世界守護者
2007/01/18/Thu
二階堂奥歯氏著『八本脚の蝶』より。
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『ペン』(引間徹氏著)で描かれている範囲は『くますけと一緒に』(新井素子氏著)のそれより広い。主人公は大人であり、仕事を持ち、失踪し放浪する。主人公と離れたペンは一時南の島の老夫婦と共に暮らす。
しかしそれでもなお、ここで描かれるのは社会への違和感である。半ば正気を失っているように見える老人もまた、一人の市民としてその身に降りかかった不幸に向かっている。
探しているのは社会に対する違和感ではなくて、世界に存在することへの違和感を持つ者とぬいぐるみの物語。
世界に対する違和感を感じる主人公はより抽象的な存在だ。それは社会の中の一個人ではなく、世界があらわれでる場としての主体という性格を強く帯びている。
従って主人公が変容するとき世界は変容し、私が崩壊するとき世界は崩壊するのだ。
そのような人物にとってぬいぐるみは極論すれば自我の崩壊と世界の崩壊をくいとめる者、世界守護者とさえ言えるのではないか。
世界と自我の要石としてのぬいぐるみ。
そして、生きている何かの代替物では決してなく、ぬいぐるみがぬいぐるみであるがゆえの愛。
そのようなことが書かれた物語がどこかにないものか。
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わかった。
セカイ系への違和感。
社会=象徴界の消失が問題なわけじゃない。
パートナー(ほとんど少女)がシャーマンとなって「曖昧な世界」に誘うという構図に違和感を感じるのだ。現実界を、私たちが近似して感じられるのは「曖昧な世界」である。男の子がいる世界こそが「曖昧な世界」なのだ。宮台氏なら「理不尽な世界」とでも言うだろうか。「曖昧な世界」「理不尽な世界」は、ある時は「社会」という姿を見せるかもしれない。だけど社会よりもっと広範囲で、本質的な世界だ。それが世界そのものなのだ。
異世界は、私たちの現実の真下、薄皮一枚の下にある世界だ。
ラカンの現実界は、私たちが認知できない世界であり、到達不可能な世界だ。だけどそんなこと言ってしまったらどうしようもない。だから、私たちが現実界を求めるならば、現実界と私たちが認知できる世界の「間」を考えるしかない。
それはラカン派の人たちが言うように、まさに「死の瞬間」と同義かもしれない。ぬいぐるみがぬいぐるみであれば、生きていない→死んでいる=「死後」。だから要石となる。彼がくいとめるのは「間」。究極の曖昧なもの。混沌。無意識が感じる世界の感触。
人間はそれを恐れるから、死を遠ざけるために「社会」というシステムを築いた。システムの部品というぬいぐるみで世界を埋め尽くそうとした。過去の人類に敬意を払うならば、簡単に「死の瞬間」を求めてはいけない。
同著から。
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少女小説には二種類ある。あるいは、二種類の少女がいる。
man=人間=男性のサブジャンルであるwoman=女性のさらにサブジャンルに属する「少女」が、自分に要求されている属性を超えて存在しようとする小説。あるいはそのような少女。
地に足をつけ、現実の社会生活を存続させることを要求されている(と信じている)男性が、見る夢。少女という名の妖精が不思議の国に連れて行って、彼を救ってくれる小説。あるいはそのような少女。
私は少女小説が好きで、少女が好きだ。前者のあり方をよりまっとうなものと信じ、そのような少女小説を擁護したいと思うが、後者の作品の中にも素晴らしいとこころゆだねてしまうものがある。こちらがだめ、あちらが正しいとは言えない。どちらも素晴らしいものと、くだらないものを含んでいる。しかしこの二つははっきりと違う。この違いを言い表せないことにいつも歯がゆさを覚えていた。
だから、「L文学」というくくりは待ち望んでいたものだ。この名称自体の是非は別として。
私は前者の「少女」であるが、後者の「少女」として見られることが度々ある。そのような視線はおおむね不愉快なものであるが、そんな私でも、特定の誰かのためには妖精でありたいと思うことがある。
でも、その気持ちと場合ははっきりと区別して理解しておきたいものだ。
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『ペン』(引間徹氏著)で描かれている範囲は『くますけと一緒に』(新井素子氏著)のそれより広い。主人公は大人であり、仕事を持ち、失踪し放浪する。主人公と離れたペンは一時南の島の老夫婦と共に暮らす。
しかしそれでもなお、ここで描かれるのは社会への違和感である。半ば正気を失っているように見える老人もまた、一人の市民としてその身に降りかかった不幸に向かっている。
探しているのは社会に対する違和感ではなくて、世界に存在することへの違和感を持つ者とぬいぐるみの物語。
世界に対する違和感を感じる主人公はより抽象的な存在だ。それは社会の中の一個人ではなく、世界があらわれでる場としての主体という性格を強く帯びている。
従って主人公が変容するとき世界は変容し、私が崩壊するとき世界は崩壊するのだ。
そのような人物にとってぬいぐるみは極論すれば自我の崩壊と世界の崩壊をくいとめる者、世界守護者とさえ言えるのではないか。
世界と自我の要石としてのぬいぐるみ。
そして、生きている何かの代替物では決してなく、ぬいぐるみがぬいぐるみであるがゆえの愛。
そのようなことが書かれた物語がどこかにないものか。
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わかった。
セカイ系への違和感。
社会=象徴界の消失が問題なわけじゃない。
パートナー(ほとんど少女)がシャーマンとなって「曖昧な世界」に誘うという構図に違和感を感じるのだ。現実界を、私たちが近似して感じられるのは「曖昧な世界」である。男の子がいる世界こそが「曖昧な世界」なのだ。宮台氏なら「理不尽な世界」とでも言うだろうか。「曖昧な世界」「理不尽な世界」は、ある時は「社会」という姿を見せるかもしれない。だけど社会よりもっと広範囲で、本質的な世界だ。それが世界そのものなのだ。
異世界は、私たちの現実の真下、薄皮一枚の下にある世界だ。
ラカンの現実界は、私たちが認知できない世界であり、到達不可能な世界だ。だけどそんなこと言ってしまったらどうしようもない。だから、私たちが現実界を求めるならば、現実界と私たちが認知できる世界の「間」を考えるしかない。
それはラカン派の人たちが言うように、まさに「死の瞬間」と同義かもしれない。ぬいぐるみがぬいぐるみであれば、生きていない→死んでいる=「死後」。だから要石となる。彼がくいとめるのは「間」。究極の曖昧なもの。混沌。無意識が感じる世界の感触。
人間はそれを恐れるから、死を遠ざけるために「社会」というシステムを築いた。システムの部品というぬいぐるみで世界を埋め尽くそうとした。過去の人類に敬意を払うならば、簡単に「死の瞬間」を求めてはいけない。
同著から。
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少女小説には二種類ある。あるいは、二種類の少女がいる。
man=人間=男性のサブジャンルであるwoman=女性のさらにサブジャンルに属する「少女」が、自分に要求されている属性を超えて存在しようとする小説。あるいはそのような少女。
地に足をつけ、現実の社会生活を存続させることを要求されている(と信じている)男性が、見る夢。少女という名の妖精が不思議の国に連れて行って、彼を救ってくれる小説。あるいはそのような少女。
私は少女小説が好きで、少女が好きだ。前者のあり方をよりまっとうなものと信じ、そのような少女小説を擁護したいと思うが、後者の作品の中にも素晴らしいとこころゆだねてしまうものがある。こちらがだめ、あちらが正しいとは言えない。どちらも素晴らしいものと、くだらないものを含んでいる。しかしこの二つははっきりと違う。この違いを言い表せないことにいつも歯がゆさを覚えていた。
だから、「L文学」というくくりは待ち望んでいたものだ。この名称自体の是非は別として。
私は前者の「少女」であるが、後者の「少女」として見られることが度々ある。そのような視線はおおむね不愉快なものであるが、そんな私でも、特定の誰かのためには妖精でありたいと思うことがある。
でも、その気持ちと場合ははっきりと区別して理解しておきたいものだ。
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