ゴドーはやって来ない。
2009/04/08/Wed
僕は観察者だ。
そこにあるものを見る機能しかない。
たとえば、誰かに興味を持って、その人の体の中を見てみたいと思っても、せいぜい裸体の上から内側の脂肪や筋肉を想像するぐらいしかできない。
実際にメスで解剖するなんてできない。
要するに、臆病者なのだ。
こうやって、自分自身の考え方に対してですら、僕は観察者でしかない。
自分の考えなのだから、自分でどうこうできるはずなのに、僕にはできない。
僕にとって僕とはモルモットのようなものだ。
こういったことを語る僕はモルモットの飼い主だ。
モルモットの飼い主は、時々モルモットに仕事をさせる。飼い主にとって役に立つ仕事をさせようとする。
たとえば、受験勉強。
飼い主が優秀であれば、去年ぐらいからモルモットに勉強という仕事を調教し始めたりしているのだろう。
残念、お前の飼い主は観察者なのだ。
だけど今回ばかりはそうも言ってられない。本来観察者でしかない飼い主は、野性のまま育ったモルモットを、付け焼刃で調教するしかない。
それだけならまだよかった。モルモットが調教できなければ飼い主が大学に落ちるだけ。モルモットにはなんの関係もない。
しかし、野性のまま育ったモルモットは、飼い主には見えないものが見えるようだ。たとえば犬や猫が、あらぬ方向をじっと見ている時がある。時には見えない何かを威嚇するような素振りを見せる。今回のモルモットの挙動はそういうものと類似している。
ここ最近ずっとこうなのだ。ほぼ二日に一回、多い時は一日に二回ほど、僕というケージの中を走り回る。まるで天敵に狙われているかのように、どこにも逃げられないケージの中を逃げ回る。
調教どころの話ではない。
そんな時飼い主は、誰でもいい、誰かと会ったりする。その誰かを観察することで、しばしモルモットのことを忘れようとするわけだ。
とはいえ僕みたいな人間のことだ、自ら率先して誰かを誘う、なんてことはできない。ではどうするかというと、既に集団としてできあがっているところにふらっと交じる。気配を消して。そうしておかないと、たとえば警戒心が強い集団の場合、いろいろ面倒なことが起こる。だから交じる集団も、僕の方で選別している。僕みたいなどうでもいい人間が一人交ざったところで誰も何も気にしないような集団。そんな吹きだまりのような場所。
具体的には、バスで十五分、徒歩で小一時間程度先にあるレンタルショップ。平屋建てで床面積がやたらと広い。駐車場も広い。土地だけは余っているようで、店舗の裏には用途のよくわからないプレハブ小屋があった。
店内を素通りし、裏口から出て、屋根付き駐車場を抜けると、そのプレハブ小屋がある。一度オーナーから、来る時は店内を通り抜けるな、と言われたことがあるが、かなり遠回りになるので僕は無視している。
妙な音楽が聞こえる。音楽なんててんで興味のない僕にとやかく言える資格はないが、メロディのない、ただ聞く人を不安がらせるためだけに作られたような音楽。あああいつだ、と思う。
アルミの引き戸を開け、カーテンをめくる。煙草の臭いがまず鼻につく。次にすえたような臭い。廃墟のような空間。重度のひきこもりはペットボトルに排尿して部屋に溜め込んでいたりするらしいが、まだその部屋の方がマシだろう。そいつにとっては。
物は散乱している。しかし、ティッシュ箱やカップラーメンの容器や使い捨てコップや下着などといったものばかりで、嗜好品というか、生活に余裕をもたらすための物がほとんどない。テレビもない。CDラジカセとマンガ雑誌くらいか。ひきこもりというより、ヤク中の末期みたいな部屋だ。そんなもの実際に見たことはないけれど。
後は、場違いに大きなソファー、倒れたスチール棚、その上に敷かれた布団、部屋の隅にありながら神棚のような存在感を醸し出す大型冷蔵庫。
要するに、浮浪者のそれよりわずかにレベルが高いだけの居住空間だ。
ソファーに横になっている三十代ぐらいの男が僕をちらっと見る。ワイシャツにネクタイ。仕事帰りみたいだ。何故こんなところに来るのか、なんて野暮なことは誰も聞かない。自分が何故来てしまうのかがわからないからだろう。僕もだ。
いつもスチール棚の布団で寝ているネット難民は、今日はいない。ラジカセの前で座禅を組んでるかのようにまんじりとも動かない彼は、いつもいる奴。僕と同い年だけど、中卒だ。
ソファーの脇に落ちていたマンガ雑誌を拾う。今週号だった。サラリーマンが買ってきたのだろう。僕は何も言わずソファーから少し離れ、薄いカーペットの上に直に座り、雑誌を読み始める。何も言わないのがここの作法だ。
不快な音楽だけが部屋の空気を振動させている。
みんな何かを待っているようだ。
だけど何も待っていない。
存在しない何かを待っている。
ゴドーは待たれがいがあっただろう。何も喋らない僕たちと比べたら。
マンガを読んでいるようで読めていない。マンガでさえよくわからない。脳のいろんな機能が淀んでいる。かさぶたになり損ねた血の塊のように。
そんな時、ゴドーじゃない彼と出会った。
「最低限の掃除はしろっつってんだろ」
ソファーで寝ているサラリーマンが、不機嫌そうに彼を振り返る。何も言わずまた背を向ける。
コンビニの袋のがさがさと言う音がやけに響く。不快という目的で作られた音楽とはまた違う不快さ。
「おい、ビール」
サラリーマンがやっと起き上がる。下からなめ上げるように彼を見上げる。よく殺人事件のニュースで見る、犯人の近所の人たちが「すごく大人しそうな人でしたよ」などと白々しく言っているシーンを思い出した。サラリーマンの目はそういったことを言われそうな目をしている。
「発泡酒じゃん」
缶を受け取った殺人犯がぼやく。
「違いわかんのかよ」
彼が笑いながら言う。見下した笑い。見下された殺人犯は何も言わずに缶を開ける。何故だか僕はがっかりする。
ゴドーは来ないから、ゴドーなんだ。
ゴドーじゃない彼が聖域に近づく。大型冷蔵庫の扉を開け、コンビニ袋の中のものを放り込む。
ラジカセの前の若い修行僧は、首を妙な角度で回転させたまま、彼を見ている。僕に見られていることを悟ったのか、ゆっくりと首を戻す。座禅を再開する。
「見慣れない奴がいるな」
ゴドーじゃない彼の言葉を理解するのに十秒くらいかかる。僕のことである可能性が高い。何故なら僕も彼を見慣れていないから。
じわじわと体に緊張感が染み渡る。
足で冷蔵庫の扉を閉めながら、彼が僕を見下す。
無言が作法のこの場でも、最低限の自己紹介ぐらいはする。殺人犯、いやサラリーマンにはした。
「タモツの知り合いだと」
沈黙を見かねてか知らないが、サラリーマンが代弁してくれる。やはり彼は社会人だ。殺人犯じゃない。僕は少しいら立ちを覚える。
「ああ、そう」
缶を開ける音が、ナイフで脅されているように聞こえる。体の奥の方がぞわぞわする。
缶を手に持った彼はサラリーマンの横に腰を下ろす。偉そうな座り方だ。先住民のサラリーマンが端っこに身を寄せる。
「そんな脅すような目で見んなよ」
彼が笑う。……脅す? ……ああ、僕がか。僕の彼を見る目はそんな風に思われたのか。脅されてる人間が脅す人間を見下している。なんだか妙な構図だ。
「おーこええこええ」
にやけた笑みを先住民に投げかける。下卑た笑み。脅すつもりなんかなかったけれど、そう思われた方が楽そうだ、と思った。
客観的に見ると、彼がサラリーマンを脅しているように見える。彼の風体がそう思わせるのかもしれない。年は三十代ぐらいで、多分サラリーマンと似たような年だろう。だけど彼は革ジャンを羽織り、内側にメッシュのTシャツを着込んだ、ネットスラングで言うところのいかにもDQNな格好をしていた。僕はDQNが嫌いだ。僕というモルモットはケージの中を逃げ回っている。どこにも逃げられないのに逃げ回っている。
そこにあるものを見る機能しかない。
たとえば、誰かに興味を持って、その人の体の中を見てみたいと思っても、せいぜい裸体の上から内側の脂肪や筋肉を想像するぐらいしかできない。
実際にメスで解剖するなんてできない。
要するに、臆病者なのだ。
こうやって、自分自身の考え方に対してですら、僕は観察者でしかない。
自分の考えなのだから、自分でどうこうできるはずなのに、僕にはできない。
僕にとって僕とはモルモットのようなものだ。
こういったことを語る僕はモルモットの飼い主だ。
モルモットの飼い主は、時々モルモットに仕事をさせる。飼い主にとって役に立つ仕事をさせようとする。
たとえば、受験勉強。
飼い主が優秀であれば、去年ぐらいからモルモットに勉強という仕事を調教し始めたりしているのだろう。
残念、お前の飼い主は観察者なのだ。
だけど今回ばかりはそうも言ってられない。本来観察者でしかない飼い主は、野性のまま育ったモルモットを、付け焼刃で調教するしかない。
それだけならまだよかった。モルモットが調教できなければ飼い主が大学に落ちるだけ。モルモットにはなんの関係もない。
しかし、野性のまま育ったモルモットは、飼い主には見えないものが見えるようだ。たとえば犬や猫が、あらぬ方向をじっと見ている時がある。時には見えない何かを威嚇するような素振りを見せる。今回のモルモットの挙動はそういうものと類似している。
ここ最近ずっとこうなのだ。ほぼ二日に一回、多い時は一日に二回ほど、僕というケージの中を走り回る。まるで天敵に狙われているかのように、どこにも逃げられないケージの中を逃げ回る。
調教どころの話ではない。
そんな時飼い主は、誰でもいい、誰かと会ったりする。その誰かを観察することで、しばしモルモットのことを忘れようとするわけだ。
とはいえ僕みたいな人間のことだ、自ら率先して誰かを誘う、なんてことはできない。ではどうするかというと、既に集団としてできあがっているところにふらっと交じる。気配を消して。そうしておかないと、たとえば警戒心が強い集団の場合、いろいろ面倒なことが起こる。だから交じる集団も、僕の方で選別している。僕みたいなどうでもいい人間が一人交ざったところで誰も何も気にしないような集団。そんな吹きだまりのような場所。
具体的には、バスで十五分、徒歩で小一時間程度先にあるレンタルショップ。平屋建てで床面積がやたらと広い。駐車場も広い。土地だけは余っているようで、店舗の裏には用途のよくわからないプレハブ小屋があった。
店内を素通りし、裏口から出て、屋根付き駐車場を抜けると、そのプレハブ小屋がある。一度オーナーから、来る時は店内を通り抜けるな、と言われたことがあるが、かなり遠回りになるので僕は無視している。
妙な音楽が聞こえる。音楽なんててんで興味のない僕にとやかく言える資格はないが、メロディのない、ただ聞く人を不安がらせるためだけに作られたような音楽。あああいつだ、と思う。
アルミの引き戸を開け、カーテンをめくる。煙草の臭いがまず鼻につく。次にすえたような臭い。廃墟のような空間。重度のひきこもりはペットボトルに排尿して部屋に溜め込んでいたりするらしいが、まだその部屋の方がマシだろう。そいつにとっては。
物は散乱している。しかし、ティッシュ箱やカップラーメンの容器や使い捨てコップや下着などといったものばかりで、嗜好品というか、生活に余裕をもたらすための物がほとんどない。テレビもない。CDラジカセとマンガ雑誌くらいか。ひきこもりというより、ヤク中の末期みたいな部屋だ。そんなもの実際に見たことはないけれど。
後は、場違いに大きなソファー、倒れたスチール棚、その上に敷かれた布団、部屋の隅にありながら神棚のような存在感を醸し出す大型冷蔵庫。
要するに、浮浪者のそれよりわずかにレベルが高いだけの居住空間だ。
ソファーに横になっている三十代ぐらいの男が僕をちらっと見る。ワイシャツにネクタイ。仕事帰りみたいだ。何故こんなところに来るのか、なんて野暮なことは誰も聞かない。自分が何故来てしまうのかがわからないからだろう。僕もだ。
いつもスチール棚の布団で寝ているネット難民は、今日はいない。ラジカセの前で座禅を組んでるかのようにまんじりとも動かない彼は、いつもいる奴。僕と同い年だけど、中卒だ。
ソファーの脇に落ちていたマンガ雑誌を拾う。今週号だった。サラリーマンが買ってきたのだろう。僕は何も言わずソファーから少し離れ、薄いカーペットの上に直に座り、雑誌を読み始める。何も言わないのがここの作法だ。
不快な音楽だけが部屋の空気を振動させている。
みんな何かを待っているようだ。
だけど何も待っていない。
存在しない何かを待っている。
ゴドーは待たれがいがあっただろう。何も喋らない僕たちと比べたら。
マンガを読んでいるようで読めていない。マンガでさえよくわからない。脳のいろんな機能が淀んでいる。かさぶたになり損ねた血の塊のように。
そんな時、ゴドーじゃない彼と出会った。
「最低限の掃除はしろっつってんだろ」
ソファーで寝ているサラリーマンが、不機嫌そうに彼を振り返る。何も言わずまた背を向ける。
コンビニの袋のがさがさと言う音がやけに響く。不快という目的で作られた音楽とはまた違う不快さ。
「おい、ビール」
サラリーマンがやっと起き上がる。下からなめ上げるように彼を見上げる。よく殺人事件のニュースで見る、犯人の近所の人たちが「すごく大人しそうな人でしたよ」などと白々しく言っているシーンを思い出した。サラリーマンの目はそういったことを言われそうな目をしている。
「発泡酒じゃん」
缶を受け取った殺人犯がぼやく。
「違いわかんのかよ」
彼が笑いながら言う。見下した笑い。見下された殺人犯は何も言わずに缶を開ける。何故だか僕はがっかりする。
ゴドーは来ないから、ゴドーなんだ。
ゴドーじゃない彼が聖域に近づく。大型冷蔵庫の扉を開け、コンビニ袋の中のものを放り込む。
ラジカセの前の若い修行僧は、首を妙な角度で回転させたまま、彼を見ている。僕に見られていることを悟ったのか、ゆっくりと首を戻す。座禅を再開する。
「見慣れない奴がいるな」
ゴドーじゃない彼の言葉を理解するのに十秒くらいかかる。僕のことである可能性が高い。何故なら僕も彼を見慣れていないから。
じわじわと体に緊張感が染み渡る。
足で冷蔵庫の扉を閉めながら、彼が僕を見下す。
無言が作法のこの場でも、最低限の自己紹介ぐらいはする。殺人犯、いやサラリーマンにはした。
「タモツの知り合いだと」
沈黙を見かねてか知らないが、サラリーマンが代弁してくれる。やはり彼は社会人だ。殺人犯じゃない。僕は少しいら立ちを覚える。
「ああ、そう」
缶を開ける音が、ナイフで脅されているように聞こえる。体の奥の方がぞわぞわする。
缶を手に持った彼はサラリーマンの横に腰を下ろす。偉そうな座り方だ。先住民のサラリーマンが端っこに身を寄せる。
「そんな脅すような目で見んなよ」
彼が笑う。……脅す? ……ああ、僕がか。僕の彼を見る目はそんな風に思われたのか。脅されてる人間が脅す人間を見下している。なんだか妙な構図だ。
「おーこええこええ」
にやけた笑みを先住民に投げかける。下卑た笑み。脅すつもりなんかなかったけれど、そう思われた方が楽そうだ、と思った。
客観的に見ると、彼がサラリーマンを脅しているように見える。彼の風体がそう思わせるのかもしれない。年は三十代ぐらいで、多分サラリーマンと似たような年だろう。だけど彼は革ジャンを羽織り、内側にメッシュのTシャツを着込んだ、ネットスラングで言うところのいかにもDQNな格好をしていた。僕はDQNが嫌いだ。僕というモルモットはケージの中を逃げ回っている。どこにも逃げられないのに逃げ回っている。