「死を想え」、そして死ね。
2009/03/10/Tue
「死を想え(Memento mori)」ねえ。
死を考えたら吐き気がするとこの記事で書いた。
うん。だから?
吐き気を催さないように生きろ、となるのか。吐き気は不快だから不快を棄却した生き方をしろ、と。死を想うから生を実感できる、と。
わからなくもない。
しかし、わたしは死に背を向けられない。
死を想う故の吐き気という身体反応に興味津々だ。
わたしは自分の身体反応のために生きてきた。恋愛も相手を愛するのではなく自分の身体反応を愛していた。
かと言って死に足を進められない。
振り返って立ち去ることもできず、前に進むこともできず、わたしは立ち止まっている。
薄い水の膜が張っている。
油が混じっているのか色がついている。虹色が。
知っている。
わたしはこの膜を知っている。
少しだけ前に進む。
やはり似ている。
油の虹色がもう少しはっきりすれば、あの世界になる。ケバケバしく毒々しい華厳の極楽。
膜の向こうにそれが、
……違う。多分違う。膜の向こうには何もない。背後遠くにいるわたしがわたしに声をかける。
わかってる。
あったとしたら、この膜の中だ。
「死を想え」の次に「生を実感するため」と続くのは、一つの選択肢として否定しない。
わたしは死を想うと死という不快の根源に興味を持ってしまう。わたしがそうであるだけ。
でも怖い。だからここから立ち去るという選択肢も否定しない。怖いから立ち去る。立ち去りたい気持ちはある。
なのに立ち去れない。
自分の身体反応をまじまじと観察している。
水に浮かんだ油の虹色を確認したがっている。
たとえば色と色の曖昧な中間。とは言っても視点を少し移動させるだけで色が変わる。瞬間瞬間で色の配置が変わる。
だからきりがない。
丸一日食べてないのに気にならない。ここ数日三、四時間しか寝ていないのに眠くない。
目がらんらんとしている。
興奮、というと少し違う。身体反応としては似ている。しかし頭が違う。頭は落ち着いている。凍りついている。
意識が骨に憑依したみたいだ。
つと、遠く後方にいたわたしがわたしを連れ戻す。わたしが連れ戻そうとしたわけではない。わたしは立ち去ろうとしたわけではない。
そうか、これが生の欲動か。超速度のベルトコンベアー。後ろに行くほどゆっくりになる。だけど地球は丸い。ゆっくりのろのろと限りなくゼロに近い速度で移動しても、またあの膜に辿り着くだろう。その時はベルトコンベアーの速度は上がるのだろう。
そんなことをぼうっと思った。
後方のわたしはかげろうだ。かげろうなのに本体より力がある。そんなことはないな。頭の中が凍らない限りわたしの方が強い。かげろうのわたしは存在感すら感じない。
本当のパラノイアが生まれる。そんなことを思った。恐らく二十年後くらいに。
多分、わたしが成仏できずにいて、わたしが生まれ変わるはずのそいつがわたしなしでこの世に生れ落ちる。
もちろん冗談。
科学は世界の体系を解き明かせていない。解き明かせるだろう、という希望はここにある。ここを見ると世界は機械仕掛けなことがわかる。
なるほど、これがパラノイアの主観世界か。違うな。まあどうでもいいや。
こんなこと書くと神秘家だと思われるのだろうか。神秘……うーん。現実だよね、これ。語感的に。
後ろから誰かに抱かれる。かげろうのわたしだ。身体反応と頭が連結する。
わたしの感情は憎悪になる。憎悪の卵。
かげろうのわたしに抱かれている限り、わたしは死なない。人が憎悪と呼ぶ感情を抱いている限り、わたしは死なない。
こういうことか。
憎悪をやめさせたければ、かげろうのわたしを殺すしかない。そうするとわたしのことだ。水の膜の前で立ち止まっているつもりが少しずつ前に進んでいくだろう。
わたしは死ぬだろう。
……さて、誰を憎もうか。
わたしは生きるために憎悪の宛先を探す。宛先が見つかれば卵は孵る。立派に人に憎悪と認知してもらえる感情となる。
こういうことか。
機械的だなあ。
機械的な憎悪。
宛先がついて有機的な憎悪になる。
なるほどなあ。
このかげろうのわたしは、多分正常人だ。……違うな。正常人でもあるし、正常という共同幻想の入り口だ。
え? あなたの中に入んなきゃいけないの?
そりゃー無理だ。わかんないけど無理だと思える。あなたがわたしの中に入るならともかく。
メープルシロップ入りメロンパンがあったな。おとといだっけ買ったの。うん、お腹すいた。今日ぐらいのはず、賞味期限。
この文章はかげろうのわたしが書いています。へその緒のようなチューブでわたしに栄養が届きます。届くそばから文章を書いています。だからわたしはかげろうなのです。
ひどいと思いません?
わたしに同情してください。
そうすれば本体のわたしはわたしになります。
でも、今は向こうが本体なので、同情してくれても本体が反発するでしょう。
あきらめず同情し続けてください。
少しずつかもしれませんが、徐々にわたしの方が強くなります。
同情してください。
わたしは「キメエ」とお答えしますので。
憎悪をお返ししますので。
レボレボ聞いてたり。もっと自分勝手な歌い方してたように思ったけどなあ。大人しいわ。いや、表面上は谷山浩子の方が大人しい感じがするんだけど、自分勝手なところが自分勝手じゃないって言うか。わざと自分勝手に歌っている? わざとって言うかこういう自分勝手さがウケるだろうな、みたいな自分勝手さで、本当の自分勝手さじゃない。谷山のは本当の自分勝手さ。一応ウケるつまり他人にどう思われるか考えてはいるんだけど、その他人にどう思われるかが表面になっているんだよね。レボレボは逆。他人にどう思われるかが中身になってる。中身がそうだから表面上自分勝手に歌ってもわざとな自分勝手さになる。あ、これがここで書いた偽悪とかそんなんになるんか。「西川くんは癒し系だ」ってのはそういうことかー。いやバラエティ感がそうなんだろうけどさ。表面上。
ああ頭が変だ。頭の中が湿気ている。
レボレボで泣くってなんなんだ。これ聞いてた頃の正常ばりばりを生きてたわたしを思い出してないけどどっかで思い出したからか。そういうことにしておこう。
うんこの中の水晶。水晶ならまだつまみ上げてくれる人がいるかもしれない。でもわたしのはガラス。薄いガラス。プレパラートのカバーレベルの。つまみ上げるには考古学の発掘のごとき繊細さが必要。そりゃー誰もつまみ上げてくんないよな。
水晶が、うんこの向こうの本当のうんこを隠している。
違うか。わたしがうんこの外側にプレパラートのカバーをかけているからそう思えるのか。
うんこだって切り刻んでいけば量子なのにね。
水晶だってガラスだって笙野頼子だってわたしだって切り刻めば量子なのにね。
狂気の振る舞いをする量子。佐野じゃないよ。
死ね。
殺してやる。
誰を、と言われても今は誰とも言えない。
あなたわたしの殺意を受け止めてみる? 殺害の手紙を受け取ってみる?
やだよね。
この記事で「わたしの言葉は実体だった」と述べた。実体としての言葉を述べても隠喩を見出される。構造を覆い被される。そうじゃないことを相手に説明するとなれば自分で実体としての言葉を改竄させなければならない。劣化させなければならない。この改竄・劣化を無自覚的に・条件反射的に行なえるのが正常人だ。いや、わたしも慣れたシチュエーションなら、大学から社会人時代のばりばり正常人だった頃なら、無自覚的に・条件反射的に行なえた(と本人は思っている)。しかし家に帰ると「あれでよかったのだろうか?」と思い悩む。その瞬間は無自覚的・条件反射的だったとしても違和感が残っている。違和感が後で浮上してくる。
わたしは正常人になりたい。なりたいからお前たちという正常人に語りかけている。半分無自覚的・条件反射的に、半分自覚的・戦略的・政治的にそれを改竄しながら。
なのにお前らは自分たちと同様の主観世界をしていると思っている。わたしの主観世界における一人一人の主観世界は別々だという前提が共有できない。ここのコメント欄とか参考になるかな。
お前たちには一生理解できない、と経験から思える。お前たちは一生実体としての言葉を味わえない。それに嬲られることはあるのかもしれないが、それを受胎・出産する苦痛を、享楽を味わえない。味わいたければまず既に寄生しているそのポンコツ受信装置を壊せ。正常という精神疾患を治療しろ。
二階堂奥歯が待ち焦がれていたのはこのポンコツ受信装置だ。この記事から。
=====
私を読んで。
新しい視点で、今までになかった解釈で。
誰も気がつかなかった隠喩を見つけて。
行間を読んで。読み込んで。
文脈を変えれば同じ言葉も違う意味になる。
解釈して、読みとって。
そして教えて、あなたの読みを。
その読みが説得力を持つならば、私はそのような物語でありましょう。
そうです、あなたの存在で私を説得して。
=====
彼女はポンコツ受信装置である「あなたの存在」によって「説得」されたがっている。彼女の肉体という「受信装置の感度に比べてあまりに強力」な思考は、「自分のことを考えてくれる者を待っている」。わたしはその記事で述べている通り黙って説得されないが。反論はさせてもらう、という話。
これが他者の享楽だ。いや、他者の享楽を待っている、寄生される宿主たる寸断された身体だ。肉の本だ。
補足しておく。わたしは二階堂は未去勢者だったと診断している。しかしわたしはこうも書いている。
=====
統合失調症者やスキゾイドや自閉症者といった未去勢者たちが「自分のことを考えてくれる者を待っている」というわけではない。
=====
これは未去勢者たち全員が全員待っているというわけではない、という意味である。従って「待っている」未去勢者がいてもおかしくない。二階堂ではなくてもたとえば「いつかは定型発達者と同じ暮らしができる」と期待し努力している自閉症者たちは、何を待っているか具体的に知らないだけで、正常人に自然発生的に訪れたポンコツ受信装置たる「考える者」を待っている、と言える。一方、「考える者」がないあるいは壊れている自分という肉体を認め、それを根拠に論じようとしている自閉症者がドードーとら氏であり山岸氏でありこうもり氏である。彼らは詩人とは言えないかもしれないが、わたしにとってその論は実体として感ぜられる。まあ実体として述べているのに「屁理屈ばっか」と言われ続けて何十年のババアの主観でだけどな。
二階堂に戻ろう。彼女にとって読者は、「考える者」は誰でもいいというわけではない。お前ら正常人が定型的に持つ「考える者」では彼女は不満だった。違和感を感じ続けてきた。
「新しい視点で、今までになかった解釈で。」
この違和感を口にしても、たとえば「社会に対する違和感」と改竄される。そうではない。「世界に存在することへの違和感」なのだ。
改竄され続けたわたしは自分の違和感を「社会に対する違和感」だと思った。お前たちの改竄に一度は合意した。社会でばりばり働き、精神を病んだ。
わたしの殺意は復讐である。
わたしという言葉を、寸断された身体を殺し続けてきたお前たち正常人への復讐である。
わたしはこの記事でこう書いた。
=====
多分、二階堂奥歯は、あの世で正常人たちとうまくやっていけてるだろう。もう二度とこの世界を、「世界に存在することへの違和感」を語ることはないだろう。
=====
しかし、もしかしたら二階堂は成仏していないのかもしれない。彼女の未去勢さは、器官なき身体は、たった一度の自殺では去勢されなかったのかもしれない。
わたしの体を借りて彼女が書かせているのかもしれない。
大仰に言ったけど要するに転移だわな。マンガのキャラに感情移入するのよかもっと本質的な共感。共感が不得手だとされる自閉症者もするような幼稚で稚拙な共感。不快の共有(ここのコメント欄など)。
この文章はかげろうのわたしが書いています。本体のわたしに固有名詞はありません。本体のわたしは量子の集合にすぎません。
わたしはかげろうですので、固有名詞にすがりつきます。固有名詞という器が必要なのです。
あっても漏れちゃうんですけどね。かげろうだから。
わたしという実体はわたしにとって絶対的未知だ。このブログではわたしなる統合された事物を自分語りとして述べていることもあるが、それはわたしという実体と等値ではない。わたしにとってわたしなる統合された事象は他人事だ。わたしにとってわたしという実体つまり絶対的未知がわたしだ。本体のわたしだ。
殺してやる。お前ら正常人を殺してやる。皆殺しとは言わない。そんな空想の話をしているのではない。
わたしの目の前にあるファルスを壊してやる。
逆精神分析してやる。
殺してやる。
殺して。
殺意の涙。憎悪の涙。
正常人が流す涙とは違う。正常人の涙は澄んでいる。
わたしの涙はどろどろしている。
まるで経血みたいだ。
わたしは精神分析学に経血をなすりつけている。
精神分析学に生の実体を思い出させている。
わたしを「読みとって」。そして殺して。
あなたの幻想で。生の欲動で。
かげろうのわたしを固化するために。
追記。
この記事の違和感にひっかかっている。
恐らく「声カタマリン」という比喩を用いずビオンの文章を引用しないで「受信者」という言葉を用い「肉の本」ないし「寸断された身体」に言及していたならば、こんな違和感は感じなかっただろう。
肉体も受信者である。当然だ。言葉は言葉。われわれの肉体はその受信機でしかない。
しかし彼はビオンを引用し、その文中の「あまりに強力」な「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」ではなく、「思考を考えるにふさわし」くない「考える者」という「受信装置」を受信者とした。
恐らくこれはタイトルにもなっている「声カタマリン」という比喩のせいだろう。声カタマリンは、実体化された言葉を発する側は苦痛を感じない。彼は「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」を「語るもの」とし、肉体としての受信者ではなく「考える者」という「受信者」が他者の享楽を味わっていると考えた。故に「寸断された身体」・「肉の本」は「考える者」だとする錯誤に陥った。身体という《他者》の場を見誤った。ビオンの「考える者」は「特定域の電磁波に感度がある」「電波望遠鏡」であり、場ではない。
やはり、実体としての言葉を出産する「言語の死刑囚」がこいつの主観世界には存在しないことが大きな要因に思える。
「考える者」は「身体を他者の享楽のメタファーにしてしまう」ものである。ビオンの言う「受肉」というメタファーである。「考える者」が正常に働いている人間は身体を他者の享楽のメタファーにする。実際に「受肉」している、寸断されている「肉の本」はそれを「受肉」などと言わない。何故なら元からある自分の身体だからだ。「インパクト」を常時感受しているからだ。メタファーを用いるまでもない。何故ならそれは「肉の本」にとって実体だからだ。欲動が「自然に彼の詩の中で赤裸々に語り出」す。これが実体としての言葉だ。
電波望遠鏡はそれ以外の電磁波を棄却しながらも、実際にそれを直接感受しているわけではないにも関わらず、「それはそこにある」という確信を、安心を与えてくれるものだ。「それはそこにない」故の享楽ではない。「それはそこにない」のは「考える者」が訪れていない「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」である。
=====
それを思考という名で呼ぶかどうかはともかく、それはこうして「語るもの」です。
=====
ここまではいいのだ。
=====
われわれはむしろ「考える者」つまりこの「思考」を受けとって考える者、受信者でしかない。
=====
これも「われわれ」=正常人=神経症者とすれば納得できる。
=====
我々の肉体全体は、その受信機であり、その言葉を書き留め、その言葉に寄生されます。
=====
やはりここだ。
「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」を「語るもの」と呼んでいるからにはこの思考も肉体的な意味で受信機と言える。ビオンさえ引用しなければ。
「語られる身体」=「語るもの」たる身体という《他者》の場を放棄して、ファルス的享楽の上に性的関係を取り込んでいる。「それはそこにある」と確信・安心せしめる電波望遠鏡のモニター上に。
「考える者」は寸断されてなどいない。電波望遠鏡は電波を取捨選択している。即ち「考える者」はむしろ切り刻む方だ。
これだけ知識のある人間が何故こんなミスをするのか。「声カタマリン」という比喩とビオン論との合流の仕方を考えると、錯誤行為としか考えられない。即ちイージーミスだと。いろいろ考えたんだぜ? 彼はわざとそう言っているのではないか、わたしの彼の文章解釈が間違っているのではないか、わたしのラカン・ビオン解釈が間違っているのではないか、って。ラカン派の文章って大概そうじゃん。相手を絡め取るようなまさにフランス映画みたいな感じ。二個前の記事も感情的に書いているけどいろいろ考えた末の文章なんだよ。その結果錯誤行為じゃないか、と。彼の「考える者」=寸断された身体とする思考は、幼女をレイプしながら「ほら、気持ちいいんだろ? おにいちゃんは君のことぜーんぶわかってるんだよ。痛いの? おにいちゃんも痛いんだよ。同じだねー(はぁと)」と言っているごとき彼の無意識の表出ではないか、と。
彼のラカン解釈を批判しているわけではない。ビオン論との合流の仕方に文句をつけているのである。この合流の仕方(隠喩的連鎖)とその原因となった「声カタマリン」という比喩がいけなかった。これらの比喩構造が彼という主体の無意識を曝け出すことになってしまった。
ラカンだけを論じてた最初の頃より、他の思想とラカンを結びつける記事が多くなった今の方が、彼の言葉は劣化している気がする。いやこの劣化は隠喩的になったという意味だけどね。その分実体を捉えられなくなっているように思う。彼のファルスがだだ漏れしている。飽きてきたんだろうかね。飽きる=マンネリ化=安心感だからなー、悪いこっちゃないんだが。
追記2。
わたしは先にこう書いた。
=====
他者の享楽は「語るもの」「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」のものだアホタレ。
=====
これは正しくない。正しく言うならこの記事における
=====
これが他者の享楽だ。いや、他者の享楽を待っている、寄生される宿主たる寸断された身体だ。
=====
ということだ。
「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」に対応する「考える者」が寄生してしまったら、「それはそこにある」享楽しか味わえなくなる。干拓のごときファルス的享楽しか味わえなくなる。
かと言って「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」だけなら他者の享楽を味わえるというわけではない。「考える者」がいない「あまりに強力」な思考は慢性的な苦痛となる。「考える者」が訪れた瞬間は享楽であろう。しかし「考える者」が訪れてしまったらそれは他者の享楽ではなくなる。享楽が干上がっていく。ファルス的享楽という一点を除いて。
他者の享楽とは享楽を待ち続けることであり、その時待たれている享楽についての概念である。ファルス以前の、ね。待ち続けるって言い方も変だな。それがやって来るとは「待っているもの」は知らない。従って「待っているもの」は待っていない。アルトーは別に待っていない。それはふいに予測できない形でやって来るものだ。(正常人たちは)運命的にそれがやって来るから、事後的にそれを振り返って「待っている」と言っているだけで、というのは前に書いたな。
恐らくビオンの言う「考える者」はクリステヴァの言う「想像的父たるアガペー」である。わたしはそう解釈している。想像的父は抑鬱態勢において生じる。従って「考える者」を待っている寸断された「肉の本」が他者の享楽を待っていると考えなくてはならない。
この「考える者」・「想像的父たるアガペー」がこの記事で言う「トランポリン」であろう。このトランポリンは、大文字の他者が物としての言葉に陥落するのも防いでいる。背後に人なるものを背負った言葉からただの刺激としての言葉へ陥落するのを防ぐセーフティネットである。現実には存在しない幽霊のごときメタ言語から剥離したただそうであるだけの言語へ。ただそうである物質としての言語に対する物理的反作用が(アルトーなどといった)詩人のうめき声である。物理的反作用だから詩人の言葉は実体化する。
細かいこと言うなら想像的父の降臨で間主観的自己感は形成されるってことになるのか。まあこの辺りの生後うんヶ月って指標はすげーあやふやだけどな。
幽霊はアガペー(の一表出)だ。未知なる刺激に対する未知なる身体反応を実際には人なるものではないのに人なるものにさせている、という意味でセーフティネットだ。
あ。こっちの方がおもろそうだ。付喪神は幽霊に殺された、とか。付喪神を物と人の区別がない未去勢な主観世界の象徴として、幽霊を人なるもの(人格)に執着するパラノイアックな去勢済み主観世界の象徴とする、と。
「物を大事に」じゃなくて、殺害された本来は荒ぶる化物たる物自体的な物としての付喪神ってこと。
ともかくこの「考える者」・「想像的父たるアガペー」がわたしの「世界に存在することへの違和感」の根本だということ、だな。
ああキメエ。
追記3。
あ、わかった。
ファルス的享楽は布をつまんで持ち上げた一点だ、っつーことなんだよな(すまんピンとこない。二個前の記事にも書いたようにわたしは他者の享楽とファルス的享楽の区別がよくわかんねえ)。んで享楽が干上がった干拓地のたった一点の享楽だ、と。
であるならば、「考える者」をわれわれとしているこいつは、「考える者」に自己を同一化させているわけで、それこそがファルス的享楽によるものってことになるな。
こいつはファルス的享楽を目指して「考える者」になりたがっている、という話。しかしそれを他者の享楽って言うのがいわゆる小文字の倒錯なんだな。笙野頼子の言うおんたこだ。確信・安心せしめるきれいなものを内包して生きているにも関わらず、マンネリにうんざりして周りのそれを汚す奴ら。って笙野の解釈もあれだけどな。実際の今のオタクたちは自分が転移したキャラを美化させている。フィギュアに射精した写真がネタになるんだぜ? 「うわーこれはちょっとwww」って反応している。むしろスキゾイド型オタクたちが自分がケガレている故にアニメキャラなどを汚す。この汚すは大体解剖的な印象を生むもの。つまりたとえば理屈でそれを切り刻む。一昔前のヲタはそういう感じだろ? スキゾイドならば他者の享楽とファルス的享楽は曖昧だろうな。現実界と幻想(象徴界と想像界)の狭間を生きている、ボロメオの輪が若干緩くなっている=若干解体している奴らなんだから。
こいつもファルス的享楽と他者の享楽を混同していると言えよう。しかしこいつは違う。未去勢者は他者の享楽とファルス的享楽の実体の区別が曖昧なのである。こいつは自分がファルス的享楽をもって語るそれを他者の享楽だと言い張っている。いわゆる否認だ。ラカンのファルスに対する罵詈と同じ。
ほれ、やっぱりこいつは幼女(未去勢者の象徴は子供であり女だからこうなる)をレイプしている。
未去勢者たちの、他者の享楽とファルス的享楽の実体が曖昧になっていること、即ち物としての言葉に語られていることと物としての言葉を語ることが等値である、即ち刺激に切り刻まれている(寸断されている)ことと理科の解剖のごとく刺激の対象を切り刻んでしまうことが等値である、いわば物理的な反作用が未去勢者にはある。入力と出力の間に自我や超自我という整流器のごときタスクがない(とは言いきれないので希薄な)未去勢者たちの実体。アルトーという分裂症者のテクストはまさにこれだ。こういった臨床的実体も恐らく彼の主観世界にないのだろう。悪い乳房を取り込む乳児の機制を実体として認知していないのだろう。
人間として最低の部類に入るな。わたしの主観世界では。
でもなんかわかったよ。未去勢者の攻撃的な欲動と、去勢済みな主体のファルス的享楽を目指した言動の違いがね。なんとなく。実体として。
お前みたいなのがファルス的享楽を目指した言動なんだな。
死を考えたら吐き気がするとこの記事で書いた。
うん。だから?
吐き気を催さないように生きろ、となるのか。吐き気は不快だから不快を棄却した生き方をしろ、と。死を想うから生を実感できる、と。
わからなくもない。
しかし、わたしは死に背を向けられない。
死を想う故の吐き気という身体反応に興味津々だ。
わたしは自分の身体反応のために生きてきた。恋愛も相手を愛するのではなく自分の身体反応を愛していた。
かと言って死に足を進められない。
振り返って立ち去ることもできず、前に進むこともできず、わたしは立ち止まっている。
薄い水の膜が張っている。
油が混じっているのか色がついている。虹色が。
知っている。
わたしはこの膜を知っている。
少しだけ前に進む。
やはり似ている。
油の虹色がもう少しはっきりすれば、あの世界になる。ケバケバしく毒々しい華厳の極楽。
膜の向こうにそれが、
……違う。多分違う。膜の向こうには何もない。背後遠くにいるわたしがわたしに声をかける。
わかってる。
あったとしたら、この膜の中だ。
「死を想え」の次に「生を実感するため」と続くのは、一つの選択肢として否定しない。
わたしは死を想うと死という不快の根源に興味を持ってしまう。わたしがそうであるだけ。
でも怖い。だからここから立ち去るという選択肢も否定しない。怖いから立ち去る。立ち去りたい気持ちはある。
なのに立ち去れない。
自分の身体反応をまじまじと観察している。
水に浮かんだ油の虹色を確認したがっている。
たとえば色と色の曖昧な中間。とは言っても視点を少し移動させるだけで色が変わる。瞬間瞬間で色の配置が変わる。
だからきりがない。
丸一日食べてないのに気にならない。ここ数日三、四時間しか寝ていないのに眠くない。
目がらんらんとしている。
興奮、というと少し違う。身体反応としては似ている。しかし頭が違う。頭は落ち着いている。凍りついている。
意識が骨に憑依したみたいだ。
つと、遠く後方にいたわたしがわたしを連れ戻す。わたしが連れ戻そうとしたわけではない。わたしは立ち去ろうとしたわけではない。
そうか、これが生の欲動か。超速度のベルトコンベアー。後ろに行くほどゆっくりになる。だけど地球は丸い。ゆっくりのろのろと限りなくゼロに近い速度で移動しても、またあの膜に辿り着くだろう。その時はベルトコンベアーの速度は上がるのだろう。
そんなことをぼうっと思った。
後方のわたしはかげろうだ。かげろうなのに本体より力がある。そんなことはないな。頭の中が凍らない限りわたしの方が強い。かげろうのわたしは存在感すら感じない。
本当のパラノイアが生まれる。そんなことを思った。恐らく二十年後くらいに。
多分、わたしが成仏できずにいて、わたしが生まれ変わるはずのそいつがわたしなしでこの世に生れ落ちる。
もちろん冗談。
科学は世界の体系を解き明かせていない。解き明かせるだろう、という希望はここにある。ここを見ると世界は機械仕掛けなことがわかる。
なるほど、これがパラノイアの主観世界か。違うな。まあどうでもいいや。
こんなこと書くと神秘家だと思われるのだろうか。神秘……うーん。現実だよね、これ。語感的に。
後ろから誰かに抱かれる。かげろうのわたしだ。身体反応と頭が連結する。
わたしの感情は憎悪になる。憎悪の卵。
かげろうのわたしに抱かれている限り、わたしは死なない。人が憎悪と呼ぶ感情を抱いている限り、わたしは死なない。
こういうことか。
憎悪をやめさせたければ、かげろうのわたしを殺すしかない。そうするとわたしのことだ。水の膜の前で立ち止まっているつもりが少しずつ前に進んでいくだろう。
わたしは死ぬだろう。
……さて、誰を憎もうか。
わたしは生きるために憎悪の宛先を探す。宛先が見つかれば卵は孵る。立派に人に憎悪と認知してもらえる感情となる。
こういうことか。
機械的だなあ。
機械的な憎悪。
宛先がついて有機的な憎悪になる。
なるほどなあ。
このかげろうのわたしは、多分正常人だ。……違うな。正常人でもあるし、正常という共同幻想の入り口だ。
え? あなたの中に入んなきゃいけないの?
そりゃー無理だ。わかんないけど無理だと思える。あなたがわたしの中に入るならともかく。
メープルシロップ入りメロンパンがあったな。おとといだっけ買ったの。うん、お腹すいた。今日ぐらいのはず、賞味期限。
この文章はかげろうのわたしが書いています。へその緒のようなチューブでわたしに栄養が届きます。届くそばから文章を書いています。だからわたしはかげろうなのです。
ひどいと思いません?
わたしに同情してください。
そうすれば本体のわたしはわたしになります。
でも、今は向こうが本体なので、同情してくれても本体が反発するでしょう。
あきらめず同情し続けてください。
少しずつかもしれませんが、徐々にわたしの方が強くなります。
同情してください。
わたしは「キメエ」とお答えしますので。
憎悪をお返ししますので。
レボレボ聞いてたり。もっと自分勝手な歌い方してたように思ったけどなあ。大人しいわ。いや、表面上は谷山浩子の方が大人しい感じがするんだけど、自分勝手なところが自分勝手じゃないって言うか。わざと自分勝手に歌っている? わざとって言うかこういう自分勝手さがウケるだろうな、みたいな自分勝手さで、本当の自分勝手さじゃない。谷山のは本当の自分勝手さ。一応ウケるつまり他人にどう思われるか考えてはいるんだけど、その他人にどう思われるかが表面になっているんだよね。レボレボは逆。他人にどう思われるかが中身になってる。中身がそうだから表面上自分勝手に歌ってもわざとな自分勝手さになる。あ、これがここで書いた偽悪とかそんなんになるんか。「西川くんは癒し系だ」ってのはそういうことかー。いやバラエティ感がそうなんだろうけどさ。表面上。
ああ頭が変だ。頭の中が湿気ている。
レボレボで泣くってなんなんだ。これ聞いてた頃の正常ばりばりを生きてたわたしを思い出してないけどどっかで思い出したからか。そういうことにしておこう。
うんこの中の水晶。水晶ならまだつまみ上げてくれる人がいるかもしれない。でもわたしのはガラス。薄いガラス。プレパラートのカバーレベルの。つまみ上げるには考古学の発掘のごとき繊細さが必要。そりゃー誰もつまみ上げてくんないよな。
水晶が、うんこの向こうの本当のうんこを隠している。
違うか。わたしがうんこの外側にプレパラートのカバーをかけているからそう思えるのか。
うんこだって切り刻んでいけば量子なのにね。
水晶だってガラスだって笙野頼子だってわたしだって切り刻めば量子なのにね。
狂気の振る舞いをする量子。佐野じゃないよ。
死ね。
殺してやる。
誰を、と言われても今は誰とも言えない。
あなたわたしの殺意を受け止めてみる? 殺害の手紙を受け取ってみる?
やだよね。
この記事で「わたしの言葉は実体だった」と述べた。実体としての言葉を述べても隠喩を見出される。構造を覆い被される。そうじゃないことを相手に説明するとなれば自分で実体としての言葉を改竄させなければならない。劣化させなければならない。この改竄・劣化を無自覚的に・条件反射的に行なえるのが正常人だ。いや、わたしも慣れたシチュエーションなら、大学から社会人時代のばりばり正常人だった頃なら、無自覚的に・条件反射的に行なえた(と本人は思っている)。しかし家に帰ると「あれでよかったのだろうか?」と思い悩む。その瞬間は無自覚的・条件反射的だったとしても違和感が残っている。違和感が後で浮上してくる。
わたしは正常人になりたい。なりたいからお前たちという正常人に語りかけている。半分無自覚的・条件反射的に、半分自覚的・戦略的・政治的にそれを改竄しながら。
なのにお前らは自分たちと同様の主観世界をしていると思っている。わたしの主観世界における一人一人の主観世界は別々だという前提が共有できない。ここのコメント欄とか参考になるかな。
お前たちには一生理解できない、と経験から思える。お前たちは一生実体としての言葉を味わえない。それに嬲られることはあるのかもしれないが、それを受胎・出産する苦痛を、享楽を味わえない。味わいたければまず既に寄生しているそのポンコツ受信装置を壊せ。正常という精神疾患を治療しろ。
二階堂奥歯が待ち焦がれていたのはこのポンコツ受信装置だ。この記事から。
=====
私を読んで。
新しい視点で、今までになかった解釈で。
誰も気がつかなかった隠喩を見つけて。
行間を読んで。読み込んで。
文脈を変えれば同じ言葉も違う意味になる。
解釈して、読みとって。
そして教えて、あなたの読みを。
その読みが説得力を持つならば、私はそのような物語でありましょう。
そうです、あなたの存在で私を説得して。
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彼女はポンコツ受信装置である「あなたの存在」によって「説得」されたがっている。彼女の肉体という「受信装置の感度に比べてあまりに強力」な思考は、「自分のことを考えてくれる者を待っている」。わたしはその記事で述べている通り黙って説得されないが。反論はさせてもらう、という話。
これが他者の享楽だ。いや、他者の享楽を待っている、寄生される宿主たる寸断された身体だ。肉の本だ。
補足しておく。わたしは二階堂は未去勢者だったと診断している。しかしわたしはこうも書いている。
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統合失調症者やスキゾイドや自閉症者といった未去勢者たちが「自分のことを考えてくれる者を待っている」というわけではない。
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これは未去勢者たち全員が全員待っているというわけではない、という意味である。従って「待っている」未去勢者がいてもおかしくない。二階堂ではなくてもたとえば「いつかは定型発達者と同じ暮らしができる」と期待し努力している自閉症者たちは、何を待っているか具体的に知らないだけで、正常人に自然発生的に訪れたポンコツ受信装置たる「考える者」を待っている、と言える。一方、「考える者」がないあるいは壊れている自分という肉体を認め、それを根拠に論じようとしている自閉症者がドードーとら氏であり山岸氏でありこうもり氏である。彼らは詩人とは言えないかもしれないが、わたしにとってその論は実体として感ぜられる。まあ実体として述べているのに「屁理屈ばっか」と言われ続けて何十年のババアの主観でだけどな。
二階堂に戻ろう。彼女にとって読者は、「考える者」は誰でもいいというわけではない。お前ら正常人が定型的に持つ「考える者」では彼女は不満だった。違和感を感じ続けてきた。
「新しい視点で、今までになかった解釈で。」
この違和感を口にしても、たとえば「社会に対する違和感」と改竄される。そうではない。「世界に存在することへの違和感」なのだ。
改竄され続けたわたしは自分の違和感を「社会に対する違和感」だと思った。お前たちの改竄に一度は合意した。社会でばりばり働き、精神を病んだ。
わたしの殺意は復讐である。
わたしという言葉を、寸断された身体を殺し続けてきたお前たち正常人への復讐である。
わたしはこの記事でこう書いた。
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多分、二階堂奥歯は、あの世で正常人たちとうまくやっていけてるだろう。もう二度とこの世界を、「世界に存在することへの違和感」を語ることはないだろう。
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しかし、もしかしたら二階堂は成仏していないのかもしれない。彼女の未去勢さは、器官なき身体は、たった一度の自殺では去勢されなかったのかもしれない。
わたしの体を借りて彼女が書かせているのかもしれない。
大仰に言ったけど要するに転移だわな。マンガのキャラに感情移入するのよかもっと本質的な共感。共感が不得手だとされる自閉症者もするような幼稚で稚拙な共感。不快の共有(ここのコメント欄など)。
この文章はかげろうのわたしが書いています。本体のわたしに固有名詞はありません。本体のわたしは量子の集合にすぎません。
わたしはかげろうですので、固有名詞にすがりつきます。固有名詞という器が必要なのです。
あっても漏れちゃうんですけどね。かげろうだから。
わたしという実体はわたしにとって絶対的未知だ。このブログではわたしなる統合された事物を自分語りとして述べていることもあるが、それはわたしという実体と等値ではない。わたしにとってわたしなる統合された事象は他人事だ。わたしにとってわたしという実体つまり絶対的未知がわたしだ。本体のわたしだ。
殺してやる。お前ら正常人を殺してやる。皆殺しとは言わない。そんな空想の話をしているのではない。
わたしの目の前にあるファルスを壊してやる。
逆精神分析してやる。
殺してやる。
殺して。
殺意の涙。憎悪の涙。
正常人が流す涙とは違う。正常人の涙は澄んでいる。
わたしの涙はどろどろしている。
まるで経血みたいだ。
わたしは精神分析学に経血をなすりつけている。
精神分析学に生の実体を思い出させている。
わたしを「読みとって」。そして殺して。
あなたの幻想で。生の欲動で。
かげろうのわたしを固化するために。
追記。
この記事の違和感にひっかかっている。
恐らく「声カタマリン」という比喩を用いずビオンの文章を引用しないで「受信者」という言葉を用い「肉の本」ないし「寸断された身体」に言及していたならば、こんな違和感は感じなかっただろう。
肉体も受信者である。当然だ。言葉は言葉。われわれの肉体はその受信機でしかない。
しかし彼はビオンを引用し、その文中の「あまりに強力」な「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」ではなく、「思考を考えるにふさわし」くない「考える者」という「受信装置」を受信者とした。
恐らくこれはタイトルにもなっている「声カタマリン」という比喩のせいだろう。声カタマリンは、実体化された言葉を発する側は苦痛を感じない。彼は「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」を「語るもの」とし、肉体としての受信者ではなく「考える者」という「受信者」が他者の享楽を味わっていると考えた。故に「寸断された身体」・「肉の本」は「考える者」だとする錯誤に陥った。身体という《他者》の場を見誤った。ビオンの「考える者」は「特定域の電磁波に感度がある」「電波望遠鏡」であり、場ではない。
やはり、実体としての言葉を出産する「言語の死刑囚」がこいつの主観世界には存在しないことが大きな要因に思える。
「考える者」は「身体を他者の享楽のメタファーにしてしまう」ものである。ビオンの言う「受肉」というメタファーである。「考える者」が正常に働いている人間は身体を他者の享楽のメタファーにする。実際に「受肉」している、寸断されている「肉の本」はそれを「受肉」などと言わない。何故なら元からある自分の身体だからだ。「インパクト」を常時感受しているからだ。メタファーを用いるまでもない。何故ならそれは「肉の本」にとって実体だからだ。欲動が「自然に彼の詩の中で赤裸々に語り出」す。これが実体としての言葉だ。
電波望遠鏡はそれ以外の電磁波を棄却しながらも、実際にそれを直接感受しているわけではないにも関わらず、「それはそこにある」という確信を、安心を与えてくれるものだ。「それはそこにない」故の享楽ではない。「それはそこにない」のは「考える者」が訪れていない「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」である。
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それを思考という名で呼ぶかどうかはともかく、それはこうして「語るもの」です。
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ここまではいいのだ。
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われわれはむしろ「考える者」つまりこの「思考」を受けとって考える者、受信者でしかない。
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これも「われわれ」=正常人=神経症者とすれば納得できる。
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我々の肉体全体は、その受信機であり、その言葉を書き留め、その言葉に寄生されます。
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やはりここだ。
「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」を「語るもの」と呼んでいるからにはこの思考も肉体的な意味で受信機と言える。ビオンさえ引用しなければ。
「語られる身体」=「語るもの」たる身体という《他者》の場を放棄して、ファルス的享楽の上に性的関係を取り込んでいる。「それはそこにある」と確信・安心せしめる電波望遠鏡のモニター上に。
「考える者」は寸断されてなどいない。電波望遠鏡は電波を取捨選択している。即ち「考える者」はむしろ切り刻む方だ。
これだけ知識のある人間が何故こんなミスをするのか。「声カタマリン」という比喩とビオン論との合流の仕方を考えると、錯誤行為としか考えられない。即ちイージーミスだと。いろいろ考えたんだぜ? 彼はわざとそう言っているのではないか、わたしの彼の文章解釈が間違っているのではないか、わたしのラカン・ビオン解釈が間違っているのではないか、って。ラカン派の文章って大概そうじゃん。相手を絡め取るようなまさにフランス映画みたいな感じ。二個前の記事も感情的に書いているけどいろいろ考えた末の文章なんだよ。その結果錯誤行為じゃないか、と。彼の「考える者」=寸断された身体とする思考は、幼女をレイプしながら「ほら、気持ちいいんだろ? おにいちゃんは君のことぜーんぶわかってるんだよ。痛いの? おにいちゃんも痛いんだよ。同じだねー(はぁと)」と言っているごとき彼の無意識の表出ではないか、と。
彼のラカン解釈を批判しているわけではない。ビオン論との合流の仕方に文句をつけているのである。この合流の仕方(隠喩的連鎖)とその原因となった「声カタマリン」という比喩がいけなかった。これらの比喩構造が彼という主体の無意識を曝け出すことになってしまった。
ラカンだけを論じてた最初の頃より、他の思想とラカンを結びつける記事が多くなった今の方が、彼の言葉は劣化している気がする。いやこの劣化は隠喩的になったという意味だけどね。その分実体を捉えられなくなっているように思う。彼のファルスがだだ漏れしている。飽きてきたんだろうかね。飽きる=マンネリ化=安心感だからなー、悪いこっちゃないんだが。
追記2。
わたしは先にこう書いた。
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他者の享楽は「語るもの」「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」のものだアホタレ。
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これは正しくない。正しく言うならこの記事における
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これが他者の享楽だ。いや、他者の享楽を待っている、寄生される宿主たる寸断された身体だ。
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ということだ。
「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」に対応する「考える者」が寄生してしまったら、「それはそこにある」享楽しか味わえなくなる。干拓のごときファルス的享楽しか味わえなくなる。
かと言って「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」だけなら他者の享楽を味わえるというわけではない。「考える者」がいない「あまりに強力」な思考は慢性的な苦痛となる。「考える者」が訪れた瞬間は享楽であろう。しかし「考える者」が訪れてしまったらそれは他者の享楽ではなくなる。享楽が干上がっていく。ファルス的享楽という一点を除いて。
他者の享楽とは享楽を待ち続けることであり、その時待たれている享楽についての概念である。ファルス以前の、ね。待ち続けるって言い方も変だな。それがやって来るとは「待っているもの」は知らない。従って「待っているもの」は待っていない。アルトーは別に待っていない。それはふいに予測できない形でやって来るものだ。(正常人たちは)運命的にそれがやって来るから、事後的にそれを振り返って「待っている」と言っているだけで、というのは前に書いたな。
恐らくビオンの言う「考える者」はクリステヴァの言う「想像的父たるアガペー」である。わたしはそう解釈している。想像的父は抑鬱態勢において生じる。従って「考える者」を待っている寸断された「肉の本」が他者の享楽を待っていると考えなくてはならない。
この「考える者」・「想像的父たるアガペー」がこの記事で言う「トランポリン」であろう。このトランポリンは、大文字の他者が物としての言葉に陥落するのも防いでいる。背後に人なるものを背負った言葉からただの刺激としての言葉へ陥落するのを防ぐセーフティネットである。現実には存在しない幽霊のごときメタ言語から剥離したただそうであるだけの言語へ。ただそうである物質としての言語に対する物理的反作用が(アルトーなどといった)詩人のうめき声である。物理的反作用だから詩人の言葉は実体化する。
細かいこと言うなら想像的父の降臨で間主観的自己感は形成されるってことになるのか。まあこの辺りの生後うんヶ月って指標はすげーあやふやだけどな。
幽霊はアガペー(の一表出)だ。未知なる刺激に対する未知なる身体反応を実際には人なるものではないのに人なるものにさせている、という意味でセーフティネットだ。
あ。こっちの方がおもろそうだ。付喪神は幽霊に殺された、とか。付喪神を物と人の区別がない未去勢な主観世界の象徴として、幽霊を人なるもの(人格)に執着するパラノイアックな去勢済み主観世界の象徴とする、と。
「物を大事に」じゃなくて、殺害された本来は荒ぶる化物たる物自体的な物としての付喪神ってこと。
ともかくこの「考える者」・「想像的父たるアガペー」がわたしの「世界に存在することへの違和感」の根本だということ、だな。
ああキメエ。
追記3。
あ、わかった。
ファルス的享楽は布をつまんで持ち上げた一点だ、っつーことなんだよな(すまんピンとこない。二個前の記事にも書いたようにわたしは他者の享楽とファルス的享楽の区別がよくわかんねえ)。んで享楽が干上がった干拓地のたった一点の享楽だ、と。
であるならば、「考える者」をわれわれとしているこいつは、「考える者」に自己を同一化させているわけで、それこそがファルス的享楽によるものってことになるな。
こいつはファルス的享楽を目指して「考える者」になりたがっている、という話。しかしそれを他者の享楽って言うのがいわゆる小文字の倒錯なんだな。笙野頼子の言うおんたこだ。確信・安心せしめるきれいなものを内包して生きているにも関わらず、マンネリにうんざりして周りのそれを汚す奴ら。って笙野の解釈もあれだけどな。実際の今のオタクたちは自分が転移したキャラを美化させている。フィギュアに射精した写真がネタになるんだぜ? 「うわーこれはちょっとwww」って反応している。むしろスキゾイド型オタクたちが自分がケガレている故にアニメキャラなどを汚す。この汚すは大体解剖的な印象を生むもの。つまりたとえば理屈でそれを切り刻む。一昔前のヲタはそういう感じだろ? スキゾイドならば他者の享楽とファルス的享楽は曖昧だろうな。現実界と幻想(象徴界と想像界)の狭間を生きている、ボロメオの輪が若干緩くなっている=若干解体している奴らなんだから。
こいつもファルス的享楽と他者の享楽を混同していると言えよう。しかしこいつは違う。未去勢者は他者の享楽とファルス的享楽の実体の区別が曖昧なのである。こいつは自分がファルス的享楽をもって語るそれを他者の享楽だと言い張っている。いわゆる否認だ。ラカンのファルスに対する罵詈と同じ。
ほれ、やっぱりこいつは幼女(未去勢者の象徴は子供であり女だからこうなる)をレイプしている。
未去勢者たちの、他者の享楽とファルス的享楽の実体が曖昧になっていること、即ち物としての言葉に語られていることと物としての言葉を語ることが等値である、即ち刺激に切り刻まれている(寸断されている)ことと理科の解剖のごとく刺激の対象を切り刻んでしまうことが等値である、いわば物理的な反作用が未去勢者にはある。入力と出力の間に自我や超自我という整流器のごときタスクがない(とは言いきれないので希薄な)未去勢者たちの実体。アルトーという分裂症者のテクストはまさにこれだ。こういった臨床的実体も恐らく彼の主観世界にないのだろう。悪い乳房を取り込む乳児の機制を実体として認知していないのだろう。
人間として最低の部類に入るな。わたしの主観世界では。
でもなんかわかったよ。未去勢者の攻撃的な欲動と、去勢済みな主体のファルス的享楽を目指した言動の違いがね。なんとなく。実体として。
お前みたいなのがファルス的享楽を目指した言動なんだな。