背中ワンダーランド
2009/04/10/Fri
人は、自分の背中を見ることができない。
合わせ鏡でもすればいいのだけれど、それが本当に自分の背中かどうかはわからない。
もしかしたら、それは他人の背中かもしれない。
そんなことあるわけがない。
あるわけがないのに、わたしは自分の背中を見たことがない。
他人の背中ならいつも見ているのに、何故自分の背中は見ることができないのだろう。
他人にしてもそうだ。彼ら彼女らだって、自分の背中を直接見たことはないだろう。
背中同士が向き合った空間には、一体何があるのだろう。
そこにある背中は、一体誰の背中だろう。
背中だけの世界。一人一人が背中しか見せない世界。
周りの子たちの背中には、天使の翼が生えている。
学校にいるといつもそう思う。
天使たちは無邪気だ。そして残酷だ。
誰かをいじめている時でさえ、その笑顔は輝いている。
だけど、いじめられている子も天使だ。他の天使に翼を傷つけられた天使。その暗い表情には、何かの強い意志を感じる。傷ついた翼を守ろうとする者や、傷つける側に回ろうとする者や。
天使たちの世界は弱肉強食だ。
その食物連鎖からわたしはあぶれている。あぶれていてよかったと思う。常に輪の外から天使たちのドラマを見ている。たとえ輪の中にいても、わたしの目は輪の外にある。
輪の外にはわたしだけしかいない。たとえ輪から排除された人がいても、たとえその翼が傷ついていても、彼ら彼女らは天使だ。輪を生み出す天使の世界にいる。
わたしは天使の世界にいない。わたしの背中には翼がない。いや、あるかどうかわからない。何故ならわたしは自分の背中を見たことがないのだから。
「あのさ」
傷ついた天使がわたしに声をかける。
「次、理科室だよね?」
答える必要性を感じさせない質問。わたしにとっては無意味なこういった言葉が、天使たちを天使の世界に繋ぎ止めている。天使が天使であるための呪文。
「一緒に行かない?」
好きに行けばいいと思う。誰かと一緒に行かなければならない規則なんてないのだから。
「だって、あなたの羽も、ぼろぼろだよ?」
彼女が唱える呪文は、わたしにはこう聞こえる。
わたしにも翼があるのだろうか。
わたしは後ろを振り返る。いくら素早く振り返っても、自分の背中は見ることができない。その代わり、たくさんの天使たちの背中があった。
背中だけの世界。
わたしは凍りついた。
急いで前を向き直る。
傷ついた天使はまだそこにいた。
その顔が、形がどうとかという問題ではなく、彼女の体全体から発せられるオーラのようなものを含めて、とてつもなく汚らわしいもののように見えた。
それが顔に出たのかもしれない。
「……あ、ごめんね。またね」
そう言って、わたしの返事を待つ素振りさえ見せず、彼女は立ち去った。
何が「また」なのかわからないが、わたしはほっとした。
頭が痛い。
天使たちの背中が、輪を作っている。まるで、その中心にある何かを護衛するかのように、背中を向けて取り囲んでいる。この輪がわたしの頭を絞めつけている。
この輪の外側が、世間一般で言う「人の輪」だ。あるかないかわからない、見たこともない背中など最初から考えなくていいのだなどと言わんばかりに、顔だけを見せ合う世界。人と人が正面から向き合う世界。
その世界で生きるためには、天使たちと顔を向け合わなければならない。顔を背けられたとしても、さっきの傷ついた天使のように、背けた方向に走っていって顔を向け合おうとしなければならない。それが「人の輪」というものだ。
わたしの頭を締めつけている輪は、世間一般で言う「輪」と、内外が反転している。「輪」から弾き出されたわたしから見れば、わたしは天使たちの背中でできた輪に取り囲まれている。天使たちにしてみれば、顔を向け合った空間が「輪」の内部になっている。この天使たちが顔を見合わせる「輪」が「人の輪」と呼ばれるものだ。一方、わたしが感じている輪は世間では認知されていない。だからいちいち説明しなくてはならない。
他人と顔を向け合う空間。顔だけの空間。わたしにはそれができない。そこにいられない。実際問題としてできなくないこともないが、見たこともない自分の背中の方が気になってしまう。だからいつも後ろを振り返ってしまう。
振り返ると、大体いつも天使たちは背中を向けている。当然だ。わたしがいる輪は天使たちの背中に取り囲まれている輪なのだから。
この輪は、アリスが野うさぎに導かれたあの穴だ。
穴の先にあるのはワンダーランド。不可思議な世界。
だけどアリスが冒険したワンダーランドより、もっと生臭い世界だ。血肉の臭いがする世界だ。鉄の臭いと味がする世界だ。
気がつくと、ノート一面に見知らぬ国の文字がびっしりと並んでいる。わたしが書いた文字である。わたしが創造した文字もどき。
頭痛がする時いつもこうしている。意味のない文字を書いていると気持ちが落ち着く。
コンパスの針で、親指の腹を刺す。
ちっちゃな血玉が浮かぶ。
見知らぬ国の文字の上に、血を擦りつける。
生臭い世界を鎮めるための儀式。
穴の中へとわたしを誘う野うさぎを追い払うための護符。
わたしはアリスではない。わたしの体は血で汚れている。
そう思うと、さっきの傷ついた天使に対して無性に腹が立ってきた。
ちら、と彼女の方を見る。目が半開きだ。うとうとしているのだろう。呑気なことに。
わたしは頭の中で、彼女の目にコンパスの針を刺した。
同時にチャイムが鳴った。ひやっとした。
合わせ鏡でもすればいいのだけれど、それが本当に自分の背中かどうかはわからない。
もしかしたら、それは他人の背中かもしれない。
そんなことあるわけがない。
あるわけがないのに、わたしは自分の背中を見たことがない。
他人の背中ならいつも見ているのに、何故自分の背中は見ることができないのだろう。
他人にしてもそうだ。彼ら彼女らだって、自分の背中を直接見たことはないだろう。
背中同士が向き合った空間には、一体何があるのだろう。
そこにある背中は、一体誰の背中だろう。
背中だけの世界。一人一人が背中しか見せない世界。
周りの子たちの背中には、天使の翼が生えている。
学校にいるといつもそう思う。
天使たちは無邪気だ。そして残酷だ。
誰かをいじめている時でさえ、その笑顔は輝いている。
だけど、いじめられている子も天使だ。他の天使に翼を傷つけられた天使。その暗い表情には、何かの強い意志を感じる。傷ついた翼を守ろうとする者や、傷つける側に回ろうとする者や。
天使たちの世界は弱肉強食だ。
その食物連鎖からわたしはあぶれている。あぶれていてよかったと思う。常に輪の外から天使たちのドラマを見ている。たとえ輪の中にいても、わたしの目は輪の外にある。
輪の外にはわたしだけしかいない。たとえ輪から排除された人がいても、たとえその翼が傷ついていても、彼ら彼女らは天使だ。輪を生み出す天使の世界にいる。
わたしは天使の世界にいない。わたしの背中には翼がない。いや、あるかどうかわからない。何故ならわたしは自分の背中を見たことがないのだから。
「あのさ」
傷ついた天使がわたしに声をかける。
「次、理科室だよね?」
答える必要性を感じさせない質問。わたしにとっては無意味なこういった言葉が、天使たちを天使の世界に繋ぎ止めている。天使が天使であるための呪文。
「一緒に行かない?」
好きに行けばいいと思う。誰かと一緒に行かなければならない規則なんてないのだから。
「だって、あなたの羽も、ぼろぼろだよ?」
彼女が唱える呪文は、わたしにはこう聞こえる。
わたしにも翼があるのだろうか。
わたしは後ろを振り返る。いくら素早く振り返っても、自分の背中は見ることができない。その代わり、たくさんの天使たちの背中があった。
背中だけの世界。
わたしは凍りついた。
急いで前を向き直る。
傷ついた天使はまだそこにいた。
その顔が、形がどうとかという問題ではなく、彼女の体全体から発せられるオーラのようなものを含めて、とてつもなく汚らわしいもののように見えた。
それが顔に出たのかもしれない。
「……あ、ごめんね。またね」
そう言って、わたしの返事を待つ素振りさえ見せず、彼女は立ち去った。
何が「また」なのかわからないが、わたしはほっとした。
頭が痛い。
天使たちの背中が、輪を作っている。まるで、その中心にある何かを護衛するかのように、背中を向けて取り囲んでいる。この輪がわたしの頭を絞めつけている。
この輪の外側が、世間一般で言う「人の輪」だ。あるかないかわからない、見たこともない背中など最初から考えなくていいのだなどと言わんばかりに、顔だけを見せ合う世界。人と人が正面から向き合う世界。
その世界で生きるためには、天使たちと顔を向け合わなければならない。顔を背けられたとしても、さっきの傷ついた天使のように、背けた方向に走っていって顔を向け合おうとしなければならない。それが「人の輪」というものだ。
わたしの頭を締めつけている輪は、世間一般で言う「輪」と、内外が反転している。「輪」から弾き出されたわたしから見れば、わたしは天使たちの背中でできた輪に取り囲まれている。天使たちにしてみれば、顔を向け合った空間が「輪」の内部になっている。この天使たちが顔を見合わせる「輪」が「人の輪」と呼ばれるものだ。一方、わたしが感じている輪は世間では認知されていない。だからいちいち説明しなくてはならない。
他人と顔を向け合う空間。顔だけの空間。わたしにはそれができない。そこにいられない。実際問題としてできなくないこともないが、見たこともない自分の背中の方が気になってしまう。だからいつも後ろを振り返ってしまう。
振り返ると、大体いつも天使たちは背中を向けている。当然だ。わたしがいる輪は天使たちの背中に取り囲まれている輪なのだから。
この輪は、アリスが野うさぎに導かれたあの穴だ。
穴の先にあるのはワンダーランド。不可思議な世界。
だけどアリスが冒険したワンダーランドより、もっと生臭い世界だ。血肉の臭いがする世界だ。鉄の臭いと味がする世界だ。
気がつくと、ノート一面に見知らぬ国の文字がびっしりと並んでいる。わたしが書いた文字である。わたしが創造した文字もどき。
頭痛がする時いつもこうしている。意味のない文字を書いていると気持ちが落ち着く。
コンパスの針で、親指の腹を刺す。
ちっちゃな血玉が浮かぶ。
見知らぬ国の文字の上に、血を擦りつける。
生臭い世界を鎮めるための儀式。
穴の中へとわたしを誘う野うさぎを追い払うための護符。
わたしはアリスではない。わたしの体は血で汚れている。
そう思うと、さっきの傷ついた天使に対して無性に腹が立ってきた。
ちら、と彼女の方を見る。目が半開きだ。うとうとしているのだろう。呑気なことに。
わたしは頭の中で、彼女の目にコンパスの針を刺した。
同時にチャイムが鳴った。ひやっとした。