嘘の享楽
2009/03/27/Fri
結局、言い訳なのだ。言い訳で言った言葉が事物としてのわたしを統合していく。言葉に限らず象徴界そのものが嘘なわけだから、言い訳は嘘でも構わない。しかし嘘だけだとわたしじゃないものとして統合される。従って、肉の本たるわたしの言葉を採用しなければならない。嘘じゃない言葉を。ささやかな嘘じゃない言葉に纏わりつく言い訳として言葉を付属させていく。付属させる言葉は嘘だ。隠喩連鎖した言葉は嘘だ。嘘で構わない。隠喩連鎖は人それぞれ。どう連鎖しても構わない。隠喩連鎖に嘘や真実などない。
あなたたちはわたしにとっての嘘だけで生きていける。事物として統合されたあなたを何も苦労せずに生きている。
そんなあなたたちにわたしという肉の本の言葉は嘘と言われる。たとえば「一貫性がない」などという理由で。事物として統合された自分を持てているから真実には一貫性があるとあなたが思いこんでいるだけなのに。わたしにとって事物として統合されたわたしが嘘だ。一貫性のある方が嘘だ。
だから言い訳が必要となる。嘘で構わない言い訳が。
あなたたちのせいだとは言わない。わたしがそれを必要としている。わたしがわたしにとっての嘘を必要としている。肉の本が喋るあなたたちにとっての嘘がわたしにとっての真実だから、隠喩連鎖されたそもそもが嘘である言葉たちを必要する。
隠喩連鎖されたそもそもが嘘である言葉たちが無意識になって、真実となっているのがあなたたちだ。それが超自我だ。言語のように構造化されている無意識だ。
わたしはそれが壊れている。だからわたしにとってそれは嘘となる。あなたたちにとっての無意識に根づいた真実の言葉はわたしにとって嘘だ。
それが嘘にならなくなるのが他者の享楽だ。
嘘に寄生されることの享楽だ。
二階堂奥歯が希求した「私を説得」する「あなたの存在」だ。
「○○さんって、マキビシみたい」
「マキビシ?」
「ほら、忍者が追っ手から逃げる時使う奴で、地面にばら撒いといて、敵が踏むと棘が足の裏に刺さってイタタタって」
「いやそれは知ってるけど」
「うん、マキビシ」
「なんで俺?」
「うーん……、○○さんって、普段は目立たないけど、締め切り前とかみんなぴりぴりしてる時に限ってチクリと言うじゃん? そういうのかな」
「そんなことしてるか?」
「してるしてる。わたしもチクリとしたくなるもん。だからいいなあ、って」
「そうしたいわけじゃないけど」
「かっこいいじゃん、マキビシ」
「かっこいいのか?」
「うん」
「わかんねーな、お前のセンス」
正常人が言う愛や友情なんてものは、事物として統合されたお互いというシニフィアン的なものを、所有し所有されることだ。それが正常人にとっての快の共有だ。生後間もない赤ん坊にもあるかもしれない「快/不快」二項原理とは異なる快楽原則。
所有し合うということは要するに支配し合うということだ。
正常人の快楽原則が関与するコミュニケーション(日常的なコミュニケーションはほぼそうだ)は事物として統合されたその人というシニフィアン的なものを支配し合うということだ。
それが愛や友情などというものだ。
正常人だけが理解できてキチガイが理解できない心の美しさだ。
それは妄想だ。
パラノイアの妄想と等しい価値観だ。
それが理解できないキチガイは、多数決によって快楽原則に支配される。
共有できないのだから支配されるしかない。
原則が理解できていないのにそれに従うしかない。
キチガイにとって嘘でしかない原則に従って生きるしかない。
だからキチガイは正常人に殺意を覚える。
いぶきはわたしだ。いぶきは死んでいるけどわたしは生きている。
わたしは笙野頼子に殺されている。
羨ましいよ、嘘を真実として共有できるその機能が。
わたしにとってただ違和感を覚えさせるだけの「快」を共有できるその機能が。
違和感を覚えることがないその鈍感さが。
その機能をぶち壊してやりたいよ。
ファルスをぶち壊してやりたいよ。
正常人たちを殺してやりたいよ。
表象と現実は絡み合っている。古典哲学から論じられてきたことは間違っていない。
その絡み合いは始まりと終わりのないあみだくじのような状態である。リゾームである。
しかし、多くの人間は、ここになんらかの整流器がある。多くの人間はこの整流器のお陰で始まりと終わりのないあみだくじの中で迷うことがない。
表象と現実の狭間でわたしは迷子になっている。表象と現実はお互いが迷子になっている。
それが真実だ。
なのに多くの人間は、そこに寄生した整流器によって有限化された表象と現実の関係を真実と思っている。
わたしはそれを問題にしている。
わたしはそれを指摘している。
わたしはそれに殺意を覚えている。
お前たちの表象と現実はパラノイアの妄想と等しい。それは実体ではない。
なのに多数決でそれを真実と思い込ませてくる。
整流器が壊れているわたしに整流器が真実だと思わせてくる。
単なる多数決なのに、単なる寄生虫なのに、単なる妄想なのに、それを真実だとわたしに強いてくる。
いくら哲学や思想でこの迷子状態が説明されていたとしても、日常はそうではない。わたしは根拠のない権力を行使され続けてきた。そうやって生きてきた。
この整流器が大多数の人間に備わっているのは事実である。
これを説明できているのは、わたしの管見によるならば精神分析のみである。
精神医学的に正常であることの根拠である自我や超自我こそが精神疾患的なものだと説明している精神分析(クラインやラカンやクリステヴァなどという死の欲動派とも言える系列)以外に、この整流器について具体的に述べられている学問はない。人は正常に生まれるのではない、正常になるのだ。正常という精神疾患に罹患することによって。精神医学の語用としての正常とはそういうものだ。
だからわたしはお前たちに殺意を覚える。
わたしは本気で正常人を殺したいと思っている。
あなたたちはわたしにとっての嘘だけで生きていける。事物として統合されたあなたを何も苦労せずに生きている。
そんなあなたたちにわたしという肉の本の言葉は嘘と言われる。たとえば「一貫性がない」などという理由で。事物として統合された自分を持てているから真実には一貫性があるとあなたが思いこんでいるだけなのに。わたしにとって事物として統合されたわたしが嘘だ。一貫性のある方が嘘だ。
だから言い訳が必要となる。嘘で構わない言い訳が。
あなたたちのせいだとは言わない。わたしがそれを必要としている。わたしがわたしにとっての嘘を必要としている。肉の本が喋るあなたたちにとっての嘘がわたしにとっての真実だから、隠喩連鎖されたそもそもが嘘である言葉たちを必要する。
隠喩連鎖されたそもそもが嘘である言葉たちが無意識になって、真実となっているのがあなたたちだ。それが超自我だ。言語のように構造化されている無意識だ。
わたしはそれが壊れている。だからわたしにとってそれは嘘となる。あなたたちにとっての無意識に根づいた真実の言葉はわたしにとって嘘だ。
それが嘘にならなくなるのが他者の享楽だ。
嘘に寄生されることの享楽だ。
二階堂奥歯が希求した「私を説得」する「あなたの存在」だ。
「○○さんって、マキビシみたい」
「マキビシ?」
「ほら、忍者が追っ手から逃げる時使う奴で、地面にばら撒いといて、敵が踏むと棘が足の裏に刺さってイタタタって」
「いやそれは知ってるけど」
「うん、マキビシ」
「なんで俺?」
「うーん……、○○さんって、普段は目立たないけど、締め切り前とかみんなぴりぴりしてる時に限ってチクリと言うじゃん? そういうのかな」
「そんなことしてるか?」
「してるしてる。わたしもチクリとしたくなるもん。だからいいなあ、って」
「そうしたいわけじゃないけど」
「かっこいいじゃん、マキビシ」
「かっこいいのか?」
「うん」
「わかんねーな、お前のセンス」
正常人が言う愛や友情なんてものは、事物として統合されたお互いというシニフィアン的なものを、所有し所有されることだ。それが正常人にとっての快の共有だ。生後間もない赤ん坊にもあるかもしれない「快/不快」二項原理とは異なる快楽原則。
所有し合うということは要するに支配し合うということだ。
正常人の快楽原則が関与するコミュニケーション(日常的なコミュニケーションはほぼそうだ)は事物として統合されたその人というシニフィアン的なものを支配し合うということだ。
それが愛や友情などというものだ。
正常人だけが理解できてキチガイが理解できない心の美しさだ。
それは妄想だ。
パラノイアの妄想と等しい価値観だ。
それが理解できないキチガイは、多数決によって快楽原則に支配される。
共有できないのだから支配されるしかない。
原則が理解できていないのにそれに従うしかない。
キチガイにとって嘘でしかない原則に従って生きるしかない。
だからキチガイは正常人に殺意を覚える。
いぶきはわたしだ。いぶきは死んでいるけどわたしは生きている。
わたしは笙野頼子に殺されている。
羨ましいよ、嘘を真実として共有できるその機能が。
わたしにとってただ違和感を覚えさせるだけの「快」を共有できるその機能が。
違和感を覚えることがないその鈍感さが。
その機能をぶち壊してやりたいよ。
ファルスをぶち壊してやりたいよ。
正常人たちを殺してやりたいよ。
表象と現実は絡み合っている。古典哲学から論じられてきたことは間違っていない。
その絡み合いは始まりと終わりのないあみだくじのような状態である。リゾームである。
しかし、多くの人間は、ここになんらかの整流器がある。多くの人間はこの整流器のお陰で始まりと終わりのないあみだくじの中で迷うことがない。
表象と現実の狭間でわたしは迷子になっている。表象と現実はお互いが迷子になっている。
それが真実だ。
なのに多くの人間は、そこに寄生した整流器によって有限化された表象と現実の関係を真実と思っている。
わたしはそれを問題にしている。
わたしはそれを指摘している。
わたしはそれに殺意を覚えている。
お前たちの表象と現実はパラノイアの妄想と等しい。それは実体ではない。
なのに多数決でそれを真実と思い込ませてくる。
整流器が壊れているわたしに整流器が真実だと思わせてくる。
単なる多数決なのに、単なる寄生虫なのに、単なる妄想なのに、それを真実だとわたしに強いてくる。
いくら哲学や思想でこの迷子状態が説明されていたとしても、日常はそうではない。わたしは根拠のない権力を行使され続けてきた。そうやって生きてきた。
この整流器が大多数の人間に備わっているのは事実である。
これを説明できているのは、わたしの管見によるならば精神分析のみである。
精神医学的に正常であることの根拠である自我や超自我こそが精神疾患的なものだと説明している精神分析(クラインやラカンやクリステヴァなどという死の欲動派とも言える系列)以外に、この整流器について具体的に述べられている学問はない。人は正常に生まれるのではない、正常になるのだ。正常という精神疾患に罹患することによって。精神医学の語用としての正常とはそういうものだ。
だからわたしはお前たちに殺意を覚える。
わたしは本気で正常人を殺したいと思っている。