現実界は無意識と限らない。
2009/04/09/Thu
某駅前のスクランブル交差点。終電間際の時間帯。男が泣きわめいている女の髪をつかんで引きずっている。読者の中でこんな光景を見たことがあるなんて人がいたならば、もしかしたら引きずられているのはわたしかもしれない。
無邪気さと狡猾さとは同じ実体を示しているようにわたしには思える。
いや、厳密には違うとも思う。
たとえば詐欺。お金という目的をもってなされた狡猾さは、無邪気ではない。
故に正しくは、目的のない狡猾さは無邪気さである、となる。
この目的のない狡猾さとは、それこそユング論でしきりに論じられる元型、トリックスターである。トリックスターたちは無邪気であり狡猾である。何かしらの目的を持たず、その瞬間瞬間の気分によって行動する。
行動に一貫性なり、何かしらの信念などないから狡猾となる。同時にそれは無邪気と形容される状態である。
子供たちの行動は、一貫した目的やら信念やらに基づいていない。その瞬間瞬間の気分によって行動する。それは無邪気である。
しかしその状態のまま大人になるとどうなるか。
一貫した目的やら信念やらないまま行動すると、「ずるい」や「卑怯だ」などと言われる。
この場合、「ずるい」や「卑怯だ」と言う大人の内面に、何かしらの一貫性やら信念やらといったものがあるのだろう。自分にあるのだから相手にもあるだろう、という予測に基づいての判断である。一貫性やら信念やらが既にあるのだから、相手の行動には何かしらの目的があるはずだ、という無意識の思考回路から、「ずるい」や「卑怯だ」という判断になるのである。
この推論が正しい場合もあるだろう。実際にその相手は何かしらの一貫性や信念に基づき、何かしらの目的のためにそういう言動をしている場合も。この場合が統計的に多い、つまり可能性として高いというのも、わたしの人生経験から考えて否定できない。
しかし、そうではない大人だっていてもおかしくない。
それがわたしの言うキチガイ即ち未去勢者たちである。具体的には自閉症者や統合失調症者やスキゾイドたちである。
無意識の思考回路即ち超自我は、ファルスを軸として、全ての部分がファルスからの隠喩的作用を受けている。構造化されている。「無意識は言語のように構造化されている」のである。これが正常な(神経症者)の無意識(超自我)である。
一方、キチガイたちのファルスは壊れている。従って無意識の思考回路即ち超自我も壊れていることになる。似たようなものがあったとしても、構造として定立させるための軸がない。いわば「擬似的な超自我らしきもの」である。
ラカン論においては、無意識と意識を裏表と考えるならば、それらはメビウスの輪のようになっているが、言語構造という裏表のあるトーラスによって裏と表が分かたれる、となる。分かたれる過程が鏡像段階即ち去勢である。
主体の無意識と意識は分かたれている。これは神経症者即ち去勢済みな主体即ち正常人に限った話である。であるならば、キチガイは無意識と意識が分割されていない、というわけではない。キチガイにも壊れた超自我があるだろう。超自我とはパーテーションのようなものである(ここのコメント欄参照)。壊れたパーテーションによって無意識と意識が区切られている。正常人はこのパーテーションが壊れていない。構造として定立している。キチガイの無意識と意識は、正常人と比して整然と区画割りされていないだけである。
超自我というフィルターのない無意識の本質とも言うべき現実界から伝播するうねりがプレコックス感だ。
とはいえ現実界は無意識の奥底にあるというわけではない。無意識と意識という区切りそのものが正常という精神疾患の病態である。区切りが、フィルターが壊れている人間にとってそれは無意識でもあり意識でもある。無意識とも言えないし意識とも言えない。
彼はわたしの髪をつかんで引きずり回すことで、わたしという現実界からのうねりを、プレコックス感を手なずけようとしていたのだろう。
狡猾で無邪気なわたしを制御しようとしていたのだろう。
もしわたしが未去勢者だったならば。
文化や文明を否定したいわけじゃない。文化や文明を棄て自然に戻れなどと言っているわけではない。
文化や文明とは自然との戦いの産物だ。戦いの結果が積み重なってきたものだ。「地球に優しく」などと言うエコロジー思想だって戦いだ。「優しく」などと言っているが要は「押してだめなら引いてみろ」である。飲み屋での男女の駆け引きようなものである。
この戦いは個々人のうちにもある。常に既に。何故なら人間の肉体も自然だからだ。
個々人の中で、文化や文明と自然は戦っている。幻想と現実はせめぎ合っている。
それを忘れてしまうのが正常という精神疾患である。
パラノイアックな妄想の産物たる人格なるものである。
そういえば髪の毛に襲われる夢を何度か見ている。最近は見てないけど。
『寄生獣』ってマンガで、バケモノと人間の見分けるには髪の毛を抜けばいい、というのがあった。バケモノは髪の毛も生きているので、切った後しばらく「クエェ……」などともがいてしまう。トカゲの尻尾みたいなもんか。
人間と何が違うのか。人間の髪は動かないだけだ。
自分の肉体でさえ絶対的未知である。これはキチガイにとっても正常人にとっても共通の現実なのだが、正常人たちはそれを忘れている。自分の肉体を統合された一つの「個」として把握・所有できている。一方キチガイたちのそれは断片的な未知性の強いものとなっている。自分の肉体も物自体的なモノなのである。
わたしはばらばらになった自分の肉片をかき集めるように生きている。愛する者が強力な散弾銃で撃たれ、ばらばらになったその肉片を必死でかき集めるように。
集め続けている。集めきれない。
しかし集めるのをあきらめてはいけない。
それをあきらめることは死ぬことだから。
無邪気さと狡猾さとは同じ実体を示しているようにわたしには思える。
いや、厳密には違うとも思う。
たとえば詐欺。お金という目的をもってなされた狡猾さは、無邪気ではない。
故に正しくは、目的のない狡猾さは無邪気さである、となる。
この目的のない狡猾さとは、それこそユング論でしきりに論じられる元型、トリックスターである。トリックスターたちは無邪気であり狡猾である。何かしらの目的を持たず、その瞬間瞬間の気分によって行動する。
行動に一貫性なり、何かしらの信念などないから狡猾となる。同時にそれは無邪気と形容される状態である。
子供たちの行動は、一貫した目的やら信念やらに基づいていない。その瞬間瞬間の気分によって行動する。それは無邪気である。
しかしその状態のまま大人になるとどうなるか。
一貫した目的やら信念やらないまま行動すると、「ずるい」や「卑怯だ」などと言われる。
この場合、「ずるい」や「卑怯だ」と言う大人の内面に、何かしらの一貫性やら信念やらといったものがあるのだろう。自分にあるのだから相手にもあるだろう、という予測に基づいての判断である。一貫性やら信念やらが既にあるのだから、相手の行動には何かしらの目的があるはずだ、という無意識の思考回路から、「ずるい」や「卑怯だ」という判断になるのである。
この推論が正しい場合もあるだろう。実際にその相手は何かしらの一貫性や信念に基づき、何かしらの目的のためにそういう言動をしている場合も。この場合が統計的に多い、つまり可能性として高いというのも、わたしの人生経験から考えて否定できない。
しかし、そうではない大人だっていてもおかしくない。
それがわたしの言うキチガイ即ち未去勢者たちである。具体的には自閉症者や統合失調症者やスキゾイドたちである。
無意識の思考回路即ち超自我は、ファルスを軸として、全ての部分がファルスからの隠喩的作用を受けている。構造化されている。「無意識は言語のように構造化されている」のである。これが正常な(神経症者)の無意識(超自我)である。
一方、キチガイたちのファルスは壊れている。従って無意識の思考回路即ち超自我も壊れていることになる。似たようなものがあったとしても、構造として定立させるための軸がない。いわば「擬似的な超自我らしきもの」である。
ラカン論においては、無意識と意識を裏表と考えるならば、それらはメビウスの輪のようになっているが、言語構造という裏表のあるトーラスによって裏と表が分かたれる、となる。分かたれる過程が鏡像段階即ち去勢である。
主体の無意識と意識は分かたれている。これは神経症者即ち去勢済みな主体即ち正常人に限った話である。であるならば、キチガイは無意識と意識が分割されていない、というわけではない。キチガイにも壊れた超自我があるだろう。超自我とはパーテーションのようなものである(ここのコメント欄参照)。壊れたパーテーションによって無意識と意識が区切られている。正常人はこのパーテーションが壊れていない。構造として定立している。キチガイの無意識と意識は、正常人と比して整然と区画割りされていないだけである。
超自我というフィルターのない無意識の本質とも言うべき現実界から伝播するうねりがプレコックス感だ。
とはいえ現実界は無意識の奥底にあるというわけではない。無意識と意識という区切りそのものが正常という精神疾患の病態である。区切りが、フィルターが壊れている人間にとってそれは無意識でもあり意識でもある。無意識とも言えないし意識とも言えない。
彼はわたしの髪をつかんで引きずり回すことで、わたしという現実界からのうねりを、プレコックス感を手なずけようとしていたのだろう。
狡猾で無邪気なわたしを制御しようとしていたのだろう。
もしわたしが未去勢者だったならば。
文化や文明を否定したいわけじゃない。文化や文明を棄て自然に戻れなどと言っているわけではない。
文化や文明とは自然との戦いの産物だ。戦いの結果が積み重なってきたものだ。「地球に優しく」などと言うエコロジー思想だって戦いだ。「優しく」などと言っているが要は「押してだめなら引いてみろ」である。飲み屋での男女の駆け引きようなものである。
この戦いは個々人のうちにもある。常に既に。何故なら人間の肉体も自然だからだ。
個々人の中で、文化や文明と自然は戦っている。幻想と現実はせめぎ合っている。
それを忘れてしまうのが正常という精神疾患である。
パラノイアックな妄想の産物たる人格なるものである。
そういえば髪の毛に襲われる夢を何度か見ている。最近は見てないけど。
『寄生獣』ってマンガで、バケモノと人間の見分けるには髪の毛を抜けばいい、というのがあった。バケモノは髪の毛も生きているので、切った後しばらく「クエェ……」などともがいてしまう。トカゲの尻尾みたいなもんか。
人間と何が違うのか。人間の髪は動かないだけだ。
自分の肉体でさえ絶対的未知である。これはキチガイにとっても正常人にとっても共通の現実なのだが、正常人たちはそれを忘れている。自分の肉体を統合された一つの「個」として把握・所有できている。一方キチガイたちのそれは断片的な未知性の強いものとなっている。自分の肉体も物自体的なモノなのである。
わたしはばらばらになった自分の肉片をかき集めるように生きている。愛する者が強力な散弾銃で撃たれ、ばらばらになったその肉片を必死でかき集めるように。
集め続けている。集めきれない。
しかし集めるのをあきらめてはいけない。
それをあきらめることは死ぬことだから。