「イメージがイメージに割り込んでくる」
2009/03/21/Sat
イメージとは湧いてくるものである。
作ろうとして作ったイメージは、既にシンボル化されている。
あるイメージを作ろう、あるイメージを思い浮かべようという作業は、既に湧いてくるイメージを抑圧している。これは、イメージをテクストや絵画や映像で表象代理する作業に常に纏わりつく問題であり、ほとんどの芸術家が対面している問題である。
「イメージが勝手にイメージに割り込んでくる」
あるアーティストが、対談か何かで言った言葉だ。いや、わたしが勝手に脳内で要約した言葉にすぎないかもしれない。
読んだ時はなんとも思わなかったが、心のどこかでひっかかっていた言葉だ。
たとえば、大衆的な小説や映画・テレビや演劇ならばストーリー性なる概念が象徴となるが、ある一貫性を持っている。
音楽だって然りだ。Aメロ・Bメロ・サビなどといったところにそれは表象されている。
音楽でも物語でも、受取手が事後惹起する全体的イメージの裏打ちとなるものが、ここでいう一貫性である、ということにしておこう。
この一貫性が全くない状態を仮定するなら、エントロピーが増大した極限のようなものだろう。音楽(聴覚)ならばホワイトノイズが当てはまろうか。
では映像(視覚)におけるその状態とはなんだろう。
それは、生まれたばかりの、妄想分裂態勢の赤ん坊が見ている世界ではないか、とわたしは思う。とはいえ、生まれたばかりの赤ん坊にとっては、聴覚による刺激と視覚による刺激さえも混淆していると思われる。聴覚と視覚という区切りが既に一つのネゲントロピーである、というわけだ。
表現作品におけるストーリー性やサビなどといった、表象として意識できる一貫性だけではなく、人間は自分自身が意識(自覚)できない領域に一貫性を持っている、としたのが構造主義人類学における構造であり、精神分析学における無意識あるいは超自我という概念である。フロイトがそこに科学のメスを入れ、レヴィ=ストロースやラカンが言語学で整理し直した。
ところが、論文の読者でさえそれを意識(自覚)できない。そこでフロイトは、「本人が自覚できないある一貫性」について、夢や冗談や言い間違いという事象において表出されている、とした。
ラカンは、この一貫性なるものは、生後六ヶ月から十八ヶ月の赤ん坊が経験する鏡像段階以降に発生するとし、発生したものをファルスという言葉で概念化した。ファルスという軸から超自我という一貫性のあるシニフィアンの網が構成される、ということだ。
ファルスの発生により、様々な刺激が混淆している状態が、視覚や聴覚などといった区切りのある感覚に整序・統合される。この整序・統合された感覚は、既にシニフィアンのような象徴的側面を持っている。恣意的で示差的なのだ。たとえば、正常な(去勢済みな)主体における視覚による刺激の一部を、聴覚による刺激の一部と交換して統合しよう、などという発達はありえない。われわれの感覚は、人間の身体という物質的システムにより、受動的に整序・統合されてしまう。われわれは、生後間もないうちに、シニフィアン的な整序・統合を身に焼きつけられる。スティグマである。
少し補足しておく。「(感覚が整序・統合されない)発達はありえない」と書いたが、整序・統合が不充分であるという意味で、整序・統合されていないと言える状態はありえる。整序・統合機能に不具合があるのが、たとえば共感覚という症状であろう。これは、(鏡像的な)整序・統合機能の不具合がある一つの特定された症状において表れているもの、と言える。また、不具合を慢性的に保有しているにも関わらず、表面になかなか表れてこないのが、たとえばアスペルガー症候群なる症状である。また、ある程度の時期まで不具合は起こっていなかったのに、ある時急に、一つの歯車の故障により機械全体が不調をきたすかのように、不具合が表面化する症状もある。統合失調症である。
自閉症と共感覚の関連も興味深いところである。
こういったシニフィアン的な側面を持つ「ある程度整序・統合された正常な感覚」は、もちろん言語学的な意味でのそれとは全く別物である。「シニフィアンなきシニフィアン」とでも呼べるものだ。言語として存在していない前-象徴界とでも呼べるものと、言語学的な象徴界の違いである。クリステヴァは(文学畑らしく)テクストなどに代表される言語学的な象徴界からこれを整理し、文学論における「ジェノ・テクスト/フェノ・テクスト」という対立概念を発展させ、「言語として存在していない前-象徴界/言語学的な象徴界」をそれぞれ「セミオティック/サンボリック」と呼び、論じた。
まとめよう。ラカン論単独ならば、言語として存在していない前-象徴界と言語学的な象徴界は等しく象徴界である。ラカン論においてはファルスは(超越論的な)シニフィアンとして解釈される。一方、鏡像段階即ち去勢に焦点を当てて論を構築したのがクリステヴァであり、彼女は、去勢というイベントをミクロに分析するにあたり、「セミオティック/サンボリック」という区別をそこに持ち込んだ、というわけである。
話を戻そう。
イメージとは、シンボルと比して自由で流動的である。しかし、シンボルほどではないが、ある程度の整序・統合もされている。セミオティックな一貫性がそこにある、という言い方になる。セミオティックという領域は想像的かつ象徴的なのだ。象徴界だけではない一貫性がセミオティックな領域にある。
この一貫性は、おそらく言語的側面に囚われない体感的即ち想像的な一貫性を説明するものとなる。
たとえば、人間は何故過去に体験した感覚を自分が体験した感覚だと思えるのか。一秒前のわたしの思考と一秒後のわたしの思考が何故同じ物体から発生したものだと思えるのか。こういったことは言語的一貫性だけでは説明されない。構造という言葉ならイメージ的な整序も含まれるが。
この領域は、おそらくロゴス主体な学問では説明しきれないだろう。思想界では想像界についての言及がさまざまあるが、学術的社会相手にディスクールするという要件自体が足枷となる。シニフィアンに回収されてしまう。
pikarrr氏などはこの想像的な一貫性を身体知と呼び論じようとしているが、その一貫性の根拠を「他者が関わらない環境」に求めている。即ち論じる主体を想像的な一貫性が根強く支配しているため、環境ではない肉体側の一貫性の根拠を見落としている。これは多くのラカニアンにある誤謬でもある。象徴的ファルスという言葉自体がいけないのだろう。ファルスは象徴的でもあり想像的でもある。ファルスの想像的側面(想像的ファルスとは別物)を論じるにはクリステヴァ論の「想像的父たるアガペー」が有効になろう。
体が疲れてる。まともな思考が繋がらない。まともな思考が繋がらない時の方がこんな教科書的な文章書いてしまうのか。まともじゃない時の方がまともな文章をかける。これもアブジェを棄却しようとしている症状なのかね。
くたびれている。
ぷっつんしそうだ。
ぷっつん→うがー
の「ぷっつん」ではなく
ぷっつん→しれ~
の「ぷっつん」。
脱力しているわけではない。鬱になるのか。違う気がするけど。「しれ~」も違うな。冷めている、って言葉が正しいか。「しれっと」の「しれ」は一瞬だけど、それが続いているような感じ。
多分今なら罪悪感など感じずに人を殺せそうな。殺せたら罪悪感が芽生えるのだろうか。
倫理と罪悪感、か。
罪悪感というより、わたしは条件反射で倫理を覚えている。スポーツみたいなものだ。多分、正常人は罪悪感が裏打ちになっているから倫理が確固たるものとして機能するのだろう。
罪悪感のさらに裏打ちがアガペー? どっちがどっちかっていうのは考えないでおこう。ともかく罪悪感とアガペーは癒着している、と。
おそらく、アガペーという根拠の影響がなんらかの原因で希薄な人間は、アガペーではなく「どうでもいい感」になるのだろう。こう言うと鬱症状のように思えるが、当然なのだ。アガペーと鬱は双子の兄弟なのだから。
……あ、まとめる気力失せた。
垂れ流しってことで。
ボツ記事シリーズいいな。
作ろうとして作ったイメージは、既にシンボル化されている。
あるイメージを作ろう、あるイメージを思い浮かべようという作業は、既に湧いてくるイメージを抑圧している。これは、イメージをテクストや絵画や映像で表象代理する作業に常に纏わりつく問題であり、ほとんどの芸術家が対面している問題である。
「イメージが勝手にイメージに割り込んでくる」
あるアーティストが、対談か何かで言った言葉だ。いや、わたしが勝手に脳内で要約した言葉にすぎないかもしれない。
読んだ時はなんとも思わなかったが、心のどこかでひっかかっていた言葉だ。
たとえば、大衆的な小説や映画・テレビや演劇ならばストーリー性なる概念が象徴となるが、ある一貫性を持っている。
音楽だって然りだ。Aメロ・Bメロ・サビなどといったところにそれは表象されている。
音楽でも物語でも、受取手が事後惹起する全体的イメージの裏打ちとなるものが、ここでいう一貫性である、ということにしておこう。
この一貫性が全くない状態を仮定するなら、エントロピーが増大した極限のようなものだろう。音楽(聴覚)ならばホワイトノイズが当てはまろうか。
では映像(視覚)におけるその状態とはなんだろう。
それは、生まれたばかりの、妄想分裂態勢の赤ん坊が見ている世界ではないか、とわたしは思う。とはいえ、生まれたばかりの赤ん坊にとっては、聴覚による刺激と視覚による刺激さえも混淆していると思われる。聴覚と視覚という区切りが既に一つのネゲントロピーである、というわけだ。
表現作品におけるストーリー性やサビなどといった、表象として意識できる一貫性だけではなく、人間は自分自身が意識(自覚)できない領域に一貫性を持っている、としたのが構造主義人類学における構造であり、精神分析学における無意識あるいは超自我という概念である。フロイトがそこに科学のメスを入れ、レヴィ=ストロースやラカンが言語学で整理し直した。
ところが、論文の読者でさえそれを意識(自覚)できない。そこでフロイトは、「本人が自覚できないある一貫性」について、夢や冗談や言い間違いという事象において表出されている、とした。
ラカンは、この一貫性なるものは、生後六ヶ月から十八ヶ月の赤ん坊が経験する鏡像段階以降に発生するとし、発生したものをファルスという言葉で概念化した。ファルスという軸から超自我という一貫性のあるシニフィアンの網が構成される、ということだ。
ファルスの発生により、様々な刺激が混淆している状態が、視覚や聴覚などといった区切りのある感覚に整序・統合される。この整序・統合された感覚は、既にシニフィアンのような象徴的側面を持っている。恣意的で示差的なのだ。たとえば、正常な(去勢済みな)主体における視覚による刺激の一部を、聴覚による刺激の一部と交換して統合しよう、などという発達はありえない。われわれの感覚は、人間の身体という物質的システムにより、受動的に整序・統合されてしまう。われわれは、生後間もないうちに、シニフィアン的な整序・統合を身に焼きつけられる。スティグマである。
少し補足しておく。「(感覚が整序・統合されない)発達はありえない」と書いたが、整序・統合が不充分であるという意味で、整序・統合されていないと言える状態はありえる。整序・統合機能に不具合があるのが、たとえば共感覚という症状であろう。これは、(鏡像的な)整序・統合機能の不具合がある一つの特定された症状において表れているもの、と言える。また、不具合を慢性的に保有しているにも関わらず、表面になかなか表れてこないのが、たとえばアスペルガー症候群なる症状である。また、ある程度の時期まで不具合は起こっていなかったのに、ある時急に、一つの歯車の故障により機械全体が不調をきたすかのように、不具合が表面化する症状もある。統合失調症である。
自閉症と共感覚の関連も興味深いところである。
こういったシニフィアン的な側面を持つ「ある程度整序・統合された正常な感覚」は、もちろん言語学的な意味でのそれとは全く別物である。「シニフィアンなきシニフィアン」とでも呼べるものだ。言語として存在していない前-象徴界とでも呼べるものと、言語学的な象徴界の違いである。クリステヴァは(文学畑らしく)テクストなどに代表される言語学的な象徴界からこれを整理し、文学論における「ジェノ・テクスト/フェノ・テクスト」という対立概念を発展させ、「言語として存在していない前-象徴界/言語学的な象徴界」をそれぞれ「セミオティック/サンボリック」と呼び、論じた。
まとめよう。ラカン論単独ならば、言語として存在していない前-象徴界と言語学的な象徴界は等しく象徴界である。ラカン論においてはファルスは(超越論的な)シニフィアンとして解釈される。一方、鏡像段階即ち去勢に焦点を当てて論を構築したのがクリステヴァであり、彼女は、去勢というイベントをミクロに分析するにあたり、「セミオティック/サンボリック」という区別をそこに持ち込んだ、というわけである。
話を戻そう。
イメージとは、シンボルと比して自由で流動的である。しかし、シンボルほどではないが、ある程度の整序・統合もされている。セミオティックな一貫性がそこにある、という言い方になる。セミオティックという領域は想像的かつ象徴的なのだ。象徴界だけではない一貫性がセミオティックな領域にある。
この一貫性は、おそらく言語的側面に囚われない体感的即ち想像的な一貫性を説明するものとなる。
たとえば、人間は何故過去に体験した感覚を自分が体験した感覚だと思えるのか。一秒前のわたしの思考と一秒後のわたしの思考が何故同じ物体から発生したものだと思えるのか。こういったことは言語的一貫性だけでは説明されない。構造という言葉ならイメージ的な整序も含まれるが。
この領域は、おそらくロゴス主体な学問では説明しきれないだろう。思想界では想像界についての言及がさまざまあるが、学術的社会相手にディスクールするという要件自体が足枷となる。シニフィアンに回収されてしまう。
pikarrr氏などはこの想像的な一貫性を身体知と呼び論じようとしているが、その一貫性の根拠を「他者が関わらない環境」に求めている。即ち論じる主体を想像的な一貫性が根強く支配しているため、環境ではない肉体側の一貫性の根拠を見落としている。これは多くのラカニアンにある誤謬でもある。象徴的ファルスという言葉自体がいけないのだろう。ファルスは象徴的でもあり想像的でもある。ファルスの想像的側面(想像的ファルスとは別物)を論じるにはクリステヴァ論の「想像的父たるアガペー」が有効になろう。
体が疲れてる。まともな思考が繋がらない。まともな思考が繋がらない時の方がこんな教科書的な文章書いてしまうのか。まともじゃない時の方がまともな文章をかける。これもアブジェを棄却しようとしている症状なのかね。
くたびれている。
ぷっつんしそうだ。
ぷっつん→うがー
の「ぷっつん」ではなく
ぷっつん→しれ~
の「ぷっつん」。
脱力しているわけではない。鬱になるのか。違う気がするけど。「しれ~」も違うな。冷めている、って言葉が正しいか。「しれっと」の「しれ」は一瞬だけど、それが続いているような感じ。
多分今なら罪悪感など感じずに人を殺せそうな。殺せたら罪悪感が芽生えるのだろうか。
倫理と罪悪感、か。
罪悪感というより、わたしは条件反射で倫理を覚えている。スポーツみたいなものだ。多分、正常人は罪悪感が裏打ちになっているから倫理が確固たるものとして機能するのだろう。
罪悪感のさらに裏打ちがアガペー? どっちがどっちかっていうのは考えないでおこう。ともかく罪悪感とアガペーは癒着している、と。
おそらく、アガペーという根拠の影響がなんらかの原因で希薄な人間は、アガペーではなく「どうでもいい感」になるのだろう。こう言うと鬱症状のように思えるが、当然なのだ。アガペーと鬱は双子の兄弟なのだから。
……あ、まとめる気力失せた。
垂れ流しってことで。
ボツ記事シリーズいいな。