2009/03/17/Tue
この記事に対する違和感の要約。
彼が述べているのは「「身体という《他者》の場」「肉の本」が寄生されることの享楽」ではなく「「考える者」という「受信者でしかない」「われわれ」が寄生することの快楽」である。従って他者の享楽ではない。彼の無意識がファルス的享楽の上に性的関係を取り込んでいるにすぎない。
以下雑感。
わたしはクラインでもクリステヴァでもない。おそらく彼女たちは去勢されている。去勢済みな主体である。彼女たちの論は、部分は道具として非常に有効であるが、そこから導き出された結論に違和感がある。たとえばクリステヴァの
『初めに愛があった』という言葉には違和感を覚える。
断片の世界を、寸断された身体が生きる世界を見事に説明しているにも関わらず、彼女たちは統合された型通りのメタ言語を結論にしている。
今まで未去勢的な素質のある人間が精神分析という道具を利用しなかったのだろうか?
未去勢者が精神分析という道具を手に入れると、これほど去勢済みな主体たちを切り刻むのによいメスはないわけだから、まさにキチガイに刃物となって、そういった言説はなかったことにされるのであろう。
歴史は正常人たちに合意されなければ残らない。未去勢者たちの、火星人たちの歴史は残らない。何故なら快楽原則が正常に働いている正常人たちにとって、それは不快なものだからだ。ケガレだからだ。
そんなに難しい話をしているわけではない。キチガイの言説など取るに足らぬものだと棄却されるということだ。日常でもそのようなシーンはよくあるだろう。
小学生低学年の頃だったと思う。近所のスーパーでイベントがあった。スーパーの店員のお兄さんがわたしに優しくしてくれた。食べ物か何かをくれたりしたのだと思う。わたしは図にのって彼につきまとった。いろいろなことを喋った。お兄さんは仕事にならず困っていたのだろう。他のお兄さんがやってきた。他のお兄さんがわたしに構う。優しいお兄さんが彼を止める。優しいお兄さんは苦笑しながら自分の頭を人差し指で指し、くるくる回した。
いくら小学生のわたしでも彼らのやり取りがどういうものか理解できた。優しいお兄さんはわたしをキチガイだと考えていた。他のお兄さんにそれを伝え、あまり相手にするな、と言ったわけだ。
後に死ぬほど恥ずかしい記憶としてよく思い出す記憶となった。
キチガイの言説など取るに足らぬものだという判断は、このお兄さんと同じ考えに則している。
お兄さんはなんらかの気持ち悪さをわたしに感じたのだろう。ただつきまとって仕事にならないだけならそんなようなサインを示すわけがない。
あの頃からわたしの本性はあまり変わっていない。あまり成長していない。成長していないから思い出したくもない記憶がすぐ甦る。優しくされるとすぐつけあがる。優しくしてくれた相手が不快を感じているのに気づかないままつきまとう。我慢ならなくなった相手は不快に思った心的事実をアクティングアウトする。中島みゆきが歌いそうなシチュエーションだ。
『泥は降りしきる』とか近いかな。相手は他の女に移っただけで主人公を不快に思っていたかどうかは明らかではないが。
『片想』も近いかな。
=====
「一度やそこらの優しさでつけあがられるのはとても迷惑なんだ」
=====
そう言う立場にならなくてはこの性格は直らない。あのお兄さんみたいな人間にならなくてはこの性格は直らない。わたしの本性を棄却する立場にならなければわたしは大人になれない。
死にたい。
優しさは全て嘘。嘘だから好きなの。幻想だから好きなの。
快楽原則は、間主観的自己感において他者(多くの場合養育者となる)の「快/不快」という二元論で構成された情動を模倣し、それを共有することで刷り込まれる。幼児は他者を根拠に感情の定型を学んでいく。
優しくしてきた男の感情をわたしは推し量る。駆け引きに身を浸す。少しずつ不快を覚えさせ、どの辺りがリミッターなのか調査する。
このリミッターを調査する手間を踏まなくてよいのが正常人なのだと思う。彼らの無意識はリミッターが定型的にどの辺りにあるか判断できる。自らの無意識が定型に納まっているわけだからできて当然のことなのだろう。わたしはこの判断が無意識になっていない。わたしの無意識は定型からこぼれている。従っていちいち調査しなければならない。相手を解剖しなくてはならない。
わたしのこの態度は人から悪意と呼ばれるものである。
=====
やだなぁ これじゃまるで なんか悪気みたい
=====
リミッターを知らないだけ。定型を知らないだけ。わたしがやりくりしている工夫をあなたが悪意と思っているだけ。
悪意でいいの。言葉なんてそういうもの。だからわたしはこう言う。
「物自体とは悪意である」と。
「空観とは悪意の総体論である」と。余談だが、ある思想に新しい考えを付加させず述べたら「コピーじゃねえか」と言われ、新しい考えを付加させたらさせたで「原本と符号しないので間違っている」と言われる。わたしはそう言われ続けてきた。要するにこれらは快楽原則が正常な正常人たちがわたしの未去勢的な主観世界という不快を棄却する言い訳にすぎない。
物質的なわたしのやりくりはあなたたちにとって棄却すべき悪意。それでいい。わたしは別に否定しない。悪意と面と向かって言われることはほとんどないけど、悪意と思っているあなたたちの反応は認知できるから。
わたしという物質は悪意。リミッターや定型に支配されているあなたたちという正常な精神から見れば悪意。あなたが悪意と思っている事実にわたしはすがりつく。たとえあなたたちが自分でする悪意とは違う悪意であっても。これがわたしのシニフィアンス。
わたしがわたしである意味。
わたしが生きる理由。
他人から悪意と呼ばれる物質であることを認めること。
悪意であること。
悪意を演じること。
それがわたしの生きる意味。
演技だから。嘘だから。ほら笑っているでしょう?
嘘が好きだから、嘘をつかせてくれるあなたと一緒にいた。なのに泥は降りしきる。だから、か。
わたしのいない時、あなたがわたしを説明するのに頭に人差し指を立ててくるくる回していても構わない。わたしといる時は嘘をついてくれるから。嘘をつかせてくれるから。
わたしはあの頃から成長していない。だから嘘をついて欲しいの。嘘を教えて欲しいの。
無意識が嘘をつけるようになるまで。
追記。
イトウさんブログ(またかよ)で自分が書いたコメントがおもしろいなーと思ったのでリンクしとく。
ここね。「シニフィアンスと学習2は別物だ」
いーねー。さすがわたし。
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2009-03-17 火 01:54:16 / / /
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>って自分の本意とは違うことをすることですか?
本意というか、自分の本性は自分でも不快に思えるものだから嘘をつく。現実界はしかめっ面をしているから象徴界や想像界という嘘を正常人は生きている。わたしは正常人になりたい、と同義です。
ちなみに「本意」も嘘です。わたしの嘘ではないものは意味ではありません。
2009-03-17 火 02:01:52 /
URL /脂 /
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>私が本当にやりたいことはこんなんじゃないんだけど、
あなたは「本当」をわかっていない。現実界をわかっていない。
本性に自分は翻弄される。生まれたばかりの赤ん坊は宛先のない心的エネルギーに翻弄されている。
本当の「本当」はあなたが思うようないいものではない。だからわたしは本性と言うようにしている。
それはそれこそしかめっ面をしている。
2009-03-17 火 02:03:58 /
URL /脂 /
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>違う違う違う、
>って引っ掛かりながらもそうしてしまう、
>どうやっても「違う」ことしかできないから、
>だからそれを事後的に「嘘」だと表現しているのですか?
意味がわからない。お前違和感にひっかかりながら生きたことないだろ。そんな状態を長く生きていると本当にレイプされまくって暴力振るわれまくった状態になる。
何もかもが違和感なんだぜ? そりゃーくたびれるさ。死んだも同然になるさ。
2009-03-17 火 02:07:28 /
URL /脂 /
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>だとしたら、あなたの嘘は、
>部分的には彼の嘘と同質なのかもしれませんが、
>違う違う違う違う違う、っていう風に嘘を連ねてしまうのだとしたら、そういう意味では、
>あなたの嘘と彼の嘘とは違います。
お前ほどわたしの文章が読めない人間は久しぶりだ。まあ最近未去勢っぽいのばっかと付き合ってるからそう思うのか。
お前がこの文章に対してした解釈こそが嘘だ。「本意」は嘘だ。
「違う違う違う違う」を常態として生きている主観世界こそが現実界に親近している。それが本当だ。
それは苦しい。レイプされまくって暴力振るわれまくった状態になる。
だからお前みたいに他人の話を自分に都合よく曲解できる人間になりたい、無意識的に嘘をつける人間になりたい、という話だ。
だけどそう簡単になれないから困ったもんだネー、つーこと。
2009-03-17 火 02:10:33 /
URL /脂 /
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続き書こうとしたけどあなたがラカン知ってるかどうかで書き方変えた方がよさそうだなと思ってめんどくさくなったのでやめた。
2009-03-17 火 02:15:33 /
URL /脂 /
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あれだな、おそらく
わたし「違う、本当じゃない」
お前「じゃあ本当は?」
って話になってるんだな。
「違う違う違う違う」を生きていることが、違和感を感じ続けながら生きている主観世界が現実感の根源だ。つまりそれを本当と思い込ませる裏打ちの源泉だ。それが到達不可能な現実界なるもの。
「違う」から別の場所に「本当」があるのではなく、「違う違う違う違う」と言い続ける状態が本当というわけ。って「本当」って語感自体が違うよな。わたしこの記事で「本当」なんて言葉使ってねえじゃねえか。
2009-03-17 火 02:24:45 /
URL /脂 /
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「違う」って言ったら「本当」を提出しなきゃいけなくなることが既に幻想の罠だわな。
2009-03-17 火 02:27:35 /
URL /脂 /
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ああ全文掲載して実際に嘘に苦しまされて常時違和感を感じ続けレイプされまくって暴力振るわれまくっている状態の未去勢者たちに見せてやりたいわ。
苦しいから嘘をつけるようになりたい。無意識的に。そうすれば楽に生きていけそう。実際周りの人間はそう生きている。楽に生きているように見える。
即ち正常人になりたい。お前みたいな人間に。本当の「本当」が苦痛に塗れていることを忘れてしまったような人間に。
だけどなれない。
それだけの話。
2009-03-17 火 02:38:36 /
URL /脂 /
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「やりたいこと」とか「本意」とかそんなんを「本当」だと考えているうちは本当の「本当」はわからんよ。
現実界は感知できない。
「本当」こそが嘘だ。そういう主観世界が現実界(に親近した主観世界)。
生の欲動もありーの死の欲動もありーのな世界。
2009-03-17 火 02:44:16 /
URL /脂 /
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こんな風にわたしの「世界に存在することへの違和感」は改竄される。改竄され続けてきた。わたしはレイプされまくって暴力振るわれまくってきた。実際恋愛もそんなの多かったしな。
だからこんな過剰防衛と思われるような反応をする。
普通はしねえよ。ただこのブログ読者ならこのぐらいわかってるだろーと思っていたのでそうしてしまったのか。シラネエが。
本当の「本当」は苦痛に塗れている。正常人の快楽原則による「快/不快」には分別されきれない刺激。刺激って言葉なら快も不快も関係ないから好んで使っている。
刺激を刺激としてそのまま感知するのが「器官なき身体」だ。器官は既に刺激を取捨選択しているからな。
たとえばどっかでも書いたが「鏡を見る」となると普通の人は自分の姿を見る。鏡の表面についている埃やそれ以外の像などという視覚刺激を棄却している。無意識的に。
こういったただそうであるだけの無差別で(正常人と比して数的に)過剰な刺激たちに翻弄されている。だから苦痛になる。だから病気や障害と呼ばれている。未去勢者たちは。たとえば自閉症の幼児によく見られるパニックやフリーズはこの数的に過剰な刺激に翻弄されていることのアクティングアウトになろうな。
正常人だって似たようなことあるだろ? いっせいに多数の人間からやいのやいの言われたら「あーうるせえ!」ってなるだろ? あれみたいなもんだ。
こういう状態そのものが不快なのだ。だから正常人はそうである状態を棄却する。器官なき身体を棄却する。棄却して正常人となれる。無意識的な耐性を備えて、即ち刺激を劣化して生きていける。
だから嘘をつきたい。耐性が欲しい。ただそうであるだけの刺激を劣化したい。器官なき身体を棄却したい。
だけどなれない。
そんな単純な話。
2009-03-17 火 02:57:32 /
URL /脂 /
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>こういったただそうであるだけの無差別で(正常人と比して数的に)過剰な刺激たちに翻弄されている。
はリンク先記事の「このあふれかえる過剰な享楽が」って言葉に当てはまるだろうな。「アレンジメント」って言葉にはひっかかるが。アレンジメントできるならそれは他者の享楽じゃなくてファルス的享楽(あるいは快楽)だろう、とは思う。
2009-03-17 火 03:07:05 /
URL /脂 /
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もの凄くヘビ~な人生ですね~。
Wikipediaによると
女を騙した蛇はサタンだそうです。
サヴァ・イヴ。それだけ~。
2009-03-17 火 03:09:55 /URL /サダマラヌモリ /
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本当の「本当」が、「あふれかえる過剰な享楽」が苦痛だから(享楽とは快や不快で割り切れるものではない。快楽とは別物)嘘をつきたい、って単純な話が何故理解できないのかが理解できない。
だからお前は本当の「本当」を、現実界を知らない、とわたしは判断したわけだ。
即ちばりばり正常人=ファロセントリスト(ファルスがあるのが正常人=神経症者)だとね。
2009-03-17 火 03:10:18 /
URL /脂 /
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ヘビーだけに蛇か。
「サ・ヴァイブ」の方がこのIPの人らしいと思った。
2009-03-17 火 03:11:45 /
URL /脂 /
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サ・ムイですかね。サムライの末裔。
洒落だけ~。
2009-03-17 火 03:21:05 /URL /サダマラヌモリ /
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あれだな。非公開コメの人はある自閉症者のブログに「偽悪でやっているように見える」とコメントしてきた奴と同じ思考回路しているんだろうな。
善悪の分別がよくわからない主観世界をそのまま述べているだけなのに。善悪という分別自体が未去勢者にとって幻想=嘘なわけだが、「偽悪」という幻想に幻想を、嘘に嘘を重ねたものとして解釈される。
幻想を生きられないから、嘘を無意識的につけないから苦痛に塗れた主観世界を生きているというのに、幻想あるいは嘘の達人のごとき姿を見出される。
「偽悪」って要するに性善説を根拠にしているわけだが、こいつのコメントにおける「「本当」はいいものだ」という無意識的根拠に相当するんだろうな。
2009-03-17 火 03:26:03 /
URL /脂 /
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嘘の反対は本当になるからおかしくなるんだな。幻想の反対は現実。
幻想=嘘なのに。
2009-03-17 火 03:29:18 /
URL /脂 /
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2009-03-17 火 04:49:22 / / /
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なんかさらにひっかかるけどそれを言葉にしたいけど言わない。言わないという嘘をつきます。
他者という快楽のためにね。
っていうかそうこられたら混乱した文章にしかならねえよ。読者もわけわからんだろうし。
2009-03-17 火 05:16:35 /
URL /脂 /
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>子供の頃よくついていた意味のない嘘
ってとこだけ。
それって要するに自閉症研究における「ごっこ遊び」だよなあ、と思った。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-286.html
ごっこ遊びって嘘なわけじゃん。そこにはないお皿をあるとする嘘をつく。
正常な幼児は意味もなくごっこ遊びをする。自然発生的に、と言っていいほど。
そこに言及するのはセンスはあると思うぜ。比較対象がなんなのかしらんが。
もう一歩落ちれば(ry。
アスペルガー症候群者ががんばって社会性を身につけようとするのは、大人になってもごっこ遊びがうまくできないのに、無理してそれをやろうとしていることと言い換えられる、と思った。
2009-03-17 火 05:25:08 /
URL /脂 /
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>優しいお兄さんは自分の指で頭を指してくるくる
ぇー。
ただのあるあるネタじゃないですか。
みんなこういう経験あるけど、がんばって克服しているんだー
だから私もがんばろー
って思ってたけど
コメントのやりとりみてたら違うんだなぁと思って苦しくなった。
2009-03-17 火 07:00:02 /URL /● /
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>ただのあるあるネタじゃないですか。
すまん、意味がわからん。
2009-03-17 火 07:09:11 /
URL /脂 /
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んー?
「こういうクルクルパーな子結構いるよなー」って「あるある」?
ごめん本当にわからない。ご教授おね。
2009-03-17 火 07:15:08 /
URL /脂 /
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読んで字のごとくなのですが…
ある種の経験をある集団の全ての人が経験していることを前提として成立するギャグ=あるあるネタ
お前頭おかしいんじゃねーの?
って直接的にしろ間接的にしろ言われる経験って、したことある人は何度もしてるけど、経験したことない奴は一度もないんだよなぁ
って言うつもりで書きました。
書けば書くほど日本語が不自由ですみません。
鍵コメの人はそういう経験ない奴か、あるけど自分の中で上手く消化したと思い込んでたのに思い出して不快になってるかどっちかじゃないかと思った。読んでないから分かんないけど。
ちなみに私は後者です。
って言うか単に
「あるあるあるwww」
って書けば良かったのか。
2009-03-17 火 08:12:24 /URL /● /
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おうおう、このエピソード自体が、って話な。お兄さんがあるあるネタでやっているって話かと思ったわ。
つかあたし書いてんじゃんよw
>日常でもそのようなシーンはよくあるだろう。
消化するってのは要するにトラウマのマンネリ化なんだろうな。正統な精神分析治療。
そういう意味ではわたしは消化できてない。抑圧している(無意識に押し込む=忘れている)わけでもない。よく思い出すもん。そう言われた時(とは言えないが)の苦痛を伴って。
「トラウマの回帰(フラッシュバックな)は過去の現在化である」というわたしの言葉はそういう意味。それはアルバムを開くように「あんな時代もあったねと」愛でるようなものじゃない。「あるあるw」と笑えるような記憶じゃない。少なくともわたしにとって。現在進行形だ。似たような身体反応が生じるシチュが今でもよくあるし。パンサババアとか某神経症者の取り巻きメスがわたしを「病気」だとか「キチガイ」だとか言ったが、その時の身体反応はこの記憶を惹起した時のそれとほぼ同じだ。
この一つだけじゃないんだよな。だからわたしのトラウマは原義のそれじゃないって意味で不確定性トラウマだとか言ってる。
>鍵コメの人は
いや、そのしとはこのエピソードになんも言及しとらんよ。
2009-03-17 火 08:29:33 /
URL /脂 /
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つか
>日常でもそのようなシーンはよくあるだろう。
って認識はしてるのに、つまり「あるある」とは思っているのに「w」がつけられない。
むしろ何故「あるある」になったら「w」がつけられるのか。「あんな時代もあったねと」笑えるのか。何故トラウマを再表象化して他者と共有したら癒されるのか。それがよくわからない。
「二人いれば苦しみは半分になる」っていうのがわからない、ってことか。「違う」とは思うが否認ではなく本当に理解できないから、少なくともわたしは本当に違うから「違う」と思うのだよなあ。
2009-03-17 火 08:33:20 /
URL /脂 /
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中学の頃、私は学年全体にうっすら馬鹿にされて嫌われていたんだが、
毎朝ゲタ箱で挨拶して下さった女子がいたんだわ。
美人で賢そうで、いかにも「博愛」に満ちてる感じだった。
嬉しくなってある時、昼食を一緒に食べようと誘ったら、
その日から拒否されたさ。
あんなに優しい美人に嫌われるような事をしたのかと自分を責めました。
でも違うんだなぁ。
あいつらの「博愛」って
おっさんが使う「男いないんだろ。やってやっただけありがたいと思え」って言うのとそっくりだなって思った。
与えれば良いと本気で思ってんだよな。
ふざけんじゃねぇよ。
きっと今更こんな話しても、
「えー。そんな事あったっけ。ごめんねー。でも、皆なかよかったよね」
とか言うんだろうな。
ってボヤき。
2009-03-17 火 08:49:09 /URL /● /
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自分のブログで(ry
2009-03-17 火 08:52:00 /
URL /脂 /
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私にとって、あるあるの後にwは諸刃の剣だわ。
何か減る。何か分からんが。
だから無意識的に回避して「あるあるネタ」って表現したのかもだぁ。
無意識って便利。
鍵コメについては大きな勘違いでした。申し訳ないです。
2009-03-17 火 08:57:35 /URL /● /
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>鍵コメについては大きな勘違いでした。申し訳ないです。
二回目のコメントで謝ってきたりと人格者っぽい感じするから別に謝る必要はないかと。そこそこラカン知ってそうだし。
「誤解されたくなけりゃ鍵コメなんかすんな」ぐらい言っていいよ。他人事として。
2009-03-17 火 09:03:30 /
URL /脂 /
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>あいつらの「博愛」って
おっさんが使う「男いないんだろ。やってやっただけありがたいと思え」って言うのとそっくりだなって思った。
与えれば良いと本気で思ってんだよな。
ふざけんじゃねぇよ。
きっと今更こんな話しても、
「えー。そんな事あったっけ。ごめんねー。でも、皆なかよかったよね」
とか言うんだろうな。
これは非常によく理解できます。
同じような理由で
「かわいそう~」
とよく連発する人は嫌悪感を覚えます(特に女性がこれ連発する人が多いのですが)。
私が昔予備校に行っていたときに教わっていた古文の先生がこんなことを言っていました。
「僕はかわいそうという言葉が嫌いです、なぜならそれを言う時点で対象の相手より自分が優位だと思っているからです。だから僕はどんなにその状況にある種の同情を抱いても相手にその言葉を使いません」
古文自体はぜんぜん覚えられませんでしたが、この言葉自体はまさにそのとおりだと思ったので、20年以上たった今でも記憶の中に残っています。
「え~、かわいそう~」という言葉を連発する人大多数の人は
「かわいそうと思える自分の優位性に酔っている」
であり、その優位性を他者を共有し認識しあうことでさらにその優位性の強固さを確認しているだけではないかと思います。
もちろん、本当に「かわいそう」とか「惨め」とか「哀れ」とかそのような言葉しかもう便宜上該当しないケースもあるので、その場合は私もその言葉は使いますが、上記例のような使い方は社会生活を生き抜く上でどうしても周りに同調しなければいけないときには使いますが、それ以外は無いです。
「こんなやさしさを他人に与えられる私ってなんて余裕があるのかしら」
という偽善が小さいころからどうしても垣間見えてしまう言葉なので、私自身は連発する人間には不信感を抱きます。
2009-03-17 火 23:18:35 /URL /さかい /
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さかい様へ
私は意図的に「かわいそう」とかそれに準ずる表現を避けている人にも違和感を覚えます。
かわいそうと思っている自分を抑制している自分が好きなだけじゃないかと思います。
そういう人は「同じ人間だもの」という言い訳が大好きだったりします。
同情の構造が複雑になっただけで同じものでは無いでしょうか。
あと、私はかわいそうな人って言うのは頭の悪い奴(知能の問題じゃなくて知恵の使い方が下手で要領を得ない)の事だと思います。
2009-03-18 水 00:21:39 /URL /● /
編集
なるほど。
意図的に抑制しすぎるのも構造的には確かに同等でしょうか。
私自身が「かわいそう」という言葉を使うときは、深刻度が低い場合、たとえば一緒にお弁当食べていた友達が隣にいた別の友達に最後までとっておいたお気に入りのおかずを持っていかれたとき
「あんた、それかわいそうだよ~!」
とつっこむ、あまりにくだらない例であるのは重々承知ですが、そのくらい深刻で無いときは使います。
むしろそれ以外のときは慎重にその状況に対して言葉を選ぶと思います。
>そういう人は「同じ人間だもの」という言い訳が大好きだったりします。
これはちょっと分かりづらいです。
同じ人間だからかわいそうだと思ってはいけないということなのでしょうか?
確かに私も前述の塾の先生の「使わない」に関しては違和感(なにもそこまで)と思いました。
2009-03-18 水 00:53:56 /URL /さかい /
編集
余談なのでスルー推奨。
>意図的に抑制
ジャーゴンで言うなら否認だわな。否認=自分はそうであると認めていること、って奴。
そんな難しいことじゃなく、マンガとかでよくあるシーンなら、ムキになって反論する少年に向かっておねいさんが「なんだ、図星だったんじゃん」とせせら笑うような奴。「ムキになって反論する」=否認、「図星だった」=自分はそうであると認めている、ってことだ。
2009-03-18 水 01:10:18 /
URL /脂 /
編集
>同じ人間だからかわいそうだと思ってはいけないということなのでしょうか?
そういう感じです。
もっと同情の複雑化がこじれると、
ボランティアなんかをはじめて、「同じ人間じゃないか」みたいなことを言う。
心のきれいな人間になりたいんです。
後から読んだら、
件の塾講師はボランティアとかしなさそうかもと思った。
>むしろそれ以外のときは慎重にその状況に対して言葉を選ぶと思います。
それが出来ない奴はただの馬鹿だと思います。
2009-03-18 水 12:14:34 /
URL /● /
編集
>言葉を選ぶと思います。
>それが出来ない奴はただの馬鹿だと思います。
他者という無意識の根拠が希薄な未去勢者たちは、他者のために言葉を選ぶことが苦手。物質として、ね。そういった選択は人一倍慎重にならなければならなくなる。社会を生きていくには。
自分のために、というより自分という実体あるいはその主観世界をピン止めする言葉として選ぶことはあるけれども。わたしは。
そしてそういう言葉は大体嘘と言われる。
『泥は降りしきる』より。
=====
おっかしいねこの姿
=====
馬鹿だと思われてた気がするわ。他者のために言葉を選ぶのが苦手なわたしは。
そういや「カワイソー」ってカタカナな感じでしか使えないな。わたしの場合。なんつーか演技。即興芝居の稽古があったんだがあれってスポーツだと思うんだよな。条件反射的に「カワイソー」とかって言葉を場に適応するものとして言えるかどうか、みたいな。空気を読み合うスポーツ、ってか。
2009-03-18 水 13:52:27 /
URL /脂 /
編集
今ちょうどみゆき聞いてたわけだが、『あした』って曲にこんなフレーズがあってな。
=====
凍えながら二人ともが
二人分傷ついている
=====
これってまさに「二人いれば苦しみは半分になる」の逆だよなあ、と思った。
この記事
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-345.html
のコメント欄から。
=====
というのは、たとえば他者と共感するのが不得手だとされる自閉症者でも、共感することがある。ウタ・フリスが示しているような「飢餓状態の子供の番組を見て、自分の空腹時を思い出して不快に感じる」ということ。
わたしは自閉症とは鏡像段階(スターン論なら間主観的自己感の形成期)において不具合があると考えている。であるならば、不快・苦痛の共有こそが共感なるものの本質である、となる。理屈的に。
共感の原始的な姿は、快の共有ではなく不快の共有だということだ。
まあ逆に言えば、不快の共有だけってのは幼稚で稚拙な共感だ、ってことになるが。
=====
つまりみゆきが歌っている「二人分傷ついて」しまうのは原初的な(獣的なと言ってもいいだろう)、幼稚で稚拙な共感であり、「二人いれば苦しみは半分になる」ってのは快楽原則を共有することによる高度な(人間的な)共感だってわけだな。
となると、未去勢者は、無意識の他者という根拠が希薄なため、「二人いれば苦しみは半分になる」ことができない。器質因的・内因的に。ただし、「二人分傷ついて」しまう原初的な共感能力はあるため、たとえば「二人」になることを避ける。幼稚で稚拙な防衛として一人でいることを好む。そういった症状が自閉症という概念で示されている、とも言い換えられる。
2009-03-18 水 14:44:01 /
URL /脂 /
編集
>なぜならそれを言う時点で対象の相手より自分が優位だと思っているからです。
っていうのは、それこそこの記事の
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-320.html
「わたしの苦しみをわかって」という言葉に「わたしの苦しみを癒して」という正常人的な定型的なメタ言語を読み込んでしまう症状を述べている気がする。
従って、その教師が「かわいそう」と言わないようにしていることを否認と解釈するなら、彼は自分の正常人的な定型的なメタ言語を読み込んでしまう症状を自白している、と言える。要するに自分自身が「相手より自分が優位だと思って」しまっているからそう言わない、ってこと。
一方、彼が未去勢者だったなら、周りのそういった症状を事実として指摘しているだけ、となる。否認ではなくね。
そもそも否認ってのは自我の防衛機制なわけだから、自我が壊れている未去勢者は否認という精神分析の定理が当てはまらないことが多いだろうな。
まあ独り言だ。精神分析の学徒としてのな。
2009-03-18 水 15:24:54 /
URL /脂 /
編集
>言葉を選ぶと思います。
>それが出来ない奴はただの馬鹿だと思います。
場の空気を読まないで言葉を発するというよりは、何でも「かわいそ~」でなく本当にその状況の表現に対して適切かどうか、ということで言葉を選びます。
2009-03-18 水 16:39:46 /URL /さかい /
編集
>さかい様
かわいそうって思うのと
かわいそうって言うのは
全然違うんだなって思った。
2009-03-18 水 19:00:41 /URL /● /
編集
>かわいそうって言うのは
ごく簡単なイメージで言うなら、大人が言う「かわいそう」と幼稚園ぐらいのガキが言う「かわいそう」は違うだろ。
幼稚園ぐらいのガキが言う「かわいそう」は「相手より自分が優位だと思っている」感じがするかい? いやまあそれこそ「子供は無垢だ」のごときわたしが批判しそうな固定観念だ、と言われそうだが。
一般の人への説明としての便宜な。
2009-03-19 木 01:20:54 /
URL /脂 /
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ぶっちゃけちゃうとさ。
>みんなこういう経験あるけど、がんばって克服しているんだー
>だから私もがんばろー
>って思ってたけど
っていうのは、そのまんまだと繋がらないと思うけど、「「わたしの苦しみをわかって」という言葉に「わたしの苦しみを癒して」という正常人的な定型的なメタ言語を読み込んでしまう症状」を介すると、その塾講師と同じように「だから私もがんばろー」ってメタ言語を読み込んでいる、とも解釈可能なんだぜ?
要するに、メタ言語=自分に都合よく解釈すること、なわけ。
塾講師の指摘は、「かわいそう」という自分自身の言葉に「相手より自分が優位だと思っている」メタ言語を読み込んでいる、というものなわけだ。
その塾講師本人についてはどういう人間か知らないからスルーするが、「相手より自分が優位だ」ってメタ言語も「わたしの苦しみを癒して」ってメタ言語も「だから私もがんばろー」ってメタ言語も変わらないんだな。
全て自分が不快を棄却するのを目的にそうしているメタ言葉だと言える。これらのメタ言語が発生する原因は快楽原則だと言えるわけだ。
2009-03-19 木 02:31:58 /
URL /脂 /
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要するにわたしがそのエピソードを示したことに「だからあなた(読者)もがんばってね」などという意図はない。
未去勢者や子供が「かわいそう」と言っても「相手より自分が優位だ」と思っているとは限らない。
ある自閉症者が「わたしの苦しみをわかって」と言った時「わたしを癒して」と言っているわけではない。
もちろん会話なんて全て誤読なわけだから(デリダチックな意味で)、読者がどう解釈するか、どういうメタ言語を読み込むかなんてわたしゃ知らない。
だから別に「私もがんばろー」って思ってくれていいんだけど、
>コメントのやりとりみてたら違うんだなぁと
思ったならば非公開コメの人もコメした甲斐があったというもんだ、っつーどうでもいい話。
2009-03-19 木 02:36:38 /
URL /脂 /
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