わたしがあなたを好きなのは、あなたのせいじゃない。
2009/03/29/Sun
更新が途絶えてしまっているが、このブログをちょこちょこ読んでいた。
「空から降ってくる桃色」
筆者の文意とは違うかもしれないが、わたしの解釈として、最近この言葉に肉体が縫いつけられている。
おそらくわたしにとって恋愛的な「好き」という感情は、自分のうちから湧きあがるものではなく、それこそ空から降ってくるものだ。
昔の少女マンガにはそういった描写が多かったが、わたしが中学生になったぐらいから変わってきた。恋愛感情は主人公少女のうちから湧きあがっているように思えた。まあ少年誌も読んでたからね。少年誌の恋愛は大体「好き」という感情がそいつのうちから湧きあがっている。
自分のうちにある、「好き」とも「嫌い」とも言えない、言葉で形容しがたい感覚、もぞもぞ感、わさわさ感、皮膚と肉の間を甲虫が這いずり回っているような感覚、そのようなものが、ある日突然外的なきっかけによって確定される。「嫌い」と確定される場合もあれば「好き」と確定される場合もある。責任をきっかけに擦りつけているわけではない。「好き」とも「嫌い」とも言えない感覚だと、言葉で形容しがたい感覚だと言明することがわたしにとっての責任だと感じる。だから、わたしが「好き」になっても「嫌い」になっても、それはたまたまで、雨が誰のせいでもなく降るように、あなたのせいじゃない。そうわたしは弁解するだろう。
あなたのせいじゃなく、ただきっかけが空から降ってくる。「好き」や「嫌い」という感情が空から降ってくる。
もちろん、雨から身を隠すこともあれば雨の中で感傷に浸ることもあるように、そのきっかけを受け入れるかどうかもたまたまである。
桃色が空から降ってくるのが他者の享楽であり、自分のうちから湧いてくる「好き」や「嫌い」を(たとえば一つの)根拠にして他者を所有・把握するのがファルス的享楽だ、ということだろうか。この記事から。
=====
私を読んで。
新しい視点で、今までになかった解釈で。
誰も気がつかなかった隠喩を見つけて。
行間を読んで。読み込んで。
文脈を変えれば同じ言葉も違う意味になる。
解釈して、読みとって。
そして教えて、あなたの読みを。
その読みが説得力を持つならば、私はそのような物語でありましょう。
そうです、あなたの存在で私を説得して。
=====
ファルスのある人間にとって、隠喩の隙間に主体の真実は落ち込んでいる。隠喩は彼らの無意識(超自我)から生じている。
ファルスが壊れている人間にとって、超自我が壊れている人間にとって、隠喩は「見つけて」もらうものなのだ。少なくとも二階堂奥歯は「私はそのような物語であ」るという確定を待っている。
……うん、まあそんなような状態だってこと。
あれだね。主人公は少年たちだけど、自分のうちにあるのが「好き」とも「嫌い」とも言えない感覚から「好き」と確定された感覚へと、トレンドが変遷する最中に描かれた名作が『われらはみだしっ子』シリーズかな、と思う。ああ、第一巻の道行く人に「あなたは僕たちの恋人? 神様?」って聞いてそれを待ち続けるシーンとか先述の二階堂だよな。
自分のうちにある感覚が、「好き」や「嫌い」によって確定され続けている状態は、楽である。わたしは大学以降演技でそれをやってきた。確かに楽だ。話が通じる。理解できて理解してもらえる。
演技だけど。
がしゃん、がしゃん、という音。
犬か猫を鳥かごで飼っていて、そいつが暴れているのだと思う。
わたしは変な罪悪感にかられる。
鳥かごの中に入れっぱなしで、何匹か殺したことがあるように思える。
もしそうなら腐敗臭がするはずだ。でもしない。
母親が来たら怒られるだろう。
どうしよう。
水がはねる音。
鳥かごの中のそいつが脱走して、風呂場で遊んでいる。
捕まえるべきだろうか。
そのままどこかへ行ってほしい。
わたしはお前なんか飼っちゃいない。
眠れない。
五感が冴え渡っている。
飲みに行こう。
腐ったそいつを胸に抱いて、夜の街へくりだそう。
どろどろした腐肉がわたしの服に染みてくる。
わたしの皮膚に染みてくる。
それでいいの。それが夜の街。夜のわたし。
愛している。
腐ったわたしを愛している。
腐ってしまったら、もうがしゃん、がしゃん、という音も聞こえないだろう。
「空から降ってくる桃色」
筆者の文意とは違うかもしれないが、わたしの解釈として、最近この言葉に肉体が縫いつけられている。
おそらくわたしにとって恋愛的な「好き」という感情は、自分のうちから湧きあがるものではなく、それこそ空から降ってくるものだ。
昔の少女マンガにはそういった描写が多かったが、わたしが中学生になったぐらいから変わってきた。恋愛感情は主人公少女のうちから湧きあがっているように思えた。まあ少年誌も読んでたからね。少年誌の恋愛は大体「好き」という感情がそいつのうちから湧きあがっている。
自分のうちにある、「好き」とも「嫌い」とも言えない、言葉で形容しがたい感覚、もぞもぞ感、わさわさ感、皮膚と肉の間を甲虫が這いずり回っているような感覚、そのようなものが、ある日突然外的なきっかけによって確定される。「嫌い」と確定される場合もあれば「好き」と確定される場合もある。責任をきっかけに擦りつけているわけではない。「好き」とも「嫌い」とも言えない感覚だと、言葉で形容しがたい感覚だと言明することがわたしにとっての責任だと感じる。だから、わたしが「好き」になっても「嫌い」になっても、それはたまたまで、雨が誰のせいでもなく降るように、あなたのせいじゃない。そうわたしは弁解するだろう。
あなたのせいじゃなく、ただきっかけが空から降ってくる。「好き」や「嫌い」という感情が空から降ってくる。
もちろん、雨から身を隠すこともあれば雨の中で感傷に浸ることもあるように、そのきっかけを受け入れるかどうかもたまたまである。
桃色が空から降ってくるのが他者の享楽であり、自分のうちから湧いてくる「好き」や「嫌い」を(たとえば一つの)根拠にして他者を所有・把握するのがファルス的享楽だ、ということだろうか。この記事から。
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私を読んで。
新しい視点で、今までになかった解釈で。
誰も気がつかなかった隠喩を見つけて。
行間を読んで。読み込んで。
文脈を変えれば同じ言葉も違う意味になる。
解釈して、読みとって。
そして教えて、あなたの読みを。
その読みが説得力を持つならば、私はそのような物語でありましょう。
そうです、あなたの存在で私を説得して。
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ファルスのある人間にとって、隠喩の隙間に主体の真実は落ち込んでいる。隠喩は彼らの無意識(超自我)から生じている。
ファルスが壊れている人間にとって、超自我が壊れている人間にとって、隠喩は「見つけて」もらうものなのだ。少なくとも二階堂奥歯は「私はそのような物語であ」るという確定を待っている。
……うん、まあそんなような状態だってこと。
あれだね。主人公は少年たちだけど、自分のうちにあるのが「好き」とも「嫌い」とも言えない感覚から「好き」と確定された感覚へと、トレンドが変遷する最中に描かれた名作が『われらはみだしっ子』シリーズかな、と思う。ああ、第一巻の道行く人に「あなたは僕たちの恋人? 神様?」って聞いてそれを待ち続けるシーンとか先述の二階堂だよな。
自分のうちにある感覚が、「好き」や「嫌い」によって確定され続けている状態は、楽である。わたしは大学以降演技でそれをやってきた。確かに楽だ。話が通じる。理解できて理解してもらえる。
演技だけど。
がしゃん、がしゃん、という音。
犬か猫を鳥かごで飼っていて、そいつが暴れているのだと思う。
わたしは変な罪悪感にかられる。
鳥かごの中に入れっぱなしで、何匹か殺したことがあるように思える。
もしそうなら腐敗臭がするはずだ。でもしない。
母親が来たら怒られるだろう。
どうしよう。
水がはねる音。
鳥かごの中のそいつが脱走して、風呂場で遊んでいる。
捕まえるべきだろうか。
そのままどこかへ行ってほしい。
わたしはお前なんか飼っちゃいない。
眠れない。
五感が冴え渡っている。
飲みに行こう。
腐ったそいつを胸に抱いて、夜の街へくりだそう。
どろどろした腐肉がわたしの服に染みてくる。
わたしの皮膚に染みてくる。
それでいいの。それが夜の街。夜のわたし。
愛している。
腐ったわたしを愛している。
腐ってしまったら、もうがしゃん、がしゃん、という音も聞こえないだろう。