泣かせる描写について
2007/01/15/Mon
前回に引き続きこれも某掲示板に書き込んだ私の文章のコピペだ。はい、手抜きです。
「泣かせる描写について」という質問に答えたものである。
この文章は『はるがいったら』の書評と併せて読んでいただけたら嬉しい。また、宮台氏のブログのこちらの記事も読んでいただけるとわかりやすいと思う。
=====
泣くということはどういうことでしょう?
赤ん坊は泣きますね。でもこれは「不快」という気持ちの自己主張として泣きます。
大人の場合の泣くとはどういうことでしょう?
そこを精神分析風に少し掘り下げてみましょう。
役者をやっていた方ならわかると思いますが、悲劇的な状況に直面した人間は、すぐ「泣く」という感情に結びつきません。
あまり小難しいことを書くのもあれなので、結論からいいますと、悲劇的な状況に直面し、その状況を脳内で処理できて初めて泣くのです。
愛する人間が死んだ場合のことを考えましょう。死の知らせを聞いたら、まず戸惑いますよね。その知らせが信用にたるものと確認できて、愛する人間がいないこれからの生活を想像して初めて泣くのです。
これらから言えることは、泣くというのは、悲劇的な出来事を脳内で処理して、安心してから起こる感情なのです。
赤ん坊の不快という感情について。
赤ん坊も内面は実に矛盾にとんだ複雑な感情を持っています。それを象徴化するのですね。人間にとってもっとも原初的な象徴化として、「プラス/マイナス」の二項へ象徴化されます。赤ん坊の内面が単純だから「快/不快」という二つの感情しかないのではなく、内面の感情は矛盾にとんで複雑ですが、象徴化の能力が単純だから「快/不快」という二項の感情に集約されるのです。
この象徴化を、フロイトは赤ん坊の糸車遊びに見出しました。象徴化すれば、矛盾が多く複雑な内面を単純化できるだけではなく、何かに代理、投影することで反復が可能になるのです。この代理、投影が言語の比喩的機能の根源とも言えます。
赤ん坊にとって身の回り起こる出来事は複雑な内面の力動を発生させるものばかりです。それらは不安を惹起させます。なのでそれらを象徴化し、糸車遊びのように比喩的に何かに投影させ、反復することでその不安から逃れるわけです。
大人になっても、身の回りに起こった出来事の処理の手順は、赤ん坊のやり方と変わりありません。象徴化能力が発達しているので、脳内での処理は一瞬になったりしています。反復性の強い似たような出来事、日常的な学校に通うなどという出来事は、象徴化している意識などないでしょう。
ただ、大人は象徴化する道具として、赤ん坊のように糸車を使いません。もっと象徴として機能が強化されたもの、つまり「言語」という道具を手に入れています。むしろ、言語は象徴化のために生まれた道具とも言えるでしょう。
ここで「泣く」という表出に戻りましょう。
先に挙げた「愛する人が死んだ」事例を考えてみます。愛する人が死んだという知らせは言葉でしょう。その言葉から実際に死んだ出来事を連想します。こういった人間の内面に強く影響する出来事を精神分析では「外傷」と言います。内面的な外傷ですね。ここでは(厳密には違いますが)トラウマと似たものと考えてもらって構いません。この場合は言葉から想像される「外傷」になるでしょう。もっと小難しいことを言えば、死の瞬間をその目で見ても、それは目という器官を通して信号が脳に到達することで起こる現象なので、目で見た現実と想像の区別は明確にはつきません。つまり、想像しない=純粋たる現実の外傷などない、ということにもなりますが、ここはそれはスルーしておきます。
人間は赤ん坊がやっていたように、安心を得るためにそれらの出来事を象徴化します。ここでは「死」という言葉になりますね。「死」という言葉から、「これから愛する人がいない生活」という言葉を連想します。こうやって、「愛する人の死」という「外傷」を言語によって象徴化することで安心を得ます。結果、「泣く」という表出に至るのです。
先に「悲劇的な出来事を脳内で処理して初めて泣く」と書きました。精神分析的な解釈では、大人の場合、その脳内の処理は言語による象徴化である、ということになります。
よく考えればわかりますが、大人になった私たちは、思ったより言語というものが精神活動を大きく条件付けて決定付けているのです。
精神分析の例でいえば、皆さんがすぐに思いつく精神分析とは、トラウマを夢分析などで思い出させてPTSDを治療する、といったことではないでしょうか? 精神分析とはそれだけではないのですが、実はこの構図こそ言語による象徴化なのです。トラウマという無意識的な「外傷」を(事実であるかどうか関係なく)言語として実体化させ、それを反復させることで治療するわけです。トラウマという「わけのわからない」「外傷」を言語で象徴化させ反復させることで、患者は安心感を得るのです。
小説というフィクションに話を移しましょう。小説は言語の芸術です。であるならば大人の人間の精神にはダイレクトに影響する表現である、とも言えるでしょう。
しかし、です。小説は言語の芸術であるが故に、言語の物質性が前面に出てきます。言語が本になった時点で、先に書いた「愛する人の死」という出来事と比べ、現実との連結力は弱くなっているのです。
ここでコンテクストという概念が発動します。コンテクストとは文脈、お約束、暗黙のルールみたいなものと思ってください。技術が発達し、情報化社会となった現代は、言語や記号が溢れ返っている時代です。現代で言葉がリアリティを帯びるのは、「外傷」を連想させる場合のみならず、「コンテクスト」による場合がウエイトを占めています。
コンテクストは共同体ごとに特色を得ます。例えばライトノベルはオタク文化のコンテクストに強く依存していると言ってよいでしょう。
オタク文化とはアニメ・漫画などといった表現が根っこにある文化ですね。こういったコンテクストに依存していると、「死」のような外傷に直接繋がるリアリティを作品内で出しても、オタク文化のコンテクストが勝ってしまいます。「死」という言葉が、「外傷」と直接繋がるのではなく、オタク文化のコンテクストとして理解されてしまうのです。オタク文化だけではなくサブカル全般にこういう傾向があります。宮台真司氏はこれらのことを「痛みや悲劇から遠ざかった、だらしない死にオチ」といって批判しています。
とはいえ、コンテクストにリアリティを感じるのは現代人には通底しています。例えば、現代は科学信仰の時代でもあるので、科学っぽいコンテクストで書かれたエセ科学(「水のマイナスイオン効果」や「ゲーム脳」など)はまことしやかに「現実」として語られています。
もっと身近な例を挙げましょう。男性オタクは、萌え絵という、現実にいたら宇宙人グレイのような薄気味悪さを感じるであろう人間の絵に、性欲を覚えますね。私はそれ自体は批判しません。何故ならコンテクストはリアリティを感じさせるものですから、漫画から発生した「萌え絵コンテクスト」にセクシュアリティというリアリティを感じるのは当然のことだからです。
コンテクストという概念をもっと広げるならば、先ほど「愛する人の死の知らせ」は言葉である、と書きましたね。人間はそれに(情報としての信頼度の確認を経たとして)リアリティを感じるから、「愛する人がいない生活」を連想して絶望し、泣くわけです。ここでは言語そのものがコンテクストである、とも考えられます。日本人ならば、日本という共同体でしか成立しない「日本語コンテクスト」となりますね。
種類は違えども同じ「コンテクスト」という概念の土台で感情が揺れ動くのなら、何故オタク文化は、宮台氏の「痛みや悲劇から遠ざかった」という言葉で代表されるような、「軽い」「希薄だ」「幼稚だ」「非現実的だ」というような批判を受けるのでしょうか?
ここで「外傷」という概念が浮かび上がります。
現代はいろんな種類のコンテクストが巷にあふれ、それらを理解しないと楽しく生活できません。それを私はハイ・コンテクストな時代と呼んでいます。そのせいで、現代人は「外傷」から離れたところにあるコンテクストにも、容易にリアリティを感じ、感情が揺り動かされてしまうのではないでしょうか。
この「外傷」とは何でしょう? 先ほど少し触れましたが、目で見たものも目という器官を通した信号の脳内処理となるので、厳密には想像と区別つきません。私たちが感覚的に理解している現実の本質は、実は器官を通しているという時点で、到達不可能なものなのです。それを精神分析のラカンという人の論では「現実界」と呼んでいます。私たちが日ごろ感じている「現実」も実は虚構で、私たちが死んでも存在する世界が「現実界」というわけです(ぱっと見後者は科学的な世界と思いがちですが、科学自体も言語や記号で表されたもの、つまり象徴化されたものに過ぎません)。
「現実界」は何が起こるかわかりません。非常に「外傷」的です。「外傷」が強いリアリティを帯びるのは、この「現実界」が暗喩されるからなのです。
コンテクストにまみれた現代人はこの「外傷」のリアリティに鈍感になっています。しかし感動の原点には(特に泣くという感動には)この「外傷」が必ずあります。
オタク文化というのは、ハイ・コンテクストな時代の中でもとりわけハイ・コンテクストな文化だといえます。アニメや漫画という表現自体がハイ・コンテクストな表現(斎藤環氏の指摘による)だからでしょう。
ラノベ作家を目指している方が多いサイトなので、表現者視点からこれを文章にしてみましょう。
ハイ・コンテクストな表現においては、記号やお約束の組み合わせが重要となります。お約束や暗黙のルールをどう組み合わせるかですね。ちなみに、お約束を破るということも、あるひとつのお約束を破ることに意識が向いてしまえば(それが目的となってしまえば)、それはコンテクストから脱することにならず、コンテクスト内での「戯れ」になります。無意識的にコンテクストに染まっている人間は、コンテクストを意識すればするほどコンテクストから脱することは難しくなります。結局はコンテクスト内で感じたままに書くしかないのですね。
となると、オタク文化全体の印象として、ハイ・コンテクストが加速されます。外傷よりコンテクストにリアリティを感じるのがオタクですから。
比喩的にまとめましょう。到達不可能な「現実界」に杭が刺さっており、結び目があります。それが「外傷」だとしましょう。そこにコンテクストという糸でたくさんのリアリティが繋がれている。リアリティとリアリティを繋ぐ糸もコンテクストです。ハイ・コンテクストとは糸がツリー状に絡み合い複雑化している状態を指します。オタク文化は、外傷という結び目から離れたところで糸=コンテクストとリアリティの絡み合いを楽しんでいるように見えるのです。
たとえ時代全体の傾向がハイ・コンテクスト化しているといっても、オタクではない人間にとってオタク文化はコンテクスト化が行き過ぎてしまったように思えるのではないでしょうか。
先ほど例に挙げた「死」は、概念的に現実界に近いところにあります。エロスタナトス論を紐解けば、「生・性」と「死」は表裏一体で、「性」も現実界に近いところにある概念であることがわかるでしょう。斎藤環氏は、オタク文化においてハイ・コンテクスト化=虚構化が行き過ぎない軸としてセクシュアリティが存在すると述べました。だからオタク文化は性欲的で構わないのだと。軸として性という「外傷」は機能しているのでしょうが、現代のオタク文化は全体的に「外傷」との「距離」が離れているように思います。しかしエロゲなどを見ると、「性」と同時に「死」も取り扱われている作品が多いですね。深層心理的に、現実界の外傷を求めているのにも関わらず、コンテクストの糸を手繰らない、現実逃避しているように見えるその矛盾が、オタクじゃない人間から見たオタク文化の「気持ち悪さ」ではないでしょうか。
また、「現実界」「外傷」との「距離」が離れているからこそ、オタク文化の表現作品は「痛みや悲劇から遠ざか」っていて、「軽く」「希薄」で「幼稚」に見えるのではないでしょうか。
私たちが感じている「日常的な現実」は虚構といえども、物語と比べると「現実界」に近い位置にあります。それによる「外傷」を知るべき、という気持ちが、「オタクは現実を学べ」という批判になるのだと思います。
現実界は到達不可能ですが全ての人類共通の「究極的な」土台(芸術表現視点からみて)です。到達不可能ですから、どうやってそこを目指してよいのかもわかりません。しかし、そのぼんやりとした一つの道しるべが、精神分析の概念としての「外傷」ではないのかな、と私は思います。
同時に現実界は、私たちにとっては「わからない世界」つまり「曖昧な世界」でもあります。闇が怖いのは何が起こるかわからないからですね。同じように「現実界的な」現実の本質は、何が起きるかわからない、理不尽な世界なのです。人はだからこそ曖昧なものを恐れるのです。と同時に、曖昧なものを確かめたいという気持ちが働きます。「曖昧なもの」に対峙した時人間は、不安を感じると同時に惹かれてしまう、という矛盾した、曖昧な感情が惹起されるのです。
話しがそれました。
泣くという感情は、この「外傷」と深く関わっているものです。オタク文化コンテクストで「泣く」という感情を想起させたいのなら、お約束を積み重ねればオタクは泣いてくれるでしょう。しかしオタクといっても敏い方もいます。お約束を積み重ねれば「どっかで見たことある」という反復性を感じて、安心してしまうのです。泣くという行動の前にある不安が惹起されないので、泣けないのですね。これこそ上で書いたような「矛盾」の表出になります。
結論としては、私はオタク文化のコンテクストによる「泣かせる」表現は、どうやっても「痛みや悲劇から遠ざかった」表現になると考えています。今必要とされているのは現実的な「外傷」でしょう。理不尽で理解不能な「曖昧な世界」から受ける「外傷」。これは象徴化=言語化される前の体感的なものです。
要は、泣かせる表現の本質を知るには、体感(現実的な経験の多寡は関係ない)が重要ではないか、ということです。
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実は、私はオタク文化の中でももっとも性欲的なポルノコミックについては、芸術表現としては批判しない。エロゲについては(実際のプレイ体験はほとんどないが、周辺のブログなどを読む限り)、性という「外傷」の希求へのいいわけが感じられる。エロゲは物語性があり、性欲だけでやってるんじゃないぞ、というわけのわからない意識が垣間見える。舞台の上でふっきれない新人芸人のようなものだ。それが気持ち悪いし恥ずかしい。オナニーのためにエロゲをやっていると開き直った方が芸術表現としても先鋭化されると思う。中途半端に虚構の「日常の現実」を求めているのだ。こういう自己愛的リアクションが彼らの気持ち悪さを加速させている。上の文章で書いた「気持ち悪い矛盾」がとてもよく表出している態度だ。
まあ社会的にそういう態度を演技として取っているのかもしれんけどね。またそれが気持ち悪い。虚構と現実の区別がついてない証拠である。
「泣かせる描写について」という質問に答えたものである。
この文章は『はるがいったら』の書評と併せて読んでいただけたら嬉しい。また、宮台氏のブログのこちらの記事も読んでいただけるとわかりやすいと思う。
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泣くということはどういうことでしょう?
赤ん坊は泣きますね。でもこれは「不快」という気持ちの自己主張として泣きます。
大人の場合の泣くとはどういうことでしょう?
そこを精神分析風に少し掘り下げてみましょう。
役者をやっていた方ならわかると思いますが、悲劇的な状況に直面した人間は、すぐ「泣く」という感情に結びつきません。
あまり小難しいことを書くのもあれなので、結論からいいますと、悲劇的な状況に直面し、その状況を脳内で処理できて初めて泣くのです。
愛する人間が死んだ場合のことを考えましょう。死の知らせを聞いたら、まず戸惑いますよね。その知らせが信用にたるものと確認できて、愛する人間がいないこれからの生活を想像して初めて泣くのです。
これらから言えることは、泣くというのは、悲劇的な出来事を脳内で処理して、安心してから起こる感情なのです。
赤ん坊の不快という感情について。
赤ん坊も内面は実に矛盾にとんだ複雑な感情を持っています。それを象徴化するのですね。人間にとってもっとも原初的な象徴化として、「プラス/マイナス」の二項へ象徴化されます。赤ん坊の内面が単純だから「快/不快」という二つの感情しかないのではなく、内面の感情は矛盾にとんで複雑ですが、象徴化の能力が単純だから「快/不快」という二項の感情に集約されるのです。
この象徴化を、フロイトは赤ん坊の糸車遊びに見出しました。象徴化すれば、矛盾が多く複雑な内面を単純化できるだけではなく、何かに代理、投影することで反復が可能になるのです。この代理、投影が言語の比喩的機能の根源とも言えます。
赤ん坊にとって身の回り起こる出来事は複雑な内面の力動を発生させるものばかりです。それらは不安を惹起させます。なのでそれらを象徴化し、糸車遊びのように比喩的に何かに投影させ、反復することでその不安から逃れるわけです。
大人になっても、身の回りに起こった出来事の処理の手順は、赤ん坊のやり方と変わりありません。象徴化能力が発達しているので、脳内での処理は一瞬になったりしています。反復性の強い似たような出来事、日常的な学校に通うなどという出来事は、象徴化している意識などないでしょう。
ただ、大人は象徴化する道具として、赤ん坊のように糸車を使いません。もっと象徴として機能が強化されたもの、つまり「言語」という道具を手に入れています。むしろ、言語は象徴化のために生まれた道具とも言えるでしょう。
ここで「泣く」という表出に戻りましょう。
先に挙げた「愛する人が死んだ」事例を考えてみます。愛する人が死んだという知らせは言葉でしょう。その言葉から実際に死んだ出来事を連想します。こういった人間の内面に強く影響する出来事を精神分析では「外傷」と言います。内面的な外傷ですね。ここでは(厳密には違いますが)トラウマと似たものと考えてもらって構いません。この場合は言葉から想像される「外傷」になるでしょう。もっと小難しいことを言えば、死の瞬間をその目で見ても、それは目という器官を通して信号が脳に到達することで起こる現象なので、目で見た現実と想像の区別は明確にはつきません。つまり、想像しない=純粋たる現実の外傷などない、ということにもなりますが、ここはそれはスルーしておきます。
人間は赤ん坊がやっていたように、安心を得るためにそれらの出来事を象徴化します。ここでは「死」という言葉になりますね。「死」という言葉から、「これから愛する人がいない生活」という言葉を連想します。こうやって、「愛する人の死」という「外傷」を言語によって象徴化することで安心を得ます。結果、「泣く」という表出に至るのです。
先に「悲劇的な出来事を脳内で処理して初めて泣く」と書きました。精神分析的な解釈では、大人の場合、その脳内の処理は言語による象徴化である、ということになります。
よく考えればわかりますが、大人になった私たちは、思ったより言語というものが精神活動を大きく条件付けて決定付けているのです。
精神分析の例でいえば、皆さんがすぐに思いつく精神分析とは、トラウマを夢分析などで思い出させてPTSDを治療する、といったことではないでしょうか? 精神分析とはそれだけではないのですが、実はこの構図こそ言語による象徴化なのです。トラウマという無意識的な「外傷」を(事実であるかどうか関係なく)言語として実体化させ、それを反復させることで治療するわけです。トラウマという「わけのわからない」「外傷」を言語で象徴化させ反復させることで、患者は安心感を得るのです。
小説というフィクションに話を移しましょう。小説は言語の芸術です。であるならば大人の人間の精神にはダイレクトに影響する表現である、とも言えるでしょう。
しかし、です。小説は言語の芸術であるが故に、言語の物質性が前面に出てきます。言語が本になった時点で、先に書いた「愛する人の死」という出来事と比べ、現実との連結力は弱くなっているのです。
ここでコンテクストという概念が発動します。コンテクストとは文脈、お約束、暗黙のルールみたいなものと思ってください。技術が発達し、情報化社会となった現代は、言語や記号が溢れ返っている時代です。現代で言葉がリアリティを帯びるのは、「外傷」を連想させる場合のみならず、「コンテクスト」による場合がウエイトを占めています。
コンテクストは共同体ごとに特色を得ます。例えばライトノベルはオタク文化のコンテクストに強く依存していると言ってよいでしょう。
オタク文化とはアニメ・漫画などといった表現が根っこにある文化ですね。こういったコンテクストに依存していると、「死」のような外傷に直接繋がるリアリティを作品内で出しても、オタク文化のコンテクストが勝ってしまいます。「死」という言葉が、「外傷」と直接繋がるのではなく、オタク文化のコンテクストとして理解されてしまうのです。オタク文化だけではなくサブカル全般にこういう傾向があります。宮台真司氏はこれらのことを「痛みや悲劇から遠ざかった、だらしない死にオチ」といって批判しています。
とはいえ、コンテクストにリアリティを感じるのは現代人には通底しています。例えば、現代は科学信仰の時代でもあるので、科学っぽいコンテクストで書かれたエセ科学(「水のマイナスイオン効果」や「ゲーム脳」など)はまことしやかに「現実」として語られています。
もっと身近な例を挙げましょう。男性オタクは、萌え絵という、現実にいたら宇宙人グレイのような薄気味悪さを感じるであろう人間の絵に、性欲を覚えますね。私はそれ自体は批判しません。何故ならコンテクストはリアリティを感じさせるものですから、漫画から発生した「萌え絵コンテクスト」にセクシュアリティというリアリティを感じるのは当然のことだからです。
コンテクストという概念をもっと広げるならば、先ほど「愛する人の死の知らせ」は言葉である、と書きましたね。人間はそれに(情報としての信頼度の確認を経たとして)リアリティを感じるから、「愛する人がいない生活」を連想して絶望し、泣くわけです。ここでは言語そのものがコンテクストである、とも考えられます。日本人ならば、日本という共同体でしか成立しない「日本語コンテクスト」となりますね。
種類は違えども同じ「コンテクスト」という概念の土台で感情が揺れ動くのなら、何故オタク文化は、宮台氏の「痛みや悲劇から遠ざかった」という言葉で代表されるような、「軽い」「希薄だ」「幼稚だ」「非現実的だ」というような批判を受けるのでしょうか?
ここで「外傷」という概念が浮かび上がります。
現代はいろんな種類のコンテクストが巷にあふれ、それらを理解しないと楽しく生活できません。それを私はハイ・コンテクストな時代と呼んでいます。そのせいで、現代人は「外傷」から離れたところにあるコンテクストにも、容易にリアリティを感じ、感情が揺り動かされてしまうのではないでしょうか。
この「外傷」とは何でしょう? 先ほど少し触れましたが、目で見たものも目という器官を通した信号の脳内処理となるので、厳密には想像と区別つきません。私たちが感覚的に理解している現実の本質は、実は器官を通しているという時点で、到達不可能なものなのです。それを精神分析のラカンという人の論では「現実界」と呼んでいます。私たちが日ごろ感じている「現実」も実は虚構で、私たちが死んでも存在する世界が「現実界」というわけです(ぱっと見後者は科学的な世界と思いがちですが、科学自体も言語や記号で表されたもの、つまり象徴化されたものに過ぎません)。
「現実界」は何が起こるかわかりません。非常に「外傷」的です。「外傷」が強いリアリティを帯びるのは、この「現実界」が暗喩されるからなのです。
コンテクストにまみれた現代人はこの「外傷」のリアリティに鈍感になっています。しかし感動の原点には(特に泣くという感動には)この「外傷」が必ずあります。
オタク文化というのは、ハイ・コンテクストな時代の中でもとりわけハイ・コンテクストな文化だといえます。アニメや漫画という表現自体がハイ・コンテクストな表現(斎藤環氏の指摘による)だからでしょう。
ラノベ作家を目指している方が多いサイトなので、表現者視点からこれを文章にしてみましょう。
ハイ・コンテクストな表現においては、記号やお約束の組み合わせが重要となります。お約束や暗黙のルールをどう組み合わせるかですね。ちなみに、お約束を破るということも、あるひとつのお約束を破ることに意識が向いてしまえば(それが目的となってしまえば)、それはコンテクストから脱することにならず、コンテクスト内での「戯れ」になります。無意識的にコンテクストに染まっている人間は、コンテクストを意識すればするほどコンテクストから脱することは難しくなります。結局はコンテクスト内で感じたままに書くしかないのですね。
となると、オタク文化全体の印象として、ハイ・コンテクストが加速されます。外傷よりコンテクストにリアリティを感じるのがオタクですから。
比喩的にまとめましょう。到達不可能な「現実界」に杭が刺さっており、結び目があります。それが「外傷」だとしましょう。そこにコンテクストという糸でたくさんのリアリティが繋がれている。リアリティとリアリティを繋ぐ糸もコンテクストです。ハイ・コンテクストとは糸がツリー状に絡み合い複雑化している状態を指します。オタク文化は、外傷という結び目から離れたところで糸=コンテクストとリアリティの絡み合いを楽しんでいるように見えるのです。
たとえ時代全体の傾向がハイ・コンテクスト化しているといっても、オタクではない人間にとってオタク文化はコンテクスト化が行き過ぎてしまったように思えるのではないでしょうか。
先ほど例に挙げた「死」は、概念的に現実界に近いところにあります。エロスタナトス論を紐解けば、「生・性」と「死」は表裏一体で、「性」も現実界に近いところにある概念であることがわかるでしょう。斎藤環氏は、オタク文化においてハイ・コンテクスト化=虚構化が行き過ぎない軸としてセクシュアリティが存在すると述べました。だからオタク文化は性欲的で構わないのだと。軸として性という「外傷」は機能しているのでしょうが、現代のオタク文化は全体的に「外傷」との「距離」が離れているように思います。しかしエロゲなどを見ると、「性」と同時に「死」も取り扱われている作品が多いですね。深層心理的に、現実界の外傷を求めているのにも関わらず、コンテクストの糸を手繰らない、現実逃避しているように見えるその矛盾が、オタクじゃない人間から見たオタク文化の「気持ち悪さ」ではないでしょうか。
また、「現実界」「外傷」との「距離」が離れているからこそ、オタク文化の表現作品は「痛みや悲劇から遠ざか」っていて、「軽く」「希薄」で「幼稚」に見えるのではないでしょうか。
私たちが感じている「日常的な現実」は虚構といえども、物語と比べると「現実界」に近い位置にあります。それによる「外傷」を知るべき、という気持ちが、「オタクは現実を学べ」という批判になるのだと思います。
現実界は到達不可能ですが全ての人類共通の「究極的な」土台(芸術表現視点からみて)です。到達不可能ですから、どうやってそこを目指してよいのかもわかりません。しかし、そのぼんやりとした一つの道しるべが、精神分析の概念としての「外傷」ではないのかな、と私は思います。
同時に現実界は、私たちにとっては「わからない世界」つまり「曖昧な世界」でもあります。闇が怖いのは何が起こるかわからないからですね。同じように「現実界的な」現実の本質は、何が起きるかわからない、理不尽な世界なのです。人はだからこそ曖昧なものを恐れるのです。と同時に、曖昧なものを確かめたいという気持ちが働きます。「曖昧なもの」に対峙した時人間は、不安を感じると同時に惹かれてしまう、という矛盾した、曖昧な感情が惹起されるのです。
話しがそれました。
泣くという感情は、この「外傷」と深く関わっているものです。オタク文化コンテクストで「泣く」という感情を想起させたいのなら、お約束を積み重ねればオタクは泣いてくれるでしょう。しかしオタクといっても敏い方もいます。お約束を積み重ねれば「どっかで見たことある」という反復性を感じて、安心してしまうのです。泣くという行動の前にある不安が惹起されないので、泣けないのですね。これこそ上で書いたような「矛盾」の表出になります。
結論としては、私はオタク文化のコンテクストによる「泣かせる」表現は、どうやっても「痛みや悲劇から遠ざかった」表現になると考えています。今必要とされているのは現実的な「外傷」でしょう。理不尽で理解不能な「曖昧な世界」から受ける「外傷」。これは象徴化=言語化される前の体感的なものです。
要は、泣かせる表現の本質を知るには、体感(現実的な経験の多寡は関係ない)が重要ではないか、ということです。
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実は、私はオタク文化の中でももっとも性欲的なポルノコミックについては、芸術表現としては批判しない。エロゲについては(実際のプレイ体験はほとんどないが、周辺のブログなどを読む限り)、性という「外傷」の希求へのいいわけが感じられる。エロゲは物語性があり、性欲だけでやってるんじゃないぞ、というわけのわからない意識が垣間見える。舞台の上でふっきれない新人芸人のようなものだ。それが気持ち悪いし恥ずかしい。オナニーのためにエロゲをやっていると開き直った方が芸術表現としても先鋭化されると思う。中途半端に虚構の「日常の現実」を求めているのだ。こういう自己愛的リアクションが彼らの気持ち悪さを加速させている。上の文章で書いた「気持ち悪い矛盾」がとてもよく表出している態度だ。
まあ社会的にそういう態度を演技として取っているのかもしれんけどね。またそれが気持ち悪い。虚構と現実の区別がついてない証拠である。