だめちん
2009/04/01/Wed
いろいろどうでもよくなった。
正常であることが一つの精神疾患である。
正常人自身がこの事実を認めない限り、倫理は劣化していく。文化はハリボテ化していく。
思うに宗教がこの事実を述べようとしていたのだと思う。キリスト教なら原罪、仏教なら無我とかそこら辺。
倫理や文化の裏打ちを固持しようとしたのが宗教だ。
好奇心に従いこの裏打ちを見ようとしたのが科学だ。
おそらく、ね。
裏打ちがヒステリー盲目的に見えなくなった精神疾患。それが正常であるということ。
現代では宗教も劣化しきっているし、裏打ちを感知できるキチガイの言説すら棄却される。
『アンチ・オイディプス』は全く間違っている。資本主義が高度化して人はパラノイア化したのだ。
まあ後出しジャンケンだけどさ。
表面だけ分裂症をなぞっている。ノスタルジーのようなものだ。
内面が強くパラノイア化してしまったから、よりノスタルジックに未去勢な主観世界を求めている。
表面だけ。
まあ表面だけ見れば『アンチ・オイディプス』も間違っちゃいないか。ガタリ自身が表面だけ分裂症になりたがっている馬鹿だからな。
まあそういうものだと思うよ。ユング論の補償みたいなものか。
しかし統合はされない。統合そのものが幻想だからだ。
表面だけ分裂症化しても、分裂症に親近するわけではない。
未去勢と去勢済みの、現実界と非現実界の軋轢が強くなるだけである。
パラノイア化が強化されることで軋轢が強くなっただけである。
統合はされない。軋轢はなくならない。軋轢があることを認めるしかない。共有できない事実を共有するしかない。
人は正常に生まれるのではない、正常になるのだ。正常というパラノイアックな精神疾患を罹患することによって。
この事実を認めない限り、倫理は劣化していく。文化はハリボテ化していく。
これは社会問題などではない。
この裏打ちとは自体愛的な主観世界でもある。
個々人のうちにある問題である。
『相棒』劇場版を見た。マラソンの奴ね。
……うーん。
テレビでやる分には構わないけど、映画になるとなぁ……荒い。荒さが目立つ。たとえばチェスの投了図がマラソンコースだと気づくくだりとか、マラソンパンフレットの地図がチェス盤と同じ大きさだったとか。ちょっとシーン差し挟むぐらいでいいんだけどね。投了図もしばらく悩んでいるシーンがあればいいし、パンフレット地図だって拡大or縮小コピーしたの使っていることにすればいいんだけど。
なんというか、事件を「スケールの大きなものにしないと」という強迫観念めいたものを感じた。もちろん作り手の。だから細部が荒くなっている。
このシリーズの魅力はそうじゃないだろー。右京様も言ってるじゃん。
「細かいことが気になる、僕の悪い癖」
もちろん気になる細かいことがあたかも預言者のように全て事件解決の手がかりになるのはテレビだから「ああうんうん」ぐらいなんだけどね。
ちなみにこのスケールの大きさは、どれだけ多くの人の関心を集めるか、ということである。たとえば飼っている虫のちょっとした異常が北朝鮮ミサイル発射より一大事だと思う人がいてもおかしくない。価値観は人それぞれだ。それを「間違っている」と言うことは多数派の暴力を行使していることである。なので、「スケールが大きいから多くの人の関心を集める」のではなく、「多くの人の関心を集めることがスケールが大きいことだ」ということだ。『アンチ・オイディプス』風に言えば、モル度が即ちパラノイアック度が高いことがスケールの大きさである、となる。
『相棒』シリーズの魅力は、一般の人々が興味を持たないような事件でも細部を明らかにしたがる右京様、というところでもあると思う。この記事でも書いているような、おそらく人気のあまり出てない回とか。
まあでもテレビも映画も人気商売だからねえ。モル的であることは宿命でもあるのだ。それが発展したのが商業主義ってことになろうが。
岸部一徳の役があんまりいい味出てないのも残念。結構人気あると思うんだけどなあ。
サイバラ絵がアニメ化……(リアル視聴中)。
なんつーか、まあね、もうね。
さっぱりしたものしか食べられないと思って鴨南蛮を出前で頼む。
食べている時はよかったのだがしばらくしてから吐き気を覚える。
吐くのももったいないので熱いお茶でごまかす。
精神と肉体は、二元論で語るのを否定するわけではないが、事実として繋がっている。心頭滅却すれば火もまた涼し。
精神状態によって、肉体が妄想分裂態勢のような状態になることもあるのではないか。
だとしたら何食べてもだめなのだろう。
だから食べたくない。
だけど空腹も辛い。
生まれたばかりの、母乳ですら異物であった時の赤ん坊はこういう状態だったのかもしれない。
なーんてね。
正常であることが一つの精神疾患である。
正常人自身がこの事実を認めない限り、倫理は劣化していく。文化はハリボテ化していく。
思うに宗教がこの事実を述べようとしていたのだと思う。キリスト教なら原罪、仏教なら無我とかそこら辺。
倫理や文化の裏打ちを固持しようとしたのが宗教だ。
好奇心に従いこの裏打ちを見ようとしたのが科学だ。
おそらく、ね。
裏打ちがヒステリー盲目的に見えなくなった精神疾患。それが正常であるということ。
現代では宗教も劣化しきっているし、裏打ちを感知できるキチガイの言説すら棄却される。
『アンチ・オイディプス』は全く間違っている。資本主義が高度化して人はパラノイア化したのだ。
まあ後出しジャンケンだけどさ。
表面だけ分裂症をなぞっている。ノスタルジーのようなものだ。
内面が強くパラノイア化してしまったから、よりノスタルジックに未去勢な主観世界を求めている。
表面だけ。
まあ表面だけ見れば『アンチ・オイディプス』も間違っちゃいないか。ガタリ自身が表面だけ分裂症になりたがっている馬鹿だからな。
まあそういうものだと思うよ。ユング論の補償みたいなものか。
しかし統合はされない。統合そのものが幻想だからだ。
表面だけ分裂症化しても、分裂症に親近するわけではない。
未去勢と去勢済みの、現実界と非現実界の軋轢が強くなるだけである。
パラノイア化が強化されることで軋轢が強くなっただけである。
統合はされない。軋轢はなくならない。軋轢があることを認めるしかない。共有できない事実を共有するしかない。
人は正常に生まれるのではない、正常になるのだ。正常というパラノイアックな精神疾患を罹患することによって。
この事実を認めない限り、倫理は劣化していく。文化はハリボテ化していく。
これは社会問題などではない。
この裏打ちとは自体愛的な主観世界でもある。
個々人のうちにある問題である。
『相棒』劇場版を見た。マラソンの奴ね。
……うーん。
テレビでやる分には構わないけど、映画になるとなぁ……荒い。荒さが目立つ。たとえばチェスの投了図がマラソンコースだと気づくくだりとか、マラソンパンフレットの地図がチェス盤と同じ大きさだったとか。ちょっとシーン差し挟むぐらいでいいんだけどね。投了図もしばらく悩んでいるシーンがあればいいし、パンフレット地図だって拡大or縮小コピーしたの使っていることにすればいいんだけど。
なんというか、事件を「スケールの大きなものにしないと」という強迫観念めいたものを感じた。もちろん作り手の。だから細部が荒くなっている。
このシリーズの魅力はそうじゃないだろー。右京様も言ってるじゃん。
「細かいことが気になる、僕の悪い癖」
もちろん気になる細かいことがあたかも預言者のように全て事件解決の手がかりになるのはテレビだから「ああうんうん」ぐらいなんだけどね。
ちなみにこのスケールの大きさは、どれだけ多くの人の関心を集めるか、ということである。たとえば飼っている虫のちょっとした異常が北朝鮮ミサイル発射より一大事だと思う人がいてもおかしくない。価値観は人それぞれだ。それを「間違っている」と言うことは多数派の暴力を行使していることである。なので、「スケールが大きいから多くの人の関心を集める」のではなく、「多くの人の関心を集めることがスケールが大きいことだ」ということだ。『アンチ・オイディプス』風に言えば、モル度が即ちパラノイアック度が高いことがスケールの大きさである、となる。
『相棒』シリーズの魅力は、一般の人々が興味を持たないような事件でも細部を明らかにしたがる右京様、というところでもあると思う。この記事でも書いているような、おそらく人気のあまり出てない回とか。
まあでもテレビも映画も人気商売だからねえ。モル的であることは宿命でもあるのだ。それが発展したのが商業主義ってことになろうが。
岸部一徳の役があんまりいい味出てないのも残念。結構人気あると思うんだけどなあ。
サイバラ絵がアニメ化……(リアル視聴中)。
なんつーか、まあね、もうね。
さっぱりしたものしか食べられないと思って鴨南蛮を出前で頼む。
食べている時はよかったのだがしばらくしてから吐き気を覚える。
吐くのももったいないので熱いお茶でごまかす。
精神と肉体は、二元論で語るのを否定するわけではないが、事実として繋がっている。心頭滅却すれば火もまた涼し。
精神状態によって、肉体が妄想分裂態勢のような状態になることもあるのではないか。
だとしたら何食べてもだめなのだろう。
だから食べたくない。
だけど空腹も辛い。
生まれたばかりの、母乳ですら異物であった時の赤ん坊はこういう状態だったのかもしれない。
なーんてね。