共有できない前提を共有する。
2009/03/13/Fri
小学生の頃、学校の隣にある雑木林みたいなところで、野良犬が死んでいた。
餌をやっている子もいたようで、そういうの目当てで学校の近くにいたのだろう。
むごい死に方だった。
他の野良犬にやられたかどうかしたのだと思う。尻尾がちぎれかけていて、皮一枚で繋がっていた。「そんなになるんだ」と思ったのでよく覚えている。口は黒い泥のようなものを吐いていた。後であれは舌だったかもしれない、と思った。死骸の下の地面が黒くなっていた。血痕だとは思ったが、こんなに黒いものか、と思った。
誰かが「お墓作ってあげなきゃ」みたいなことを言った。男の子だかが「気持ち悪い、ほっとこうぜ」みたいなことを言った。わたしはわりかし男の子の意見に賛成だった。だけど両方の意見に違和感を覚えた。
この違和感を事後的に言い訳してみたくなった。
男の子の意見同様「ほっとこうよ」とは思った。気持ち悪いから、ということももちろんあったのだろうが、それよりこういう状態を人間の手で加工してはいけないと思った。
死骸見物には結構人が集まっていたと思う。いや三、四人くらいだったかもしれない。田舎だからかもしれないが、子供ってそういうところがあると思う。子供の好奇心は無差別だ。
ともかく、みんながこうやってわざわざやって来て見るようなものを、何故加工しなければならないのか、と思った。ように思う。
先述したようにわたしはそのシーンをよく覚えている。多分まじまじと見ていたのだろう。大人の知識で言い訳するなら、これほど人の興味を惹く、少なくともわたしの心を捕らえている芸術作品を、何故埋めたりしなければならないのか、ということだ。そういう意味では男の子の意見とも、結果としての行動は同じものとなるが、そうすることの論拠が違う。男の子はそれを見たくないから「ほっといて別の場所へ行くなりしようぜ」と言ったのだと思う。わたしのようにそれを芸術作品のように見ているわけではない。とはいえ芸術論では受取手に不快を催すものも立派な作品となるので、そういう意味では男の子の論と大して差異があるわけではない。
しかし当時のわたしは何も言わなかったと思う。数日後かにまた見に行ったが、死骸は跡形もなくなっていた。今考えると誰かが先生にチクって保健所なりが回収したのだろう。
坂東眞砂子みたいだ、と自分で思う。今でも動物の死骸を見るとそれを見たくなる。グロ画像を集めているフォルダなんかもある。『CSIシリーズ』が好きなのも感情移入を排したリアルな死体を高度な技術で再現しているからだ。
ただ、わたしなら子猫を崖下に放り投げたりせず、粛々と解剖するだろう、とは思う。できるなら生きたまま解剖したい。生きている内臓を見たい。
ネットにある彼女の言動をさらっと見る限りはわたしの主観世界と似ているように思えるが、彼女の崖下に放り投げるという行為だけ見れば、先述の男の子と同じ考え方のようにも思える。もちろん彼女が本当のことを言っているかどうかわからないし、わたしの推測が間違っている場合もあろう。「お墓作ってあげなきゃ」が笙野頼子になるな。
だけどわたしは彼女のようなことはしない。他人に言ってどうなる、と思っている。これはあくまでわたしの個人的嗜好で、趣味の同じ人に話しかけられてもむしろ気持ち悪いと思う。自分に対してもそう思う。この個人的嗜好を他人にひけらかすつもりはない。自分の嗜好が一般社会から見て不快に思われるのはよおっくわかっているからだ。わたしは何故それが「人でなし」になるのか理解できない。社会的にそう思われるであろうことは予測できるが、だからと言ってそんなルールに合意などしていない。いろいろ面倒だから従ってるけど。
では何故こんなことを書いているかと言うと、この嗜好を正常人たちが権力者的に「なんてむごいことを、人でなし」などと言うたびに、この嗜好を持っているわたしを殺すことになるからだ。
わたしは正常人という本質的権力者たちが未去勢者たちに振るう「想像界に潜む「人間らしさ」という暴力」を告発するために書いている。
別に坂東を擁護しようなんて気持ちは多少あるかもしれないがほとんどない。彼女が叩かれてるの見ても「ふんふん」ぐらいだったしな。「棄てるぐらいなら飼うな」って反論も理解できるし。解剖するために飼うっつーか捕まえるならオーケーなのかい? と聞きたくなるけど。
愛玩するために動物を飼うのも解剖するために動物を捕まえるのも同じジコマンだろーがよ、なんてわたしは思うけどな。
飼っている動物の幸せのためにとか言うかもしれないけどそう言ってきたら中立な人たちも違和感感じるんだろうな。「その動物を幸せにしていると思っていることこそが虐待じゃねえか」みたいな。そう言わせた方が詭弁術としては有効かもね。実際わたし今ペット飼っちゃいねーし。
「ハイハイキミタチノ方ガ大人デチュネー、ヨカッタデチュネー」ぐらい言っときゃいいんだよな。未去勢者は。内因的・器質因的に大人になれていない事実を認めて。ちょっとえらそうにジャーゴン使うなら「キミタチハファルスガ正常デ自我ヤ超自我モ正常ナンデチュネー、無意識的ナ防衛機能ガアルンデチュネー。ヨカッタデチュネー、楽ニ生キラレテ。オメデトーゴザイマスゥ」とかな。
もちろん内因的・器質因的に大人になれないからこそ正常人たちより大人になりたがる面もあるだろうな。わたしが死骸に惹かれるのも、死という去勢に執着している=去勢されたがっている=大人になりたがっているって解釈は可能だろうし。
自分が登場しない夢もよく見る。三人称の夢。
起きてせつなくなった。泣きそうになった。抑鬱症者や自律神経失調症者などはこうやって眠れなくなるんだろうか。わたしだからまだ眠れてる、というか夢を見れるのであって。
ピザ屋の配達人。マンションのドアの前でベルを鳴らす。
ドアが開く。
中には誰もいない。
奥の方から足音がする。ぺちぺち、どたどたと何人もの。
三十代くらいの小奇麗な女性が現れる。子供がいるのか、と配達人は思う。
女性が目の前に立つ。「おいくら?」
配達人は少し動揺する。足音は彼女の周りから聞こえてくる。しかし彼女は立ち止まっている。
金額を伝える。「あ、細かいの持ってくるわね」
「結構です」と言いたかった。配達人は早くそこから立ち去りたかった。
女性はそそくさと奥に戻っていった。
足音は奥からこちらに向かってくる。自分の真横を通り過ぎる。背後に駆け抜けていく。
途切れない。人数にすると十数人ぐらいになるはずだ。
必然的に足音に意識が集中する。足音は子供の笑い声に変わる。そんな馬鹿な、と配達人は思う。
「ごめんなさいねえ」女性が戻ってくる。そういえば女性の顔もどこか心ここにあらずなように見えなくない。
急いで勘定を済ませる。ピザを渡そうとする。女性が受け取り損ねる。床に落ちる。
「す、すいません。すぐ新しいの持ってきますんで……」
心ここにあらずなのは自分だ。
しかし女性はこう答える。
「いいのよ。どうせあたしが食べるんじゃないし」
自分がなんと答えたのか覚えていない。とりあえず日本語にはなっていたとは思う。配達人はその部屋を後にした。
エレベーターを降りる。迷子になったような感覚を覚える。さっき入ってきた一階と、似ているけど違う。しかしエレベーターの前には「1」の数字がある。一階だ。
よくよく見ると、自分が考えていた方向の逆側に出口があった。そこから外を見ると、車道に自分のバイクが止まっているのが見える。
足早にマンションを出る。
バイクにまたがりながら、配達人は記憶を確かめる。自分がやって来た時は確かに逆だった。入り口とエレベーターホールの位置関係は絶対に今と逆だった。
しかし確かめる気にもならない。
バイクを発進させながら配達人はうっすら思う。
(誰に言っても信用してくれないだろうな)と。
こんな夢で、わたしは何故せつなくなったのだろうか。
SF映画などにも似たような心理状態がある。超常現象を経験した主人公は、そのことを誰に言っても信用してもらえない。たとえば未来にタイムスリップしたと言っても「頭のイカれた奴だ」ぐらいにしか思われないだろう。逆に言えばそいつ自身が何も起きてない時に他人にそう言われたら自分はそう思うということでもある。
映画ならば、他人と共有できる何かを示すことにより信用してもらえる。たとえばその人しか知らない事実を言い当てるなど。
この時点で正常人に負けている。正常人を正常たらしめる契約書の履行に飲み込まれている。
正常という精神疾患はこうも言い換えられる。「他人との主観世界の共有」と。
SF映画の主人公に起きた超常現象は、キチガイの主観世界と同じだ。こんなこと言うと彼はこう反論するだろう。「俺はイカれてなんかいない。俺はマトモだ。自分が経験したことは妄想なんかじゃない」と。周りはその言葉をもってキチガイと確信するだろう。
精神病棟などをシーンに折り込みそのことを示す映画もある。しかしほとんどの映画では他の精神疾患者と主人公は別物として扱っている。観客は一目見て周りのキチガイたちと主人公は違う、主人公はマトモだ、と思う。そのように作られている。もちろん中には周りのキチガイたちと主人公をあまり違いのないように描いている映画もあるが。
あるSFマンガでこういうのがあった(蛇足しておくが『マトリックス』より十何年前の作品である)。不治のウイルスに侵されどんどん人が死んでいく。ある都市に治療法があると聞いた主人公はその都市に向かう。やっとのことで都市に辿り着くと、そこには人っ子一人いなかった。いろいろ調べているうちに、治療法を発見したという科学者のホログラムと出会う。科学者が言うには、このウイルスに一度感染したら二度と治らないことがわかった。従って人間の脳だけを取り出し、脳だけを生かし、それらをネットワークで繋いで、社会を存続させるのがこの治療法だ、と。ヒロインが死にかけていた主人公はそれに同意する。機械が作った幻想の中でヒロインと楽しく暮らす主人公。荒廃した現実の地平では、脳を生かすタワーのような機械が乱立しているだけだった。
結局、正常という精神疾患において、何が現実の根拠となるかというと、それを他人と共有しているかどうかにすぎないのだ。自分や周りの人間が参画している共同幻想こそが彼らにとって現実なのだ。
しかし、現実感という感情的な身体反応は他人との共有とは別にある。身体反応は他人と共有できないからだ。自分自身は疑いの余地もなくそれはそれとしてあるというような現実感。
キチガイは、この内部から湧き上がる現実感と、他人と共有できることを根拠にした正常人が現実だと言い張る幻想とがなかなか一致しない。脳の異常ならば、恐らく先のSFマンガでも、幻想の社会でキチガイはキチガイのままだろう。
わたしの場合、日常生活より夢の方に現実感を感じる。わたしの夢には痛みがあるし、夢と現実を混同する性質がある。
しかしこんなこと医者には言えない。そういう感覚は他の人から見て異常だと思われることを知っているからだ。
この、周りの人と、あるいは周りの人が表面上守っているルールと異なる現実感が、否定され続ける人生をわたしは送ってきた。否定される現実感を覚える自分を殺し続けてきた。殺す自分が強かったならばわたしは病まずに済んだだろう。しかしわたしの本体は殺され続けてきたわたしだ。本体を殺し続けてきた自分は、周りの人に同調しようとする自分は、わたしにとって現実感がない。蜃気楼のようなもの。
だから笙野頼子の「私的言語の戦闘的保持」という言葉にわたしは心躍った。そうそう、そういうことだ、と思った。他人と共有できない自分の現実感を、わたしは主張してよいのだ、と。他人と共有できないから結果的に「戦闘的保持」となるだけである。
しかし違った。笙野は『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』で「他者」という言葉を強調する。わたしは笙野は去勢済みな主体だと診断している。この要件を考慮すれば、わたしにとって笙野の主張は大塚英志のそれと変わらない。立場的にこの二人はわたしと逆方向にいる。笙野の方がこちらに一歩近づいているだけで。恐らく二人とも正常人なのだろう。大塚の方が自分の思考が固定観念的に「他者」を根拠にしていることに正直である。他者を重要視する、重要視させるのに社会的に有効なやり方が大塚が主張する商業主義である。他のやり方がある、という主張なら勝手にやってろ、としか言えない。わたしの主張はお前たち二人のとは別次元にある。ここから見ればお前たち二人は同じことを言っているにすぎない。
共有できないという主観世界の前提。ここのコメント欄など参考になるか。恐らくこの前提が、笙野にはない。共有できないことも知っている、などと口先で言ってきたとしても、共有できるかできないか、手紙は宛先に必ず届くか否か、というぎりぎりの選択を迫られたら、恐らく彼女は共有できる世界を、手紙が届く世界を選択するだろう。いぶきを天国に連れて行ったがごとく。大塚との論争で幾分わたしの方に歩み寄ったのかもしれないが、わたしの目の前で目をそむけるだろう。わたしに背中を向けるだろう。わたしにとっちゃーぎりぎりでもなんでもないがね。それこそ共有できない、手紙が届かないことが文字通り前提なんだから。
わたしの自分の化学的身体反応とも言える現実感への拘りは、自己愛的と言われるだろう。精神分析理論を排除した一般的な形容として言われるなら別にそうで構わない。しかし精神分析学を紐解けば、自己愛が愛する自己は他者が根拠になっていることがわかる。わたしの他者という根拠は希薄だ。従ってわたしのそれは自己愛というより自体愛と呼ばれるべきものである。他者という根拠を強調しながら「私的言語の戦闘的保持」を唱える笙野は自己愛でよかろう。彼女の自己は他者が根拠になっている。恐らく彼女は一般的な形容としてそう言われると反論するだろう。「私のは自己愛ではない。ちゃんと他者が根拠になっている」と。わたしと逆の立場での反論である。わたしの反論はこうだ。「わたしのは自己愛ではない。正常人がする自己愛はきちんと他者が根拠になっている。わたしが拘っている自分は他者が希薄だ。従って正確には自体愛と呼ばれるべきものだ」と。この反論は、理屈上笙野の「私の自己は他者が根拠になっている」という主張にとっても有効となる。正常人の自我や超自我は他者が根拠になっている、という学術的理屈を一般人が知らないだけだ。
正常人の自分とキチガイの自分は異なっている。それだけの話。
SF映画の主人公はまだましだ。ヒロインや仲間などといった、数少ないかもしれないが、共有できなかった現実感を他人と共有できる。他人と共有できるから「それは現実だ」と言えるのである。
わたしは言えない。わたしの主観世界と同調する他人を未だ見つけたことがない。夢に痛みを感じ夢と現実が混同すればいいというわけではない。それはわたしの症状と似ているというだけでわたしの主観世界と同調しているとは限らない。ここの読者が「私もそうです」などと言ってきてもわたしは拒否するだろう。「本当にそうなの? じゃあ試させてもらうね」とわたしはなるからだ。ほとんどの人間がこの態度を示すことで失格する。「私がそうだと言っているのにそれを疑うとは何事だ」となる。そいつの「私もそうです」というのがパラノイアックでファロセントリックな想像的暴力だったことを白状する。彼らの反論は人なるものという幻想を成立させるルール内において正しい。従って理屈的に正統なわたしの言い分は棄却される。され続けてきた。だからわたしは最初から拒否する。「本当にそうなの?」と言う代わりに。本当にそうであったなら、表面的な拒否など関係なく、化学的身体反応として同調するだろうから。
象徴的、想像的な同調ではない、言葉だけの同調や同情などといった同調ではない、物質的な同調。
わたしはもうそれしか信じられない。
裏切られすぎてしまった。
自体愛的に拘る現実感は、他人と共有できるものではない。この自体愛的な現実感に囚われたのがたとえば統合失調症や自閉症やスキゾイドである。多くの人間は、正常人たちは、彼らの主観世界を理解不能だとする。プレコックス感なるものは、患者のこの現実感の共有できなさに触れ、医者がそれまで現実と信じてきた他者と共有することが根拠になった幻想を揺るがされる故生じるのであろう。
現実感の共有できなさが一つの現実の表象である。正常人たちが忘れてしまった現実である。正常人たちがヒステリー盲目と同じ機制で見えなくなった物質的現実である。
妥協的に、共有できない現実的前提を共有しようというのがわたしの主張する狂気の伝染であり逆精神分析である。まず「貴様と俺とは絶対にわかり合えない」という前提を確認してから話を進めようじゃないか、という話だ。
先述のSFマンガの、脳だけ生かして機械で幻想を作り上げたネットワークなら、狂気の伝染もたやすそうだ。ネットワークの仕組みにもよるが、キチガイの身体反応そのままを伝えることが可能なように思える。たとえ電気信号でしか繋がっていなくとも、たとえば寝ている状態の主観世界についてのアクティングアウトを、つまり夢を見ている時の言動をそのままリアルタイムで送受信できるかもしれない。筒井康隆の『パプリカ』でそんな機械出てきたな。
正常人が妄想だとしてきたキチガイの現実を、ラカン的な意味での現実を、正常人たちに味わわせてやることができそうに思える。
狂気は正常を内包しているのだ。
正常という精神疾患が人間という獣に寄生しているのだ。
殺してやる。
お前たち去勢済みな主体を殺してやる。
わたしはただ自体愛的に自分の身体反応としての事実を述べているだけなのに、嘘つきと言われる。わたしから見れば主観世界を共有しているお前たちがそもそも嘘の世界に生きているのに。生まれつきの嘘つきに正直者が嘘つきと言われるようなものだ。
死んだら怨霊になりたい。どんな霊媒師にも祓えない怨霊に。量子力学的な、あるともないとも言えるしあるともないとも言えない世界から正常人を殺してやりたい。ファルスを破壊してやりたい。
呪い殺してやる。
正常人たちを狂気の淵に引きずり下ろしてやる。
餌をやっている子もいたようで、そういうの目当てで学校の近くにいたのだろう。
むごい死に方だった。
他の野良犬にやられたかどうかしたのだと思う。尻尾がちぎれかけていて、皮一枚で繋がっていた。「そんなになるんだ」と思ったのでよく覚えている。口は黒い泥のようなものを吐いていた。後であれは舌だったかもしれない、と思った。死骸の下の地面が黒くなっていた。血痕だとは思ったが、こんなに黒いものか、と思った。
誰かが「お墓作ってあげなきゃ」みたいなことを言った。男の子だかが「気持ち悪い、ほっとこうぜ」みたいなことを言った。わたしはわりかし男の子の意見に賛成だった。だけど両方の意見に違和感を覚えた。
この違和感を事後的に言い訳してみたくなった。
男の子の意見同様「ほっとこうよ」とは思った。気持ち悪いから、ということももちろんあったのだろうが、それよりこういう状態を人間の手で加工してはいけないと思った。
死骸見物には結構人が集まっていたと思う。いや三、四人くらいだったかもしれない。田舎だからかもしれないが、子供ってそういうところがあると思う。子供の好奇心は無差別だ。
ともかく、みんながこうやってわざわざやって来て見るようなものを、何故加工しなければならないのか、と思った。ように思う。
先述したようにわたしはそのシーンをよく覚えている。多分まじまじと見ていたのだろう。大人の知識で言い訳するなら、これほど人の興味を惹く、少なくともわたしの心を捕らえている芸術作品を、何故埋めたりしなければならないのか、ということだ。そういう意味では男の子の意見とも、結果としての行動は同じものとなるが、そうすることの論拠が違う。男の子はそれを見たくないから「ほっといて別の場所へ行くなりしようぜ」と言ったのだと思う。わたしのようにそれを芸術作品のように見ているわけではない。とはいえ芸術論では受取手に不快を催すものも立派な作品となるので、そういう意味では男の子の論と大して差異があるわけではない。
しかし当時のわたしは何も言わなかったと思う。数日後かにまた見に行ったが、死骸は跡形もなくなっていた。今考えると誰かが先生にチクって保健所なりが回収したのだろう。
坂東眞砂子みたいだ、と自分で思う。今でも動物の死骸を見るとそれを見たくなる。グロ画像を集めているフォルダなんかもある。『CSIシリーズ』が好きなのも感情移入を排したリアルな死体を高度な技術で再現しているからだ。
ただ、わたしなら子猫を崖下に放り投げたりせず、粛々と解剖するだろう、とは思う。できるなら生きたまま解剖したい。生きている内臓を見たい。
ネットにある彼女の言動をさらっと見る限りはわたしの主観世界と似ているように思えるが、彼女の崖下に放り投げるという行為だけ見れば、先述の男の子と同じ考え方のようにも思える。もちろん彼女が本当のことを言っているかどうかわからないし、わたしの推測が間違っている場合もあろう。「お墓作ってあげなきゃ」が笙野頼子になるな。
だけどわたしは彼女のようなことはしない。他人に言ってどうなる、と思っている。これはあくまでわたしの個人的嗜好で、趣味の同じ人に話しかけられてもむしろ気持ち悪いと思う。自分に対してもそう思う。この個人的嗜好を他人にひけらかすつもりはない。自分の嗜好が一般社会から見て不快に思われるのはよおっくわかっているからだ。わたしは何故それが「人でなし」になるのか理解できない。社会的にそう思われるであろうことは予測できるが、だからと言ってそんなルールに合意などしていない。いろいろ面倒だから従ってるけど。
では何故こんなことを書いているかと言うと、この嗜好を正常人たちが権力者的に「なんてむごいことを、人でなし」などと言うたびに、この嗜好を持っているわたしを殺すことになるからだ。
わたしは正常人という本質的権力者たちが未去勢者たちに振るう「想像界に潜む「人間らしさ」という暴力」を告発するために書いている。
別に坂東を擁護しようなんて気持ちは多少あるかもしれないがほとんどない。彼女が叩かれてるの見ても「ふんふん」ぐらいだったしな。「棄てるぐらいなら飼うな」って反論も理解できるし。解剖するために飼うっつーか捕まえるならオーケーなのかい? と聞きたくなるけど。
愛玩するために動物を飼うのも解剖するために動物を捕まえるのも同じジコマンだろーがよ、なんてわたしは思うけどな。
飼っている動物の幸せのためにとか言うかもしれないけどそう言ってきたら中立な人たちも違和感感じるんだろうな。「その動物を幸せにしていると思っていることこそが虐待じゃねえか」みたいな。そう言わせた方が詭弁術としては有効かもね。実際わたし今ペット飼っちゃいねーし。
「ハイハイキミタチノ方ガ大人デチュネー、ヨカッタデチュネー」ぐらい言っときゃいいんだよな。未去勢者は。内因的・器質因的に大人になれていない事実を認めて。ちょっとえらそうにジャーゴン使うなら「キミタチハファルスガ正常デ自我ヤ超自我モ正常ナンデチュネー、無意識的ナ防衛機能ガアルンデチュネー。ヨカッタデチュネー、楽ニ生キラレテ。オメデトーゴザイマスゥ」とかな。
もちろん内因的・器質因的に大人になれないからこそ正常人たちより大人になりたがる面もあるだろうな。わたしが死骸に惹かれるのも、死という去勢に執着している=去勢されたがっている=大人になりたがっているって解釈は可能だろうし。
自分が登場しない夢もよく見る。三人称の夢。
起きてせつなくなった。泣きそうになった。抑鬱症者や自律神経失調症者などはこうやって眠れなくなるんだろうか。わたしだからまだ眠れてる、というか夢を見れるのであって。
ピザ屋の配達人。マンションのドアの前でベルを鳴らす。
ドアが開く。
中には誰もいない。
奥の方から足音がする。ぺちぺち、どたどたと何人もの。
三十代くらいの小奇麗な女性が現れる。子供がいるのか、と配達人は思う。
女性が目の前に立つ。「おいくら?」
配達人は少し動揺する。足音は彼女の周りから聞こえてくる。しかし彼女は立ち止まっている。
金額を伝える。「あ、細かいの持ってくるわね」
「結構です」と言いたかった。配達人は早くそこから立ち去りたかった。
女性はそそくさと奥に戻っていった。
足音は奥からこちらに向かってくる。自分の真横を通り過ぎる。背後に駆け抜けていく。
途切れない。人数にすると十数人ぐらいになるはずだ。
必然的に足音に意識が集中する。足音は子供の笑い声に変わる。そんな馬鹿な、と配達人は思う。
「ごめんなさいねえ」女性が戻ってくる。そういえば女性の顔もどこか心ここにあらずなように見えなくない。
急いで勘定を済ませる。ピザを渡そうとする。女性が受け取り損ねる。床に落ちる。
「す、すいません。すぐ新しいの持ってきますんで……」
心ここにあらずなのは自分だ。
しかし女性はこう答える。
「いいのよ。どうせあたしが食べるんじゃないし」
自分がなんと答えたのか覚えていない。とりあえず日本語にはなっていたとは思う。配達人はその部屋を後にした。
エレベーターを降りる。迷子になったような感覚を覚える。さっき入ってきた一階と、似ているけど違う。しかしエレベーターの前には「1」の数字がある。一階だ。
よくよく見ると、自分が考えていた方向の逆側に出口があった。そこから外を見ると、車道に自分のバイクが止まっているのが見える。
足早にマンションを出る。
バイクにまたがりながら、配達人は記憶を確かめる。自分がやって来た時は確かに逆だった。入り口とエレベーターホールの位置関係は絶対に今と逆だった。
しかし確かめる気にもならない。
バイクを発進させながら配達人はうっすら思う。
(誰に言っても信用してくれないだろうな)と。
こんな夢で、わたしは何故せつなくなったのだろうか。
SF映画などにも似たような心理状態がある。超常現象を経験した主人公は、そのことを誰に言っても信用してもらえない。たとえば未来にタイムスリップしたと言っても「頭のイカれた奴だ」ぐらいにしか思われないだろう。逆に言えばそいつ自身が何も起きてない時に他人にそう言われたら自分はそう思うということでもある。
映画ならば、他人と共有できる何かを示すことにより信用してもらえる。たとえばその人しか知らない事実を言い当てるなど。
この時点で正常人に負けている。正常人を正常たらしめる契約書の履行に飲み込まれている。
正常という精神疾患はこうも言い換えられる。「他人との主観世界の共有」と。
SF映画の主人公に起きた超常現象は、キチガイの主観世界と同じだ。こんなこと言うと彼はこう反論するだろう。「俺はイカれてなんかいない。俺はマトモだ。自分が経験したことは妄想なんかじゃない」と。周りはその言葉をもってキチガイと確信するだろう。
精神病棟などをシーンに折り込みそのことを示す映画もある。しかしほとんどの映画では他の精神疾患者と主人公は別物として扱っている。観客は一目見て周りのキチガイたちと主人公は違う、主人公はマトモだ、と思う。そのように作られている。もちろん中には周りのキチガイたちと主人公をあまり違いのないように描いている映画もあるが。
あるSFマンガでこういうのがあった(蛇足しておくが『マトリックス』より十何年前の作品である)。不治のウイルスに侵されどんどん人が死んでいく。ある都市に治療法があると聞いた主人公はその都市に向かう。やっとのことで都市に辿り着くと、そこには人っ子一人いなかった。いろいろ調べているうちに、治療法を発見したという科学者のホログラムと出会う。科学者が言うには、このウイルスに一度感染したら二度と治らないことがわかった。従って人間の脳だけを取り出し、脳だけを生かし、それらをネットワークで繋いで、社会を存続させるのがこの治療法だ、と。ヒロインが死にかけていた主人公はそれに同意する。機械が作った幻想の中でヒロインと楽しく暮らす主人公。荒廃した現実の地平では、脳を生かすタワーのような機械が乱立しているだけだった。
結局、正常という精神疾患において、何が現実の根拠となるかというと、それを他人と共有しているかどうかにすぎないのだ。自分や周りの人間が参画している共同幻想こそが彼らにとって現実なのだ。
しかし、現実感という感情的な身体反応は他人との共有とは別にある。身体反応は他人と共有できないからだ。自分自身は疑いの余地もなくそれはそれとしてあるというような現実感。
キチガイは、この内部から湧き上がる現実感と、他人と共有できることを根拠にした正常人が現実だと言い張る幻想とがなかなか一致しない。脳の異常ならば、恐らく先のSFマンガでも、幻想の社会でキチガイはキチガイのままだろう。
わたしの場合、日常生活より夢の方に現実感を感じる。わたしの夢には痛みがあるし、夢と現実を混同する性質がある。
しかしこんなこと医者には言えない。そういう感覚は他の人から見て異常だと思われることを知っているからだ。
この、周りの人と、あるいは周りの人が表面上守っているルールと異なる現実感が、否定され続ける人生をわたしは送ってきた。否定される現実感を覚える自分を殺し続けてきた。殺す自分が強かったならばわたしは病まずに済んだだろう。しかしわたしの本体は殺され続けてきたわたしだ。本体を殺し続けてきた自分は、周りの人に同調しようとする自分は、わたしにとって現実感がない。蜃気楼のようなもの。
だから笙野頼子の「私的言語の戦闘的保持」という言葉にわたしは心躍った。そうそう、そういうことだ、と思った。他人と共有できない自分の現実感を、わたしは主張してよいのだ、と。他人と共有できないから結果的に「戦闘的保持」となるだけである。
しかし違った。笙野は『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』で「他者」という言葉を強調する。わたしは笙野は去勢済みな主体だと診断している。この要件を考慮すれば、わたしにとって笙野の主張は大塚英志のそれと変わらない。立場的にこの二人はわたしと逆方向にいる。笙野の方がこちらに一歩近づいているだけで。恐らく二人とも正常人なのだろう。大塚の方が自分の思考が固定観念的に「他者」を根拠にしていることに正直である。他者を重要視する、重要視させるのに社会的に有効なやり方が大塚が主張する商業主義である。他のやり方がある、という主張なら勝手にやってろ、としか言えない。わたしの主張はお前たち二人のとは別次元にある。ここから見ればお前たち二人は同じことを言っているにすぎない。
共有できないという主観世界の前提。ここのコメント欄など参考になるか。恐らくこの前提が、笙野にはない。共有できないことも知っている、などと口先で言ってきたとしても、共有できるかできないか、手紙は宛先に必ず届くか否か、というぎりぎりの選択を迫られたら、恐らく彼女は共有できる世界を、手紙が届く世界を選択するだろう。いぶきを天国に連れて行ったがごとく。大塚との論争で幾分わたしの方に歩み寄ったのかもしれないが、わたしの目の前で目をそむけるだろう。わたしに背中を向けるだろう。わたしにとっちゃーぎりぎりでもなんでもないがね。それこそ共有できない、手紙が届かないことが文字通り前提なんだから。
わたしの自分の化学的身体反応とも言える現実感への拘りは、自己愛的と言われるだろう。精神分析理論を排除した一般的な形容として言われるなら別にそうで構わない。しかし精神分析学を紐解けば、自己愛が愛する自己は他者が根拠になっていることがわかる。わたしの他者という根拠は希薄だ。従ってわたしのそれは自己愛というより自体愛と呼ばれるべきものである。他者という根拠を強調しながら「私的言語の戦闘的保持」を唱える笙野は自己愛でよかろう。彼女の自己は他者が根拠になっている。恐らく彼女は一般的な形容としてそう言われると反論するだろう。「私のは自己愛ではない。ちゃんと他者が根拠になっている」と。わたしと逆の立場での反論である。わたしの反論はこうだ。「わたしのは自己愛ではない。正常人がする自己愛はきちんと他者が根拠になっている。わたしが拘っている自分は他者が希薄だ。従って正確には自体愛と呼ばれるべきものだ」と。この反論は、理屈上笙野の「私の自己は他者が根拠になっている」という主張にとっても有効となる。正常人の自我や超自我は他者が根拠になっている、という学術的理屈を一般人が知らないだけだ。
正常人の自分とキチガイの自分は異なっている。それだけの話。
SF映画の主人公はまだましだ。ヒロインや仲間などといった、数少ないかもしれないが、共有できなかった現実感を他人と共有できる。他人と共有できるから「それは現実だ」と言えるのである。
わたしは言えない。わたしの主観世界と同調する他人を未だ見つけたことがない。夢に痛みを感じ夢と現実が混同すればいいというわけではない。それはわたしの症状と似ているというだけでわたしの主観世界と同調しているとは限らない。ここの読者が「私もそうです」などと言ってきてもわたしは拒否するだろう。「本当にそうなの? じゃあ試させてもらうね」とわたしはなるからだ。ほとんどの人間がこの態度を示すことで失格する。「私がそうだと言っているのにそれを疑うとは何事だ」となる。そいつの「私もそうです」というのがパラノイアックでファロセントリックな想像的暴力だったことを白状する。彼らの反論は人なるものという幻想を成立させるルール内において正しい。従って理屈的に正統なわたしの言い分は棄却される。され続けてきた。だからわたしは最初から拒否する。「本当にそうなの?」と言う代わりに。本当にそうであったなら、表面的な拒否など関係なく、化学的身体反応として同調するだろうから。
象徴的、想像的な同調ではない、言葉だけの同調や同情などといった同調ではない、物質的な同調。
わたしはもうそれしか信じられない。
裏切られすぎてしまった。
自体愛的に拘る現実感は、他人と共有できるものではない。この自体愛的な現実感に囚われたのがたとえば統合失調症や自閉症やスキゾイドである。多くの人間は、正常人たちは、彼らの主観世界を理解不能だとする。プレコックス感なるものは、患者のこの現実感の共有できなさに触れ、医者がそれまで現実と信じてきた他者と共有することが根拠になった幻想を揺るがされる故生じるのであろう。
現実感の共有できなさが一つの現実の表象である。正常人たちが忘れてしまった現実である。正常人たちがヒステリー盲目と同じ機制で見えなくなった物質的現実である。
妥協的に、共有できない現実的前提を共有しようというのがわたしの主張する狂気の伝染であり逆精神分析である。まず「貴様と俺とは絶対にわかり合えない」という前提を確認してから話を進めようじゃないか、という話だ。
先述のSFマンガの、脳だけ生かして機械で幻想を作り上げたネットワークなら、狂気の伝染もたやすそうだ。ネットワークの仕組みにもよるが、キチガイの身体反応そのままを伝えることが可能なように思える。たとえ電気信号でしか繋がっていなくとも、たとえば寝ている状態の主観世界についてのアクティングアウトを、つまり夢を見ている時の言動をそのままリアルタイムで送受信できるかもしれない。筒井康隆の『パプリカ』でそんな機械出てきたな。
正常人が妄想だとしてきたキチガイの現実を、ラカン的な意味での現実を、正常人たちに味わわせてやることができそうに思える。
狂気は正常を内包しているのだ。
正常という精神疾患が人間という獣に寄生しているのだ。
殺してやる。
お前たち去勢済みな主体を殺してやる。
わたしはただ自体愛的に自分の身体反応としての事実を述べているだけなのに、嘘つきと言われる。わたしから見れば主観世界を共有しているお前たちがそもそも嘘の世界に生きているのに。生まれつきの嘘つきに正直者が嘘つきと言われるようなものだ。
死んだら怨霊になりたい。どんな霊媒師にも祓えない怨霊に。量子力学的な、あるともないとも言えるしあるともないとも言えない世界から正常人を殺してやりたい。ファルスを破壊してやりたい。
呪い殺してやる。
正常人たちを狂気の淵に引きずり下ろしてやる。