正月ボケ
2007/01/10/Wed
うーん。書けない。文章が繋がらない。シニフィアンが連鎖しない。
ネタがないわけじゃない。
「ハレ」と「ケ」の「ハレ」の日常化を「曖昧なもの/確かなもの」二項論理で論じるとか、戦闘美少女のイコンをシャナを例示に論じるとか、換喩と暗喩を水平、垂直軸で説明し、夢と現実界の違いからリアリティの本質を探るとか、精神分析としての強迫神経症とアイロニズム、ニヒリズムの共通性とか、思考しているネタはたくさんある。でも書けない。頭の中でシニフィアンは連鎖しているが、文字にするという物質化ができない。
今の文章でも、最後が否定文になっている。それまで書いたシニフィアンのシニフィエを消失せしめている。舞台芸術ならベケットか。夢は必ず覚める。消失する。文芸においてもそういった作品はある。それまで書かれた文章を垂直的に構築した最後で突き崩す。夢のようなイメージ。ベケットのゴドーを思い出そう。彼らの会話は、最後は否定で終わることが多い。物語も、最終的にゴドーは「来ない」。劇の実体である「待つこと」が否定される。劇的世界は夢のようにあっけなく消失する。
この消失を現実にもちこんだらどうであろうか。消失は死になる。ならベケットの演劇は「自殺的」なのか。違う。現実の死には大きなハードルがある。「生と死の間」だ。「曖昧なもの/確かなもの」で考えると、生は曖昧なもの的で死は確かなもの的だ。しかし、「生と死の間」「死の瞬間」を考慮に入れる場合、「生」と「死」は確かなものとなり、「生と死の間」が曖昧なものとなる。この「生と死の間」というものは言葉にしにくいし、一度きりのものである故再現性、反証可能性がない。確かなもの度は究極的に低いといえよう。強度の曖昧なものと言える。
人間は曖昧なものに惹かれると同時に、不安を覚える。死という確かなものを求めてもその手前に強度の曖昧なものがあるから、「生と死の間」がハードルとなる。曖昧なものを希求したとしても、その直後の「死」という確かなものが障害となる。だから簡単に人は自殺しない。近代的科学信仰のような短絡思考さえしなければ。
ベケットの消失は「夢の終わり」だ。我々が日常的に現実と思っている現実も、眼や耳などという器官で感じる虚構=夢であり、本当の現実である「現実界」は「器官なき身体」のまわりにある世界だ。器官がなければまわりの世界を認知できないが。だから現実界は到達不可能な世界なのだ。
ベケットの消失は、虚構の現実を消失せしめることにより「現実界」を婉曲的に感じさせるというものだ。そこには暗喩的なリアリティがある。
文芸はどうだろう。言葉の芸術だ。象徴界のみで成り立つ世界だ。そこで現実界を感じさせるには、ベケットのような消失という手法は最も合理的な手段ではなかろうか。
斎藤環氏著「文学の徴候」において、氏はベケットのような消失を感じさせる作品として、中原昌也氏の作品を上げている。残念ながら私にはそういった消失は感じられなかった。その言葉の積み上げになんらかの意識が向いている。消失ではなく、言葉を外骨格にした空虚である。嶽本野ばら氏のロリータファッションで武装する少女たちのようなスノビズムだ。
消失と空虚は違う。
本当の消失は、言葉を実体化できなくなってしまうものなのだ。
ネタがないわけじゃない。
「ハレ」と「ケ」の「ハレ」の日常化を「曖昧なもの/確かなもの」二項論理で論じるとか、戦闘美少女のイコンをシャナを例示に論じるとか、換喩と暗喩を水平、垂直軸で説明し、夢と現実界の違いからリアリティの本質を探るとか、精神分析としての強迫神経症とアイロニズム、ニヒリズムの共通性とか、思考しているネタはたくさんある。でも書けない。頭の中でシニフィアンは連鎖しているが、文字にするという物質化ができない。
今の文章でも、最後が否定文になっている。それまで書いたシニフィアンのシニフィエを消失せしめている。舞台芸術ならベケットか。夢は必ず覚める。消失する。文芸においてもそういった作品はある。それまで書かれた文章を垂直的に構築した最後で突き崩す。夢のようなイメージ。ベケットのゴドーを思い出そう。彼らの会話は、最後は否定で終わることが多い。物語も、最終的にゴドーは「来ない」。劇の実体である「待つこと」が否定される。劇的世界は夢のようにあっけなく消失する。
この消失を現実にもちこんだらどうであろうか。消失は死になる。ならベケットの演劇は「自殺的」なのか。違う。現実の死には大きなハードルがある。「生と死の間」だ。「曖昧なもの/確かなもの」で考えると、生は曖昧なもの的で死は確かなもの的だ。しかし、「生と死の間」「死の瞬間」を考慮に入れる場合、「生」と「死」は確かなものとなり、「生と死の間」が曖昧なものとなる。この「生と死の間」というものは言葉にしにくいし、一度きりのものである故再現性、反証可能性がない。確かなもの度は究極的に低いといえよう。強度の曖昧なものと言える。
人間は曖昧なものに惹かれると同時に、不安を覚える。死という確かなものを求めてもその手前に強度の曖昧なものがあるから、「生と死の間」がハードルとなる。曖昧なものを希求したとしても、その直後の「死」という確かなものが障害となる。だから簡単に人は自殺しない。近代的科学信仰のような短絡思考さえしなければ。
ベケットの消失は「夢の終わり」だ。我々が日常的に現実と思っている現実も、眼や耳などという器官で感じる虚構=夢であり、本当の現実である「現実界」は「器官なき身体」のまわりにある世界だ。器官がなければまわりの世界を認知できないが。だから現実界は到達不可能な世界なのだ。
ベケットの消失は、虚構の現実を消失せしめることにより「現実界」を婉曲的に感じさせるというものだ。そこには暗喩的なリアリティがある。
文芸はどうだろう。言葉の芸術だ。象徴界のみで成り立つ世界だ。そこで現実界を感じさせるには、ベケットのような消失という手法は最も合理的な手段ではなかろうか。
斎藤環氏著「文学の徴候」において、氏はベケットのような消失を感じさせる作品として、中原昌也氏の作品を上げている。残念ながら私にはそういった消失は感じられなかった。その言葉の積み上げになんらかの意識が向いている。消失ではなく、言葉を外骨格にした空虚である。嶽本野ばら氏のロリータファッションで武装する少女たちのようなスノビズムだ。
消失と空虚は違う。
本当の消失は、言葉を実体化できなくなってしまうものなのだ。