わたしは殺され続けてきた。
2009/03/19/Thu
個人スペースを区切ったオフィスのその一室のような部屋。三畳程度の広さ。そこに巨大な本がある。高さ二メートルほどの。古い本だった。ところどころに蜘蛛の巣が張っている。中の紙が腐っているのか、ページの隙間から蛆虫のようなものが湧いている。
横を見ると、車椅子に座る年老いた男性がいた。その後ろに背の高い若者がいる。中性的な。秘書みたいなものだろう。
わたしはこの老人が笙野頼子だと思った。
この老人は世間では名士と呼ばれているが、会社では不正な会計をしているらしい。わたしはそれを調べにきている。そのデータがこの巨大な本の中にあるようだ。
老人に話しても無駄そうだったので、わたしは若者に話しかける。「持ち帰るの大変そうなので、パソコンのデータはありませんか?」というとんちんかんなことを聞く。
若者は頷いたか何かわからないが、微笑をたたえ、立ち去った。もちろん老人の車椅子を押しながら。
わたしは一人きりになってしまった。
一人になると本の中を見られるような気分になった。
ドアを開けるように本の表紙を開く。
中は武器庫になっていた。大小さまざまな銃が並べられていた。
そうか、これが笙野の言う水晶の正体だな、と思う。
この際、これらの銃でさっきの老人社長を撃ち殺してやるのが手っ取り早いか、と思う。
手頃な銃を選び、部屋を出る。
外は迷路になっていた。ウィザードリィのような、マス目ごとに区切られているダンジョン。
取りあえずそこらを探索する。
さっきと同じような小部屋がそこかしこにある。その中の一つを覗く。中では四、五人の男女が裸で絡み合っていた。
これが笙野のどろどろ権現の正体か、と思う。
いろいろ歩き回っていると、老人のことなどどうでもよくなってきた。とはいえ帰り道がわからない。わたしは迷子になっていた。
誰か通り過ぎるのを待つか、それとも銃で頭を撃ち抜くか。
脱力と緊張がもつれ合った感覚の中、そんな風に思った。
目が覚めて、ありきたりな夢だなあ、と思ったが、老人を笙野だと思い込んだのがひっかかって記すことにした。
笙野はわたしにとって老賢者だったのだろうか。そんなことを考えていると、あることをひらめいた。
取引先の支社長に、接待上手で相手を丸め込むのがうまい人がいた。その人の業績は、業界内では早いうちに中国に工場を建て、成功させたことだった。よく自慢話をされた。向こうの党役員と懇意にしているという噂もあった。「win-winの関係」などと言っていたのを覚えている。
彼が笙野の言う金毘羅だ、とわたしは思った。
別に『金毘羅』という作品を貶めるつもりで言っているのではない。わたしの中で、夢をきっかけにして、それらががっちょんこしたのだ。ただそれだけのこと。ただのわたしの心的事実。実際その支社長はわたしをこき使っていたが、仕事ができることは認めてくれていたし、業界の重鎮たちと会わせてくれたこともある。出世すると見込んで粉かけられていたのだろうか。
ともかく、この支社長をモデルに考えると、『だいにっほんシリーズ』へのわたしの違和感は、「笙野という金毘羅が火星人という未去勢者を丸め込もうとしていることに違和感がある」と換言できる。「有我を説く作中笙野が器質因・内因的に無我な(とわたしが解釈していた)いぶきという火星人を丸め込もうとしていることに違和感がある」と換言できる。彼女自身が述べた「作品は読者の器であるべき」などという言葉とも呼応するだろう。彼女はいぶきという火星人を殺しておきながら、死んだ火星人としか「win-winの関係」を築くことができていない。「器」は受動的で「丸め込む」のは能動的だから違う、という反論もあるかもしれないが、無限領域からすれば、「器」であっても「丸め込む」であっても、等しく自分という無限の実体を有限領域に切り刻むものである。
有限が無限を丸め込もうとすれば、受動的能動的関係なく、一部が切り刻まれることになる。
わたしには夢と現実を混同する性質がある。こういった夢を根拠にした直観めいたことを平気で口にしていた。もちろん社会人になってからは言わなくなったが。
しかし、なんの意図もなくただ直観を言葉にしただけなのに、このケースを例にするならば、「『金毘羅』を貶めている」などといったメタ言語を読み込まれる。あるいは嘘だと言われる。
この記事のコメント欄から。
=====
自分のために、というより自分という実体あるいはその主観世界をピン止めする言葉として選ぶことはあるけれども。わたしは。
そしてそういう言葉は大体嘘と言われる。
=====
視点を変えればそれまで見えてなかった構造の共通点がある、という指摘にすぎないのに、貶めていると思われたり嘘だと思われる。悪意と解釈される。
これを説明するには骨が折れる。直観めいたことを言わなくするのが現実原則的な対処法となる。
こうやってわたしは実体としての言葉を語らなくなっていった。
=====
=====
しかし、逆に言えばわれわれはこの音速兵器に殴られ続けながら、なおそれに気づかないで居られる耐性を身につけたわけで、これはヘーゲル先生ならずとも感動的な努力といわざるを得ません。
=====
その「耐性」が劣化だ。鈍感さだ。詩人の「強度に裏打ちされた言葉」「実体としての言葉」を劣化させる鈍感なお前の皮膚に癒着した鎧だ。詩人側から言わせればそれは全く感動的なものではない。詩に対し鈍感になるということだから。
=====
自分の中に耐性があるわけでもないのに、劣化に合意しているわけでもないのに、周囲の人間の耐性や劣化や鈍感さのせいで、正常という精神疾患のせいで、わたしの言葉は改竄されていった。わたしが改竄してきた。
改竄とまでは言わなくとも、たとえば「この取引先の支社長が笙野の金毘羅である」という言説は「浅い解釈だ」などと思われるのだろうか。浅い深いなんて関係ない。そもそも子供の言葉なんてそういうもの。浅いところしか見ていないと感じられるものもあれば深層を抉り出すようなものもある。子供は彼にとっての事実を述べているだけである。わたしはわたしの心的事実を述べているだけである。王様は裸だから「王様は裸だ」と言っているだけである。
こうやってわたしの心的事実は殺されてきた。
わたしという実体は殺され続けてきた。
本当は見えていない王様の服を「見えている」と言い続けてきた。
恐怖故に。
笙野には「死ぬしかないんじゃね?」と言われている。
ここでも似たようなことを書いているが、迷子になる夢が多いのは事実だ。森のアスレチック場のようなところで遊んでいたら迷子になっていた、とか。
おそらくわたしの主観世界は無限なのだ。従って、宮台真司が主張する概念「パトリ」に関して述べられている、「街遊びの視点」において生じる「俯瞰視線の獲得」がなかなか成立しない。アスレチックは無限に続く。だから大人になっても(大人になったからか)夜遊びが好きだった。いくら俯瞰してもそれは一部でしかない。俯瞰できたと思っていた領域の中にも抜け穴がある。『不思議の国のアリス』の穴や『となりのトトロ』のトトロの森への入り口のような。俯瞰できた領域の内にも外にも全体への予兆がある。アスレチックは終わったと思っても補習がある。
だからわたしは迷子になる。
この迷子感はこの記事で言うところの「おぞましいリアルな自由」に相当するだろう。迷子の状態はおぞましい。苦痛である。本当の無限とは、自由とはそういうものなのである。このおぞましさの一端を正常人に体感してもらうのに、おそらくほとんどの人が経験しているであろう子供の頃迷子になった時を思い出してもらうのが便宜的だ、という話である。
リアルなリゾームを生きるものは苦痛に塗れている。
たとえば統合失調症の「空白への異常な恐れ」という症状は、こういったことを原因としているのではないだろうか。正常人たちの方が、正常という精神疾患のお陰で、耐性という劣化・鈍感さのお陰で、去勢されてしまった即ち大人になってしまったお陰で、現実にはいたるところにある『不思議の国のアリス』の穴や『となりのトトロ』のトトロの森への入り口が見えなくなっただけである。(ラカン用語で非現実界的という意味で)幻想的な俯瞰視線を獲得したことにより、迷子にならなくなっただけである。
アリスやサツキやメイには耐性がありそうだ。そこから入場した世界は無限じゃない。迷子感は『千と千尋の神隠し』の方に強い。『トトロ』より夢のような環境を描いているからだろう。千尋が迷い込んだ世界は無限だ。そこは地球ではなく宇宙だ。
わたしは千のようにアスレチック場をさまよい続ける。
森の中で迷子になったまま、大人になってしまった。
横を見ると、車椅子に座る年老いた男性がいた。その後ろに背の高い若者がいる。中性的な。秘書みたいなものだろう。
わたしはこの老人が笙野頼子だと思った。
この老人は世間では名士と呼ばれているが、会社では不正な会計をしているらしい。わたしはそれを調べにきている。そのデータがこの巨大な本の中にあるようだ。
老人に話しても無駄そうだったので、わたしは若者に話しかける。「持ち帰るの大変そうなので、パソコンのデータはありませんか?」というとんちんかんなことを聞く。
若者は頷いたか何かわからないが、微笑をたたえ、立ち去った。もちろん老人の車椅子を押しながら。
わたしは一人きりになってしまった。
一人になると本の中を見られるような気分になった。
ドアを開けるように本の表紙を開く。
中は武器庫になっていた。大小さまざまな銃が並べられていた。
そうか、これが笙野の言う水晶の正体だな、と思う。
この際、これらの銃でさっきの老人社長を撃ち殺してやるのが手っ取り早いか、と思う。
手頃な銃を選び、部屋を出る。
外は迷路になっていた。ウィザードリィのような、マス目ごとに区切られているダンジョン。
取りあえずそこらを探索する。
さっきと同じような小部屋がそこかしこにある。その中の一つを覗く。中では四、五人の男女が裸で絡み合っていた。
これが笙野のどろどろ権現の正体か、と思う。
いろいろ歩き回っていると、老人のことなどどうでもよくなってきた。とはいえ帰り道がわからない。わたしは迷子になっていた。
誰か通り過ぎるのを待つか、それとも銃で頭を撃ち抜くか。
脱力と緊張がもつれ合った感覚の中、そんな風に思った。
目が覚めて、ありきたりな夢だなあ、と思ったが、老人を笙野だと思い込んだのがひっかかって記すことにした。
笙野はわたしにとって老賢者だったのだろうか。そんなことを考えていると、あることをひらめいた。
取引先の支社長に、接待上手で相手を丸め込むのがうまい人がいた。その人の業績は、業界内では早いうちに中国に工場を建て、成功させたことだった。よく自慢話をされた。向こうの党役員と懇意にしているという噂もあった。「win-winの関係」などと言っていたのを覚えている。
彼が笙野の言う金毘羅だ、とわたしは思った。
別に『金毘羅』という作品を貶めるつもりで言っているのではない。わたしの中で、夢をきっかけにして、それらががっちょんこしたのだ。ただそれだけのこと。ただのわたしの心的事実。実際その支社長はわたしをこき使っていたが、仕事ができることは認めてくれていたし、業界の重鎮たちと会わせてくれたこともある。出世すると見込んで粉かけられていたのだろうか。
ともかく、この支社長をモデルに考えると、『だいにっほんシリーズ』へのわたしの違和感は、「笙野という金毘羅が火星人という未去勢者を丸め込もうとしていることに違和感がある」と換言できる。「有我を説く作中笙野が器質因・内因的に無我な(とわたしが解釈していた)いぶきという火星人を丸め込もうとしていることに違和感がある」と換言できる。彼女自身が述べた「作品は読者の器であるべき」などという言葉とも呼応するだろう。彼女はいぶきという火星人を殺しておきながら、死んだ火星人としか「win-winの関係」を築くことができていない。「器」は受動的で「丸め込む」のは能動的だから違う、という反論もあるかもしれないが、無限領域からすれば、「器」であっても「丸め込む」であっても、等しく自分という無限の実体を有限領域に切り刻むものである。
有限が無限を丸め込もうとすれば、受動的能動的関係なく、一部が切り刻まれることになる。
わたしには夢と現実を混同する性質がある。こういった夢を根拠にした直観めいたことを平気で口にしていた。もちろん社会人になってからは言わなくなったが。
しかし、なんの意図もなくただ直観を言葉にしただけなのに、このケースを例にするならば、「『金毘羅』を貶めている」などといったメタ言語を読み込まれる。あるいは嘘だと言われる。
この記事のコメント欄から。
=====
自分のために、というより自分という実体あるいはその主観世界をピン止めする言葉として選ぶことはあるけれども。わたしは。
そしてそういう言葉は大体嘘と言われる。
=====
視点を変えればそれまで見えてなかった構造の共通点がある、という指摘にすぎないのに、貶めていると思われたり嘘だと思われる。悪意と解釈される。
これを説明するには骨が折れる。直観めいたことを言わなくするのが現実原則的な対処法となる。
こうやってわたしは実体としての言葉を語らなくなっていった。
=====
=====
しかし、逆に言えばわれわれはこの音速兵器に殴られ続けながら、なおそれに気づかないで居られる耐性を身につけたわけで、これはヘーゲル先生ならずとも感動的な努力といわざるを得ません。
=====
その「耐性」が劣化だ。鈍感さだ。詩人の「強度に裏打ちされた言葉」「実体としての言葉」を劣化させる鈍感なお前の皮膚に癒着した鎧だ。詩人側から言わせればそれは全く感動的なものではない。詩に対し鈍感になるということだから。
=====
自分の中に耐性があるわけでもないのに、劣化に合意しているわけでもないのに、周囲の人間の耐性や劣化や鈍感さのせいで、正常という精神疾患のせいで、わたしの言葉は改竄されていった。わたしが改竄してきた。
改竄とまでは言わなくとも、たとえば「この取引先の支社長が笙野の金毘羅である」という言説は「浅い解釈だ」などと思われるのだろうか。浅い深いなんて関係ない。そもそも子供の言葉なんてそういうもの。浅いところしか見ていないと感じられるものもあれば深層を抉り出すようなものもある。子供は彼にとっての事実を述べているだけである。わたしはわたしの心的事実を述べているだけである。王様は裸だから「王様は裸だ」と言っているだけである。
こうやってわたしの心的事実は殺されてきた。
わたしという実体は殺され続けてきた。
本当は見えていない王様の服を「見えている」と言い続けてきた。
恐怖故に。
笙野には「死ぬしかないんじゃね?」と言われている。
ここでも似たようなことを書いているが、迷子になる夢が多いのは事実だ。森のアスレチック場のようなところで遊んでいたら迷子になっていた、とか。
おそらくわたしの主観世界は無限なのだ。従って、宮台真司が主張する概念「パトリ」に関して述べられている、「街遊びの視点」において生じる「俯瞰視線の獲得」がなかなか成立しない。アスレチックは無限に続く。だから大人になっても(大人になったからか)夜遊びが好きだった。いくら俯瞰してもそれは一部でしかない。俯瞰できたと思っていた領域の中にも抜け穴がある。『不思議の国のアリス』の穴や『となりのトトロ』のトトロの森への入り口のような。俯瞰できた領域の内にも外にも全体への予兆がある。アスレチックは終わったと思っても補習がある。
だからわたしは迷子になる。
この迷子感はこの記事で言うところの「おぞましいリアルな自由」に相当するだろう。迷子の状態はおぞましい。苦痛である。本当の無限とは、自由とはそういうものなのである。このおぞましさの一端を正常人に体感してもらうのに、おそらくほとんどの人が経験しているであろう子供の頃迷子になった時を思い出してもらうのが便宜的だ、という話である。
リアルなリゾームを生きるものは苦痛に塗れている。
たとえば統合失調症の「空白への異常な恐れ」という症状は、こういったことを原因としているのではないだろうか。正常人たちの方が、正常という精神疾患のお陰で、耐性という劣化・鈍感さのお陰で、去勢されてしまった即ち大人になってしまったお陰で、現実にはいたるところにある『不思議の国のアリス』の穴や『となりのトトロ』のトトロの森への入り口が見えなくなっただけである。(ラカン用語で非現実界的という意味で)幻想的な俯瞰視線を獲得したことにより、迷子にならなくなっただけである。
アリスやサツキやメイには耐性がありそうだ。そこから入場した世界は無限じゃない。迷子感は『千と千尋の神隠し』の方に強い。『トトロ』より夢のような環境を描いているからだろう。千尋が迷い込んだ世界は無限だ。そこは地球ではなく宇宙だ。
わたしは千のようにアスレチック場をさまよい続ける。
森の中で迷子になったまま、大人になってしまった。