死角
2009/03/16/Mon
一面真っ白な雪景色。
雑木林の横を走る道路。道幅が広くなっているところに車を停める。
わたしの後ろを着いてきた除雪車のような車もわたしの少し後ろに停まる。
わたしは車を降りてそちらを見る。除雪車から男が二人降り車体後部から四角い箱を取り出す。大型のバッテリーみたいなものだと思った。縦九十センチ、横三十センチ、幅二十センチぐらい。
男二人が騒ぎ立てる。誰かに尾行されたらしい。男たちに呼ばれる。大型バッテリーを見張ってろということだろう。
嫌な予感がする。
男たちは帰ってこない気がする。
わたしは大型バッテリーを運ぼうとする。かなり重い。ずるずると引きずりながら雑木林の中に入る。
獣道がある。その横は盆地のようになっている。盆地の斜面にたまたまできた獣道。
わたしは盆地に下りる。木の影になっているところにバッテリーを隠す。雪を被せる。
とりあえず仕事は果たそう、と思う。
盆地の中心部に向かうと、木々は途絶えた。やたら広い広場。湖だ、と思う。足元の雪を掘る。氷が見える。氷の中には子供の死体らしきものがある。いくつもある。
向こうの方に人影が見える。せむし男のような体勢をしている。華奢で小柄だった。薬師さんだと思う。
わたしは逃げる。
わたしの仕事はこの湖にあのバッテリーを沈めることだ。そうすれば薬師さんもわたしたちを追ってきた奴らも消滅する。
しかし湖面の氷は厚そうだ。一メートルぐらいはあるかもしれない。
車に戻って工具を取ってこよう、と思う。
道路に戻る。
わたしが乗ってきた乗用車には、数匹のアナコンダが絡みついていた。めしめしと車体を絞り上げる。
男たちが乗っていた除雪車の方に向かう。車内を探す。工具と手榴弾が見つかる。これで湖面を割れる、と思う。
道路の向こうに明かりが見える。人が来た。追っ手の増援かもしれない。
雑木林に戻る。
獣道に入ってすぐ気づいた。バッテリーを埋めていた場所が掘り返されている。やられた、と思う。
獣道の向こうの方で、自分の体と同じくらいのバッテリーを抱いて歩いている人形が見える。人形は裸だった。中身はわたしに恨みを持つ人間たちの魂が複合したものだと思う。
わたしは猛然と人形に駆け寄る。
人形が振り返る。顔の部分が割れている。中には釣り餌のゴカイのようなものがうじょうじょつまっていた。ぽろぽろとゴカイが漏れている。
わたしはスパナを振り上げる。振り下ろす。
ゴカイがわたしの服に飛び散る。飛び散った瞬間それはどす黒い粘液になった。
頭の砕けた人形の中から、大量の虫が這い出てくる。
バッテリーからもどす黒い粘液が漏れていた。
バッテリーにはわたしの内臓がつまっている、と思う。お弁当箱だ、と思う。
これをこのまま湖に沈めるのか。湖の底なら内臓も機能しないだろう。お弁当を食べてしまうこともないだろう。
だけどわたしはどうすればいいのかわからなかった。
とりあえず手榴弾で湖面を爆破するだけしてみよう、と思った。
バッテリーをわざと置いていった。もう一度盗まれたらあきらめよう、と思った。
あちらこちらに顔の割れた人形が埋まっているように思えた。
要するにイトウさんに嫉妬してるんだろうな。
よく覚えている場所がある。
結構急な勾配の坂道。ある場所から、歩道脇の三十センチ幅ぐらいが水平になり、坂は坂のまま下り続ける。三十センチ幅は斜面舗装になっていく。
学校の帰り道、歩道をそれてこの三十センチ幅を歩いていくのが好きだった。気がつくと歩道との落差は大きなものになっている。この恐怖感がたまらなかった。舗装された斜面を転がり落ちる自分を想像して興奮した。
そこに這いつくばったりした。自分がセメントと一体化したような気分になった。微妙なカーブになっているので、坂の下の人はもちろん坂の上の人もなかなかわたしに気づかない。いわゆる死角だ。ほんのちっぽけな町の死角。
そこには誰もいない。わたしもいない。怖い。体が緊張している。
わたしは今セメントなのだから、落ちても痛くないかもしれない。そんなことを思う。
わたしはそこで、親や友だちや先生など、さまざまな人を呪った。
純粋な殺意は自分自身が物質化してはじめて覚えることができる。
中学校は遠いところで電車・バス通学だった。だから小学生の頃の話だ。
中学生か高校生になって、その場所に行くと、坂の上も宅地開発されていて、死角とは呼べなくなっていた。だからがっかりしたんだな。
自分があるともないとも言えるあるいは言えない人間の居場所がこうやって失われていく。
大航海時代の冒険者たち。違うな。冒険者が踏み込んだ未知の場所を、学者や政治家や移民たちが幻想として存在させていく。世界から死角がなくなっていく。
動物の死骸は死角にあることが多い。人目につく場所で死んでたらすぐ片付けられてしまうからだろうか。
死骸も生きているものもただそうであるだけの物質的な存在としてある場所。
現代社会はそんな場所が少なくなっている。
わたしはネット上でこの死角を作ろうとしているのかもしれない。
そこを訪れた人間は自分があるともないとも言えるあるいは言えない存在になってしまう場所。
そのためにはこの場でもあるわたしは本当の物質にならなければならない。
笙野頼子が言うような器ではない。死角という場。死角なだけだから、入場規制などあるわけがない。
きれいも汚いも、美もケガレも、愛も憎しみも、責任も逃避も、馴れ合いも罵詈雑言も、妄想も現実も、想像界や象徴界も現実界も、ただそうであるだけの物としてある場所。
……2ちゃんだな。今んとこ一番近いのは。
じゃあいいや。好き勝手やる場所で。
イトウさんは薬師さんを幻想的に存在させようとしているかにも見える。わたしはある程度幻想に対し耐性があるからいいんだけど。妖怪村でもそうだろ? 幻想に合意はしていないけど幻想を生きることはある程度ならできる。役者やってたことも大きいんだろうな。
最近のイトウさんは確かにただそうであるだけの物としての自分になりつつあるのだろう。だけどこの領域は鏡像段階(の回帰)だ。欲望のシーソーだ。自分がただそうであるだけの物になろうとしたら、相手のシーソーは上がる。幻想的に存在させてしまう。
まんこちゃんもそうだったけど、自分を幻想として存在させなくしようとして、キチガイな薬師さんを祭り上げるわけだな。しかしそれは薬師さんというキチガイを正常化させることでもある。
わたしにもそういう奴いたよ。かべどんなんかも乱暴に分類すればそっち側だな。幻想的な自分を殺すためにわたしの手下になって、むしろわたしを利用しようとする。別にそれはそれでいいんだけどね。わたしは。一対一ならまだ対応できる。シーソーから下りられる。社会になるとそのシーソーから下りても違うシーソーに乗ってたりするからね。かと言って自分が下になるような、わたしの狂気を増幅させるような飲茶曰く無自覚権力志向型定型人みたいな奴にも唾を吐く。自分を奉ろうが自分を陥れようがどちらでも唾を吐く、ということだ。わたしは。
傍から見てる分にはお前みたいなのはいいんだよ。オーケンとか石川啄木みたいな。自分から狂気に落ちようとする人間。
ただそういう奴が自分に関わってくると、鏡像段階の機制が働く。無意識的に欲望のシーソーに乗ってしまう。お互い。そいつらが退行していればしているほどこの機制は強く働く。
薬師さんとイトウさん二人が見知りあい会話したせいで、お互いがシーソーに乗っていることが確定化されてったわけだ。まだわたしブログにはまる以前のイトウさんならイトウさんにとってシーソーにならんかったかもしれんが、いろいろあって退行してってるもんな、お前。だから薬師さんはシーソーから下りた。そういうことじゃね?
じゃあどうすればいいのかって? シラネエ。シーソーに乗らないって自分じゃどうにもなんねえからな。わたしは笙野頼子という相手のいないシーソーに乗っていたりするし、某チャットではわたしのいない間にわたしとシーソーに乗ろうとする奴(要するに退行的な陰口を叩いている奴)もいるだろ? 笙野頼子は別に日常的な常識としてはわたしに関与しているわけではない。しかしわたしにとっては彼女の精神という実体はわたしに関与している。某チャットでわたしを叩いている奴も、実際にわたしに叩かれたことがある奴もいるかもしれんが、そうじゃない奴もいるだろう。某ラノベ評論でどっかのチャットに晒されたようにな。そうじゃない奴にとっては、いくらわたしが日常的な常識として関与していなくとも、わたしなるものが関与している。
わたしも薬師さんに精液をぶっかけたくなる時がある(彼に直に言ったことがある)。彼を正常化させてしまうかもしれない態度を取りたくなる時がある。だからわたしもいつ拒否されるかわからない。もしかしたらわたしが拒否するようになるかもしれない。
拒否以前の問題として、そうしたらわたしが観察したい薬師さんじゃなくなることが問題だ。不確定性原理みたいなものだ。観測するという行為自体が既に観測対象への介入となる。
だからどうにもできない。困難な観察だ。
この困難さの自覚が足りなかったんじゃね? 不快を我慢するぐらいにしか考えてなかったんじゃね?
まあどうでもいいけどさ。
雑木林の横を走る道路。道幅が広くなっているところに車を停める。
わたしの後ろを着いてきた除雪車のような車もわたしの少し後ろに停まる。
わたしは車を降りてそちらを見る。除雪車から男が二人降り車体後部から四角い箱を取り出す。大型のバッテリーみたいなものだと思った。縦九十センチ、横三十センチ、幅二十センチぐらい。
男二人が騒ぎ立てる。誰かに尾行されたらしい。男たちに呼ばれる。大型バッテリーを見張ってろということだろう。
嫌な予感がする。
男たちは帰ってこない気がする。
わたしは大型バッテリーを運ぼうとする。かなり重い。ずるずると引きずりながら雑木林の中に入る。
獣道がある。その横は盆地のようになっている。盆地の斜面にたまたまできた獣道。
わたしは盆地に下りる。木の影になっているところにバッテリーを隠す。雪を被せる。
とりあえず仕事は果たそう、と思う。
盆地の中心部に向かうと、木々は途絶えた。やたら広い広場。湖だ、と思う。足元の雪を掘る。氷が見える。氷の中には子供の死体らしきものがある。いくつもある。
向こうの方に人影が見える。せむし男のような体勢をしている。華奢で小柄だった。薬師さんだと思う。
わたしは逃げる。
わたしの仕事はこの湖にあのバッテリーを沈めることだ。そうすれば薬師さんもわたしたちを追ってきた奴らも消滅する。
しかし湖面の氷は厚そうだ。一メートルぐらいはあるかもしれない。
車に戻って工具を取ってこよう、と思う。
道路に戻る。
わたしが乗ってきた乗用車には、数匹のアナコンダが絡みついていた。めしめしと車体を絞り上げる。
男たちが乗っていた除雪車の方に向かう。車内を探す。工具と手榴弾が見つかる。これで湖面を割れる、と思う。
道路の向こうに明かりが見える。人が来た。追っ手の増援かもしれない。
雑木林に戻る。
獣道に入ってすぐ気づいた。バッテリーを埋めていた場所が掘り返されている。やられた、と思う。
獣道の向こうの方で、自分の体と同じくらいのバッテリーを抱いて歩いている人形が見える。人形は裸だった。中身はわたしに恨みを持つ人間たちの魂が複合したものだと思う。
わたしは猛然と人形に駆け寄る。
人形が振り返る。顔の部分が割れている。中には釣り餌のゴカイのようなものがうじょうじょつまっていた。ぽろぽろとゴカイが漏れている。
わたしはスパナを振り上げる。振り下ろす。
ゴカイがわたしの服に飛び散る。飛び散った瞬間それはどす黒い粘液になった。
頭の砕けた人形の中から、大量の虫が這い出てくる。
バッテリーからもどす黒い粘液が漏れていた。
バッテリーにはわたしの内臓がつまっている、と思う。お弁当箱だ、と思う。
これをこのまま湖に沈めるのか。湖の底なら内臓も機能しないだろう。お弁当を食べてしまうこともないだろう。
だけどわたしはどうすればいいのかわからなかった。
とりあえず手榴弾で湖面を爆破するだけしてみよう、と思った。
バッテリーをわざと置いていった。もう一度盗まれたらあきらめよう、と思った。
あちらこちらに顔の割れた人形が埋まっているように思えた。
要するにイトウさんに嫉妬してるんだろうな。
よく覚えている場所がある。
結構急な勾配の坂道。ある場所から、歩道脇の三十センチ幅ぐらいが水平になり、坂は坂のまま下り続ける。三十センチ幅は斜面舗装になっていく。
学校の帰り道、歩道をそれてこの三十センチ幅を歩いていくのが好きだった。気がつくと歩道との落差は大きなものになっている。この恐怖感がたまらなかった。舗装された斜面を転がり落ちる自分を想像して興奮した。
そこに這いつくばったりした。自分がセメントと一体化したような気分になった。微妙なカーブになっているので、坂の下の人はもちろん坂の上の人もなかなかわたしに気づかない。いわゆる死角だ。ほんのちっぽけな町の死角。
そこには誰もいない。わたしもいない。怖い。体が緊張している。
わたしは今セメントなのだから、落ちても痛くないかもしれない。そんなことを思う。
わたしはそこで、親や友だちや先生など、さまざまな人を呪った。
純粋な殺意は自分自身が物質化してはじめて覚えることができる。
中学校は遠いところで電車・バス通学だった。だから小学生の頃の話だ。
中学生か高校生になって、その場所に行くと、坂の上も宅地開発されていて、死角とは呼べなくなっていた。だからがっかりしたんだな。
自分があるともないとも言えるあるいは言えない人間の居場所がこうやって失われていく。
大航海時代の冒険者たち。違うな。冒険者が踏み込んだ未知の場所を、学者や政治家や移民たちが幻想として存在させていく。世界から死角がなくなっていく。
動物の死骸は死角にあることが多い。人目につく場所で死んでたらすぐ片付けられてしまうからだろうか。
死骸も生きているものもただそうであるだけの物質的な存在としてある場所。
現代社会はそんな場所が少なくなっている。
わたしはネット上でこの死角を作ろうとしているのかもしれない。
そこを訪れた人間は自分があるともないとも言えるあるいは言えない存在になってしまう場所。
そのためにはこの場でもあるわたしは本当の物質にならなければならない。
笙野頼子が言うような器ではない。死角という場。死角なだけだから、入場規制などあるわけがない。
きれいも汚いも、美もケガレも、愛も憎しみも、責任も逃避も、馴れ合いも罵詈雑言も、妄想も現実も、想像界や象徴界も現実界も、ただそうであるだけの物としてある場所。
……2ちゃんだな。今んとこ一番近いのは。
じゃあいいや。好き勝手やる場所で。
イトウさんは薬師さんを幻想的に存在させようとしているかにも見える。わたしはある程度幻想に対し耐性があるからいいんだけど。妖怪村でもそうだろ? 幻想に合意はしていないけど幻想を生きることはある程度ならできる。役者やってたことも大きいんだろうな。
最近のイトウさんは確かにただそうであるだけの物としての自分になりつつあるのだろう。だけどこの領域は鏡像段階(の回帰)だ。欲望のシーソーだ。自分がただそうであるだけの物になろうとしたら、相手のシーソーは上がる。幻想的に存在させてしまう。
まんこちゃんもそうだったけど、自分を幻想として存在させなくしようとして、キチガイな薬師さんを祭り上げるわけだな。しかしそれは薬師さんというキチガイを正常化させることでもある。
わたしにもそういう奴いたよ。かべどんなんかも乱暴に分類すればそっち側だな。幻想的な自分を殺すためにわたしの手下になって、むしろわたしを利用しようとする。別にそれはそれでいいんだけどね。わたしは。一対一ならまだ対応できる。シーソーから下りられる。社会になるとそのシーソーから下りても違うシーソーに乗ってたりするからね。かと言って自分が下になるような、わたしの狂気を増幅させるような飲茶曰く無自覚権力志向型定型人みたいな奴にも唾を吐く。自分を奉ろうが自分を陥れようがどちらでも唾を吐く、ということだ。わたしは。
傍から見てる分にはお前みたいなのはいいんだよ。オーケンとか石川啄木みたいな。自分から狂気に落ちようとする人間。
ただそういう奴が自分に関わってくると、鏡像段階の機制が働く。無意識的に欲望のシーソーに乗ってしまう。お互い。そいつらが退行していればしているほどこの機制は強く働く。
薬師さんとイトウさん二人が見知りあい会話したせいで、お互いがシーソーに乗っていることが確定化されてったわけだ。まだわたしブログにはまる以前のイトウさんならイトウさんにとってシーソーにならんかったかもしれんが、いろいろあって退行してってるもんな、お前。だから薬師さんはシーソーから下りた。そういうことじゃね?
じゃあどうすればいいのかって? シラネエ。シーソーに乗らないって自分じゃどうにもなんねえからな。わたしは笙野頼子という相手のいないシーソーに乗っていたりするし、某チャットではわたしのいない間にわたしとシーソーに乗ろうとする奴(要するに退行的な陰口を叩いている奴)もいるだろ? 笙野頼子は別に日常的な常識としてはわたしに関与しているわけではない。しかしわたしにとっては彼女の精神という実体はわたしに関与している。某チャットでわたしを叩いている奴も、実際にわたしに叩かれたことがある奴もいるかもしれんが、そうじゃない奴もいるだろう。某ラノベ評論でどっかのチャットに晒されたようにな。そうじゃない奴にとっては、いくらわたしが日常的な常識として関与していなくとも、わたしなるものが関与している。
わたしも薬師さんに精液をぶっかけたくなる時がある(彼に直に言ったことがある)。彼を正常化させてしまうかもしれない態度を取りたくなる時がある。だからわたしもいつ拒否されるかわからない。もしかしたらわたしが拒否するようになるかもしれない。
拒否以前の問題として、そうしたらわたしが観察したい薬師さんじゃなくなることが問題だ。不確定性原理みたいなものだ。観測するという行為自体が既に観測対象への介入となる。
だからどうにもできない。困難な観察だ。
この困難さの自覚が足りなかったんじゃね? 不快を我慢するぐらいにしか考えてなかったんじゃね?
まあどうでもいいけどさ。