならないだろう。別に相手(作品)へわたしに合わせろなんて言いたいわけでもないしわたしが向こうに合わせることもない。っていうかそんなこと不可能。趣味を合わせたい、趣味が合っていた頃に戻りたいという気持ちがあってなんとかしようと頭の中でごちゃごちゃやることもあるが大抵うまく行かない。ごくたまーに再び合う場合もあるが。なんていうか、みんな不規則に動き回るブラウン運動を生きていて、その運動の中で再び同じ二つの粒子が衝突するのって運じゃない。そういう感じ。わたしの「趣味が合う」は「袖触れ合うのは縁ではなくただの偶然」なのだ。よく言えば「一期一会」。ただし「だからこの一時を大事にしましょう」とはならない。そうしたくてもできない。つーかそれこそ執着じゃん、仏教が克服しようとした。生の欲動だな。
「袖触れ合うも多生の縁」や「一期一会」という言葉が示す意味自体は、芸術の感動の本質だとわたしが考えているシニフィアンスに親近してはいると思う。ところが、巷で言われているそれらの言葉には、それこそ「だからこの一時を大事にしましょう」のごとき、事後的でパラノイアックな妄想が補足されている。権力者的な解釈によって劣化されている。あなたたち正常人という本質的権力者のせいである。正常という精神疾患の症状である。あなたたちは権力にものを言わせてただの妄想であるメタ言語を勝手に付加させている。
要するにインチキなのだ。ラカン論においては「メタ言語は存在しない」。この記事から。
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「わたしの苦しみをわかって」
って言葉が
「わたしの苦しみを癒して」
ってなるのが正常人なんだな。
論理が飛躍している。
「苦しみをわかる」ってことは、現実的に可能かどうかは脇に置いて考えれば、「同じ苦しみを感じる」ってことじゃん。
つまり、
「あなたも苦しんで」
ってことなわけで、むしろ、
「わたしはあなたを苦しめたい」
という意味になるのだよな。論理的に。
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この場合、「わたしの苦しみをわかって」というわたしの言葉に「わたしの苦しみを癒して」というパラノイアックな妄想即ち権力者的な解釈即ちメタ言語を付加させているわけだな。正常人が。
『まんがライフMOMO』に戻ろう。
「だからこの一時を大事にしましょう」なんてわざわざ言われなくてもそうしたい。そうしたいのにできない。この抗いを、たまたま『まんがライフMOMO』という四コママンガ雑誌が対象となって、言語化してみようというわけだ。
さて。
宮成楽さんの『晴れのちシンデレラ』がおもしろいと以前に書いた。正直言うと一時期マンネリを感じてそれほど好きじゃなくなっていた。しかしここ最近またおもしろくなってきた。単純に爺や以外の、ししまいに恋する子や三条さんやその弟という個性的なキャラが立つようになった、などと王道的なマンガ論めいた言い方も可能だろう。
しかし、そういった論とは違った感覚をわたしは覚えている。この感覚を説明するために少し迂回したい。
カラスヤサトシさんも大概好きなのだが、その作品『キャラ道』で、「四コマ王子」小坂俊史さんとアイデア対決を行なったことがある。当然王道的なマンガを書けないのがウリのカラスヤさんが惨敗したわけだが、その時審判員が言った「(小坂さんは)さすが安定感がありますねー」という一言に注目しよう。
安定感。うん、わかる。小坂さんはどの作品でも安定している。安定感があるのは男性作家に傾向的に多い気がする。連載終了してしまったが『いんどあHappy』の森ゆきなつさんも安定している。『ちとせげっちゅ!!』の真島悦也さんや重野なおきさんや大井昌和さんも安定している。もちろん男性作家全員がと言うわけではない。それこそカラスヤさんの作品は王道的なマンガを描けないという意味で安定していない。では女性作家はどうか。女性作家も安定している人が多いのに気づく。竹書房系四コマ雑誌は女性作家が多いから男性作家の傾向が目立っただけか。ともかく、安定感抜群なのは佐藤両々さん、山野りんりんさん(この二人はどうしても混同してしまう)、樹るうさんなどになろう。わたしが珍しくファンと公言している小池恵子さんも安定している側になろう。
よくよく考えてみれば、ここでの「安定感がある」とは王道的なマンガを安定的に描けるという意味なので、商業誌にとってすれば安定している作家を選択するのは当然のことなのだ。王道というか、一般ウケ、大衆ウケする作品をコンスタントに描き続けることができるかどうか。
一般ウケ、大衆ウケなる事象は、『週刊少年ジャンプ』のアンケート主義などが象徴的となるが、いわばその作品がある母集団の好みの平均値に即している、ということである。
しかしそれだけだと雑誌としてマンネリ化してしまう。固定化されてしまう。一方「好みの平均値」などといったものは幽霊のようなもので、定性的ではない。たとえアンケートの集計のごとく数値化されたとしてもある数値で固定されない。従って、「好みの平均値」からその感性が離れた作家をキープしておくのは、一つの戦略として理解可能だ。たとえるならここのコメントでも触れているが「進化論における突然変異」や「機械工学的な意味でのアソビ」なるものである。平均値の周囲に電子雲のごとく漂う余地である。この突然変異やアソビや余地があるからこそ、目まぐるしく変化する環境に適応できる。以下便宜上、突然変異やアソビや余地と呼んでいるものを「平均値の余地」と述べる。
突然変異やアソビや余地たる「平均値の余地」が感じられるから、わたしはカラスヤさんなどといった「王道的なマンガを描けない」「安定感がない」作家の存在に安心する。
そもそもあたしゃジャンプも読んでたけど月刊の方が好きだったしサンデー派だったしサンデーも月刊(増刊号)が好きだった。マーガレットは別冊が本体だという刷り込みもあったかもしれんが。『鉄腕バーディ』は好きだったけど『究極超人あ~る』は「ゆうきまさみ日和ったな」と思った記憶がある。っと余談申し訳ない。
つまり、『週刊少年ジャンプ』と相対して『週刊少年サンデー』は「平均値の余地」であり、『週刊少年ジャンプ』や『週刊少年サンデー』と相対して『月刊少年ジャンプ』や『週刊少年サンデー増刊号』は「平均値の余地」であり、小坂さんと相対してカラスヤさんは「平均値の余地」である、というわけだ。
この「平均値の余地」の必要性は、表象文化論的に言えば「マイナー志向」や「サブカル」などと呼ばれる事象の原因でもあろう。
ここで留意しておきたい。余地は平均値があるからこそ余地である。『週刊少年ジャンプ』がなければ『週刊少年サンデー』は「平均値の余地」として必要とされなかったろうし、『週刊少年ジャンプ』や『週刊少年サンデー』がなければ『月刊少年ジャンプ』や『週刊少年サンデー増刊号』は「平均値の余地」として必要とされなかったろうし、小坂さんや森ゆきなつさんや真島悦也さんや重野なおきさんや大井昌和さんがいなければカラスヤさんは「平均値の余地」として必要とされないだろう。マイナー志向やサブカルはメジャー文化があるからこそ「平均値の余地」として必要とされるのである。「平均値の余地」をテーマにしたマンガ雑誌がたとえば『ガロ』などに当たるだろうが、『ガロ』もメジャーなマンガ文化がなければ「平均値の余地」として必要とされなかっただろう。
ある平均値に事象を統一させようとするのは、平均値自体が変動することを考えれば常に目標を後追いしていると言える。ゴールである平均値は辿り着いた時既にもうゴールではない。それでも人は不定性な目標に向かう。仮設にすぎないゴールに集中する。現実には変動しているが幻想として中枢化されたゴールに固定されている。俗に言えばマンネリ化である(とはいえマンネリにはマンネリのよさがある。いわば治療的なよさが。「神経症の精神分析治療とはトラウマをマンネリ化させることである」などと暴論的に換言可能である)。精神分析ジャーゴンで言えば生の欲動であり、ラカン論で言えばファルスによるせき立てである。
一方、事象を取り巻く環境は、さまざまな事象が相関し合って(まさしく空観だな)目まぐるしく変化していく。
であるならば、統一させようとする固定化の力と目まぐるしく変化する環境の接触領域がここでの「平均値の余地」である、とも言えよう。それはこうも言い換えられるだろう。ネゲントロピーとエントロピー増大の境界が「平均値の余地」である、と。精神分析理論で考えると、統一させようとする固定化の力即ちネゲントロピーは生の欲動であり、空観的に目まぐるしく変化する環境即ちエントロピー増大は死の欲動である、となる。生の欲動と死の欲動がせめぎ合う接触領域が、ラカン論で言う享楽あるいはクリステヴァ論で言う前-対象の領域であり、ラカン論で言う対象aあるいはウィニコット論で言う移行対象の領域である。それら両面を合わせ持つ環境がクライン論で言う部分対象の世界である。そこに全体はない。ガタリ論で言えば「部分が部分を横断して事後的に全体が生じる」のである。そこでは全体は幻想となる。
「平均値の余地」と言える作品のうち、どきどきはらはらするのが享楽的あるいは前-対象的な作品で、安心するのが対象a的あるいは移行対象的な作品となろう。わたしにとってカラスヤさんという作家の存在は、対象aのごとき、ライナスの毛布のごときものである、ということになる。
わたしは先にこう書いた。「みんな不規則に動き回るブラウン運動を生きていて」と。エントロピーが大きい環境を、主観世界をわたしは生きている。そこでは人や物に限らず何もかもがブラウン運動を生きている。不規則に動いている。予測不可能だ。みんながみんな気まぐれで自分勝手。物たちも物たちで全て気まぐれで自分勝手。製造業に身を置いていた時期があったのだが、物に直接的に関わっていた時そんな印象を持った。ここのコメント欄から。
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一方、機械設計をやっているとわかるのですが、実際の機械の部品一つ一つってほんと言うことを聞きません。
機械のご機嫌伺いが仕事である生産技術的な視点で言うと、むしろ、機械の部品一つ一つより、集団という機械の部品である人間の方が聞き分けがよいのです。
よく、社会に対し従順することを「社会の歯車になる」みたいな言い方をしますが、わたしから言えば、実際の歯車の方が機械全体というものに対し反抗的です。
他人から正常だと言われることが、既に、フィードバック機能を持った、高度な技術を施された、歯車なのです。
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この主観世界はわたしは好きじゃない。しかしこの世界がないと不安になる。あればあったで不安になる。そこでは全ての人や物が不規則で予測不可能な運動をしているのだから。行くも地獄退くも地獄という話にすぎない。
だからわたしはネゲントロピーとエントロピーの接触領域を生きるしかない。享楽と対象aが、前-対象と移行対象が入れ替わる領域を。さっきまでライナスの毛布であったものが次の瞬間どろどろぐちょぐちょした屍肉に変わる領域を。きれいは汚い、汚いはきれい。ファルスはアブジェ、アブジェはファルス。
ここでようやく『晴れのちシンデレラ』の話に入る。迂回しすぎ。
一時期マンネリを感じておもしろくなくなった、と書いた。もう少し正確に述べると、読者に気を遣いすぎている感じがした。作家の心性として、そこそこ人気が出るとそれを保持しようと受取手の感性に迎合しようとするのはよくあることだ。実際連載開始後すぐにカラーページをもらっていることを考えると評判はよかったのだろう。とはいえ宮成さんの場合、迎合というより戸惑っている感じを受けた。「自分の作品のどこがおもしろいと思われているのかわからない」というような。平たく言えば、思いも寄らずそこそこ人気が出てしまい、戸惑った挙句作品として大人しいものしか描けなくなっていたのではないか、ということ。
キョドってしまった挙句定型の文句しか言えなくなることは、あなたたちにもよくあるのではないか。初期は主人公の晴さんにもこの傾向が見られた。彼女の場合キョドってしまった挙句わけのわからない行動に出てしまったが。
思うにこの作品の魅力はこういったキョドり感ではないだろうか。もちろんわたしにとっての魅力である。
しかし晴さんもある程度お嬢様学校の生活に慣れたのか、キョドり感は薄くなっていった。精神分析的に言うと、「語る主体」即ちここでは作者本人と短絡するが、宮成さんの「思いも寄らずそこそこ人気が出てしま」ったことへのキョドりが作品内のキョドりを薄くさせていったのではないだろうか、ということだ。リアルのキョドりがナラティブなキョドりを抑圧する。いわばコンプレックス状態である。
このキョドり感は恐らく「語る主体」即ち宮成楽という作者本人の本質的な主体傾向なのだろう。一種オーバーとも言えるキャラのキョドり描写は、宮成さん本人のキョドりがちな性格を根拠にしているように感じられる。キョドりがちな性格で生きてきた彼の主観世界をモチーフにしている。だからキャラのキョドりに説得力が生じる。『まんがライフMOMO』今年の一月号に掲載されたドキュメントマンガ『央美ちゃんとセラピー体験』においても登場人物である作者のキョドり感が見て取れる。ここでもキャラとしての作者は自身のキョドりを抑圧しているのが窺える。
従って、キャラとして晴さんのキョドりに作者自身のキョドりを投影するのが難しくなったのだろう。キョドった挙句わけのわからない行動をする晴さんは、恐らくキョドった挙句キョドりを抑圧する、(極端に言えば)フリーズしてしまう作者にとってうまく自身を投影できないキャラになってしまった。そういう仮説も成り立たないだろうか。
リアルでキョドる故ナラティブでキョドりを抑圧するのは(精神分析的な意味での)コンプレックスだと書いた。であるならば主体は裏返しを欲望するだろう。ユング論における影という元型や補償の機制である。エディプスコンプレックスにしろエレクトラコンプレックスにしろカインコンプレックスにしろ劣等コンプレックスにしろ同様の構造である。主体は自分の裏返したるキョドりを解放する人間に憧れている。その一形態として晴さんという主人公が生み出されたのではないだろうか。
しかし憧れは自身を抑圧する。自分が憧れるキャラとして晴さんという幻想を生み出したはいいがそれが自身を抑圧することになる。理屈として因果関係が混乱しているように思われるかもしれないが、それがコンプレックス状態である。陳腐なフレーズで言うとアンビバレンツな心理状態である。
リアル作者のキョドりはナラティブなキョドりを抑圧する。抑圧する幻想的な能動者として晴さんというキャラが(恐らく事後的に)スライドしてきたのだ。
従って、自身の内面を解放する象徴としての晴さんというキャラは、同時に内面を抑圧する役割を担ってしまう。
これは何も難しいことを言っているわけではない。たとえば、あなたはあなたが思う「本当の自分」なるものを声に出して述べたとする。他者と共有された「本当の自分」なる言葉は同時に本当の自分を抑圧する。言葉になってしまったそれに自分は束縛されてしまう。それと同様のこと。「本当の自分」なる言葉が抑圧する大文字の他者としてスライドしてしまったわけだ。
束縛された自分は「本当の自分」という言葉の陰で本当の自分を訴える。隠喩である。シニフィアン連鎖即ち隠喩的連鎖の隙間に主体の真理即ち本当の自分は落ちている。ラカン論の重要な定理である。
『晴れのちシンデレラ』の場合、晴さんというキャラに抑圧・隠喩されている主体即ち作者自身を投影するキャラが脇役として登場した。晴さんをライバル視しながら憧れているコンプレックスのお手本のような三条さんである。主役たる晴さんという隠喩が示す主体の真理として三条さんという脇役が生じたのである。隠喩などというシニフィアンに重心を置いた言い方となっているが(ラカン論ってなそういうものである)、ユング論における影という元型であり補償であると言えばわかりやすいだろう(ユング論は物語解釈には便宜的だしね)。晴さんという主人公の影として、補償として三条さんという脇役が定立している。
三条さんの晴さんを目の前にした時のキョドり具合は尋常ではない。今年四月号の彼女のキョドり方など読者を置いてけぼりにせんばかりのものである。しかし本当のお嬢様である彼女は自身のキョドりを必死に押し隠そうとする。抑圧している。
要するにこういうことだ。宮成さんは自身の理想として晴さんを描いていたが、それは同時に自身を抑圧するものとなっていった。従って、隠喩的なあるいは補償的な登場人物、即ち脇役に自身を投影できる三条さんというキャラを配置した。作者の無意識がそうさせた。
このような晴さんと三条さんという二人の関係に、リアル作者の内面の代理表象としての魅力をわたしは感じている。
とはいえ、これらはいわずもがな推論の域を出ない話である。そもそもテクスト解釈は全て推論である。ラカンの言う「(本当の現実たる)現実界は到達不可能なものである」ということでありデリダの言う「全てが誤読である」ということだ。また、推論が正しいとしても、あくまでも現時点においての話である。代理表象はどうあっても主体を抑圧するものとなる。即ち三条さんも、作者が思い入れて描けば描くほどいずれ彼を抑圧する代理表象となるかもしれない。その時はまた違うキャラに隠喩的役割を担わせるのかもしれない。
要するに、三条さんというキャラを立たせることで、わたしが一時期感じていたマンネリは打破された、というよくある話である。学術的にデコレートしてみただけ。
もっとデコレートしてみよう。
キョドっている状態とは混乱している状態である。まさに人や物が自分勝手にブラウン運動するエントロピーが大きい主観世界である。
人は誰しも人や物問わない周囲が自分勝手な世界を経験してきた。生まれたばかりの赤ん坊の主観世界である。大人になったわれわれにとって人や物問わず周囲の事象は全て所有・把握可能なものである。ところが赤ん坊にとっての主観世界はそうではない。所有・把握不可能な、即ち予測不可能な、即ち自分勝手な前-対象たちに囲まれている。
生まれたばかりの赤ん坊は常にキョドっている。
やがて赤ん坊は、生後二年以内に起きる鏡像段階即ち去勢を経て、周囲の事象が所有・把握可能になっていく。事象として予測可能になっていく。事象として統御されていく。
結果、赤ん坊だった彼はキョドらなくなる。大人になる。去勢済みの主体となる。
であるならば、キョドりまくりな連載開始直後の晴さんや現時点の三条さんは、未去勢的な主体であると言える。とはいえ本当の未去勢者とはわたしの論においては統合失調症者やスキゾイドや自閉症者たちとなる。晴さんや三条さんがそれら精神疾患・障害を抱えているとは言えない。だから未去勢者と呼ばず未去勢「的」な主体と書いた。恐らく宮成さん本人も去勢済みな主体なのであろう。去勢済みな主体とはいえ未去勢者が生きる主観世界に近寄ることはできる。それが神経症という状態である。晴さんはともかく三条さんは(晴さんを目の前にしている時に限れば)対人恐怖症的な症状を醸し出している。
未去勢な赤ん坊の世界においては、たとえば体内に摂取された母乳でさえそれまで未知のものだったはずである。自分勝手にブラウン運動しているのは大人のわれわれが考える外界だけではない。赤ん坊は自分の体すら思うように統御できない。母乳を飲み込むという動作ですらうまくできないため空気を一緒に飲み込んでしまう。従ってゲップをさせなければならない。
そういった意味でこの「自分勝手にブラウン運動するエントロピーが大きい主観世界」は自他混淆的であると言える。
余談になるが、未去勢な赤ん坊は完全に自他が混淆しているかどうかは、議論の分かれるところであろう。ラカンは赤ん坊などといった未去勢者(ファルスがない人間即ち机上の空論としての女)は去勢済みな主体の主観世界に存在しないとしている。クラインも「悪い乳房の取り込み」などといった言葉でこの世界に一歩踏み入れてはいるが、「自分勝手にブラウン運動するエントロピーが大きい主観世界」を駆逐する愛について主に論じている。クリステヴァなら想像的父たるアガペーである。ラカンのファルスの裏面としてクラインやクリステヴァの述べる愛やアガペーがある。ラカンの鏡像段階の裏面としてクリステヴァのアブジェクシオンがある。一方、スターンなどは生後直後の赤ん坊も完全に自他は混淆していないとし、新生自己感なる概念をそこに当てはめた。
そういった学問村の事情はさて置き、生後直後の赤ん坊であっても自分なるものは感じているのかもしれないが、大人のわれわれが考える主観世界でそれを説明する場合、自他混淆「的」と述べるのが便宜的である、とわたしは考える。
先に「読者を置いてけぼりにせんばかり」と書いた。宮成さんのキョドり描写は読者の王道的な想像・予測の枠の、それを超えているとまでは言わないが、境界領域にある。キョドり描写に限って言えば、宮成さんは自分勝手に作品を描いている。
ここが全体としての未去勢的な魅力になっている。
最後に、三条さんというキャラに焦点を当ててみよう。もし同一作者で三条さんを主人公に描いた場合の作品分析みたいなものと考えてくれればよい。
三条さんにとって晴さんは鏡像的他者である。晴さんを目の前にすると彼女の主観世界に鏡像段階が回帰する。彼女のファルスは不安定になる。晴さんを目の前にした時に限って彼女は未去勢的だ。
鏡像段階とは「欲望のシーソー」でもある。であるならば、三条さんにとってのシーソー相手は彼女の主観世界における晴さんとなる。晴さんの方はそう思ってなさそうだが。
ライバルであり憧れの人であるなどというアンビバレンツな対象としての他者に接している時、主体には鏡像段階が回帰している。コンプレックスはなべて鏡像段階の回帰である、と理屈上はなる。ラカン論において。
この問題について野島直子著『ラカンで読む寺山修司の世界』が具体的に説明している。野島の綿密なテクスト分析から、寺山は未去勢者であったとは言わないが、未去勢的素質が強かったことが窺い知れる。野島は青年期の寺山にとって句作りのライバルであり親友であった京武久美を彼の鏡像的他者だとし、寺山が京武の句を盗作した問題を挙げ、鏡像段階における攻撃的な欲動を論じている。この攻撃的な欲動は、まだ歩くこともできない少女が隣家の少年について平然な顔で述べた「わたし、潰すの、頭、フランシス」という言葉に象徴されているものだ。
限りなく未去勢的である幼児は鏡像的他者を殺すことで去勢を承認する。
であるならば、三条さんは晴さんを殺すことでキョドらなくなるだろう。ここでの「殺す」とは何も実際に殺すとは限らない。ライバルであり憧れの人である晴さんを普通にキョドることなく接することができる友人にしてしまうことなども含まれる。この時、三条さんの主観世界においていつもキョドらされていた晴さんは存在しない。一度キョドることなく普通に接することができたなら恐らくもう二度と彼女に対してキョドることはないだろう。そういった意味で、いつもキョドらされてしまっていた鏡像的他者である晴さんを、三条さんは存在させなくした、即ち殺した、となるわけだ。二月号で「お手玉なら晴さんに勝てるかも」と思った三条さんは、目の前にするとキョドってしまうその瞬間の晴さんを主観世界から抹殺しようとしている、と言える。精神分析ではこういう言い方になるのだ。
二月号に限らず、三条さんは未だに晴さんと張り合おうとしている。攻撃的な欲動が存在している。だから彼女を目の前にするとキョドってしまう。混乱した主観世界が回帰する。未去勢な主観世界が回帰する。
現時点における三条さんの主観世界における自分と晴さんの関係は、欲望のシーソーがやじろべえ状態になっている。『鉄コン筋クリート』のシロとクロのごとき緊張感のある関係である。
だからおもしろい。だから三条さんのキョドりに説得力がある。
以上をもって、この作品は未去勢的な魅力に溢れた作品である、と言うことが可能である。
わたしは「進化論における突然変異」や「機械工学的な意味でのアソビ」について言及したコメントでこんなことを言っている。
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あれですよ、わたしはそういったこぼれ落ちる人間は、進化論でいう突然変異の個体たちだと思うんですね。
進化とは完璧な生体を目指すものではなく、(地球の歴史スパンで見れば)目まぐるしく変わる環境に適応していくものであり、いわば行き当たりばったり的なものなわけで。
この環境に適応するための、種にとっての(機械工学的な意味での)「アソビ」みたいなものかなあ、と。
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ここでの「こぼれ落ちる人間」はわたし語用におけるキチガイ即ち未去勢者を指している。
であるならば、この作品はカラスヤさんという作家性と同様「平均値の余地」としての必要性に応えるものだとも言える。とはいえカラスヤさんのように「平均値の余地」を前面に押し出しているわけではない。あくまで宮成さんという「語る主体」はキョドりを抑圧している。隠喩的にキョドっている本質を述べている。この作品における「平均値の余地」は隠喩的に隠されようとしている。しかし隠しきれていない。
わたしは中島みゆきの魅力について似たようなことを指摘したことがある。この記事から。
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確かに、中島みゆきのこの歌は、「傷つかない」と言うことで「傷ついている」という逆の意味を示しているのかもしれない。後に続く歌詞を考えればそれは明らかと言えるだろう。しかしここには初歩的な隠喩構造がある。「傷ついている」事実に対する稚拙な隠喩が、隠しきれていない隠蔽が、日常的な演技ではない舞台役者的な演技がある。この初歩的で稚拙な隠喩が、中島作品の未去勢的(去勢の不完全さと言ってもよい)な魅力となっている。
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隠しきれていないのに隠そうとしている。これがまさに三条さんというキャラの魅力であり、欲望のシーソーがやじろべえ状態になっている緊張感を醸し出す。
ラカン論において隠喩的に連鎖した言語構造(S2と表される)は超自我の抑圧となる。稚拙な隠喩とは超自我の弱さと等値である。
念のために断っておくが超自我が弱いことは何も悪いことではない。物事にはいい面悪い面両方ある。そもそもいい面悪い面という価値判断こそが非現実界という意味で幻想なのである。ここのコメント欄から。
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超自我が弱いことは何も悪いことじゃない。物事には全ていい面もあれば悪い面もある。「いい/悪い」っつーのが既に恣意的な区分だから。要するに幻想だから。
女は超自我の軸であるファルスが弱い、という風に考える。
ファルスは全てのS2(シニフィアン群)に隠喩作用を及ぼす。この隠喩作用によりS2は構造化される。「無意識(超自我)は言語のように構造化されている」って奴だ。
これはつまり、ファルスが強いと思考回路が固定観念的になることでもあるわけだ。要するに超自我が強いということは固定観念が強いということ。自由な発想が困難であるということ。
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脊髄反射的に「女性は傾向的に超自我が弱い」という言葉に反発するフェミニストなどただの馬鹿だから無視しておけばよい。
他にもこのような隠しきれていない稚拙な隠喩・抑圧としての未去勢さ即ち超自我の弱さが感じられる作家はいる。たとえば四月号で連載終了となってしまったが『カギっこ』の山口舞子さんなど「平均値の余地」を感じる。そういった作家たちはどこか「読者を置いてけぼり」にしている感じがある。自分勝手に作品を描いているところがある。ただし『カギっこ』の場合わたしにはぐっと来なかった。冒頭の「袖触れ合うのは縁ではなくただの偶然」で言えば、たまたま『晴れのちシンデレラ』がわたしの袖に触れ、たまたま『カギっこ』は触れなかった、という話である。
当該雑誌の看板作家であるももせたまみさんなども、隠しきれてないとは言えないが、稚拙な隠喩としての未去勢さを感じる。『せんせいのお時間』の小林辺りは未去勢的だわなあ。とはいえももせさんの場合、宮成さん山口さんと相対して隠しきれているとも言える。隠す能力と稚拙な隠喩としての未去勢さが高いレベルで両立している・せめぎ合っているからこそ、彼女の作品が当該雑誌の看板作品となってアニメ化までされたのではないだろうか。ただし看板作品だからこそ好き勝手に描ける即ち自分勝手さが滲み出ている、という事後的な要因も考慮せねばなるまい。
以前竹書房系四コママンガ雑誌についてこう述べたことがある。この記事から。
=====
あれだよ、竹書房系のおもしろいところは「萌え」が一般的な「萌え」と微妙にずれているところであって、
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この「微妙にずれているところ」が「平均値の余地」である。
ところがやはり商業誌の宿命、平均値に重点を置いてしまうのは仕方のないことである。笙野頼子と大塚英志の文学論争と同じテーマである。最近の『まんがライフMOMO』は余地が少なくなってきている感じがする。全体的に。要するに『ガロ』的なマイナー志向(商業的にはニッチ戦略などとも言えよう)が弱くなり商業主義が強くなってきた、ということだ。だからこそカラスヤさんや宮成さんなどといった作家が相対的に映えて見えるのだろう。
一般的な「萌え」と微妙にずれたままであって欲しいなあ……。余地ばっか生きてきたわたしの個人的な意見だけどね。
とまあそんなお遊び記事でした。
お遊びにしちゃ長いじゃねーかって? わたしここでこう書いてるじゃん。
=====
っていうか知り合いを思い出して不快だった。遊んでいる子ではあるがわたしを軽蔑するような目で見てた奴。「遊びが遊びになってないじゃん」とでも言いたげな。そりゃそうだ。さっきも書いたようにわたしは遊びだから本気なんだから。
=====
遊びだから本気なのよ。余地を生きるってそういうことだと思う。
ある演劇人が「芸術とは非生産的なことを真剣にやることだ」と言っていた。お笑いなんか顕著よね。非生産的なことばっかするキャラが本気に見えるほどおもしろい。
そういうことだと思うよ。
ああ、疲れた。
『せんせいのお時間』で石川啄木の『ローマ字日記』がネタにされてたのでいろいろ調べてたらこんなサイトを見つけた。
啄木の言葉。
=====
病気をしたい。この希望は、ながいこと 予の頭の中にひそんでいる。
病気!
(中略)
――ああ、あらゆる責任を 解除した 自由の生活! それらが それをうるの道は ただ病気あるのみだ!
死だ! 死だ! わたしの願いは これ たった ひとつだ! ああ!
=====
この言い方とこの記事におけるガタリの「ビョーキ」という言い方の違い。
=====
「二人ともビョーキだからね」と言って、また笑っただけだった。
=====
本当の狂気の淵に、ニーチェの言う深淵に近寄った者ならば、笑いなど浮かべられるはずがない。実際に病気だったアルトーはルイス・キャロルのテクストを批判してこう述べる。
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この詩(『ジャバーウォックの歌』)は知的なご馳走を頂こうとする人間、結構な食卓で他人の苦しみを賞味しようとする利殖者の作品だ。……人が存在の、また言語のウンコを掘り下げるとなれば、その詩は快適であろうはずがない。
(中略)
ぼくは飢えた者たち、病人たち、非人たち、中毒患者たちの詩が好きだ――ヴィヨン、ボードレール、ボウ、ネルヴァル。そして書くものの中で身を亡ぼしてしまっている言語の死刑囚たちの詩が好きなのだ……。
(高橋康也訳、藤田博史著『性倒錯の構造』より。()内筆者補注)
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啄木の言う「病気」とガタリの言う「ビョーキ」を対比すると、アルトーの思想とルイス・キャロルの症状との対比と同じ構造になっているのがわかるだろう。ガタリのその言葉を「ビョーキ」とカタカナで書いた松岡正剛のセンスはある意味正しい。
ガタリはアルトーのテクストを引用しておきながら、アルトーが心底嫌っているルイス・キャロルと同種の症状でそれを劣化しているのだ。
この一点においてわたしはガタリに殺意を催す。本気の殺意を。もう死んでるけどね。
わたしは理屈だけの問題ではなくガタリのパラノイアックな症状について批判している。「利殖者」たる彼の人格を批判している。ラカン論では「人格とはパラノイアである」わけだからこれは人格攻撃である。わたしはガタリの人格を攻撃している。アルトーはルイス・キャロルの人格を攻撃している。
何故人格攻撃はいけないことなの? 何故あなたは人格攻撃を不快に思うの?
お前がパラノイアックな人格者だからだ。
お前がパラノイアックな境界例だからだ。
お前がパラノイアックに人格に執着しているだけだ。
それはお前の正常という精神疾患の症状だ。
わたしは精神分析というメスでガタリの人格を攻撃している。ガタリが自分のちんちんを防衛するために振り回しているのと同じメスで。
ガタリのやっていることは正常な(去勢済みな主体である)殺人犯が「自分はキチガイだ」と言って罪を逃れようとしているのと同じである。彼の主張する「逃走」とはそういう意味である。彼という症状あるいは人格とはそういうものである。
彼はパラノイアックな境界例(何度も言うがラカン論では「人格とはパラノイアである」わけだからパラノイアックな境界例とは正常人を指すことになる)だからこそ深淵に歩み寄ることを「逃走」などと表現するのだ。
再びアルトーのルイス・キャロルへの人格攻撃から引用する。
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だがこの詩の作者(ルイス・キャロル)は知性の精巧さによって事実を――幼児言語の衝動が持つ肛門性欲という事実を――喚起しようとしているのであって、肛門的幼児性があるとき自然に彼の詩の中で赤裸々に語り出したというわけではないのだ。
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ドゥルーズ=ガタリの著作はこれと全く同じ構造している。分裂症という狂気の淵を、深淵を「結構な食卓で他人の苦しみを賞味しようとする利殖者」の立場から喚起しようとしている。アルトーのこの言葉はわたしがこの記事で述べた「正常人(つまりパラノイアックな境界例患者)は気持ちの資本家である」という言葉と呼応している。少なくともガタリは「結構な食卓で他人の苦しみを賞味しようとする利殖者」であり「気持ちの資本家」である。正常という精神疾患に罹患しているとわたしは診断する。
それは彼らの人格というパラノイアックな精神疾患の症状なのだ。
ガタリアンたちよ、わたしの殺意を受け止められるかい?
ちっちゃなちんちんたちよ、お前は享楽を知っているのかい?
保育器で育ったおぼっちゃまたちよ、わたしの狂気から目をそむけずにいられるかい?
死ねよ。マジで殺意を覚える。
殺してやる。
わたしの主観世界から抹殺してやる。
「わたしの苦しみをわかって」
わたしの苦しみを味わわせてやろう。
本当のアブジェを味わわせてやろう。