神は非人間である。
2009/03/18/Wed
死ぬ前に宗教・信仰について書かなきゃいけないなあ、と思いつつめんどくさくて書けない。めんどくさいので他人に説明するという気遣いをある程度棄てて書く。
未去勢者のうちには神あるいは神を創造する機能が存在しない、あるいはその機能に不具合がある。笙野頼子のようなうちに水晶がある人間なら、自分のうちに元々あった神あるいは神を創造する機能に気づける即ち再発見できるのだろうが、それが谷山浩子のようにガラスでできていたりすると、人一倍外的な神を必要とすることもあるだろう。
未去勢者といえども信仰する場合もある、ということだ。一度信仰すれば、積極奇異型アスペルガー症候群者が気になった他人にしつこくつきまとうがごとく、熱心な信徒になるだろう。
わたしの場合、宗教に関わる環境で育ったため、宗教・信仰なる精神性に直に触れていた。わたしのうちにあるのはおそらく水晶ではなくガラスなのだろうが、宗教・信仰などという言葉にラベリングされたそれには耐性があった、それを劣化するテクニックは持っていた、と言える。しかしあくまでもラベリングされたそれである故、宗教・信仰とラベリングされていない宗教・信仰的な精神性には弱いだろう。一般の未去勢者が人一倍神を必要とするごとく。演劇論を語り合っていた時、「お前(演劇という)カルト宗教の信者みたいだ」などと言われたことがある。「演劇(芸術)で死ぬ」と素でうそぶいていたぐらいだから言われて当然だ。この場合、芸術とラベリングされたものに宗教・信仰的な精神性を感じ、それを信仰していたと言える。笙野頼子が「小説の神様」と発言したことがあるが、わたしは彼女は大仰に言ったのでもなんでもなく、素で言ったものと思える。また前記事の「嘘を教えて」なるわたしという「肉の本」の言葉は、人一倍神を必要としていることのアクティングアウトと思ってくれて構わない。嘘=神なわけだ。芸術作品だって嘘なわけじゃん。
未去勢者たちは、去勢済みな主体たちが語りたがる幻想的な自由ではなく、おぞましいリアルな自由を、現実界に親近した主観世界を生きているため、人一倍本当の神を、優しさを、嘘を、芸術作品を必要とする。
しかし、去勢済みな主体と決定的に違うのは、去勢済みな主体たちにとって神や優しさや嘘や芸術の根本は元々自分のうちにあるということだ。彼らはそれを再発見する。笙野の『金毘羅』のごとく。未去勢者にとってのそれはガラスのように脆いものであるため、自らのうちに再発見する、という構図にならない。それはあくまで外的なものだ。手の届かない領域から突然訪れるものだ。
未去勢者は縛られたがっている。ただし縛るのが誰でもいいというわけではない。それは主体であってはならない。人なるものであってはならない。あるアスペルガー症候群者が集う2ちゃんのスレにこんな言葉があった。
=====
AS(アスペルガー症候群者)は「管理される」のは好きだが「支配される」のは嫌う。
=====
こういった未去勢者の要請は、正常人の精神性を人間性と便宜的に書き換えたとして、非人間的なものに人として縛られたがっている、という無理のあるものだ。この論文で紹介されているTemple Grandin氏のHug Boxもそういった要請から作られた装置だと考えなければならないだろう。
人として自分を縛ることができる非人間的なものの代理表象として、たとえば神や芸術作品がある。もちろんそれらだって解剖していけば正常人の精神性が、人なるものがあちこちにこびりついているのに気づかされるだろう。神も芸術作品も人が造りたもうたものだからだ。いくら「管理されている」とその時は思っていても、ある違和感をきっかけとして、その管理に人なるものがこびりついているのに気づくこともあるだろう。この時彼は「支配されている」と感じるだろう。彼らがそれを「嫌う」のは、先の斎藤環の論文ならドナ・ウィリアムズ氏の「主体化への恐れ」におそらく相当する。
知識を持っていればいるほど解剖の道具が多彩になる。解剖が上手になる。解剖した結果、主体即ち正常人の精神性がこびりついているのを発見する。それが人工物である限り、歴史にもまれている限り、正常人の精神性は、人間性は、どこかに必ずこびりついているだろう。未去勢的な解剖者はそれを目にして嫌悪したり怖れたり違和感を覚えたりする。「違和感」を論拠にするこうもり氏の思想などはこういった機制に基づいているのではないだろうか。
神は非人間である。しかし神は人間が創造したものでもある。どんな神でも正常人の精神性としての人間性がどこかにこびりついている。限りなく未去勢的なセリーヌが反ユダヤを主張したのもこういったことによるのではないか。「お前らの神はとても人間臭い、非人間じゃない」と。いや、どちらかというとやはりアルトーのテクストの方がそれっぽいな。セリーヌのテクストはまだ去勢の否認臭さがある。それ故クリステヴァに「人一倍神性を求めている故ユダヤ人という神の民族を愚弄する」などという「わたしの苦しみをわかって」=「わたしの苦しみを癒して」のごとき正常人的即ち定型的なメタ言語を読み込まれる。おそらくクリステヴァは、セリーヌは癒されたがっている=神に救われたがっている、と考えているだろう。これはわたしが感じた「去勢の否認臭さ」に相当する。一方、アルトーのテクストは否認ではなく棄却されたものの実体が感じられる。クリステヴァはアルトーのテクストについてほとんど言及していない。分析を避けているようにすら見える。まるで彼に対し「狂気に固執している」として治療を放棄したラカンのごとく。
未去勢者は自らのうちに神を創造する機能がないため、神の非人間であるという要件を強く求める。非人間的な管理だと思っていたものにこびりつく、正常人の精神性としての人間性を、嫌悪なり恐怖なり違和感なりをもって発見する。そのことに敏感である。一方、去勢済みな主体はうちにそれが元々備わっているため、神に人間性がまとわりついていてもある程度黙認できる。そのことに鈍感である。それを徹底的に否定すれば、自らを正常たらしめる原因たる神を創造する機能を否定することにもなるからだ。未去勢者は自らのうちに神を創造する機能がないため、純粋な神性に拘る。去勢済みな主体はうちにそれが元々備わっているため、神が人間性を帯びて劣化されることに耐性がある。むしろ自らが無意識的に劣化している。
未去勢者は神を人一倍必要とするため、神なるもののハードルが高い。神なるもののハードルが高いため、神を人一倍必要とする。……暴論じみた言い方になってしまった。
追記。
わたしは神が人間性によって劣化していく様を目の当たりにしてきた、とも言えるかもね。電波チックな物言いだけど平たく言うなら、神なる概念がその人の自己保身のために都合よく解釈されていく様、とでも言おうか。大体宗教者の言い分ってそうじゃん。お前今の身分を守るために神って言葉利用してねえか? って。神についてクリティカルな質問して(ガキの頃の方がそういう質問できた気がする)「ムキー」となる奴なんかは論外だが、にへらにへら笑いながら「あなたがそんな疑問を持つことも神の思し召しなのです」などと言ってきたらその笑いの裏にわたしという不快を棄却したがっているそいつの本性が見えた気になる。「神の思し召し」なんかじゃなく、お前のパラノイアックな正常という精神性がわたしという他者を支配したがっていて、そのために神って言葉を利用しているだけじゃねえか? と。棄却っつーかわたしというアブジェからの逃避だな。まだ進化論という科学の言説をつい最近まで否定していたキリスト教の方が神の実体をわかっているとすら思える。隣の芝生は、って奴か。
「宗教・信仰などという言葉にラベリングされたそれには耐性があった、それを劣化するテクニックは持っていた」つーより「宗教・信仰などという言葉にラベリングされたそれ」を解剖する機会に恵まれていた、ってことになるのか。
そんな感じ。
未去勢者のうちには神あるいは神を創造する機能が存在しない、あるいはその機能に不具合がある。笙野頼子のようなうちに水晶がある人間なら、自分のうちに元々あった神あるいは神を創造する機能に気づける即ち再発見できるのだろうが、それが谷山浩子のようにガラスでできていたりすると、人一倍外的な神を必要とすることもあるだろう。
未去勢者といえども信仰する場合もある、ということだ。一度信仰すれば、積極奇異型アスペルガー症候群者が気になった他人にしつこくつきまとうがごとく、熱心な信徒になるだろう。
わたしの場合、宗教に関わる環境で育ったため、宗教・信仰なる精神性に直に触れていた。わたしのうちにあるのはおそらく水晶ではなくガラスなのだろうが、宗教・信仰などという言葉にラベリングされたそれには耐性があった、それを劣化するテクニックは持っていた、と言える。しかしあくまでもラベリングされたそれである故、宗教・信仰とラベリングされていない宗教・信仰的な精神性には弱いだろう。一般の未去勢者が人一倍神を必要とするごとく。演劇論を語り合っていた時、「お前(演劇という)カルト宗教の信者みたいだ」などと言われたことがある。「演劇(芸術)で死ぬ」と素でうそぶいていたぐらいだから言われて当然だ。この場合、芸術とラベリングされたものに宗教・信仰的な精神性を感じ、それを信仰していたと言える。笙野頼子が「小説の神様」と発言したことがあるが、わたしは彼女は大仰に言ったのでもなんでもなく、素で言ったものと思える。また前記事の「嘘を教えて」なるわたしという「肉の本」の言葉は、人一倍神を必要としていることのアクティングアウトと思ってくれて構わない。嘘=神なわけだ。芸術作品だって嘘なわけじゃん。
未去勢者たちは、去勢済みな主体たちが語りたがる幻想的な自由ではなく、おぞましいリアルな自由を、現実界に親近した主観世界を生きているため、人一倍本当の神を、優しさを、嘘を、芸術作品を必要とする。
しかし、去勢済みな主体と決定的に違うのは、去勢済みな主体たちにとって神や優しさや嘘や芸術の根本は元々自分のうちにあるということだ。彼らはそれを再発見する。笙野の『金毘羅』のごとく。未去勢者にとってのそれはガラスのように脆いものであるため、自らのうちに再発見する、という構図にならない。それはあくまで外的なものだ。手の届かない領域から突然訪れるものだ。
未去勢者は縛られたがっている。ただし縛るのが誰でもいいというわけではない。それは主体であってはならない。人なるものであってはならない。あるアスペルガー症候群者が集う2ちゃんのスレにこんな言葉があった。
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AS(アスペルガー症候群者)は「管理される」のは好きだが「支配される」のは嫌う。
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こういった未去勢者の要請は、正常人の精神性を人間性と便宜的に書き換えたとして、非人間的なものに人として縛られたがっている、という無理のあるものだ。この論文で紹介されているTemple Grandin氏のHug Boxもそういった要請から作られた装置だと考えなければならないだろう。
人として自分を縛ることができる非人間的なものの代理表象として、たとえば神や芸術作品がある。もちろんそれらだって解剖していけば正常人の精神性が、人なるものがあちこちにこびりついているのに気づかされるだろう。神も芸術作品も人が造りたもうたものだからだ。いくら「管理されている」とその時は思っていても、ある違和感をきっかけとして、その管理に人なるものがこびりついているのに気づくこともあるだろう。この時彼は「支配されている」と感じるだろう。彼らがそれを「嫌う」のは、先の斎藤環の論文ならドナ・ウィリアムズ氏の「主体化への恐れ」におそらく相当する。
知識を持っていればいるほど解剖の道具が多彩になる。解剖が上手になる。解剖した結果、主体即ち正常人の精神性がこびりついているのを発見する。それが人工物である限り、歴史にもまれている限り、正常人の精神性は、人間性は、どこかに必ずこびりついているだろう。未去勢的な解剖者はそれを目にして嫌悪したり怖れたり違和感を覚えたりする。「違和感」を論拠にするこうもり氏の思想などはこういった機制に基づいているのではないだろうか。
神は非人間である。しかし神は人間が創造したものでもある。どんな神でも正常人の精神性としての人間性がどこかにこびりついている。限りなく未去勢的なセリーヌが反ユダヤを主張したのもこういったことによるのではないか。「お前らの神はとても人間臭い、非人間じゃない」と。いや、どちらかというとやはりアルトーのテクストの方がそれっぽいな。セリーヌのテクストはまだ去勢の否認臭さがある。それ故クリステヴァに「人一倍神性を求めている故ユダヤ人という神の民族を愚弄する」などという「わたしの苦しみをわかって」=「わたしの苦しみを癒して」のごとき正常人的即ち定型的なメタ言語を読み込まれる。おそらくクリステヴァは、セリーヌは癒されたがっている=神に救われたがっている、と考えているだろう。これはわたしが感じた「去勢の否認臭さ」に相当する。一方、アルトーのテクストは否認ではなく棄却されたものの実体が感じられる。クリステヴァはアルトーのテクストについてほとんど言及していない。分析を避けているようにすら見える。まるで彼に対し「狂気に固執している」として治療を放棄したラカンのごとく。
未去勢者は自らのうちに神を創造する機能がないため、神の非人間であるという要件を強く求める。非人間的な管理だと思っていたものにこびりつく、正常人の精神性としての人間性を、嫌悪なり恐怖なり違和感なりをもって発見する。そのことに敏感である。一方、去勢済みな主体はうちにそれが元々備わっているため、神に人間性がまとわりついていてもある程度黙認できる。そのことに鈍感である。それを徹底的に否定すれば、自らを正常たらしめる原因たる神を創造する機能を否定することにもなるからだ。未去勢者は自らのうちに神を創造する機能がないため、純粋な神性に拘る。去勢済みな主体はうちにそれが元々備わっているため、神が人間性を帯びて劣化されることに耐性がある。むしろ自らが無意識的に劣化している。
未去勢者は神を人一倍必要とするため、神なるもののハードルが高い。神なるもののハードルが高いため、神を人一倍必要とする。……暴論じみた言い方になってしまった。
追記。
わたしは神が人間性によって劣化していく様を目の当たりにしてきた、とも言えるかもね。電波チックな物言いだけど平たく言うなら、神なる概念がその人の自己保身のために都合よく解釈されていく様、とでも言おうか。大体宗教者の言い分ってそうじゃん。お前今の身分を守るために神って言葉利用してねえか? って。神についてクリティカルな質問して(ガキの頃の方がそういう質問できた気がする)「ムキー」となる奴なんかは論外だが、にへらにへら笑いながら「あなたがそんな疑問を持つことも神の思し召しなのです」などと言ってきたらその笑いの裏にわたしという不快を棄却したがっているそいつの本性が見えた気になる。「神の思し召し」なんかじゃなく、お前のパラノイアックな正常という精神性がわたしという他者を支配したがっていて、そのために神って言葉を利用しているだけじゃねえか? と。棄却っつーかわたしというアブジェからの逃避だな。まだ進化論という科学の言説をつい最近まで否定していたキリスト教の方が神の実体をわかっているとすら思える。隣の芝生は、って奴か。
「宗教・信仰などという言葉にラベリングされたそれには耐性があった、それを劣化するテクニックは持っていた」つーより「宗教・信仰などという言葉にラベリングされたそれ」を解剖する機会に恵まれていた、ってことになるのか。
そんな感じ。