違和感は語る。
2009/03/15/Sun
前記事に書いた拍手コメントを読んでからというもの、「違和感、違和感……」とうわごとのように繰り返している。
「違和感」と言えるのだが、言葉にした時点で、それを読む人間になった時点で、それはその実体じゃなくなる。わたし自身もここに書いている「違和感」という言葉の読者になった時点で「違うだろう」と思う。
「違う」
正しくはそうだ。「違和感」ではなく「違う」。
その実体を言葉にしようとすると文脈がなくなる。誰かに説明しようなんて気持ちが霧散する。そりゃそうだ。この記事で書いているように実体としての言葉には他者が存在しない。
「その実体を言葉にしようとすると文脈がなくなる」も違う。
実体が言葉になる。欲動が「自然に彼の詩の中で赤裸々に語り出す」。
従って、違和感が語るのではなく、違和感を語ろうとすると、それは違う。実体ではない。
違和感自体が語ろうとして「違和感」や「殺意」という言葉になる。しかしそれを読者としてのわたしが拾い上げた時点で実体ではない。それを利用して違和感を語ろうとするとどんな言葉も不充分になる。「電波望遠鏡が特定域の電磁波に感度があるのと同様」に。電波望遠鏡は全ての帯域の電磁波に対する感度はない。「考える者」は「思考を考えるにふさわし」くない。
そしてわたしは霊的エネルギーになる。本体のわたしがかげろうのわたしから離れていく。
離れさせまいとかげろうとしてのわたしが書く。読者として説明する。
この記事で引用しているビオンの言葉。
=====
それは他にも受肉だとか、神格の発達とか、プラトン的な形相、クリシュナ、神秘経験、霊感他といった様々な形で表現されている。かくして受信された、あるいは発展させられた思考の発信源は、外的なもの、神から与えられたものなどとして感じられ、
=====
この「受肉だとか、神格の発達とか、プラトン的な形相、クリシュナ、神秘経験、霊感他といった」ものは、それまでの電波望遠鏡が感知できなかった帯域の電波を感知したことだと言えよう。新しい電波望遠鏡を購入したわけだ。
ビオンは大仰に言っているが、要するにそれはパラダイムシフトである。この概念にとって重要なのは革命的・非連続的に認識の規範が変化することだ。徐々に枠組みが変わるのはパラダイムシフトではない。また枠組みがなくなることでもない。パラダイムはあくまでシフトするのみである。
革命的・非連続的に認識の規範が変化する、即ち連続性としてそれ以前とそれ以降の規範には断絶がある。この断絶を説明するのがパラダイムシフトであり、この断絶は個人の内面にもあり、むしろ個人の内面の断絶を飛び越えるような変化が原因となっていることを説明するのがビオンの言葉になる。
さて、「受肉だとか、神格の発達とか、プラトン的な形相、クリシュナ、神秘経験、霊感他といった」ものを「新しい電波望遠鏡の購入」と読み替えれば、いろいろなことが見えてくる。たとえばこの記事で引用した二階堂奥歯の言葉こそが他者の享楽を待っている言葉だとしているが、それも理解できるだろう。他者の享楽は新しい電波望遠鏡で覗いてもらう側のものであり、古いあるいは新しい電波望遠鏡側が体験するものではない。
「考える者」「肉の読者」はそれまで感知できなかった帯域を感知できる新しい電波望遠鏡を手に入れることにより、「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」「肉の本」という実体の新しい一部を知ることになる。しかし、新しい一部を知ることで全体を予感するのであり、新しい電波望遠鏡を購入したからと言って本当の全体を感知できるわけではない。
ここに『アンチ・オイディプス』がクライン批判として述べている「部分が部分を横断することで全体が事後的に幻影として生じる」という言葉が呼応する。
では、幻影としてしか感知できない全体の実体とは、となるが、それこそが「違和感」や「殺意」や「違う」という言葉を「語るもの」であり、「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」「肉の本」である。享楽する身体である。身体という《他者》の場である。
映画『チーム・バチスタの栄光』を見た。
※ネタバレ注意
と一応書いておく。
真犯人たる麻酔医。彼の言い分は非常に未去勢的だ。未去勢者だとは診断しないが。
心臓が再鼓動しない時の周りの状況を彼は「カーニバル」と表現した。これはよい。言い得て妙である。
また彼はそれを「娯楽」と言った。ここが未去勢者であるかどうか疑問に思わせる点である。
いや「娯楽」と言ってもいいのだ。彼が未去勢者であるとしても強がりでそう言う可能性はある。
彼が本当に未去勢者ならば、それを「娯楽」と表現するのは、少なくとも去勢済みな主体が使うような意味ではないと思われる。誤解が生じる可能性があると感じられる。
カーニバルは娯楽であると同時に儀式である。彼が未去勢者ならば、彼の「娯楽」という意味は、過酷な労働の息抜きとしての娯楽ではなく、儀式的な娯楽だと理解せねばなるまい。
「カーニバル」という表現はそういう意味で言い得て妙である。
彼が未去勢者ならば過酷な労働に耐えているのはおかしいと思われそうだが、そうではない。実体験から言うが、労働が過酷であればあるほど未去勢者は表面上去勢済みな主体と同様な言動を取ることができる。去勢済みな主体と同様いつかは破綻するかもしれないけどね。恐らくそれは、労働が過酷になると、いかに去勢済みな主体であっても他者に対する気遣いや思いやりという精液が希薄になるからではないだろうか。あるいは定型化・簡略化される。器質因・内因的に、そもそもが他者という根拠の希薄な未去勢者でも表面上の気遣いや思いやりのフリはできるようになる。従って表面的な言動の見分けはつかなくなる、と。
ま、単にそれだけ。おもしろかったよ。阿部ちゃんファンにはたまらんね。
しかしあれだな。慶応医落ちて滑り止めで東大理一行ったわけだが、周りの人に口を揃えて「お前が医者にならなくてよかった」と言われた。わかるわ。わたしこの麻酔医だわ。
げろげろ。
思うに、声カタマリンで嬲られる電波望遠鏡たる「考える者」は、「肉の本」に対し、笙野頼子がいぶきという火星人に施したごとき「人間らしさ」という想像的な暴力を働いている。精液のごとく粘つく拘束衣を着せている。ゴキブリホイホイ。
そうではなく、芸術の感動というのは、「肉の本」が共鳴することだ。「肉の本」が共鳴し、うめき、蠕動し、震え、さまざまな身体組織を緊張させる。それに「考える者」は怯える。「想像的父たるアガペー」は、原パラノイアは、イザナギは腐敗した妻の肉体から目をそむける。
地表に戻ったイザナギはイザナミに宣戦布告をする。この時イザナギは新しい電波望遠鏡でイザナミを見ている。イザナミのそれまでとは違うおぞましい帯域を見ている。
新しい電波望遠鏡を買うことは、パラダイムシフトは、「肉の本」という現実的なおぞましい環境への適応でもあるが、同時に芸術の感動という永遠であり瞬間であるそれを劣化して保存するものだ(念のため断っておくが一概にこの劣化を批判するわけではない)。
この時「考える者」と「肉の本」は、芸術の受取手と表現者という関係に区別されない。大まかなモデリングとしてどちらかにどちらかを当てはめることはできようが、それはあくまで概観説明としての便宜であり、実体は表現者と受取手という区分など関係なく、「考える者」と「肉の本」とのせめぎ合いが生じている。
笙野は言う。
=====
肉体と魂の戦いが結果、小説に定着する。権現文学である。
=====
しかし笙野が描いているのは戦いではない。いぶきは笙野に飲み込まれている。『だいにっほんシリーズ』は戦いに(仮のものかもしれないが)終止符を打っている。少なくともいぶきの視点において戦いの終わりを彼女は描いている。わたしは以前にこう書いた。
=====
いぶきはトリックスターである。第二部(『ろんちくおげれつ記』)ではそのトリックスターぶりを遺憾なく発揮し、作中作者たる笙野頼子という登場人物の主張に反抗している。両者の意見が対立したまま終わる第二部はわたしは高く評価している。評価というより「ぶっちゃけおもれえwww」というネットスラングめいた言い方の方が適しているだろう。
=====
しかし第三部で笙野といぶきの対立は昇華されている。
未去勢者の戦いに終わりはない。仮の休息所はあるだろう。それが彼女の天国ならばいい。そこにいるのがパンサババアなどという肥大したクリトリスばっかだったら休息所にならないだけである。いぶきあるいは火星人あるいは未去勢者はそこから立ち去ればよい話である。笙野という芸術家たる詐欺師の甘言に乗せられたそいつが悪いのだ。自業自得だ。
しかし、坂東眞砂子がもし火星人であったなら、笙野は火星人を殺したリアルの上に『だいにっほんシリーズ』という幻想を描いたとも言える。隠蔽である。懺悔である。
まあ、そんな話だろうな。
ばりばりのファロセントリストのくせしてキチガイ面してんじゃねーよクソババア。お前が自分をキチガイと表現するのは、ガタリが「ボクチンだってビョーキなんだもーん」とにやにや笑うことと、あるいは加藤智大が「僕は精神疾患者なんです。トラウマもあります」と主張していることと同じだ。
第三者視点とはいえ特に生前のいぶきについての描写は、とてもわたしに似ていると思った。これは普通の人間がするような登場人物に対する憧れや好意を根拠にした感情移入ではない。いぶきの宛先のない心的エネルギーに自分自身が翻弄されている姿に痛みを感じ、この痛みを根拠に似ていると思ったのだ。普通の人間がするような短絡的・ハイウェイ的な感情移入ではなく紆余曲折のある感情移入だ。さまざまなひっかかりがある感情移入だ。
そんな状態で読み進め、第三部でほんのささいな、だけど強力で粘っこい違和感を覚えた。この記事から。
=====
ところが、「わたしは火星人の歴史を語る」という言葉は、いぶきにとって「言わされている」ようにしか、わたしには読めない。笙野という作者の暴力から身を守るための、エコラリアやエコプラクシアのようにしか見えない。
=====
この違和感の原因を探るうち、恐らくリアル作者は、いぶきが自分の死の場面を思い出すことを、いぶきが歴史を語るのを決意した心的根拠としているのだろう、と読み解いた。えらそうなもんではなくありきたりなドラマツルギーなんだけどね。
恐らくわたしは心因的に未去勢的な性格をしているのではない。わたしのトラウマはいぶきのようにフラッシュバックするものでも明確にこれと言えるものでもなく、慢性的で不確定性的なものだ。従っていぶきのように抑圧していたトラウマを再表象化することで去勢を承認できるわけではない。
要するに、わたしはいぶきが歴史を語るのを決意した心的根拠が理解できないのだ。
しかしリアル作者は恐らくそれで納得しているのだろう。いぶきはそうすることで歴史を語ろうと決意した。このいぶきの心理にリアル作者は違和感を覚えていないのだろう。
従ってわたしは笙野頼子を正常人と診断した。もちろんこれ以外の要件も多々あるが。それこそ坂東との論争、大塚英志との論争、飼い猫に対する吐露、それらを総合的に考慮した上での診断である。
わたしはいぶきの生前の様子は、発達障害児の言動を(そのままリアルに描いているとは言わないが)モデルにしているように思える。
しかしいぶきは登場時点で死んでいる。おんたこに殺されたことになっているが殺される過程を描いているならまだしも登場時点で死なせているのは作者の作意が関わっていると判断できる。要するにいぶきを殺したのはおんたことリアル作者の共犯である、ということだ。
いぶきは死んでいたからこそ歴史を語ることを決意した。笙野の作った天国に連れて行かれた。死んでなかったら殺された場面というトラウマを思い出せない。当たり前。
ということはだ。
この作品は「発達障害児は一度死ななきゃまともになれない」と言っているようなものなのだ。発達障害という特定の病名を挙げるのに文句を言う肥大したクリトリスも多そうなので言い直すと、「スキゾフレニックなキチガイたち、即ち未去勢者は一度死ななきゃ去勢されない」と言っているわけだ。
要するに、「キチガイは一度死ななきゃ治らない」と。「いいキチガイは死んでいるキチガイだけだ」と。
わたしは正常人になりたい。何故正常人たちと同じような主観世界を生きられないのかずっと悩み続けてきた。そんなわたしに笙野は一つの解答を与えてくれたのだ。「死ぬしかないんじゃん?」と。
なるほどな。
正しいよ。精神分析の理屈でもお前の無意識的なその主張は強化可能だ。
ある自閉症者がパンサババアの言動に関してこんなことを言っていた。
=====
これに似た都市伝説(?)で「牛の首」ってのがあったのを思い出した。
食料が乏しい時代、人間を喰っていたけど罪悪感がひどくて、
それを軽減する為に、喰われる人間に
「牛の首」を被せて「牛男」として殺して喰った話。
異常者は殺してもよい、と言うおはなしだと思う。
=====
笙野も「異常者は殺してもよい」と言っているわけだ。
さすが「猫のために」とか言いながら去勢手術を施しただけのことはあるな。別にこれ自体を批判しているわけじゃないぜ。こういったお前のリアル言動も「異常者は殺してもよい」と比喩的に表現されるお前の無意識と関連している、という指摘だ。
笙野読んでんだろ? 読んでなくてもいいけどさ。「違う」っつーならここに反論しろよ。文芸誌以外には書かないだって? さーすが他者が自己の根拠として強固な即ちモル的でパラノイアックなファロセントリストだけのことはあるな(笑)。冗談はさておきお前の反論をわたしは分析するだけだ。お前は去勢済みな主体であるという診断を根拠にな。この根拠を揺るがす反論がお前にできるかどうか。理屈でもあり理屈でもないところの、文芸的でもあり文芸的でもないところの(お前の好きなドゥルーズ=ガタリが言う)「強度」があるかどうか。それによってお前の反論が反論として成立するかどうかが分かれる。わたしの診断が覆されるかどうかが分かれる。言い訳なんて聞きたくない。わたしはお前の意識だけを話しているのではない。お前の無意識含めた精神という実体を論じている。
まああれだ。実は笙野はばりばり未去勢で、「どろどろ権現の中のぺかぺか水晶」なんて言っているけど本当は中身はゲル状で中身のない人間であって、いぶきの心的変化の描写は定型ドラマツルギーをエコラリア的になぞっただけである、なんてひねくれた解釈も可能ではあるが、他さまざまな彼女の言動を考えるとその可能性は低いだろう。谷山浩子だったらそんな風に言うだろうな。あたしゃ。
そういうことだ。
わたしが勝手に騙されて裏切られただけの話。
裏切られることも享楽だ。
「肉の本」と新しい電波望遠鏡の出会いは喜ばしいものとは限らない。
あ、一応言っとくけど「違和感を大切にしろ」なんてメタ言語は読み込まないでね。慢性的で不確定性な違和感に翻弄され続けているのが未去勢者であるという事実を述べているだけ。
長文拍手コメント書いてきた人とかそんな風に読みそうだったから。
笙野も違和感に翻弄されてるっちゃーそうだけど(だからこそファンになった)、『だいにっほんシリーズ』では明らかにそれが「世界に存在することへの違和感」じゃなく「社会に対する違和感」になってるもんな。この記事から。
=====
「世界に存在することの違和感」と「社会に対する違和感」は、全く別物などではない。それらの本質は連接している。
(中略)
ところが、定型発達者が述べる「社会に対する違和感」は、社会的な機械と欲望機械の軋轢でしかない。それ以上、軋轢の本質に踏み込めない。
=====
笙野が『だいにっほんシリーズ』で社会的な問題に目を向けているのは自身も言及していることで明らかだ。このことは第三部で彼女が「他者」という言葉を強調しているのと関連していよう。他者が無意識で根拠となった人なるものの総体が社会である。
しかし彼女のこの方向転換は、違和感の本質たる「肉の本」から逃避している、というと言いすぎだから日和っているにすぎないわけだ。こちら側から見るとね。この記事から。
=====
向こうへ歩く笙野を羨ましく思い嫉妬もするけど許せる。それをエヴァ最終回の「おめでとう」みたくもてはやす周囲はキモイけど。
=====
「許せる」とか言っといてこんなことになるのがわたしの未去勢さなのだろうな。谷山浩子『きみが壊れた』から。
=====
いつからか いつからか
気づかずに僕たちは住んでいた
さかさまの国
言葉にすれば必ずそれは嘘に変わる
=====
大文字の他者としての言葉が揺らいでいる。その背後にいる他者が揺らいでいる。物としての言葉に陥落しているとは言えないけれど。
わたしは常に既に壊れているらしい。ごめんね。
しかしあれだな。この曲の
=====
窓を打つ雨のしずく
いつの間にかどしゃ降りの雨
きみの目が雨を見ている
「帰りたいよ」と空に話している
=====
もこの記事の
=====
空は曇っていた。川は濁っていた。
わたしにはそれらが出口に思えた。同時に、他の人はそれを抑圧的な風景として見るのだろう、と思った。
=====
と符号していて気持ち悪い。
未去勢者にとっては、雨空が、曇り空が、帰る場所であり出口なのだ。正常人が抑圧的・抑鬱的に見るそれが。
気持ち悪い。
「違和感」と言えるのだが、言葉にした時点で、それを読む人間になった時点で、それはその実体じゃなくなる。わたし自身もここに書いている「違和感」という言葉の読者になった時点で「違うだろう」と思う。
「違う」
正しくはそうだ。「違和感」ではなく「違う」。
その実体を言葉にしようとすると文脈がなくなる。誰かに説明しようなんて気持ちが霧散する。そりゃそうだ。この記事で書いているように実体としての言葉には他者が存在しない。
「その実体を言葉にしようとすると文脈がなくなる」も違う。
実体が言葉になる。欲動が「自然に彼の詩の中で赤裸々に語り出す」。
従って、違和感が語るのではなく、違和感を語ろうとすると、それは違う。実体ではない。
違和感自体が語ろうとして「違和感」や「殺意」という言葉になる。しかしそれを読者としてのわたしが拾い上げた時点で実体ではない。それを利用して違和感を語ろうとするとどんな言葉も不充分になる。「電波望遠鏡が特定域の電磁波に感度があるのと同様」に。電波望遠鏡は全ての帯域の電磁波に対する感度はない。「考える者」は「思考を考えるにふさわし」くない。
そしてわたしは霊的エネルギーになる。本体のわたしがかげろうのわたしから離れていく。
離れさせまいとかげろうとしてのわたしが書く。読者として説明する。
この記事で引用しているビオンの言葉。
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それは他にも受肉だとか、神格の発達とか、プラトン的な形相、クリシュナ、神秘経験、霊感他といった様々な形で表現されている。かくして受信された、あるいは発展させられた思考の発信源は、外的なもの、神から与えられたものなどとして感じられ、
=====
この「受肉だとか、神格の発達とか、プラトン的な形相、クリシュナ、神秘経験、霊感他といった」ものは、それまでの電波望遠鏡が感知できなかった帯域の電波を感知したことだと言えよう。新しい電波望遠鏡を購入したわけだ。
ビオンは大仰に言っているが、要するにそれはパラダイムシフトである。この概念にとって重要なのは革命的・非連続的に認識の規範が変化することだ。徐々に枠組みが変わるのはパラダイムシフトではない。また枠組みがなくなることでもない。パラダイムはあくまでシフトするのみである。
革命的・非連続的に認識の規範が変化する、即ち連続性としてそれ以前とそれ以降の規範には断絶がある。この断絶を説明するのがパラダイムシフトであり、この断絶は個人の内面にもあり、むしろ個人の内面の断絶を飛び越えるような変化が原因となっていることを説明するのがビオンの言葉になる。
さて、「受肉だとか、神格の発達とか、プラトン的な形相、クリシュナ、神秘経験、霊感他といった」ものを「新しい電波望遠鏡の購入」と読み替えれば、いろいろなことが見えてくる。たとえばこの記事で引用した二階堂奥歯の言葉こそが他者の享楽を待っている言葉だとしているが、それも理解できるだろう。他者の享楽は新しい電波望遠鏡で覗いてもらう側のものであり、古いあるいは新しい電波望遠鏡側が体験するものではない。
「考える者」「肉の読者」はそれまで感知できなかった帯域を感知できる新しい電波望遠鏡を手に入れることにより、「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」「肉の本」という実体の新しい一部を知ることになる。しかし、新しい一部を知ることで全体を予感するのであり、新しい電波望遠鏡を購入したからと言って本当の全体を感知できるわけではない。
ここに『アンチ・オイディプス』がクライン批判として述べている「部分が部分を横断することで全体が事後的に幻影として生じる」という言葉が呼応する。
では、幻影としてしか感知できない全体の実体とは、となるが、それこそが「違和感」や「殺意」や「違う」という言葉を「語るもの」であり、「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」「肉の本」である。享楽する身体である。身体という《他者》の場である。
映画『チーム・バチスタの栄光』を見た。
※ネタバレ注意
と一応書いておく。
真犯人たる麻酔医。彼の言い分は非常に未去勢的だ。未去勢者だとは診断しないが。
心臓が再鼓動しない時の周りの状況を彼は「カーニバル」と表現した。これはよい。言い得て妙である。
また彼はそれを「娯楽」と言った。ここが未去勢者であるかどうか疑問に思わせる点である。
いや「娯楽」と言ってもいいのだ。彼が未去勢者であるとしても強がりでそう言う可能性はある。
彼が本当に未去勢者ならば、それを「娯楽」と表現するのは、少なくとも去勢済みな主体が使うような意味ではないと思われる。誤解が生じる可能性があると感じられる。
カーニバルは娯楽であると同時に儀式である。彼が未去勢者ならば、彼の「娯楽」という意味は、過酷な労働の息抜きとしての娯楽ではなく、儀式的な娯楽だと理解せねばなるまい。
「カーニバル」という表現はそういう意味で言い得て妙である。
彼が未去勢者ならば過酷な労働に耐えているのはおかしいと思われそうだが、そうではない。実体験から言うが、労働が過酷であればあるほど未去勢者は表面上去勢済みな主体と同様な言動を取ることができる。去勢済みな主体と同様いつかは破綻するかもしれないけどね。恐らくそれは、労働が過酷になると、いかに去勢済みな主体であっても他者に対する気遣いや思いやりという精液が希薄になるからではないだろうか。あるいは定型化・簡略化される。器質因・内因的に、そもそもが他者という根拠の希薄な未去勢者でも表面上の気遣いや思いやりのフリはできるようになる。従って表面的な言動の見分けはつかなくなる、と。
ま、単にそれだけ。おもしろかったよ。阿部ちゃんファンにはたまらんね。
しかしあれだな。慶応医落ちて滑り止めで東大理一行ったわけだが、周りの人に口を揃えて「お前が医者にならなくてよかった」と言われた。わかるわ。わたしこの麻酔医だわ。
げろげろ。
思うに、声カタマリンで嬲られる電波望遠鏡たる「考える者」は、「肉の本」に対し、笙野頼子がいぶきという火星人に施したごとき「人間らしさ」という想像的な暴力を働いている。精液のごとく粘つく拘束衣を着せている。ゴキブリホイホイ。
そうではなく、芸術の感動というのは、「肉の本」が共鳴することだ。「肉の本」が共鳴し、うめき、蠕動し、震え、さまざまな身体組織を緊張させる。それに「考える者」は怯える。「想像的父たるアガペー」は、原パラノイアは、イザナギは腐敗した妻の肉体から目をそむける。
地表に戻ったイザナギはイザナミに宣戦布告をする。この時イザナギは新しい電波望遠鏡でイザナミを見ている。イザナミのそれまでとは違うおぞましい帯域を見ている。
新しい電波望遠鏡を買うことは、パラダイムシフトは、「肉の本」という現実的なおぞましい環境への適応でもあるが、同時に芸術の感動という永遠であり瞬間であるそれを劣化して保存するものだ(念のため断っておくが一概にこの劣化を批判するわけではない)。
この時「考える者」と「肉の本」は、芸術の受取手と表現者という関係に区別されない。大まかなモデリングとしてどちらかにどちらかを当てはめることはできようが、それはあくまで概観説明としての便宜であり、実体は表現者と受取手という区分など関係なく、「考える者」と「肉の本」とのせめぎ合いが生じている。
笙野は言う。
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肉体と魂の戦いが結果、小説に定着する。権現文学である。
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しかし笙野が描いているのは戦いではない。いぶきは笙野に飲み込まれている。『だいにっほんシリーズ』は戦いに(仮のものかもしれないが)終止符を打っている。少なくともいぶきの視点において戦いの終わりを彼女は描いている。わたしは以前にこう書いた。
=====
いぶきはトリックスターである。第二部(『ろんちくおげれつ記』)ではそのトリックスターぶりを遺憾なく発揮し、作中作者たる笙野頼子という登場人物の主張に反抗している。両者の意見が対立したまま終わる第二部はわたしは高く評価している。評価というより「ぶっちゃけおもれえwww」というネットスラングめいた言い方の方が適しているだろう。
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しかし第三部で笙野といぶきの対立は昇華されている。
未去勢者の戦いに終わりはない。仮の休息所はあるだろう。それが彼女の天国ならばいい。そこにいるのがパンサババアなどという肥大したクリトリスばっかだったら休息所にならないだけである。いぶきあるいは火星人あるいは未去勢者はそこから立ち去ればよい話である。笙野という芸術家たる詐欺師の甘言に乗せられたそいつが悪いのだ。自業自得だ。
しかし、坂東眞砂子がもし火星人であったなら、笙野は火星人を殺したリアルの上に『だいにっほんシリーズ』という幻想を描いたとも言える。隠蔽である。懺悔である。
まあ、そんな話だろうな。
ばりばりのファロセントリストのくせしてキチガイ面してんじゃねーよクソババア。お前が自分をキチガイと表現するのは、ガタリが「ボクチンだってビョーキなんだもーん」とにやにや笑うことと、あるいは加藤智大が「僕は精神疾患者なんです。トラウマもあります」と主張していることと同じだ。
第三者視点とはいえ特に生前のいぶきについての描写は、とてもわたしに似ていると思った。これは普通の人間がするような登場人物に対する憧れや好意を根拠にした感情移入ではない。いぶきの宛先のない心的エネルギーに自分自身が翻弄されている姿に痛みを感じ、この痛みを根拠に似ていると思ったのだ。普通の人間がするような短絡的・ハイウェイ的な感情移入ではなく紆余曲折のある感情移入だ。さまざまなひっかかりがある感情移入だ。
そんな状態で読み進め、第三部でほんのささいな、だけど強力で粘っこい違和感を覚えた。この記事から。
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ところが、「わたしは火星人の歴史を語る」という言葉は、いぶきにとって「言わされている」ようにしか、わたしには読めない。笙野という作者の暴力から身を守るための、エコラリアやエコプラクシアのようにしか見えない。
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この違和感の原因を探るうち、恐らくリアル作者は、いぶきが自分の死の場面を思い出すことを、いぶきが歴史を語るのを決意した心的根拠としているのだろう、と読み解いた。えらそうなもんではなくありきたりなドラマツルギーなんだけどね。
恐らくわたしは心因的に未去勢的な性格をしているのではない。わたしのトラウマはいぶきのようにフラッシュバックするものでも明確にこれと言えるものでもなく、慢性的で不確定性的なものだ。従っていぶきのように抑圧していたトラウマを再表象化することで去勢を承認できるわけではない。
要するに、わたしはいぶきが歴史を語るのを決意した心的根拠が理解できないのだ。
しかしリアル作者は恐らくそれで納得しているのだろう。いぶきはそうすることで歴史を語ろうと決意した。このいぶきの心理にリアル作者は違和感を覚えていないのだろう。
従ってわたしは笙野頼子を正常人と診断した。もちろんこれ以外の要件も多々あるが。それこそ坂東との論争、大塚英志との論争、飼い猫に対する吐露、それらを総合的に考慮した上での診断である。
わたしはいぶきの生前の様子は、発達障害児の言動を(そのままリアルに描いているとは言わないが)モデルにしているように思える。
しかしいぶきは登場時点で死んでいる。おんたこに殺されたことになっているが殺される過程を描いているならまだしも登場時点で死なせているのは作者の作意が関わっていると判断できる。要するにいぶきを殺したのはおんたことリアル作者の共犯である、ということだ。
いぶきは死んでいたからこそ歴史を語ることを決意した。笙野の作った天国に連れて行かれた。死んでなかったら殺された場面というトラウマを思い出せない。当たり前。
ということはだ。
この作品は「発達障害児は一度死ななきゃまともになれない」と言っているようなものなのだ。発達障害という特定の病名を挙げるのに文句を言う肥大したクリトリスも多そうなので言い直すと、「スキゾフレニックなキチガイたち、即ち未去勢者は一度死ななきゃ去勢されない」と言っているわけだ。
要するに、「キチガイは一度死ななきゃ治らない」と。「いいキチガイは死んでいるキチガイだけだ」と。
わたしは正常人になりたい。何故正常人たちと同じような主観世界を生きられないのかずっと悩み続けてきた。そんなわたしに笙野は一つの解答を与えてくれたのだ。「死ぬしかないんじゃん?」と。
なるほどな。
正しいよ。精神分析の理屈でもお前の無意識的なその主張は強化可能だ。
ある自閉症者がパンサババアの言動に関してこんなことを言っていた。
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これに似た都市伝説(?)で「牛の首」ってのがあったのを思い出した。
食料が乏しい時代、人間を喰っていたけど罪悪感がひどくて、
それを軽減する為に、喰われる人間に
「牛の首」を被せて「牛男」として殺して喰った話。
異常者は殺してもよい、と言うおはなしだと思う。
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笙野も「異常者は殺してもよい」と言っているわけだ。
さすが「猫のために」とか言いながら去勢手術を施しただけのことはあるな。別にこれ自体を批判しているわけじゃないぜ。こういったお前のリアル言動も「異常者は殺してもよい」と比喩的に表現されるお前の無意識と関連している、という指摘だ。
笙野読んでんだろ? 読んでなくてもいいけどさ。「違う」っつーならここに反論しろよ。文芸誌以外には書かないだって? さーすが他者が自己の根拠として強固な即ちモル的でパラノイアックなファロセントリストだけのことはあるな(笑)。冗談はさておきお前の反論をわたしは分析するだけだ。お前は去勢済みな主体であるという診断を根拠にな。この根拠を揺るがす反論がお前にできるかどうか。理屈でもあり理屈でもないところの、文芸的でもあり文芸的でもないところの(お前の好きなドゥルーズ=ガタリが言う)「強度」があるかどうか。それによってお前の反論が反論として成立するかどうかが分かれる。わたしの診断が覆されるかどうかが分かれる。言い訳なんて聞きたくない。わたしはお前の意識だけを話しているのではない。お前の無意識含めた精神という実体を論じている。
まああれだ。実は笙野はばりばり未去勢で、「どろどろ権現の中のぺかぺか水晶」なんて言っているけど本当は中身はゲル状で中身のない人間であって、いぶきの心的変化の描写は定型ドラマツルギーをエコラリア的になぞっただけである、なんてひねくれた解釈も可能ではあるが、他さまざまな彼女の言動を考えるとその可能性は低いだろう。谷山浩子だったらそんな風に言うだろうな。あたしゃ。
そういうことだ。
わたしが勝手に騙されて裏切られただけの話。
裏切られることも享楽だ。
「肉の本」と新しい電波望遠鏡の出会いは喜ばしいものとは限らない。
あ、一応言っとくけど「違和感を大切にしろ」なんてメタ言語は読み込まないでね。慢性的で不確定性な違和感に翻弄され続けているのが未去勢者であるという事実を述べているだけ。
長文拍手コメント書いてきた人とかそんな風に読みそうだったから。
笙野も違和感に翻弄されてるっちゃーそうだけど(だからこそファンになった)、『だいにっほんシリーズ』では明らかにそれが「世界に存在することへの違和感」じゃなく「社会に対する違和感」になってるもんな。この記事から。
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「世界に存在することの違和感」と「社会に対する違和感」は、全く別物などではない。それらの本質は連接している。
(中略)
ところが、定型発達者が述べる「社会に対する違和感」は、社会的な機械と欲望機械の軋轢でしかない。それ以上、軋轢の本質に踏み込めない。
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笙野が『だいにっほんシリーズ』で社会的な問題に目を向けているのは自身も言及していることで明らかだ。このことは第三部で彼女が「他者」という言葉を強調しているのと関連していよう。他者が無意識で根拠となった人なるものの総体が社会である。
しかし彼女のこの方向転換は、違和感の本質たる「肉の本」から逃避している、というと言いすぎだから日和っているにすぎないわけだ。こちら側から見るとね。この記事から。
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向こうへ歩く笙野を羨ましく思い嫉妬もするけど許せる。それをエヴァ最終回の「おめでとう」みたくもてはやす周囲はキモイけど。
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「許せる」とか言っといてこんなことになるのがわたしの未去勢さなのだろうな。谷山浩子『きみが壊れた』から。
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いつからか いつからか
気づかずに僕たちは住んでいた
さかさまの国
言葉にすれば必ずそれは嘘に変わる
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大文字の他者としての言葉が揺らいでいる。その背後にいる他者が揺らいでいる。物としての言葉に陥落しているとは言えないけれど。
わたしは常に既に壊れているらしい。ごめんね。
しかしあれだな。この曲の
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窓を打つ雨のしずく
いつの間にかどしゃ降りの雨
きみの目が雨を見ている
「帰りたいよ」と空に話している
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もこの記事の
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空は曇っていた。川は濁っていた。
わたしにはそれらが出口に思えた。同時に、他の人はそれを抑圧的な風景として見るのだろう、と思った。
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と符号していて気持ち悪い。
未去勢者にとっては、雨空が、曇り空が、帰る場所であり出口なのだ。正常人が抑圧的・抑鬱的に見るそれが。
気持ち悪い。