『夜の一品』――夜の迷子は調理される。
2009/03/26/Thu
エジプトミステリーとかそういう番組をよく見る。
考古学自体はそんなに興味ないんだけどなあ。
わたしの持論というかポリシーとして、学問とは解答を与えるものではなく、問いを作り出す装置だ、というのがあるが、エジプトミステリー系の番組はよくもまあ謎が尽きないなあというほど後から後から謎が出てくる。当然なのだ。わたしたちはその時代を生きているわけじゃないのだから、そのありのままを知ることには絶対にならない。その時代の現実を知ることを目的としているのが考古学で、タイムマシンでも使わない限り永遠に現実には辿り着けないのだから謎は尽きるわけがないのだ。
だからと言って謎を解くのをやめるということにはならない。
だから見ちゃうのかなあ、と思った。
謎が尽きないのがむしろ現実なのだ。
現実では人間全員迷子なのだ。
なのに何故お前らはそんな平気な顔して生きていけるのだ?
思い出してみろよ。子供の頃迷子になった時を。周りの人や物全てが自分を脅かしているようなあの状態を。絶対的未知たる無限に囲まれていたあの瞬間を。
あの頃と現実は変わっていない。変わったのはお前の頭の中でそれらを所有・把握可能なものとして見做していることだけだ。頭の中でお前は周りの人や物全てを支配しているのだ。お前はお前の主観世界における王だ。パラノイアだ。王や英雄は大体パラノイアなのだ。
お前が生きている主観世界はパラノイアの妄想となんら違いはない。
『夜の一品』がエロくて身悶えしている。
小学生の時、音楽の授業でビバルディの四季だかを聞かされて、先生が「どの季節が一番好き?」という質問をした。やっぱり春が一番多かったかな。わたしは秋が好きだったので「秋が好きな人?」に手を挙げた。クラスで二人だけだった。わたしと背のちっこい『ねじ式』の主人公みたいな男の子。それだけならまだいいんだけど先生は余計なことを言った。「秋は……そうね、色気があるよね」みたいな。
まあなんつーか恥ずかしかったわ。『ねじ式』の男の子からはそれ以来やけに嫌われてる感じがしたしな。こっちも気持ち悪かったからいいんだけど。
他者の享楽とは、わたしは無限領域が有限領域に寄生されることの享楽だと解釈している。
宿主は寄生するものを飲み込んでおり、寄生するものは宿主のエネルギーを吸い取っている。食べて食べられる関係。『夜の一品』。
このことは、女性的抑鬱症の特徴としてカニバリズムなどといった倒錯的な幻想が多く見られることにも関連するのかもしれない。
鏡像段階という主観世界の有限化の儀式を終えて久しいお前ら正常人には他者の享楽は一生認知できない。断言する。
夜という絶対的未知。
夜という無限。
夜の迷子。
仕事明け、昼までやっているスナックで酔い潰れるホステス。
店の中は夜が明けようと薄暗いままなのだが、一歩店を出ると、階段の踊り場にある大きな窓から大量のフォトンを浴びる。
あれも他者の享楽だ。
二階堂奥歯のような宗教的なものももちろんそうだけど、これだってそうだ。この薄汚いペンシルビルは教会だ。
死にたくなる。
光に殺されているような気がする。
本当に自分が吸血鬼にでもなったかのような。
無数のフォトンに貫かれている。
よく泣いた。
吸血鬼になりたかった。
そのまま灰になりたかった。
あ、あと何度も書いている対比表現だけど、たとえばこの記事からなら
=====
ちょうど権現というどろどろの中に水晶という固体がある笙野と、地球スーツという固体の中にどろどろした黒い文字が詰まっている火星人のように。
=====
って奴。
これって要するにファルスとサントームって話だと思う。直観だから理屈デコレーションできないけど。
水晶という軸と地球スーツという柵。イメージで考えてみそ?
再度取り上げるがこちらのアスペルガー症候群当事者の手記における「バトルスーツ」は、定型発達者にとってスーツにはなっておらず、内面の奥深くで自己を統合する軸となっている、ということだ。笙野頼子のバトルスーツは水晶である、ということだ。当然である。去勢済みな主体にとってバトルスーツを初めて着用するのは生後二年以内である。そんな遠い昔から着用し続けているのだから、内面の奥深くで軸となっているわけだ。
わたしは笙野頼子は去勢済みな主体だと診断しているが、であるならば軸だけがあって柵がないのが正常人で、軸がなくて柵だけがあるのがキチガイだ、という風に理解されるかもしれない。そうではない。後者は正しい。未去勢者即ちファルスという軸に不具合のある人間には、軸がなくて事後的にやりくりして築き上げた柵しかない。正常人の場合、軸即ちファルスもあり柵即ちサントームもある。この記事から。
=====
補足しておくと、自閉症者のエコラリアやエコプラクシアも現実界的なものではない。現実界のうねりから防衛するための、「軸」のない「柵」である。一方、「軸」もあって「柵」もあるのが定型発達者の精神構造である。定型発達者たちは、安心の二重構造により防衛されている。これらの二重構造は精神分析において様々な側面を様々な言い方で表現されている。快楽原則と現実原則、自我と超自我、想像界と象徴界、S1とS2、ファルスとサントーム、セミオティックとサンボリック、等々。
(中略)
なお、この「軸」は現実的には中空軸であり、「軸」と「柵」は通底している。このことを図式的に表すならば、シフォンケーキの型を想像すればよろしい。この型を上下にくっつけるとあら不思議、ドーナツになる。ラカンの言う言語構造というトーラスになる。
=====
ここで触れているトーラスはこの記事が参考になるだろうか。
軸と柵は通底しているから、柵をより高く築き上げれば軸もより成長する。笙野の水晶という軸は自然に成長する。
あと一つだけ注意して欲しいのは、地球スーツの中のどろどろは無限の主観世界を示していると考えなければならない。どろどろは無限だから、火星人即ち未去勢者は地球スーツという有限化装置を必要とする。どろどろという無限は地球スーツという有限に寄生される。夜の迷子は調理され一品として提供される。
ここの非公開コメントから一文だけ引用させていただく。
=====
「自閉症者も縛られたがっている」というのは正しいのですが、それは、「ないことにしてほしい」という呪文をかけてくれ、という意味もあるんです。
=====
さて、内面が「ある」ことを声高に主張する笙野頼子は、無限の狂気という実体に苦しんでいるこういった人間のうめき声をどう捉えるのだろうか? 水晶という統合の軸を持っている故、正常人・去勢済みな主体・定型発達者は統合されていないというただそうであるだけの原初的な苦痛(クリステヴァ論なら「始原の暴力」)を味わうことがない。彼女はそれを認知して「ある」と主張しているのだろうか?
未去勢者の内面を「ある」とするならば、仮に坂東眞砂子が未去勢者だとしたら(そうであるならばおそらくスキゾイドだろう)、彼女は言っていることとやっていることが違う、ということになる。嘘をついているということになる。自分にとって都合のいいものしか「ある」ことを許さないただの人間臭いパラノイアックなBPDであることがばれてしまう。
笙野、あなたはまずそれに気づかなければならない。
火星人を描く資格はない。
薄暗い森林公園。みんなとはぐれてしまった。カラフルなガラスの破片が地面に散らばっている。血塗れの犬か狸の死骸が転がっている。ガラスが刺さって死んだのだろう、と思う。
雨が降るように何かの実が落ちている。熟れすぎたトマトみたいに、わたしの体に当たってべちゃっとなる。臭い。香ばしいようなすえたような臭い。わたしは汚れたところを拭きながらさまよい歩く。木のうろを見つける。そこに避難しようかと思う。しかしうろは小さすぎる。もう少し大きければな、と思いうろの中を覗く。
巨大な目がこちらを見ていた。
まぶたがない。うろの奥に両手一杯ほどの眼球が埋め込まれているよう。
わたしはそれが先生だと思う。ここに連れてきてくれた学校の先生。
うろの中から話し声が聞こえる。先生が穴の向こうから穴を覗くよう生徒に言っている。
「ほらね。あちら側はあんなに汚いのよ。だからみんなはあちら側に行っちゃだめよ」
わたしはみんなのところには行けないと思う。
ここはぼっとん便所の中だ。このうろは便器の裏側だ。
この先生は笙野頼子だ。
わたしは笙野に殺されている。自分勝手に。
しかし笙野、精神分析の知識あるんだろうか。なかったならどうやって『千のプラトー』読んだんだろう? ガタリだって元はラカン派なんだが。だからこそ「フロイトの読み直し」たるラカン論にクリティカルな反論ができたわけで。
不思議ー。
考古学自体はそんなに興味ないんだけどなあ。
わたしの持論というかポリシーとして、学問とは解答を与えるものではなく、問いを作り出す装置だ、というのがあるが、エジプトミステリー系の番組はよくもまあ謎が尽きないなあというほど後から後から謎が出てくる。当然なのだ。わたしたちはその時代を生きているわけじゃないのだから、そのありのままを知ることには絶対にならない。その時代の現実を知ることを目的としているのが考古学で、タイムマシンでも使わない限り永遠に現実には辿り着けないのだから謎は尽きるわけがないのだ。
だからと言って謎を解くのをやめるということにはならない。
だから見ちゃうのかなあ、と思った。
謎が尽きないのがむしろ現実なのだ。
現実では人間全員迷子なのだ。
なのに何故お前らはそんな平気な顔して生きていけるのだ?
思い出してみろよ。子供の頃迷子になった時を。周りの人や物全てが自分を脅かしているようなあの状態を。絶対的未知たる無限に囲まれていたあの瞬間を。
あの頃と現実は変わっていない。変わったのはお前の頭の中でそれらを所有・把握可能なものとして見做していることだけだ。頭の中でお前は周りの人や物全てを支配しているのだ。お前はお前の主観世界における王だ。パラノイアだ。王や英雄は大体パラノイアなのだ。
お前が生きている主観世界はパラノイアの妄想となんら違いはない。
『夜の一品』がエロくて身悶えしている。
小学生の時、音楽の授業でビバルディの四季だかを聞かされて、先生が「どの季節が一番好き?」という質問をした。やっぱり春が一番多かったかな。わたしは秋が好きだったので「秋が好きな人?」に手を挙げた。クラスで二人だけだった。わたしと背のちっこい『ねじ式』の主人公みたいな男の子。それだけならまだいいんだけど先生は余計なことを言った。「秋は……そうね、色気があるよね」みたいな。
まあなんつーか恥ずかしかったわ。『ねじ式』の男の子からはそれ以来やけに嫌われてる感じがしたしな。こっちも気持ち悪かったからいいんだけど。
他者の享楽とは、わたしは無限領域が有限領域に寄生されることの享楽だと解釈している。
宿主は寄生するものを飲み込んでおり、寄生するものは宿主のエネルギーを吸い取っている。食べて食べられる関係。『夜の一品』。
このことは、女性的抑鬱症の特徴としてカニバリズムなどといった倒錯的な幻想が多く見られることにも関連するのかもしれない。
鏡像段階という主観世界の有限化の儀式を終えて久しいお前ら正常人には他者の享楽は一生認知できない。断言する。
夜という絶対的未知。
夜という無限。
夜の迷子。
仕事明け、昼までやっているスナックで酔い潰れるホステス。
店の中は夜が明けようと薄暗いままなのだが、一歩店を出ると、階段の踊り場にある大きな窓から大量のフォトンを浴びる。
あれも他者の享楽だ。
二階堂奥歯のような宗教的なものももちろんそうだけど、これだってそうだ。この薄汚いペンシルビルは教会だ。
死にたくなる。
光に殺されているような気がする。
本当に自分が吸血鬼にでもなったかのような。
無数のフォトンに貫かれている。
よく泣いた。
吸血鬼になりたかった。
そのまま灰になりたかった。
あ、あと何度も書いている対比表現だけど、たとえばこの記事からなら
=====
ちょうど権現というどろどろの中に水晶という固体がある笙野と、地球スーツという固体の中にどろどろした黒い文字が詰まっている火星人のように。
=====
って奴。
これって要するにファルスとサントームって話だと思う。直観だから理屈デコレーションできないけど。
水晶という軸と地球スーツという柵。イメージで考えてみそ?
再度取り上げるがこちらのアスペルガー症候群当事者の手記における「バトルスーツ」は、定型発達者にとってスーツにはなっておらず、内面の奥深くで自己を統合する軸となっている、ということだ。笙野頼子のバトルスーツは水晶である、ということだ。当然である。去勢済みな主体にとってバトルスーツを初めて着用するのは生後二年以内である。そんな遠い昔から着用し続けているのだから、内面の奥深くで軸となっているわけだ。
わたしは笙野頼子は去勢済みな主体だと診断しているが、であるならば軸だけがあって柵がないのが正常人で、軸がなくて柵だけがあるのがキチガイだ、という風に理解されるかもしれない。そうではない。後者は正しい。未去勢者即ちファルスという軸に不具合のある人間には、軸がなくて事後的にやりくりして築き上げた柵しかない。正常人の場合、軸即ちファルスもあり柵即ちサントームもある。この記事から。
=====
補足しておくと、自閉症者のエコラリアやエコプラクシアも現実界的なものではない。現実界のうねりから防衛するための、「軸」のない「柵」である。一方、「軸」もあって「柵」もあるのが定型発達者の精神構造である。定型発達者たちは、安心の二重構造により防衛されている。これらの二重構造は精神分析において様々な側面を様々な言い方で表現されている。快楽原則と現実原則、自我と超自我、想像界と象徴界、S1とS2、ファルスとサントーム、セミオティックとサンボリック、等々。
(中略)
なお、この「軸」は現実的には中空軸であり、「軸」と「柵」は通底している。このことを図式的に表すならば、シフォンケーキの型を想像すればよろしい。この型を上下にくっつけるとあら不思議、ドーナツになる。ラカンの言う言語構造というトーラスになる。
=====
ここで触れているトーラスはこの記事が参考になるだろうか。
軸と柵は通底しているから、柵をより高く築き上げれば軸もより成長する。笙野の水晶という軸は自然に成長する。
あと一つだけ注意して欲しいのは、地球スーツの中のどろどろは無限の主観世界を示していると考えなければならない。どろどろは無限だから、火星人即ち未去勢者は地球スーツという有限化装置を必要とする。どろどろという無限は地球スーツという有限に寄生される。夜の迷子は調理され一品として提供される。
ここの非公開コメントから一文だけ引用させていただく。
=====
「自閉症者も縛られたがっている」というのは正しいのですが、それは、「ないことにしてほしい」という呪文をかけてくれ、という意味もあるんです。
=====
さて、内面が「ある」ことを声高に主張する笙野頼子は、無限の狂気という実体に苦しんでいるこういった人間のうめき声をどう捉えるのだろうか? 水晶という統合の軸を持っている故、正常人・去勢済みな主体・定型発達者は統合されていないというただそうであるだけの原初的な苦痛(クリステヴァ論なら「始原の暴力」)を味わうことがない。彼女はそれを認知して「ある」と主張しているのだろうか?
未去勢者の内面を「ある」とするならば、仮に坂東眞砂子が未去勢者だとしたら(そうであるならばおそらくスキゾイドだろう)、彼女は言っていることとやっていることが違う、ということになる。嘘をついているということになる。自分にとって都合のいいものしか「ある」ことを許さないただの人間臭いパラノイアックなBPDであることがばれてしまう。
笙野、あなたはまずそれに気づかなければならない。
火星人を描く資格はない。
薄暗い森林公園。みんなとはぐれてしまった。カラフルなガラスの破片が地面に散らばっている。血塗れの犬か狸の死骸が転がっている。ガラスが刺さって死んだのだろう、と思う。
雨が降るように何かの実が落ちている。熟れすぎたトマトみたいに、わたしの体に当たってべちゃっとなる。臭い。香ばしいようなすえたような臭い。わたしは汚れたところを拭きながらさまよい歩く。木のうろを見つける。そこに避難しようかと思う。しかしうろは小さすぎる。もう少し大きければな、と思いうろの中を覗く。
巨大な目がこちらを見ていた。
まぶたがない。うろの奥に両手一杯ほどの眼球が埋め込まれているよう。
わたしはそれが先生だと思う。ここに連れてきてくれた学校の先生。
うろの中から話し声が聞こえる。先生が穴の向こうから穴を覗くよう生徒に言っている。
「ほらね。あちら側はあんなに汚いのよ。だからみんなはあちら側に行っちゃだめよ」
わたしはみんなのところには行けないと思う。
ここはぼっとん便所の中だ。このうろは便器の裏側だ。
この先生は笙野頼子だ。
わたしは笙野に殺されている。自分勝手に。
しかし笙野、精神分析の知識あるんだろうか。なかったならどうやって『千のプラトー』読んだんだろう? ガタリだって元はラカン派なんだが。だからこそ「フロイトの読み直し」たるラカン論にクリティカルな反論ができたわけで。
不思議ー。