リゾームの実体は苦痛に塗れている。
2009/03/25/Wed
そうなんだよな。
この記事で「わたしの主観世界は無限である」という自分の言葉を分析しているが、ネタ元となったこの記事を読めばわかるように、迷子状態のごとき主観世界を指して言っているのである。
絶対的未知としての無限。
「無限」と一言で済ますと、「俺は無限を知っている」=「俺は全てを知っている」のごとき全知全能状態を、即ちファルスになってしまった状態を、たとえば笙野頼子の『金毘羅』状態を読み込まれる。誤読される。
誤読自体はいい。わたしの主観世界には誤読しか存在しない。わたしの主観世界では手紙は宛先に届かない。しかしブラックボックスのごとき整流器のせいで、大体の人が同じ誤読をする。多数の人間が同じ解釈をする。わたしはこれを問題にしている。
もちろんリンクしてある記事を読めば、それこそ迷子状態の主観世界を指して「無限」と言っているのであり、全知全能状態とは全く異なるのが理解できるのであろうが、わたしをファルスのある人間として多数の人間に同じ解釈をされ続けてきたわたしの慢性的で不確定性なトラウマが原因となって、過剰防衛しているのである。
無限であることはけしていいことじゃない。その実体は苦痛に塗れている。リゾームを素で生きている未去勢者にしかこの苦痛はわからない。リゾームを何か素晴らしいものとして語る奴は実体としてのリゾームを知らない奴らだと考えてよろしい。未去勢者の一人アルトーの言葉。
=====
この詩(『ジャバーウォックの歌』)は知的なご馳走を頂こうとする人間、結構な食卓で他人の苦しみを賞味しようとする利殖者の作品だ。……人が存在の、また言語のウンコを掘り下げるとなれば、その詩は快適であろうはずがない。
(中略)
ぼくは飢えた者たち、病人たち、非人たち、中毒患者たちの詩が好きだ――ヴィヨン、ボードレール、ボウ、ネルヴァル。そして書くものの中で身を亡ぼしてしまっている言語の死刑囚たちの詩が好きなのだ……。
(高橋康也訳、藤田博史著『性倒錯の構造』より。()内筆者補注)
=====
「リゾームを何か素晴らしいものとして語る奴」とは即ち「結構な食卓で他人の苦しみを賞味しようとする利殖者」である。
アルトーの言葉を多数引用しながらリゾームを肯定的に語るガタリが、そのままこの「利殖者」にあてはまるのがよくわかるだろう。
めんどくせえな、お前ら。
死んでくれない? 全員とは言わないから八割ぐらい。
「人間らしさ」という整流器によって大体同じメタ言語を読み込むお前ら。
いや本気で言ってるんだけど。
メタ言語なんか存在しないんだよ。
お前ら、正常という精神疾患者即ちパラノイアックなBPDが執着している妄想にすぎない。
まずそれを自覚しなければ実体は見えない。
おそらく、正常人(去勢済みな主体)とキチガイ(未去勢者)の大きな違いは、無意識の奥底の、精神と肉体の分岐点とも言える領域に、「トランポリンのようなセーフティネット」があるかないか、現実的に言うなら確固としてあるかあってもティッシュペーパーのように脆いものか、の違いである。おそらくこのネットが完全にない人間などいないだろう。純粋な器官なき身体など存在しない、ということだ。
精神分析治療というものは、去勢済みな主体には確固としてある「トランポリンのようなセーフティネット」を最大限に活用する治療法である。分析前半にクライアントが陥るデプレッションは、トランポリン目がけて落ちている状態である。クライアントはトランポリンを見えなくする幻想を解体していく。自分自身を分析していく(ラカン派ではクライアントを分析者と呼ぶ)。そうしてこのトランポリンに触れた時、クライアントはファルスを再発見する。笙野の『金毘羅』に相当する瞬間である。
トランポリンによって弾き返され、彼はそれまでより少しはましな幻想に戻っていく。
しかし、このトランポリンが脆い人間即ち未去勢者はどうなるだろう。
彼らも等しく自分自身を分析していく。そうしてティッシュペーパーのようなセーフティネットに触れる。
破れる。
彼はセーフティネットの向こうに落ちてしまうだろう。ラカンの「女は存在しない」における女という無限領域に。クライン論における妄想分裂態勢・抑鬱態勢に。
精神分析治療は統合失調症や自閉症などには有効ではない。これは事実である。
有効ではないのではない。精神分析治療は統合失調症や自閉症などという未去勢者にとって狂気の増幅を、症状の悪化を促進する可能性が高い。むしろ、治療を目的とするならば、精神分析治療を未去勢者に適用させてはいけない。
何故なら精神分析治療とはこの「トランポリンのようなセーフティネット」を過信した治療方法なのだから。
断っておくが、わたしは未去勢者を治療するために精神分析を用いてその領域を論じているわけではない。逆精神分析というわたしが提唱する概念を考えても明らかだろう。逆精神分析は精神疾患の治療ではなく悪化を目的としている。ファルスの再発見だけではなくその破壊を目指している。従って、ファルスの想像界的側面と言えるこのセーフティネットを壊すことをも目的としている、と言い換えられる。であるならば、逆精神分析は未去勢者に対してはたやすく効果が生じるだろう。一方、去勢済みな主体のセーフティネットは確固たるものである。逆精神分析は去勢済みな主体の前に何度も挫折するだろう。これはわたしがこのブログで行なってきた臨床にも合致する。土鍋ごはん症例は彼女の症状を悪化させるのは容易だったし、まんこちゃん症例では失敗だったとわたしは結論づけている。むしろ正統な精神分析になってしまったと。
これらのことから、わたしの中にもあるささやかな「人間らしさ」により、逆精神分析も去勢済みな主体にしか適用させるべきではない、とわたしは判断する。もちろんこの判断は、わたしを逆精神分析すれば容易に取り消されることだろう。
とはいえ逆精神分析は正統な精神分析の前半過程そのものでもあるため、やってみないとその人間が去勢済みな主体か未去勢者かわからない、ってことでもあるけどね。
まー要するに人間的に許されない実験をやったマッドサイエンティストみたいなものだ。
この実験を精神分析に関わる人間たちがどう利用するか知らない。わたしは自分勝手にやっただけだから。つーかむしろ「(正統も逆も問わない)精神分析は未去勢者の狂気を悪化させる」という事実が臨床例を伴って示された、と言えよう。
ある未去勢者たちが集うスレから引用する。
=====
自分の心理状態と向き合う事は、ちょいと気をつけていた方がいいとオモ。
=====
正しい。「自分の心理状態と向き合う事」が、「人間らしさ」にとってよい結果となるのは、去勢済みな主体に限定されている。
またこのことはこの記事のコメント欄における
=====
「ないことにしてほしい」という呪文をかけてくれ、という意味もあるんです。
=====
にも呼応しよう。
内面を掘り下げると「ただそうであるだけの狂気」をすぐ発見してしまうから、「自分の心理状態と向き合う事は、ちょいと気をつけていた方がいい」となり、それを「ないことにしてほしい」となるのだ。
未去勢者たちは近寄らない方がいいよ。わたしに。このブログに。読むだけならまだまあいいけど。
未去勢者の中には正常人即ち去勢済みな主体に対する物理的反作用とも呼べる恐怖や憎悪を承認している人間もいるだろう。そういう人間なら読めるんでないかい?
わたしは物理的反作用でメスを振るうだけだから、落ちたくない未去勢者はわたしに関わらない方がいいよ。ヤケドスルゼ。
ランダのくちづけをされたくない人たちは、ね。
『アンナと王様』を見た。
なんつーか、チョウ・ユンファの香港らしい平面的な演技(批判しているわけじゃないよ。そういうのも好き。香港ノワール好きだし。『バレット・モンク』も好きだぜ。平面的な演技が最大限に活かされてる)とジョディ・フォスターの常に青筋立ってるような顔面筋の緊張マックスみたいな演技がずれているのがなんとも。異文化ものだからそれがおもしろいとも言えるけど映画(役者の演技)文化の違いだからなあ、これ。
それこそ『羊たちの沈黙』とか『パニック・ルーム』とかシチュエーションとマッチしている映画だとあれだけど、ジョディ・フォスターの演技の魅力ってこの緊張感なんだよなあ、と思った。
ガラスなんだよね。いろいろと。脆そう、っていうか。『羊たち~』はそれが抜群にマッチしてた。『パニック・ルーム』は娘を守る構図があったからね。
なんでもかんでも未去勢的って言ってるように思われるかもしれないけど、この緊張感をキョドりと言い換えるとこの記事で書いているように、それが彼女の未去勢的な魅力と言えよう。だから娘を守る『パニック・ルーム』より『羊たち~』の方がいい。
緊張感があればいい、ってわけじゃないんだけどね。キョドりに近い緊張感。チョウ・ユンファと比べると単にキョドってるようにしか見えないもん(笑)。ラストシーンとか特に。
それを気づかせてくれただけでも評価する。個人的な評価。
なんか残る映画だった。
民族的には、一般に言われてるのと逆で、白人の方が未去勢的で、黄色人種の方が去勢済み的なのかもしれない。日本なら和を尊ぶっていうのは去勢済みっぽいし。孤児という無意識の本質から見れば。西洋的社会が象徴的でアジア的社会が想像的なのは確かだろうけど、アスペルガー症候群なんか傾向的に象徴界の力動の方が強いからね。象徴的か想像的かの違いは実は未去勢的か去勢済み的かとは関係ないということを理解してないラカニアンが多くて困るわ。特に社会学系の奴ら。去勢の承認/否認において象徴的か想像的かって区別が生じているだけであって、未去勢か去勢済みかは現実界的か非現実界(即ち象徴界と想像界)的かの違いである。
哲学系あるいは社会学系のラカニアンたちはそれを肝に銘じておけ。馬鹿どもが。柄谷レベルでもここがわかってないしな。ラカンに限らず精神分析という道具を利用するならちったあ臨床してからやれよアホウ。
ああほんとむかつくわ。
この記事で「わたしの主観世界は無限である」という自分の言葉を分析しているが、ネタ元となったこの記事を読めばわかるように、迷子状態のごとき主観世界を指して言っているのである。
絶対的未知としての無限。
「無限」と一言で済ますと、「俺は無限を知っている」=「俺は全てを知っている」のごとき全知全能状態を、即ちファルスになってしまった状態を、たとえば笙野頼子の『金毘羅』状態を読み込まれる。誤読される。
誤読自体はいい。わたしの主観世界には誤読しか存在しない。わたしの主観世界では手紙は宛先に届かない。しかしブラックボックスのごとき整流器のせいで、大体の人が同じ誤読をする。多数の人間が同じ解釈をする。わたしはこれを問題にしている。
もちろんリンクしてある記事を読めば、それこそ迷子状態の主観世界を指して「無限」と言っているのであり、全知全能状態とは全く異なるのが理解できるのであろうが、わたしをファルスのある人間として多数の人間に同じ解釈をされ続けてきたわたしの慢性的で不確定性なトラウマが原因となって、過剰防衛しているのである。
無限であることはけしていいことじゃない。その実体は苦痛に塗れている。リゾームを素で生きている未去勢者にしかこの苦痛はわからない。リゾームを何か素晴らしいものとして語る奴は実体としてのリゾームを知らない奴らだと考えてよろしい。未去勢者の一人アルトーの言葉。
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この詩(『ジャバーウォックの歌』)は知的なご馳走を頂こうとする人間、結構な食卓で他人の苦しみを賞味しようとする利殖者の作品だ。……人が存在の、また言語のウンコを掘り下げるとなれば、その詩は快適であろうはずがない。
(中略)
ぼくは飢えた者たち、病人たち、非人たち、中毒患者たちの詩が好きだ――ヴィヨン、ボードレール、ボウ、ネルヴァル。そして書くものの中で身を亡ぼしてしまっている言語の死刑囚たちの詩が好きなのだ……。
(高橋康也訳、藤田博史著『性倒錯の構造』より。()内筆者補注)
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「リゾームを何か素晴らしいものとして語る奴」とは即ち「結構な食卓で他人の苦しみを賞味しようとする利殖者」である。
アルトーの言葉を多数引用しながらリゾームを肯定的に語るガタリが、そのままこの「利殖者」にあてはまるのがよくわかるだろう。
めんどくせえな、お前ら。
死んでくれない? 全員とは言わないから八割ぐらい。
「人間らしさ」という整流器によって大体同じメタ言語を読み込むお前ら。
いや本気で言ってるんだけど。
メタ言語なんか存在しないんだよ。
お前ら、正常という精神疾患者即ちパラノイアックなBPDが執着している妄想にすぎない。
まずそれを自覚しなければ実体は見えない。
おそらく、正常人(去勢済みな主体)とキチガイ(未去勢者)の大きな違いは、無意識の奥底の、精神と肉体の分岐点とも言える領域に、「トランポリンのようなセーフティネット」があるかないか、現実的に言うなら確固としてあるかあってもティッシュペーパーのように脆いものか、の違いである。おそらくこのネットが完全にない人間などいないだろう。純粋な器官なき身体など存在しない、ということだ。
精神分析治療というものは、去勢済みな主体には確固としてある「トランポリンのようなセーフティネット」を最大限に活用する治療法である。分析前半にクライアントが陥るデプレッションは、トランポリン目がけて落ちている状態である。クライアントはトランポリンを見えなくする幻想を解体していく。自分自身を分析していく(ラカン派ではクライアントを分析者と呼ぶ)。そうしてこのトランポリンに触れた時、クライアントはファルスを再発見する。笙野の『金毘羅』に相当する瞬間である。
トランポリンによって弾き返され、彼はそれまでより少しはましな幻想に戻っていく。
しかし、このトランポリンが脆い人間即ち未去勢者はどうなるだろう。
彼らも等しく自分自身を分析していく。そうしてティッシュペーパーのようなセーフティネットに触れる。
破れる。
彼はセーフティネットの向こうに落ちてしまうだろう。ラカンの「女は存在しない」における女という無限領域に。クライン論における妄想分裂態勢・抑鬱態勢に。
精神分析治療は統合失調症や自閉症などには有効ではない。これは事実である。
有効ではないのではない。精神分析治療は統合失調症や自閉症などという未去勢者にとって狂気の増幅を、症状の悪化を促進する可能性が高い。むしろ、治療を目的とするならば、精神分析治療を未去勢者に適用させてはいけない。
何故なら精神分析治療とはこの「トランポリンのようなセーフティネット」を過信した治療方法なのだから。
断っておくが、わたしは未去勢者を治療するために精神分析を用いてその領域を論じているわけではない。逆精神分析というわたしが提唱する概念を考えても明らかだろう。逆精神分析は精神疾患の治療ではなく悪化を目的としている。ファルスの再発見だけではなくその破壊を目指している。従って、ファルスの想像界的側面と言えるこのセーフティネットを壊すことをも目的としている、と言い換えられる。であるならば、逆精神分析は未去勢者に対してはたやすく効果が生じるだろう。一方、去勢済みな主体のセーフティネットは確固たるものである。逆精神分析は去勢済みな主体の前に何度も挫折するだろう。これはわたしがこのブログで行なってきた臨床にも合致する。土鍋ごはん症例は彼女の症状を悪化させるのは容易だったし、まんこちゃん症例では失敗だったとわたしは結論づけている。むしろ正統な精神分析になってしまったと。
これらのことから、わたしの中にもあるささやかな「人間らしさ」により、逆精神分析も去勢済みな主体にしか適用させるべきではない、とわたしは判断する。もちろんこの判断は、わたしを逆精神分析すれば容易に取り消されることだろう。
とはいえ逆精神分析は正統な精神分析の前半過程そのものでもあるため、やってみないとその人間が去勢済みな主体か未去勢者かわからない、ってことでもあるけどね。
まー要するに人間的に許されない実験をやったマッドサイエンティストみたいなものだ。
この実験を精神分析に関わる人間たちがどう利用するか知らない。わたしは自分勝手にやっただけだから。つーかむしろ「(正統も逆も問わない)精神分析は未去勢者の狂気を悪化させる」という事実が臨床例を伴って示された、と言えよう。
ある未去勢者たちが集うスレから引用する。
=====
自分の心理状態と向き合う事は、ちょいと気をつけていた方がいいとオモ。
=====
正しい。「自分の心理状態と向き合う事」が、「人間らしさ」にとってよい結果となるのは、去勢済みな主体に限定されている。
またこのことはこの記事のコメント欄における
=====
「ないことにしてほしい」という呪文をかけてくれ、という意味もあるんです。
=====
にも呼応しよう。
内面を掘り下げると「ただそうであるだけの狂気」をすぐ発見してしまうから、「自分の心理状態と向き合う事は、ちょいと気をつけていた方がいい」となり、それを「ないことにしてほしい」となるのだ。
未去勢者たちは近寄らない方がいいよ。わたしに。このブログに。読むだけならまだまあいいけど。
未去勢者の中には正常人即ち去勢済みな主体に対する物理的反作用とも呼べる恐怖や憎悪を承認している人間もいるだろう。そういう人間なら読めるんでないかい?
わたしは物理的反作用でメスを振るうだけだから、落ちたくない未去勢者はわたしに関わらない方がいいよ。ヤケドスルゼ。
ランダのくちづけをされたくない人たちは、ね。
『アンナと王様』を見た。
なんつーか、チョウ・ユンファの香港らしい平面的な演技(批判しているわけじゃないよ。そういうのも好き。香港ノワール好きだし。『バレット・モンク』も好きだぜ。平面的な演技が最大限に活かされてる)とジョディ・フォスターの常に青筋立ってるような顔面筋の緊張マックスみたいな演技がずれているのがなんとも。異文化ものだからそれがおもしろいとも言えるけど映画(役者の演技)文化の違いだからなあ、これ。
それこそ『羊たちの沈黙』とか『パニック・ルーム』とかシチュエーションとマッチしている映画だとあれだけど、ジョディ・フォスターの演技の魅力ってこの緊張感なんだよなあ、と思った。
ガラスなんだよね。いろいろと。脆そう、っていうか。『羊たち~』はそれが抜群にマッチしてた。『パニック・ルーム』は娘を守る構図があったからね。
なんでもかんでも未去勢的って言ってるように思われるかもしれないけど、この緊張感をキョドりと言い換えるとこの記事で書いているように、それが彼女の未去勢的な魅力と言えよう。だから娘を守る『パニック・ルーム』より『羊たち~』の方がいい。
緊張感があればいい、ってわけじゃないんだけどね。キョドりに近い緊張感。チョウ・ユンファと比べると単にキョドってるようにしか見えないもん(笑)。ラストシーンとか特に。
それを気づかせてくれただけでも評価する。個人的な評価。
なんか残る映画だった。
民族的には、一般に言われてるのと逆で、白人の方が未去勢的で、黄色人種の方が去勢済み的なのかもしれない。日本なら和を尊ぶっていうのは去勢済みっぽいし。孤児という無意識の本質から見れば。西洋的社会が象徴的でアジア的社会が想像的なのは確かだろうけど、アスペルガー症候群なんか傾向的に象徴界の力動の方が強いからね。象徴的か想像的かの違いは実は未去勢的か去勢済み的かとは関係ないということを理解してないラカニアンが多くて困るわ。特に社会学系の奴ら。去勢の承認/否認において象徴的か想像的かって区別が生じているだけであって、未去勢か去勢済みかは現実界的か非現実界(即ち象徴界と想像界)的かの違いである。
哲学系あるいは社会学系のラカニアンたちはそれを肝に銘じておけ。馬鹿どもが。柄谷レベルでもここがわかってないしな。ラカンに限らず精神分析という道具を利用するならちったあ臨床してからやれよアホウ。
ああほんとむかつくわ。