ツンデレ少女は女性に嫌われるか?
2007/01/13/Sat
この記事は、某サイトの掲示板に書き込んだ文章のコピペであることを断っておく。
「ツンデレは女性に嫌われているのか?」という質問に対する私の答えとして書いたものだ。
=====
ツンデレについて少々考えを巡らせたことがあるのでお答えします。
ツンデレというキャラ類型(詳しくは定義しません)を精神分析チックに分析してみたのですね。ただしこの場合の精神分析はツンデレキャラを人間に見立てての分析だけではなく、それに萌える受取手たちの精神的傾向分析にもなります。アニメや小説を精神分析的に読み解くということは、その表現者や受取手の分析にもなるのです。精神科医の斎藤環氏著「戦闘美少女の精神分析」などは、オタク文化における「戦闘美少女」という類型を精神分析的に読み解いた本です。少し難しい本ですが、ここで行うのはそういう感じでの分析ということで例示しておきます。
斎藤氏の本もそうですが、ここでの精神分析論はフロイト・メラニークライン・ラカンといった方々の論をベースにいたします。
結論から言いますと、ツンデレというのは、男の子チックな「反抗期」的症状と言えるでしょう。男の子チックと書きましたが、もちろん現実でもそういう少女はいると思われます。
どういうことか。
精神分析では、男の子は父の名の下に去勢され、現実の父親の背中に広がる言語的・論理的な社会(象徴界といいます)へ参入します。簡単に説明すると、赤ん坊のころは男も女もみんなマザコンです。それをパパが邪魔します。男の子は同性である父親を恨みますが、父親は母親に愛されているがため、父親と同一化したいと思います。父親という役に入れ替わりたい、と思うのですね。恨むことと同一化への希求という矛盾した葛藤を覚えるのです。これが有名なエディプスコンプレックスというものになります。これはあくまで比喩的な説明と思ってください。人間の精神なんて明確に区別されないし、再現性が低いので、論理的明確さをもって語れません。結果比喩的表現が多くなります。精神分析の文脈で書かれた文章は全て「比喩的表現が主体」と思っておいて間違いありません。
女の子の場合は少し複雑になりますが、簡単に説明しておきますと、女の子にはペニス羨望というものがあり、ペニスを持っていない母親を恨み、父親を愛します。エレクトラコンプレックスという奴ですね。これらはフロイト(エレクトラコンプレックスはユング)の論ですが、いろいろ批判もあります。
さて、男の子の父親に対し同一化したいけど恨んでいるという矛盾した葛藤、同一化と差異化の葛藤という言葉で私は表現していますが、これは実は男女とも赤ん坊のころにその根源を持っているのですね。これも詳しくは述べませんが、母乳を与えてくれる母親と、与えてくれない母親、「良い乳房/悪い乳房」などと言われているものです。この原初的な葛藤に、父性的な社会(=象徴界)という要素が絡んできたのが上で述べたエディプスコンプレックスになります。
ツンデレに戻りましょう。
ここでは外面的には「ツン」ツンしているが、内面は「デレ」デレしていて、「時々」その内面の「デレ」が表出する少女、という理解をしておきます(私は最近のオタク文化については初心者ですので、いろいろ反論はあると思います)。
何故彼女は外面はツンツンしてしまうのか。
まず第一に、デレデレは「恥ずかしいから」ですね。実はこの恥というのは、社会的ルールのひとつなのです。日本の「恥の文化」は上で述べた「象徴界」を例示するものとして(西洋的社会と比べて特殊なので)よく論じられています。彼氏に対してデレデレベタベタするのは社会の一員として恥ずかしいから、それを抑圧するわけですね。
では次に何故ツンツンという攻撃的な言動が表れるのでしょうか。男性性=父性というのは(ちなみに女性性だと≠母性になります。精神分析において女性は言葉や論理で表現しきれないほど複雑だ、と言われています)、上で述べたように象徴界的な「社会性」を暗喩します。しかしツンデレ少女の彼氏は学生であったり、子供であったり、だらしなかったり、社会的常識が欠如していたり(フルメタルパニックとかですねw)、社会性を体現していないので、社会性のために抑圧していたデレという気持ちが反転して攻撃性を帯びるのです。このようにツンデレ少女は社会性を意識しています。しかし内面では好きな(同一化したい)彼氏が社会性が乏しいと、「好きだからこそ」怒ってしまうというのは何となく理解できませんか? 自分は社会性(象徴界)を意識しているのになにやってんのしっかりしろよオマエは、みたいな気持ちです。
このようにツンデレ少女においては、内面でのデレ=同一化への希求と、外面でのツン=差異化の葛藤と、父性的な社会(象徴界)という要素が絡み合っています。これは、構造的に多少差異がありますが、基本的には反抗期の男の子が感じる葛藤の構図と類似しています。
つまり、ツンデレ少女に萌える男性オタクたちは、自分が経験した反抗期の葛藤をツンデレ少女に投射しているとも言えるでしょう。オタクたちはツンデレ少女の彼氏だけではなく、少女にも感情移入していると考えられます。
(第二次)反抗期は思春期でもあります。思春期は、身体の成長や社会性などと自我のすり合わせが行われるため、男女とも同一化と差異化の葛藤が強い時期です。
同一化と差異化の葛藤がオーバーシュートして破綻すると、パラノイアという精神病になります。パラノイアの精神分析的病理は、まさに同一化と差異化の強い葛藤と、強い挫折感という三つの要件であると言われています。具体的な例を述べるなら、中二病という言葉が揶揄的なものとしてありますね。この中二病の自己愛的な妄想は、パラノイアの症状を想起させるものです。同一化と差異化の強い葛藤が表出すると、他者はそれについて「自己愛的」という印象を持ってしまうのです。
何故同一化と差異化の葛藤が自己愛的なのでしょう? この葛藤自体は、赤ん坊の頃に誰しも感じるものと先に言いましたね。母親への同一化と差異化の葛藤の結果、赤ん坊は指をしゃぶったり、自分の性器を弄びます。こういう行動は「自体愛」という言葉で説明されます。自体愛は自己愛の前身そのものです。また、自己愛は弁証法的一回転して、対象愛を生み出します。母親という他者(対象)への原初的な同一化の希求→自体愛→自己愛→対象愛、ということですね。自体愛に自我という要素が介入してくると自己愛となるのです。自我同一性の拡散が引き起こす「青年期の問題(モラトリアム・退却神経症など)」を考えればわかるように、自我というものも社会的生活を営むのに必要不可欠なものです。
ですから、パラノイアの構成要件も、自己愛そのものも、人間誰しもが持つものであり、悪いものであるとは言えません。ラカンという精神分析家は、「パラノイアは人格そのものだ」みたいなことまで言っています。
(パラノイア、自己愛については私のブログで少し論じていますので、参考までにURLを張っておきます)
ここでご質問の、「ツンデレキャラは女性に嫌われるか?」ということを考えてみましょう。ご質問の中の、
>女性は「萌え」というものを毛嫌いしている印象を受けています(してない人もいるでしょうが)。
について。
私はオタクが何故女性を中心に気持ち悪がられるかというのは、虚構に対するセクシュアリティ(萌え絵でオナニーすることなど)と、この自己愛、二点が大きな原因だと考えています。
セクシュアリティについては、斎藤環氏によれば「オタクは現実と虚構の区別がきちんとついていて、虚構と自覚してセクシュアリティを楽しんでいる。そもそもラカン論では『性は存在しない』、つまりセクシュアリティそのものが虚構であるから問題ない」と擁護しています。しかしそれが書かれた本(「戦闘美少女の精神分析」)は2000年の刊行で、主に90年代のオタクを分析しているものでした。私はオタク文化に限らず現代は虚構化が強い(=ハイ・コンテクストな)時代で、またそれが加速している時代だと考えています。私の体感ですが、斎藤氏の本から10年近く経った現代の若いオタクたちは、90年代に青年だったオタクたちより、虚構と現実の区別が曖昧になっているように思います。私は現代のオタクについては斎藤氏の擁護はピンときません。ちょっと余談になってしまいましたね。私自身はオタク文化そのものについては評価するところもあるし、批判するところもあるという中間的な立場だと言い訳しておきます。
二点目の自己愛。ツンデレキャラについては、これが問題になると思います。
自己愛というものは、差異化と同一化という葛藤が、自我というフィルターを通して表出するもの、という比喩表現をしておきます。自己愛は思春期的で、対象愛へと成熟していないものです。つまり自己愛は幼い自我を表していると言えるでしょう。
しかし、その自己愛を嫌う人間も、その自己愛的だった幼い時代を経験して大人になっているのです。精神分析的には、「嫌悪感」は「似ている他者(鏡像)」に対し強く表出するとされています。「近親憎悪」というキーワードで想像してみるとわかりやすいでしょうか。
つまり、自己愛を表出する人間に対し嫌悪する人間は、自らの記憶の中の未熟な「自己愛時代の」自分を相手に投影し、それを自己否定的に嫌っているわけです。余談になりますが、ツンデレ少女の少し非現実的な攻撃性=ツンについてもこの文脈で説明できるかもしれませんね。ツンデレのお約束に彼氏が「似ている」という要素はありませんが、彼女は内面に彼氏に対するデレ=同一化への希求を持っており、それが先走って多少彼氏と自分を同一化して見ているところがあるとしたら、「近親憎悪」とは言えませんが、「鏡像」的な分析が可能かもしれません。現実での例を挙げると、憧れのスター(同性異性問わない)が結婚したりすると本気で憎しみを覚えてしまうような、そういう思い込みが強い人間は映画や小説でもよく取り上げられていますね。ああいう感じです。これは、彼らの言動が病的になるとパラノイアの典型症例となります。こう見ると、近親憎悪もパラノイアと同じ構成要件に端を発していると言えるかもしれません。三つ目の要件「挫折」があるかないかの違いですね。
誤解のないように言っておきますが、上で述べたように、ツンデレ少女自体に自己愛が感じられるから、ツンデレ少女は嫌われる、という論理ではありません。また、女性が「萌え」自体を嫌っているとは私は思えません(ファンシーグッズなどは「萌え」になりますよね)。
アニメや漫画において、ツンデレ少女がそこにいて、隣に「社会的に未熟な」彼氏がいて、それに感情移入して「萌える」オタクたちが想像された時、初めてこの「自己愛」に起因する嫌悪感が働くのです。
もちろんそういった女性は、オタクではない女性が多いでしょう。彼女たちはツンデレ少女周辺だけではなく、オタク文化全体に自己愛を感じているといっても過言ではありません。これはオタク文化に詳しい先述の斎藤氏(オタク擁護派ですよ、彼)も指摘しています。
ライトノベルというジャンルは、オタク文化のコンテクスト(文脈、お約束、暗黙のルールみたいなもの)に強く依存して成り立っています。
ライトノベルにおいてはオタク文化の外の読者を意識する必要はないかもしれません。ただ、人間誰しも自己愛を持って生きてきたわけですから、近親憎悪的な嫌悪感を、オタクであっても持つことがあるかもしれません。
また、男性と女性と分けて考えるならば、ツンデレという表出そのものが少年的であるので、女性の感情移入は難しいという側面もあるのかもしれません。個人的には、ツンデレという症状は、現実の女性に喩えるなら演技性人格障害や、精神分析的なヒステリーに似ていると感じられるところがありますが、それに倣ってキャラを創造しても(ライトノベル的な)魅力的なキャラになるとは言えないと思います。個人的にヒステリーとツンデレ少女という類型の比較論は面白そうなので、気が向いたらブログに書くかもしれません。という宣伝をしておきます^^;
=====
一点だけ補足させて欲しい。
以前、「涼宮ハルヒの精神分析」という記事で、「ツンデレは第二次反抗期の少女の人格をベースにしている」と書いた。ところがこの文章では「男の子チック」と書いている。これについて少し述べておく。
女性も社会で生きていかなくてはいけない。少女は象徴界に参入しなければならない。少女は自らの身体にペニスを持っていないが、赤ん坊の頃は、母親の胎内のいた頃のような「求めるだけ与えられる」という全能感=ファルスは持っていた。フロイト、ユングの論に倣うなら、少女はペニス羨望により母親を恨み、父親を愛する。父親のペニスを求め、父親の子供を生みたいと思う。しかしいつの間にかこの「父親の子供を生みたい」は「愛する男の子供を生みたい」となる。ここに男性における「去勢」のような「象徴界への参入」があるはずだが、その過程は女性は曖昧である、ということになっている。明確な心の動きとしての「去勢」は、女性にはないのだ。フロイトはだから女性は超自我(ここでは象徴界とほぼ同じ)が形成されにくい、としている。とはいえ女性にも反抗期はあるので、男性ほど明確ではないが、象徴界への参入は恐れていると思われる。このあたりは私の知識不足と女性性の複雑さのせいで、うまく説明できない。赤ん坊の糸車遊びのように、象徴化は本来安心感を得るはずだ。しかしフロイトも言っているように女性は一般的に象徴界の内的動力が強いとは言えない。女性における象徴界を恐れる理由はいろいろ複雑に絡み合って存在するのかもしれない。反抗期についてはエレクトラコンプレックスによる母親への反発と説明できるか。とりあえずそれらについてはここでは脇に置いておく。
現代では女性も社会に出なければならない。父性的な社会構造の中で生きていかなければならないのだ。しかし彼女は社会と同一化するほど、その父性と自らの女性性との葛藤が起きる。性への問いかけが起こる。性への問いかけとはヒステリーのことだ。
少女には明確な「去勢」はないが、現実的に第二次反抗期はある。そういった文脈で「ツンデレは第二次反抗期の少女の人格をベースにしている」と書いた。
この記事においては、ツンデレのツンは社会的なもの(象徴界)への意識からきている、ということを明確にしたかったので、それを強調するために「男の子チック」と書いた。そういう感じに受け取って欲しい。
「ツンデレは女性に嫌われているのか?」という質問に対する私の答えとして書いたものだ。
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ツンデレについて少々考えを巡らせたことがあるのでお答えします。
ツンデレというキャラ類型(詳しくは定義しません)を精神分析チックに分析してみたのですね。ただしこの場合の精神分析はツンデレキャラを人間に見立てての分析だけではなく、それに萌える受取手たちの精神的傾向分析にもなります。アニメや小説を精神分析的に読み解くということは、その表現者や受取手の分析にもなるのです。精神科医の斎藤環氏著「戦闘美少女の精神分析」などは、オタク文化における「戦闘美少女」という類型を精神分析的に読み解いた本です。少し難しい本ですが、ここで行うのはそういう感じでの分析ということで例示しておきます。
斎藤氏の本もそうですが、ここでの精神分析論はフロイト・メラニークライン・ラカンといった方々の論をベースにいたします。
結論から言いますと、ツンデレというのは、男の子チックな「反抗期」的症状と言えるでしょう。男の子チックと書きましたが、もちろん現実でもそういう少女はいると思われます。
どういうことか。
精神分析では、男の子は父の名の下に去勢され、現実の父親の背中に広がる言語的・論理的な社会(象徴界といいます)へ参入します。簡単に説明すると、赤ん坊のころは男も女もみんなマザコンです。それをパパが邪魔します。男の子は同性である父親を恨みますが、父親は母親に愛されているがため、父親と同一化したいと思います。父親という役に入れ替わりたい、と思うのですね。恨むことと同一化への希求という矛盾した葛藤を覚えるのです。これが有名なエディプスコンプレックスというものになります。これはあくまで比喩的な説明と思ってください。人間の精神なんて明確に区別されないし、再現性が低いので、論理的明確さをもって語れません。結果比喩的表現が多くなります。精神分析の文脈で書かれた文章は全て「比喩的表現が主体」と思っておいて間違いありません。
女の子の場合は少し複雑になりますが、簡単に説明しておきますと、女の子にはペニス羨望というものがあり、ペニスを持っていない母親を恨み、父親を愛します。エレクトラコンプレックスという奴ですね。これらはフロイト(エレクトラコンプレックスはユング)の論ですが、いろいろ批判もあります。
さて、男の子の父親に対し同一化したいけど恨んでいるという矛盾した葛藤、同一化と差異化の葛藤という言葉で私は表現していますが、これは実は男女とも赤ん坊のころにその根源を持っているのですね。これも詳しくは述べませんが、母乳を与えてくれる母親と、与えてくれない母親、「良い乳房/悪い乳房」などと言われているものです。この原初的な葛藤に、父性的な社会(=象徴界)という要素が絡んできたのが上で述べたエディプスコンプレックスになります。
ツンデレに戻りましょう。
ここでは外面的には「ツン」ツンしているが、内面は「デレ」デレしていて、「時々」その内面の「デレ」が表出する少女、という理解をしておきます(私は最近のオタク文化については初心者ですので、いろいろ反論はあると思います)。
何故彼女は外面はツンツンしてしまうのか。
まず第一に、デレデレは「恥ずかしいから」ですね。実はこの恥というのは、社会的ルールのひとつなのです。日本の「恥の文化」は上で述べた「象徴界」を例示するものとして(西洋的社会と比べて特殊なので)よく論じられています。彼氏に対してデレデレベタベタするのは社会の一員として恥ずかしいから、それを抑圧するわけですね。
では次に何故ツンツンという攻撃的な言動が表れるのでしょうか。男性性=父性というのは(ちなみに女性性だと≠母性になります。精神分析において女性は言葉や論理で表現しきれないほど複雑だ、と言われています)、上で述べたように象徴界的な「社会性」を暗喩します。しかしツンデレ少女の彼氏は学生であったり、子供であったり、だらしなかったり、社会的常識が欠如していたり(フルメタルパニックとかですねw)、社会性を体現していないので、社会性のために抑圧していたデレという気持ちが反転して攻撃性を帯びるのです。このようにツンデレ少女は社会性を意識しています。しかし内面では好きな(同一化したい)彼氏が社会性が乏しいと、「好きだからこそ」怒ってしまうというのは何となく理解できませんか? 自分は社会性(象徴界)を意識しているのになにやってんのしっかりしろよオマエは、みたいな気持ちです。
このようにツンデレ少女においては、内面でのデレ=同一化への希求と、外面でのツン=差異化の葛藤と、父性的な社会(象徴界)という要素が絡み合っています。これは、構造的に多少差異がありますが、基本的には反抗期の男の子が感じる葛藤の構図と類似しています。
つまり、ツンデレ少女に萌える男性オタクたちは、自分が経験した反抗期の葛藤をツンデレ少女に投射しているとも言えるでしょう。オタクたちはツンデレ少女の彼氏だけではなく、少女にも感情移入していると考えられます。
(第二次)反抗期は思春期でもあります。思春期は、身体の成長や社会性などと自我のすり合わせが行われるため、男女とも同一化と差異化の葛藤が強い時期です。
同一化と差異化の葛藤がオーバーシュートして破綻すると、パラノイアという精神病になります。パラノイアの精神分析的病理は、まさに同一化と差異化の強い葛藤と、強い挫折感という三つの要件であると言われています。具体的な例を述べるなら、中二病という言葉が揶揄的なものとしてありますね。この中二病の自己愛的な妄想は、パラノイアの症状を想起させるものです。同一化と差異化の強い葛藤が表出すると、他者はそれについて「自己愛的」という印象を持ってしまうのです。
何故同一化と差異化の葛藤が自己愛的なのでしょう? この葛藤自体は、赤ん坊の頃に誰しも感じるものと先に言いましたね。母親への同一化と差異化の葛藤の結果、赤ん坊は指をしゃぶったり、自分の性器を弄びます。こういう行動は「自体愛」という言葉で説明されます。自体愛は自己愛の前身そのものです。また、自己愛は弁証法的一回転して、対象愛を生み出します。母親という他者(対象)への原初的な同一化の希求→自体愛→自己愛→対象愛、ということですね。自体愛に自我という要素が介入してくると自己愛となるのです。自我同一性の拡散が引き起こす「青年期の問題(モラトリアム・退却神経症など)」を考えればわかるように、自我というものも社会的生活を営むのに必要不可欠なものです。
ですから、パラノイアの構成要件も、自己愛そのものも、人間誰しもが持つものであり、悪いものであるとは言えません。ラカンという精神分析家は、「パラノイアは人格そのものだ」みたいなことまで言っています。
(パラノイア、自己愛については私のブログで少し論じていますので、参考までにURLを張っておきます)
ここでご質問の、「ツンデレキャラは女性に嫌われるか?」ということを考えてみましょう。ご質問の中の、
>女性は「萌え」というものを毛嫌いしている印象を受けています(してない人もいるでしょうが)。
について。
私はオタクが何故女性を中心に気持ち悪がられるかというのは、虚構に対するセクシュアリティ(萌え絵でオナニーすることなど)と、この自己愛、二点が大きな原因だと考えています。
セクシュアリティについては、斎藤環氏によれば「オタクは現実と虚構の区別がきちんとついていて、虚構と自覚してセクシュアリティを楽しんでいる。そもそもラカン論では『性は存在しない』、つまりセクシュアリティそのものが虚構であるから問題ない」と擁護しています。しかしそれが書かれた本(「戦闘美少女の精神分析」)は2000年の刊行で、主に90年代のオタクを分析しているものでした。私はオタク文化に限らず現代は虚構化が強い(=ハイ・コンテクストな)時代で、またそれが加速している時代だと考えています。私の体感ですが、斎藤氏の本から10年近く経った現代の若いオタクたちは、90年代に青年だったオタクたちより、虚構と現実の区別が曖昧になっているように思います。私は現代のオタクについては斎藤氏の擁護はピンときません。ちょっと余談になってしまいましたね。私自身はオタク文化そのものについては評価するところもあるし、批判するところもあるという中間的な立場だと言い訳しておきます。
二点目の自己愛。ツンデレキャラについては、これが問題になると思います。
自己愛というものは、差異化と同一化という葛藤が、自我というフィルターを通して表出するもの、という比喩表現をしておきます。自己愛は思春期的で、対象愛へと成熟していないものです。つまり自己愛は幼い自我を表していると言えるでしょう。
しかし、その自己愛を嫌う人間も、その自己愛的だった幼い時代を経験して大人になっているのです。精神分析的には、「嫌悪感」は「似ている他者(鏡像)」に対し強く表出するとされています。「近親憎悪」というキーワードで想像してみるとわかりやすいでしょうか。
つまり、自己愛を表出する人間に対し嫌悪する人間は、自らの記憶の中の未熟な「自己愛時代の」自分を相手に投影し、それを自己否定的に嫌っているわけです。余談になりますが、ツンデレ少女の少し非現実的な攻撃性=ツンについてもこの文脈で説明できるかもしれませんね。ツンデレのお約束に彼氏が「似ている」という要素はありませんが、彼女は内面に彼氏に対するデレ=同一化への希求を持っており、それが先走って多少彼氏と自分を同一化して見ているところがあるとしたら、「近親憎悪」とは言えませんが、「鏡像」的な分析が可能かもしれません。現実での例を挙げると、憧れのスター(同性異性問わない)が結婚したりすると本気で憎しみを覚えてしまうような、そういう思い込みが強い人間は映画や小説でもよく取り上げられていますね。ああいう感じです。これは、彼らの言動が病的になるとパラノイアの典型症例となります。こう見ると、近親憎悪もパラノイアと同じ構成要件に端を発していると言えるかもしれません。三つ目の要件「挫折」があるかないかの違いですね。
誤解のないように言っておきますが、上で述べたように、ツンデレ少女自体に自己愛が感じられるから、ツンデレ少女は嫌われる、という論理ではありません。また、女性が「萌え」自体を嫌っているとは私は思えません(ファンシーグッズなどは「萌え」になりますよね)。
アニメや漫画において、ツンデレ少女がそこにいて、隣に「社会的に未熟な」彼氏がいて、それに感情移入して「萌える」オタクたちが想像された時、初めてこの「自己愛」に起因する嫌悪感が働くのです。
もちろんそういった女性は、オタクではない女性が多いでしょう。彼女たちはツンデレ少女周辺だけではなく、オタク文化全体に自己愛を感じているといっても過言ではありません。これはオタク文化に詳しい先述の斎藤氏(オタク擁護派ですよ、彼)も指摘しています。
ライトノベルというジャンルは、オタク文化のコンテクスト(文脈、お約束、暗黙のルールみたいなもの)に強く依存して成り立っています。
ライトノベルにおいてはオタク文化の外の読者を意識する必要はないかもしれません。ただ、人間誰しも自己愛を持って生きてきたわけですから、近親憎悪的な嫌悪感を、オタクであっても持つことがあるかもしれません。
また、男性と女性と分けて考えるならば、ツンデレという表出そのものが少年的であるので、女性の感情移入は難しいという側面もあるのかもしれません。個人的には、ツンデレという症状は、現実の女性に喩えるなら演技性人格障害や、精神分析的なヒステリーに似ていると感じられるところがありますが、それに倣ってキャラを創造しても(ライトノベル的な)魅力的なキャラになるとは言えないと思います。個人的にヒステリーとツンデレ少女という類型の比較論は面白そうなので、気が向いたらブログに書くかもしれません。という宣伝をしておきます^^;
=====
一点だけ補足させて欲しい。
以前、「涼宮ハルヒの精神分析」という記事で、「ツンデレは第二次反抗期の少女の人格をベースにしている」と書いた。ところがこの文章では「男の子チック」と書いている。これについて少し述べておく。
女性も社会で生きていかなくてはいけない。少女は象徴界に参入しなければならない。少女は自らの身体にペニスを持っていないが、赤ん坊の頃は、母親の胎内のいた頃のような「求めるだけ与えられる」という全能感=ファルスは持っていた。フロイト、ユングの論に倣うなら、少女はペニス羨望により母親を恨み、父親を愛する。父親のペニスを求め、父親の子供を生みたいと思う。しかしいつの間にかこの「父親の子供を生みたい」は「愛する男の子供を生みたい」となる。ここに男性における「去勢」のような「象徴界への参入」があるはずだが、その過程は女性は曖昧である、ということになっている。明確な心の動きとしての「去勢」は、女性にはないのだ。フロイトはだから女性は超自我(ここでは象徴界とほぼ同じ)が形成されにくい、としている。とはいえ女性にも反抗期はあるので、男性ほど明確ではないが、象徴界への参入は恐れていると思われる。このあたりは私の知識不足と女性性の複雑さのせいで、うまく説明できない。赤ん坊の糸車遊びのように、象徴化は本来安心感を得るはずだ。しかしフロイトも言っているように女性は一般的に象徴界の内的動力が強いとは言えない。女性における象徴界を恐れる理由はいろいろ複雑に絡み合って存在するのかもしれない。反抗期についてはエレクトラコンプレックスによる母親への反発と説明できるか。とりあえずそれらについてはここでは脇に置いておく。
現代では女性も社会に出なければならない。父性的な社会構造の中で生きていかなければならないのだ。しかし彼女は社会と同一化するほど、その父性と自らの女性性との葛藤が起きる。性への問いかけが起こる。性への問いかけとはヒステリーのことだ。
少女には明確な「去勢」はないが、現実的に第二次反抗期はある。そういった文脈で「ツンデレは第二次反抗期の少女の人格をベースにしている」と書いた。
この記事においては、ツンデレのツンは社会的なもの(象徴界)への意識からきている、ということを明確にしたかったので、それを強調するために「男の子チック」と書いた。そういう感じに受け取って欲しい。