2009/04/04/Sat
あ、わかった。
笙野頼子に似てるんだあの人(最近非公開コメントいただいてる方が最初にお見舞いしてくれた事件の人)。
内面の正しさ、清らかさに過度に執着しているところとか。
笙野の方が俯瞰視点持てているとは思うけど。笙野の方が正常人らしい。自分で言ってたもんね、小市民って。
溺れる者が掴む藁、か。
掴む藁が水晶。祈りの際握る小石。
わけのわからなさに怯える子供。
笙野よりリアルだ。この人の方が。強度がある。怯えの強度。
作品にするなら劣化は必要だから、笙野のわたしが知っている文章と比較して、って話で、比較すべきではないのだけれど。
裏表がないんだよね。笙野には裏表を感じる。無意識的な裏表。無意識が裏と思っちゃー間違いよ。「無意識は言語のように構造化されている」わけで、正常人たちは
無意識が嘘をついているんだから。無意識の本質として机上の空論的に設置したのが現実界ってことね。ってここまで来ると無意識/意識すら脱構築されてはいるんだけど。ガタリの「無意識の本質は孤児である」における「無意識の本質」は現実界と考えてよいと思うよ。「現実界を生きるものは孤児である」っつーことになるね。分裂症という看板つけた分机上の空論度は下がってるよな。「器官なき身体」って言葉を取り上げたセンスは素晴らしいよ。ガタリンも。「現実界を生きる器官なき身体は孤児である」か。確かに外科的身体(脳含める)は肉親なんか関係ないもんな。認知心理学的アプローチになるねー。認知心理学系の人はもっとドゥルーズ=ガタリ援用すればいいのに。いい道具ではあると思うよ。
超自我的な裏表じゃなく現実界的な裏表までなくしたら社会生活が困難になるからなー。作家って地位すら危うくなる。なんだかんだ言って作家も人気商売だからね。この事実は外すことができない。それができないのがリアルのキチガイってもんだ。
だから超自我的な裏表を笙野が残しているのは納得できるよ。最近笙野への恨み節ばんばん書いているけど単にわたしが勝手に騙されただけだからさ、気にしないで。笙野への私信(読んでるなら、ね)。
超自我的な裏表じゃない、もっと本質的な裏表たる現実界的な裏表がメビウスの輪になっちゃうと、芸術として認められないわな。アウトサイダーアートとアートは区別されるべき、って奴だ。
多分この辺にわたしの「溺れる者が掴む藁」があるであろうってだけの話なんだけどね。
うじゃぱー。
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2009-04-04 土 15:17:22 / / /
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>書かれているのは
違います。
本文の内容自体はおおまかに理解できます。
2009-04-04 土 15:51:36 /
URL /脂 /
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2009-04-05 日 13:36:13 / / /
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>無意識(現実界)と言語(象徴界?)は、元々相性がいいってこと?
大体の印象として正しいと思います。
ただし、厳密な学術的屁理屈を考えると、現実界と象徴界はあくまで別物と考えなければならず、ラカンを論じている学者でもこの辺りが曖昧になっているのがわたしの個人的な不満なんですよね……。
たとえばこの記事から。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-267.html
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たとえばこちらのテクスト
http://kyoto-edu.bne.jp/~althusser/socio/memo8.html
などは、明らかに「現実界としての現実(リアル)」と「現実原則(即ち超自我的即ち象徴界的なもの)としての現実(リアリティ)」を混同している。よって、現実界と象徴界の関係について思考を巡らさざるを得なくなる。これは、「定型発達という精神障害」の中でも篤疾な症例と言えよう。
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従ってわたしは現実界と親近するそれを「前-象徴」と呼んだりしています。
この記事から。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-429.html
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言語として存在していない前-象徴界とでも呼べるものと、言語学的な象徴界の違いである。クリステヴァは(文学畑らしく)テクストなどに代表される言語学的な象徴界からこれを整理し、文学論における「ジェノ・テクスト/フェノ・テクスト」という対立概念を発展させ、「言語として存在していない前-象徴界/言語学的な象徴界」をそれぞれ「セミオティック/サンボリック」と呼び、論じた。
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もう一個。
http://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-248.html
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想像界があって象徴界が生まれる、という理屈はわかる。しかし、想像界の直前にある、前-象徴界的なものとでも言うべきものがある。現実界的なものとして。
ジジェクは超自我を現実界的なるものと述べている。わたしはこれには反論する。わたしの言う前-象徴界的なものが現実界的なものであって、超自我は想像界と象徴界によって、それを二重に劣化した、とても非現実界的なものだと。
(中略)
この前-象徴界的なものは、ファルスなどではない。言うなれば、誰もいない何も動かない空間に、一人残された飢えた乳児が感じる、「不動という享楽」である。
シニフィアンは、確かに固定的という意味で不動的である。言語的自己感に固定化されているのがオイディプスであるとする『アンチ・オイディプス』とも、固定化という意味で繋がるだろう。そういった意味で、わたしは「前-象徴界的なもの」と述べているが、定型発達者が考える、少なくともジジェクが述べている象徴界とは、全く別なものである。ラカン論的にも、別物だと思える。
これだけは、はっきりと言える。
それは、象徴などではない。
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前-象徴とは、不動的という意味でシニフィアンと共鳴する「不動であることの享楽」であり、実際の言語あるいは言語学的な構造とは全く別物であることを留意しておかなければ、多くのラカン論者が陥っているのと同じ錯誤に陥ると考えます。極端に言うと、現実界が構造主義に回収されてしまう。
キチガイ即ち未去勢者の無意識と、正常人の無意識は別物と考えた方がよいかもしれません。
一般的に考えられている無意識とは超自我即ち象徴界であり、「言語のように構造化された無意識」です。これはパーテーションのようなものです。これにより無意識と意識は区切られる。
一方、キチガイのパーテーションは壊れているので、正常人が考える無意識/意識という区切りにはなりません。キチガイの無意識や意識は現実界に親近しており、正常人のそれのように無意識が構造化されていない。
ところが、キチガイの現実界的な無意識にも、象徴と不動的という点で似ている(が別物の)シニフィアン的なものがある。パロール(話し言葉)よりエクリチュール(書き言葉)に似ているそれ(話し言葉より書き言葉の方が不動的ですからね)。それをわたしは前-象徴と述べているわけです。
これは、正常人にとっての、構造の軸であるファルスに親近するものと考えられますが、無意識の奥深くに格納されたそれ(笙野頼子ならば「水晶」)とも別物です。ファルスの裏側、裏打ちとでも言えるでしょうか。正常人が生後二年以内に経る去勢によりファルスが生成するわけですから、去勢を経ていない(あるいはその過程に不具合がある)未去勢者がファルスの裏側を見ていてもおかしくありません。
このパーテーションが「笙野頼子の裏表」に相当するでしょうね。正常人の主観世界においては、このパーテーションが無意識になっているので、裏表を感じられることはないでしょう。しかし超自我というパーテーションが壊れているキチガイから見れば裏表がある。即ち、理屈的に彼女は正常人である、となります。
これが「正常人たちは無意識が嘘をついている」ということになります。正常人たちだけの世界ならば嘘とはならないでしょうけれど。
超自我とは(一般的に考えられている)善悪の判断基準でもありますので、正常人たちだけの世界ならば性善説は正しいと言えます。ラカンの「女は存在しない」に倣うならば「性善説に未去勢者は存在しない」となるわけです。だとするとキチガイは性悪なのか、となると間違いです。無意識的な善悪の判断基準が壊れているだけです。キチガイに善悪の判断は全くないというわけではありませんが、少なくとも正常人の超自我即ち無意識に根づいている判断基準とは別物だと考えなければならないでしょう。
……って以上は学問村向けの話なので、あなた個人には関係のないことかもしれません。
独り言みたいなものです。
>息子オバサン
なるほど、的確な表現だと思います。
わたしも「ファザコンっぽい」とよく言われるのですが、実際の父親が好きというわけではないんですよね。うんざり感はあるにしても、好意も嫌悪も感じない。この二人に似てるんだろうか。
2009-04-05 日 16:15:32 /
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2009-04-05 日 18:07:23 / / /
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>前-象徴
あ、いえ、クリステヴァの「セミオティック(象徴ではなく記号という意味がある)」という概念のパクリですけどね……。
「記号」もいまいちピンと来ないので苦し紛れに作った言葉です(汗。
2009-04-05 日 18:22:03 /
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2009-04-05 日 18:46:05 / / /
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一番最初の非公開コメントの方へ。
>「人生は正常人にとっての演技」ということを、自分がそうである、と思い込まされているのだと思います。
これは、おそらくわたしの(ささやかなものかもしれませんが)正常さへのすがりつきだと思います。「溺れる者が掴む藁」です。
あなたは以前こう仰いました。
>むしろ、「私が他人を苦しめている、苦しみを取り除かないと!」という観念が「開放」です。
あなたは自身の加害妄想(?)を「ないことにしてくれ」と考えている。
これもあなたのささやかながらの正常さへのすがりつきなような気がします。それを「ないことにしてくれ」というのがあなたの「溺れる者が掴む藁」なのではないでしょうか。
2009-04-06 月 22:51:29 /
URL /脂 /
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