ぎゅうっと
2009/03/09/Mon
ベッドで寝ていると、多分上階の部屋から「ドスン」という音がした。実際に音がしたのか枕に押しつけている耳へ振動が直接伝わったのかわからないが、体全体でその振動を感じた。
内臓がぎゅうっと絞られた。
驚いたのか? うん、驚いた。だから絞られたんだ。うん、多分。でも混乱していない。むしろ落ち着いている。穏やかな落ち着きではない。緊張感のある落ち着き。矛盾してるな。でもそうとしか言えない。
内臓は絞られたままだ。
それまで聞こえなかった振動が体に響いてくる。体内の振動と外部からの振動の違いは、気にすればわかるが、外部からの振動に体内の振動が反応したり、体内の振動が外部の振動を増幅しているようにも思えた。
寝ているのか寝ていないのかわからないことがわかる程度には覚めている頭でそんなことを思った。
夢を見ていた。
見たこともないスーツ姿の中年男性に、自分について語ろうとしていた。しかしどうやって語っていいのかわからない。言葉が通じないような気すらした。
スーツ姿の男性はわたしに背中を向けていた。
そんな時「ドスン」という音がした。
わたしは緊張している。混乱している。
中年男性がわたしの方を振り返る。全然知らない顔だった。男性はとても親しげにわたしに話しかけてくる。
わたしは彼の妹だと思った。
であるならば妹を演じてやろう。その方が便宜的だ。とわたしは思い、気楽な感じで答える。
内臓は絞られたままだった。
周りの人が偽の兄と偽の妹だと見抜いているように思えた。見抜いて何か陰口を叩いているように思えた。
起きた。
心臓がばくばくしていた。
絞られている時よりよっぽど混乱していた。
映画『バイオハザード』を見た。二回目。映画を二回見るのは珍しい。
グラ(と言いたくなるよな)の凝ってるところとショボイところの落差、ホラー映画の王道すぎる演出、等々。
なのに二回も見た。
形式の問題じゃない。形式をぶち壊せばいいというものではない。
形式を妄信するのがいけないのだ。作り手の。
B級はそこをクリアする。B級ってだけで。
「形式を妄信しているわけじゃない」というネタにマジレス感。
まあ王道つってもスタイリッシュ感(笑)みたいなところはあるのかな。
形式は安心を惹起する。作り手が妄信していればというのは作り手が形式に安心していればということだ。
B級は形式に則りながら形式を濫造することで、コピー化することで形式による安心感を揺るがす。
軽いマゾヒスムだ。小文字の倒錯ではあるわな。おんたこっちゃーおんたこ。生の欲動の過剰さに対応する物理的な反作用としてのささやかな死の欲動。
もちろん逆もある。死の欲動の過剰さに対応する物理的な反作用としてのささやかな生の欲動。それが未去勢者の去勢に対する憧れだ。未去勢者がする前向きな自殺・恍惚の死。未去勢者と去勢済みな主体では一部生死観が逆転している。死の欲動に翻弄される主観世界の中でのささやかな生の欲動の一表出が前向きな自殺・恍惚の死だ。
ショボイゾンビを出し惜しみせず大量に出すところなんか濫造・コピー化というB級なるものそのものを象徴しているとも言えるわな。最近のゾンビ映画って大概そうだよな。ゾンビの群れ。多く出したもん勝ちみたいな。それでこそB級。
ゾンビ映画って形式(表象)だけ考えれば死の欲動の過剰さ(死体のグロさ)とそれに対応するささやかな生の欲動(主人公たちの生存)だもんな。B級という形式はそれが逆転している、と。B級じゃないゾンビ映画が作られないところは大多数の人間即ち正常人たちの生の欲動の強さを示しているってことか。B級ゾンビ映画はそこがおもしろいんだな。ごちゃごちゃしてる。
ってそんなこと話したいわけじゃないんだよなー。直観の話。直観の話をする時って大体そうだな。隠喩(理屈はその一部)の森という土台なしに直観の話してもネットではネットらしく生の欲動に則ってコピー化される。マンネリ化即ち安心という癒しだからね。そうじゃなくて隠喩の森の中にぽっかり開いた木のうろ、洞窟のようなポイントとして直観の言葉を置きたいのかな。最初に生の欲動で満たしておけば直観の言葉は死の欲動の落とし穴になりえる、ということか。なってないんだろうけどな。空気読めねえ人間がいくらがんばっても。
んで直観。
レッドクイーン。建物を支配するメインコンピューターたる彼女。少女なところもおんたこ(笑)。
冒頭シーン、解析カメラ越しの映像を見ながら、もしこの映像を見ている人間がいたら、とぼんやり考えた。それこそレッドクイーンが現実の人間だったら、という話。
まさに未去勢者なんだよな。
象徴界と想像界に連結されていない現実界に親近する主観世界を生きる彼ら。従って人に同情しないし社会を保持するための倫理を守ることもない。まあレッドクイーンは建物を封鎖するという規則を守りきってるけどな。
ゾンビもそうだよな。ゾンビいいな。ゾンビになりてえ。いっそ。
未去勢なることの象徴は子供であり女だ。だからレッドクイーンを少女にした、ってことだな。制作者の無意識が。去勢されてファルスが発生するんだから、大人の男が去勢済みな主体の象徴だ。大人の男が未去勢に歩み寄っても去勢の否認にしかならない。エディプスコンプレックスにしかならない。少年マンガにしかならない。見ている方がそう思ってしまう。従って大人の男を未去勢化させるにはなんらかのアクシデントが必要になる。映画でありがちなのは戦争で負傷してトラウマになったりだな。あとは『メメント』のように障害を作品の軸にしたりとか。PTSDか健忘症だよなー、男の場合大体。『さよなら、さよならハリウッド』なんかはヒステリー盲目だったけど。
あとゾンビ映画の王道「感染」なんだけど、要するに狂気の伝染だよな。狂気は伝染する。現代医学で否定されているこの要件を芸術というジャンルで告発しているのだ。それは事実だと。そうわたしは思う。シャレで。
そもそも正常であることが精神疾患なわけだから、それが治療されるということにすぎない。獣としての人間に。
ゾンビは無理としても成仏したくねえな。怨念を現世にこびりつかせ続けたい。どんな霊媒師にも負けない最強の悪霊になりたい。きついか。現世が死の欲動に翻弄されているとはいえ比較論だからな。一般よりそっち側というだけで、わたしより翻弄されている人はたくさんいるだろう。
もちろんシャレよ。シャレは無意識の表出なんだろ?
内臓がぎゅうっと絞られた。
驚いたのか? うん、驚いた。だから絞られたんだ。うん、多分。でも混乱していない。むしろ落ち着いている。穏やかな落ち着きではない。緊張感のある落ち着き。矛盾してるな。でもそうとしか言えない。
内臓は絞られたままだ。
それまで聞こえなかった振動が体に響いてくる。体内の振動と外部からの振動の違いは、気にすればわかるが、外部からの振動に体内の振動が反応したり、体内の振動が外部の振動を増幅しているようにも思えた。
寝ているのか寝ていないのかわからないことがわかる程度には覚めている頭でそんなことを思った。
夢を見ていた。
見たこともないスーツ姿の中年男性に、自分について語ろうとしていた。しかしどうやって語っていいのかわからない。言葉が通じないような気すらした。
スーツ姿の男性はわたしに背中を向けていた。
そんな時「ドスン」という音がした。
わたしは緊張している。混乱している。
中年男性がわたしの方を振り返る。全然知らない顔だった。男性はとても親しげにわたしに話しかけてくる。
わたしは彼の妹だと思った。
であるならば妹を演じてやろう。その方が便宜的だ。とわたしは思い、気楽な感じで答える。
内臓は絞られたままだった。
周りの人が偽の兄と偽の妹だと見抜いているように思えた。見抜いて何か陰口を叩いているように思えた。
起きた。
心臓がばくばくしていた。
絞られている時よりよっぽど混乱していた。
映画『バイオハザード』を見た。二回目。映画を二回見るのは珍しい。
グラ(と言いたくなるよな)の凝ってるところとショボイところの落差、ホラー映画の王道すぎる演出、等々。
なのに二回も見た。
形式の問題じゃない。形式をぶち壊せばいいというものではない。
形式を妄信するのがいけないのだ。作り手の。
B級はそこをクリアする。B級ってだけで。
「形式を妄信しているわけじゃない」というネタにマジレス感。
まあ王道つってもスタイリッシュ感(笑)みたいなところはあるのかな。
形式は安心を惹起する。作り手が妄信していればというのは作り手が形式に安心していればということだ。
B級は形式に則りながら形式を濫造することで、コピー化することで形式による安心感を揺るがす。
軽いマゾヒスムだ。小文字の倒錯ではあるわな。おんたこっちゃーおんたこ。生の欲動の過剰さに対応する物理的な反作用としてのささやかな死の欲動。
もちろん逆もある。死の欲動の過剰さに対応する物理的な反作用としてのささやかな生の欲動。それが未去勢者の去勢に対する憧れだ。未去勢者がする前向きな自殺・恍惚の死。未去勢者と去勢済みな主体では一部生死観が逆転している。死の欲動に翻弄される主観世界の中でのささやかな生の欲動の一表出が前向きな自殺・恍惚の死だ。
ショボイゾンビを出し惜しみせず大量に出すところなんか濫造・コピー化というB級なるものそのものを象徴しているとも言えるわな。最近のゾンビ映画って大概そうだよな。ゾンビの群れ。多く出したもん勝ちみたいな。それでこそB級。
ゾンビ映画って形式(表象)だけ考えれば死の欲動の過剰さ(死体のグロさ)とそれに対応するささやかな生の欲動(主人公たちの生存)だもんな。B級という形式はそれが逆転している、と。B級じゃないゾンビ映画が作られないところは大多数の人間即ち正常人たちの生の欲動の強さを示しているってことか。B級ゾンビ映画はそこがおもしろいんだな。ごちゃごちゃしてる。
ってそんなこと話したいわけじゃないんだよなー。直観の話。直観の話をする時って大体そうだな。隠喩(理屈はその一部)の森という土台なしに直観の話してもネットではネットらしく生の欲動に則ってコピー化される。マンネリ化即ち安心という癒しだからね。そうじゃなくて隠喩の森の中にぽっかり開いた木のうろ、洞窟のようなポイントとして直観の言葉を置きたいのかな。最初に生の欲動で満たしておけば直観の言葉は死の欲動の落とし穴になりえる、ということか。なってないんだろうけどな。空気読めねえ人間がいくらがんばっても。
んで直観。
レッドクイーン。建物を支配するメインコンピューターたる彼女。少女なところもおんたこ(笑)。
冒頭シーン、解析カメラ越しの映像を見ながら、もしこの映像を見ている人間がいたら、とぼんやり考えた。それこそレッドクイーンが現実の人間だったら、という話。
まさに未去勢者なんだよな。
象徴界と想像界に連結されていない現実界に親近する主観世界を生きる彼ら。従って人に同情しないし社会を保持するための倫理を守ることもない。まあレッドクイーンは建物を封鎖するという規則を守りきってるけどな。
ゾンビもそうだよな。ゾンビいいな。ゾンビになりてえ。いっそ。
未去勢なることの象徴は子供であり女だ。だからレッドクイーンを少女にした、ってことだな。制作者の無意識が。去勢されてファルスが発生するんだから、大人の男が去勢済みな主体の象徴だ。大人の男が未去勢に歩み寄っても去勢の否認にしかならない。エディプスコンプレックスにしかならない。少年マンガにしかならない。見ている方がそう思ってしまう。従って大人の男を未去勢化させるにはなんらかのアクシデントが必要になる。映画でありがちなのは戦争で負傷してトラウマになったりだな。あとは『メメント』のように障害を作品の軸にしたりとか。PTSDか健忘症だよなー、男の場合大体。『さよなら、さよならハリウッド』なんかはヒステリー盲目だったけど。
あとゾンビ映画の王道「感染」なんだけど、要するに狂気の伝染だよな。狂気は伝染する。現代医学で否定されているこの要件を芸術というジャンルで告発しているのだ。それは事実だと。そうわたしは思う。シャレで。
そもそも正常であることが精神疾患なわけだから、それが治療されるということにすぎない。獣としての人間に。
ゾンビは無理としても成仏したくねえな。怨念を現世にこびりつかせ続けたい。どんな霊媒師にも負けない最強の悪霊になりたい。きついか。現世が死の欲動に翻弄されているとはいえ比較論だからな。一般よりそっち側というだけで、わたしより翻弄されている人はたくさんいるだろう。
もちろんシャレよ。シャレは無意識の表出なんだろ?