無限の海と有限の陸地
2009/03/24/Tue
「エクリチュール/パロール」という対立ではなく、「モノローグ/ダイアローグ」という対立が正しいのではないか。
ダイアローグはそのままダイアローグだが、モノローグは普通考えられているモノローグではない。厳密に言えば、その言葉に無意識にある根拠としての他者の関与度合いである。関与度合いが「エクリチュール<パロール」であり「モノローグ<ダイアローグ」なわけだ。他者の関与度合いがもっとも低くなった言葉がこの記事で述べている「実体としての言葉」である。
このラカン論的な意味での他者を、無意識の奥に設置するには、他者を所有・把握可能と見做さなければならない。鏡像段階における「わたし、潰すの、頭、フランシス」である。絶対的未知としての、物自体的なそれとしての他者を、所有・把握可能な他者とすること。それが「モノの殺害」である。これによって絶対的未知として自らを脅かすおぞましい他者は所有・把握可能な他者となり、自我・超自我の根拠となり、「自分はここにある」という確信の根拠となる。所有・把握可能な他者は安心・癒しの原因となる。
未去勢者にとっての他者は、所有・把握可能な他者となっていない。少女は未だフランシスの頭を潰していない。彼女にとっての他者は絶対的未知として自らを脅かすおぞましいものである。
つまりこういうことだ。他者が確信や安心・癒しの原因となっているのが去勢済みな主体である。一方、他者が絶対的未知性の強いものであり、他者の中にいても迷子のごとく常態的にパニックあるいはフリーズ状態になったり、あるいは大航海時代の冒険者のごとく未知なる海に挑み、即ち所有・把握しようと必死になり、常態的に興奮状態となったりしているのが未去勢者である。未去勢者の一例アスペルガー症候群で言えば、他者の海の中で迷子になりフリーズしてしまったのが受動型であり、他者の海の中で大航海時代の冒険者となっているのが積極奇異型だと言える。ところが、去勢済みな主体にとって他者の海は、現代人が認識しているような全てが把握された地図上の海となっている。
要するに、未去勢者の主観世界における他者と、去勢済みな主体の主観世界における他者は別物と考えなければならない、ということだ。
とはいえ、去勢済みな主体でも他者を怖れることがある。神経症としての対人恐怖症である。これは、所有・把握可能な他者には穴が開いており、穴から垣間見えるおぞましい絶対的未知性が彼を脅かしている状態だと言えよう。地図上に開いた小さな穴から、大航海時代の冒険者が怖れながらも挑んだ未知なる海を垣間見る。この穴はラカン論においてしばしば用いられるそれと関連させることが可能である。
神経症としての対人恐怖症とは言わないまでも、この穴は一般の主体たちも経験するものであろう。たとえば、長くつきあった恋人でも理解できない部分があったりする。これは所有・把握可能な領域を網羅した結果、穴が浮き彫りになった状態である。所有・把握可能な領域だけを見ていればその恋人は主体に安心・癒しをもたらすものであるが、狭い陸地に飽き飽きした冒険者のごとき主体の未去勢的な部分が、恋人の理解不可能な部分、穴の部分へと興味を向けさせるのである。彼が去勢済みな主体であった場合、それは去勢の否認の状態であると言える。この時の彼にとっての恋人は、子供の頃迷子になった時の自分を脅かすような周りの人や物と同じものである。冒険者にとっての未知なる海である。この時の恋人は彼にとって物自体的な存在となっている。物自体的な恋人は彼を不安にさせたり興奮させたりする。
所有・把握とはあくまで幻想である。幻想が現実を覆い尽くしてしまったのが父の名を排除した精神病としてのパラノイアである。であるならば、いくら未去勢者と比してパラノイアックである去勢済みな主体と言えど、他者の全てを所有・把握してはいないのだ。彼らは所有・把握する可能性を確信しているが、実際は所有・把握しきれていないため、ところどころに穴がある。穴を見ないようにしていれば健全な人間関係を構築できるのだが、たとえばある心的外傷が原因となり、穴を気にするようになってしまったのが神経症としての対人恐怖症であると言える。
木村敏論で換言しておこう。彼は対人恐怖症をポスト・フェストゥムと分類するかアンテ・フェストゥムと分類するかで、多少の考慮をもってポスト・フェストゥムに分類しているが、ポストにもアンテにも対人恐怖症はありえる、というわけである。ポストが去勢済みな主体的な主観状態でアンテが未去勢的な主観状態だ。従って、幼児の対人恐怖症などはアンテ的と言えるだろう。成人主体の対人恐怖症について、去勢済みな主体が圧倒的多数なのは事実であるため、ポストに分類するのは統計上正しいとは言える。
またこの記事と関連させるならば、所有・把握可能な他者は「トランポリンのようなセーフティネット」に相当する。従って、一度去勢された主体は、どんなにそれに開いた穴に魅入られたとしても(たとえば神経症としての対人恐怖症者や恋人の理解不可能さに興味を向ける去勢済みな彼は)、ある極限で所有・把握可能な他者を見つけるだろう。セーフティネットにより、主体は穴から目をそらすことできるのだ。
しかしたとえ一つの穴から目をそらしたとしても、穴は他にも開いているだろう。これはラカン論における「完全に統合された人格など素晴らしいものではない」やフロイト論における「精神分析家の仕事は神経症者の苦痛をより苦しくない苦痛に変えさせることである」などという言説と呼応する。
ある時、「脂さんはツンデレキャラだと思って見るとつきあいやすくなるよ」と言われたことがある。言われたのはもちろんわたしではなくわたしを不快に思っている者たちであるが。
これなどは、わたしをツンデレキャラとラベリングし、所有・把握可能性を高めさせようとする言説であると言える。確かにそうラベリングされたわたしは所有・把握可能性が高くなるだろう。彼らは安心してわたしとつきあうことができるだろう。わたしという絶対的未知にツンデレキャラという地図を覆い被せることによって。
わたしの方は、ツンデレキャラというラベルについて、正しくないという意味での違和感を感じないこともなくはなかったが、その言説を否定しなかった。わたし自身がわたしたるゲル状の狂気をおぞましく思っているからだ。多少暑くても着ぐるみを着ることでわたしたるゲル状の狂気を隠蔽できるわけだから、我慢できる範囲なら別にそれでいいと思う。
ツンデレキャラという着ぐるみはいつでも脱げる。お遊びコスプレようなものだ。しかし実生活における「統合された事物としてのわたし」という着ぐるみは脱げない。脱げる一瞬もないことはないが、後で脱いだことを後悔する。
正常人は、この統合された自分という着ぐるみが皮膚に癒着している。皮膚そのものになっている。だからそれに違和感を感じない。それを異物だと思わない。
着ぐるみを脱ぎたくはない。ゲル状の狂気を隠蔽し続けたい。しかし違和感がある事実はどうにもならない。それが異物である事実は揺るがない。
この「着ぐるみ」という言葉は、アスペルガー症候群当事者のこの手記中にあるものと関連させて考えることができよう。またこの手記から、「他者の中にいても迷子のごとく常態的にパニックあるいはフリーズ状態にな」る受動型当事者の主観世界が多少なりともうかがい知れるだろう。
多くの成人主体は、着ぐるみの癒着が遠い過去になっている。この着ぐるみを初めて着るのは、鏡像段階あるいは間主観的自己感の形成期になるだろう。この記事で言う「人間ごっこ」を学ぶ時期である。従ってこう言える。去勢済みな主体たちは生後二年以内にこの着ぐるみを着、ずっとそれを着続けているのである。そりゃあ着ぐるみじゃなく皮膚そのものになっていような。逆に言えば正常人は着ぐるみを脱ぐのが困難であるということになる。
癒着した着ぐるみは無意識の奥底に格納される。着ぐるみを着ながら生きてきた経験がその上に積み重なっていく。抑圧である。着ぐるみによって隠蔽される妄想分裂態勢・抑鬱態勢あるいは新生自己感・中核自己感は、抑圧ではなく排除・棄却されている。
無意識の奥底に抑圧された着ぐるみが、おそらく笙野頼子の言う「どろどろ権現の奥にあるぺかぺか水晶」である。
未去勢者たちは、生後二年以内に着るはずの着ぐるみをうまく着れないまま育ってしまった。彼らの着ぐるみは脆い。谷山浩子『きみが壊れた』のガラスである。去勢済みな主体の着ぐるみは水晶であるのに対し、未去勢者のそれはガラスのごときものなのである。
おそらく、笙野頼子の主観世界における他者は所有・把握可能性が確信できるものであり、谷山浩子の主観世界における他者は絶対的未知性の強いものであろう。笙野が他者に未知性を見出す時、成人主体の対人恐怖症のごとく穴を通して見ることとなり、谷山の場合、笙野が穴から覗く未知なる海が、穴の向こうなどになっていないまま広がっており、小島のように所有・把握可能性があるということになろう。絶対的未知性を海とし所有・把握可能性を陸地とすれば、おそらくこの二人の主観世界における海と陸地の割合は逆転している。ちょうど権現というどろどろの中に水晶という固体がある笙野と、地球スーツという固体の中にどろどろした黒い文字が詰まっている火星人のように。
また、二人がたとえば自分の生死を分かつようなある極限状態に置かれた時、即ちその本性を現した時、他者を信頼できるのが笙野であり、他者に怯えるのが谷山となるだろう。ガタリ論で換言するならば、二人を相対させた時、モル的即ちパラノイアックなのが笙野であり、分子的即ちスキゾフレニックなのが谷山である、と言える。ちょうど『だいにっほんシリーズ』における「語る主体」と、『きみが壊れた』における壊れた「きみ」のように。
最終的にその人間が、他者を、確信あるいは安心・癒しをもたらす所有・把握可能なものとして見るか、迷子の時のようなパニック・フリーズあるいは大航海時代の冒険者の興奮感をもたらす絶対的未知性の強い所有・把握以前のものとして見るか。これが去勢済みな主体と未去勢者を判別するのに一つの要点となろう。
この記事でわたしの主観世界は無限であると書いた。他人から見れば無限ではないだろう。その他人が見たわたしは一部でしかないからだ。その部分が部分を横断することによって生じる幻影としての全体が、無限を予感させるか、有限を予感させるか、の違いである。
そういった意味で、わたしの主観世界と相対させて、笙野頼子の全体は有限を予感させ、谷山浩子のそれは無限を予感させる、という話である。わたしは『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』の『特典「映像」』で述べられたある言葉について、こう揶揄したことがある。
=====
本当の「荒れ狂う異物の海」に近いのは、たとえば、むしろ「心の理論」から自由な、自閉症者たちだとわたしは思う。もちろん「たとえば」。他にもいろいろあってよい。統合失調症者とか。
=====
わたしにとって笙野より自閉症者や統合失調症者の方が無限を予感させる。
無限の海と有限の陸地。
少なくともわたしの主観世界は笙野の提供する「器」という有限には納まることができない。ただそれだけの話である。
まあ、彼女にも生活はあるだろうし、蓮實の言う「大作家」になってもいいんじゃないかね? 歳も歳だしさ。老体に未去勢的な主観世界はそりゃきつかろう。本当の迷子状態ってな、体中の随意筋不随意筋問わない筋肉が、自分勝手に脳がコントロールできない状態で緊張するものだから。
年がら年中体力・精神力を使う主観世界だから。
安心・癒しの根拠が希薄な主観世界だから。
当然。
ダイアローグはそのままダイアローグだが、モノローグは普通考えられているモノローグではない。厳密に言えば、その言葉に無意識にある根拠としての他者の関与度合いである。関与度合いが「エクリチュール<パロール」であり「モノローグ<ダイアローグ」なわけだ。他者の関与度合いがもっとも低くなった言葉がこの記事で述べている「実体としての言葉」である。
このラカン論的な意味での他者を、無意識の奥に設置するには、他者を所有・把握可能と見做さなければならない。鏡像段階における「わたし、潰すの、頭、フランシス」である。絶対的未知としての、物自体的なそれとしての他者を、所有・把握可能な他者とすること。それが「モノの殺害」である。これによって絶対的未知として自らを脅かすおぞましい他者は所有・把握可能な他者となり、自我・超自我の根拠となり、「自分はここにある」という確信の根拠となる。所有・把握可能な他者は安心・癒しの原因となる。
未去勢者にとっての他者は、所有・把握可能な他者となっていない。少女は未だフランシスの頭を潰していない。彼女にとっての他者は絶対的未知として自らを脅かすおぞましいものである。
つまりこういうことだ。他者が確信や安心・癒しの原因となっているのが去勢済みな主体である。一方、他者が絶対的未知性の強いものであり、他者の中にいても迷子のごとく常態的にパニックあるいはフリーズ状態になったり、あるいは大航海時代の冒険者のごとく未知なる海に挑み、即ち所有・把握しようと必死になり、常態的に興奮状態となったりしているのが未去勢者である。未去勢者の一例アスペルガー症候群で言えば、他者の海の中で迷子になりフリーズしてしまったのが受動型であり、他者の海の中で大航海時代の冒険者となっているのが積極奇異型だと言える。ところが、去勢済みな主体にとって他者の海は、現代人が認識しているような全てが把握された地図上の海となっている。
要するに、未去勢者の主観世界における他者と、去勢済みな主体の主観世界における他者は別物と考えなければならない、ということだ。
とはいえ、去勢済みな主体でも他者を怖れることがある。神経症としての対人恐怖症である。これは、所有・把握可能な他者には穴が開いており、穴から垣間見えるおぞましい絶対的未知性が彼を脅かしている状態だと言えよう。地図上に開いた小さな穴から、大航海時代の冒険者が怖れながらも挑んだ未知なる海を垣間見る。この穴はラカン論においてしばしば用いられるそれと関連させることが可能である。
神経症としての対人恐怖症とは言わないまでも、この穴は一般の主体たちも経験するものであろう。たとえば、長くつきあった恋人でも理解できない部分があったりする。これは所有・把握可能な領域を網羅した結果、穴が浮き彫りになった状態である。所有・把握可能な領域だけを見ていればその恋人は主体に安心・癒しをもたらすものであるが、狭い陸地に飽き飽きした冒険者のごとき主体の未去勢的な部分が、恋人の理解不可能な部分、穴の部分へと興味を向けさせるのである。彼が去勢済みな主体であった場合、それは去勢の否認の状態であると言える。この時の彼にとっての恋人は、子供の頃迷子になった時の自分を脅かすような周りの人や物と同じものである。冒険者にとっての未知なる海である。この時の恋人は彼にとって物自体的な存在となっている。物自体的な恋人は彼を不安にさせたり興奮させたりする。
所有・把握とはあくまで幻想である。幻想が現実を覆い尽くしてしまったのが父の名を排除した精神病としてのパラノイアである。であるならば、いくら未去勢者と比してパラノイアックである去勢済みな主体と言えど、他者の全てを所有・把握してはいないのだ。彼らは所有・把握する可能性を確信しているが、実際は所有・把握しきれていないため、ところどころに穴がある。穴を見ないようにしていれば健全な人間関係を構築できるのだが、たとえばある心的外傷が原因となり、穴を気にするようになってしまったのが神経症としての対人恐怖症であると言える。
木村敏論で換言しておこう。彼は対人恐怖症をポスト・フェストゥムと分類するかアンテ・フェストゥムと分類するかで、多少の考慮をもってポスト・フェストゥムに分類しているが、ポストにもアンテにも対人恐怖症はありえる、というわけである。ポストが去勢済みな主体的な主観状態でアンテが未去勢的な主観状態だ。従って、幼児の対人恐怖症などはアンテ的と言えるだろう。成人主体の対人恐怖症について、去勢済みな主体が圧倒的多数なのは事実であるため、ポストに分類するのは統計上正しいとは言える。
またこの記事と関連させるならば、所有・把握可能な他者は「トランポリンのようなセーフティネット」に相当する。従って、一度去勢された主体は、どんなにそれに開いた穴に魅入られたとしても(たとえば神経症としての対人恐怖症者や恋人の理解不可能さに興味を向ける去勢済みな彼は)、ある極限で所有・把握可能な他者を見つけるだろう。セーフティネットにより、主体は穴から目をそらすことできるのだ。
しかしたとえ一つの穴から目をそらしたとしても、穴は他にも開いているだろう。これはラカン論における「完全に統合された人格など素晴らしいものではない」やフロイト論における「精神分析家の仕事は神経症者の苦痛をより苦しくない苦痛に変えさせることである」などという言説と呼応する。
ある時、「脂さんはツンデレキャラだと思って見るとつきあいやすくなるよ」と言われたことがある。言われたのはもちろんわたしではなくわたしを不快に思っている者たちであるが。
これなどは、わたしをツンデレキャラとラベリングし、所有・把握可能性を高めさせようとする言説であると言える。確かにそうラベリングされたわたしは所有・把握可能性が高くなるだろう。彼らは安心してわたしとつきあうことができるだろう。わたしという絶対的未知にツンデレキャラという地図を覆い被せることによって。
わたしの方は、ツンデレキャラというラベルについて、正しくないという意味での違和感を感じないこともなくはなかったが、その言説を否定しなかった。わたし自身がわたしたるゲル状の狂気をおぞましく思っているからだ。多少暑くても着ぐるみを着ることでわたしたるゲル状の狂気を隠蔽できるわけだから、我慢できる範囲なら別にそれでいいと思う。
ツンデレキャラという着ぐるみはいつでも脱げる。お遊びコスプレようなものだ。しかし実生活における「統合された事物としてのわたし」という着ぐるみは脱げない。脱げる一瞬もないことはないが、後で脱いだことを後悔する。
正常人は、この統合された自分という着ぐるみが皮膚に癒着している。皮膚そのものになっている。だからそれに違和感を感じない。それを異物だと思わない。
着ぐるみを脱ぎたくはない。ゲル状の狂気を隠蔽し続けたい。しかし違和感がある事実はどうにもならない。それが異物である事実は揺るがない。
この「着ぐるみ」という言葉は、アスペルガー症候群当事者のこの手記中にあるものと関連させて考えることができよう。またこの手記から、「他者の中にいても迷子のごとく常態的にパニックあるいはフリーズ状態にな」る受動型当事者の主観世界が多少なりともうかがい知れるだろう。
多くの成人主体は、着ぐるみの癒着が遠い過去になっている。この着ぐるみを初めて着るのは、鏡像段階あるいは間主観的自己感の形成期になるだろう。この記事で言う「人間ごっこ」を学ぶ時期である。従ってこう言える。去勢済みな主体たちは生後二年以内にこの着ぐるみを着、ずっとそれを着続けているのである。そりゃあ着ぐるみじゃなく皮膚そのものになっていような。逆に言えば正常人は着ぐるみを脱ぐのが困難であるということになる。
癒着した着ぐるみは無意識の奥底に格納される。着ぐるみを着ながら生きてきた経験がその上に積み重なっていく。抑圧である。着ぐるみによって隠蔽される妄想分裂態勢・抑鬱態勢あるいは新生自己感・中核自己感は、抑圧ではなく排除・棄却されている。
無意識の奥底に抑圧された着ぐるみが、おそらく笙野頼子の言う「どろどろ権現の奥にあるぺかぺか水晶」である。
未去勢者たちは、生後二年以内に着るはずの着ぐるみをうまく着れないまま育ってしまった。彼らの着ぐるみは脆い。谷山浩子『きみが壊れた』のガラスである。去勢済みな主体の着ぐるみは水晶であるのに対し、未去勢者のそれはガラスのごときものなのである。
おそらく、笙野頼子の主観世界における他者は所有・把握可能性が確信できるものであり、谷山浩子の主観世界における他者は絶対的未知性の強いものであろう。笙野が他者に未知性を見出す時、成人主体の対人恐怖症のごとく穴を通して見ることとなり、谷山の場合、笙野が穴から覗く未知なる海が、穴の向こうなどになっていないまま広がっており、小島のように所有・把握可能性があるということになろう。絶対的未知性を海とし所有・把握可能性を陸地とすれば、おそらくこの二人の主観世界における海と陸地の割合は逆転している。ちょうど権現というどろどろの中に水晶という固体がある笙野と、地球スーツという固体の中にどろどろした黒い文字が詰まっている火星人のように。
また、二人がたとえば自分の生死を分かつようなある極限状態に置かれた時、即ちその本性を現した時、他者を信頼できるのが笙野であり、他者に怯えるのが谷山となるだろう。ガタリ論で換言するならば、二人を相対させた時、モル的即ちパラノイアックなのが笙野であり、分子的即ちスキゾフレニックなのが谷山である、と言える。ちょうど『だいにっほんシリーズ』における「語る主体」と、『きみが壊れた』における壊れた「きみ」のように。
最終的にその人間が、他者を、確信あるいは安心・癒しをもたらす所有・把握可能なものとして見るか、迷子の時のようなパニック・フリーズあるいは大航海時代の冒険者の興奮感をもたらす絶対的未知性の強い所有・把握以前のものとして見るか。これが去勢済みな主体と未去勢者を判別するのに一つの要点となろう。
この記事でわたしの主観世界は無限であると書いた。他人から見れば無限ではないだろう。その他人が見たわたしは一部でしかないからだ。その部分が部分を横断することによって生じる幻影としての全体が、無限を予感させるか、有限を予感させるか、の違いである。
そういった意味で、わたしの主観世界と相対させて、笙野頼子の全体は有限を予感させ、谷山浩子のそれは無限を予感させる、という話である。わたしは『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』の『特典「映像」』で述べられたある言葉について、こう揶揄したことがある。
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本当の「荒れ狂う異物の海」に近いのは、たとえば、むしろ「心の理論」から自由な、自閉症者たちだとわたしは思う。もちろん「たとえば」。他にもいろいろあってよい。統合失調症者とか。
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わたしにとって笙野より自閉症者や統合失調症者の方が無限を予感させる。
無限の海と有限の陸地。
少なくともわたしの主観世界は笙野の提供する「器」という有限には納まることができない。ただそれだけの話である。
まあ、彼女にも生活はあるだろうし、蓮實の言う「大作家」になってもいいんじゃないかね? 歳も歳だしさ。老体に未去勢的な主観世界はそりゃきつかろう。本当の迷子状態ってな、体中の随意筋不随意筋問わない筋肉が、自分勝手に脳がコントロールできない状態で緊張するものだから。
年がら年中体力・精神力を使う主観世界だから。
安心・癒しの根拠が希薄な主観世界だから。
当然。