海は寄生されて享楽する。
2009/04/11/Sat
イトウさんのブログでおもしろい会話ができた。一部転載する(イトウさんthx)。
脂 URL @
04/10 06:40 .
ブログに書こうかと思ったけどパス制なのでこっちに書く。
>最近の自分の行動はほとんど反射的になっています。
>相手が自分に対してアクションを起こしてきたから、反作用的にこっちもアクションを返す。
中島みゆき『友情』より。
=====
救われない魂は
傷ついた自分のことじゃなく
救われない魂は
傷つけ返そうとしている自分だ
=====
谷山浩子『よその子』より。
=====
君はよその子母に憧れ
君はよその子母を憎んだ
果てしない旅の始まりは
もう思い出せない記憶の彼方
それでも僕は全ての家の
全ての人の幸せを
祈れるくらいの強い心を
強い心を僕は持ちたい
=====
わたしは谷山は未去勢者で中島は去勢済みな主体だと考えているが、この部分に限っては逆転してるな。この部分だけを対比すると谷山のそれは去勢済み的で中島のそれは未去勢的だ。
『よその子』に関しては「無意識の本質は孤児である」ってことと関連させて歪曲して解釈してるから(わたしが)ちっと引用として微妙だが、「反作用的」なリアクションってこういうことだと思った。
「傷つけ返そうとしている自分」やよその子として「母を憎んだ」ことが未去勢者がする物理的な反作用だ。
とすると谷山が「僕は持ちたい」と歌う「全ての人の幸せを祈れるくらいの強い心」とはファルスだ、ということになる。
イトウ URL @
04/10 21:04 .
最初「反射」と書いて、なんか違うと思い、
「反作用」にしたら、結構近づいたと思ったので、
「反作用」と書きました。だから、大して考えて使った言葉ではありませんでした。
いつまで自分はこんなことをしているのだろうと思いました。
自分ではどうすることもできず、なんかずるずる反応してしまいますが、
身体的に限界が近づいてきたのか、ほとんど書き込めなくなりました。
どうにか一個また書き込めた。
内臓が酷く圧迫されるかのような腹痛がするし、恐怖のあまりガタガタ体が震えるし、怯えて外にもろくに出られなくなるわ、体重は減るわ、吐き気がするわと、かなり辛い状態です。
ファルスというが「固定化作用」するものだということはわかりました、そして、ペニスと重ねあわすと非常に的確な表現だということも理解できるのですが、なんとなくピンと来ないので、自分は代わりに「フィルター」という表現を使うことにしようと思いました。
今度使ってみようと思います。
でも、「フィルター」というのは自分にしかピンとこない表現かもしれません。と気づきました。
脂 URL @
04/10 22:20 .
最近わたしのブログ、非公開コメで興味深いこと書き込んでくる人がいてな。その人と話してて気づいたことだが。
ファルスから隠喩的作用が及ぼされて「言語のように構造化された無意識」即ち超自我が構成される。
この超自我は正常人にとっての身体と心あるいは無意識と意識を区切るパーテーションになっている。
壁じゃなくパーテーションなわけだからトイレのドアみたいに上下の部分が開いてたりする。完全に間仕切りしているわけではない。正常人でも。
そういった意味ではフィルターとも言える。
トイレのドアにぼつぼつ穴が開いてる状態。
まあ要するに「フィルター」と言われるとわたしはファルスではなくそれが電磁波的な力を及ぼして構造化した超自我を連想する、という話ですた。
イトウ URL @
04/10 23:44 .
>壁じゃなくパーテーションなわけだからトイレのドアみたいに上下の部分が開いてたりする。完全に間仕切りしているわけではない。正常人でも。
>そういった意味ではフィルターとも言える。
>トイレのドアにぼつぼつ穴が開いてる状態。
すごくおもしろいと思った。
全く違う話ですが、保坂和志が
「無意識は海。意識は海の上に浮いているイカダのようなもの」
みたいなことを言っていたのを思い出しました。
イカダの木を一本一本結んでいる太い紐が解けてばらばらになっているのが未去勢者で、
その太い紐が頑丈に結ばれているけど、木のところどころに小さな穴が開いているのが正常人、
ということなのだろうか、と思いました。
そもそも無意識というものがよくわからなくて、今、ちまちまラカンを読んでいるので (ここ最近は某スレのおかげで全く読めていませんが)、
「無意識は海」という表現はどうなんだろう、なんか違うな、の、「なんか違うな」の部分の正体に近づこうとしています。
フィルターで濾過された汚水は全部無色透明のキレイな水になってしまいます。
フィルターというのは、そんな安直なイメージから生まれた。ちょっと後悔しています。
脂 URL @
04/11 00:22 .
戸川純『パンク蛹化の女』より。
=====
飴色の腹持つ虫と化した女は
不思議な草に寄生されて
飴色の背中に悲しみの茎が伸びる
=====
最近「寄生」という言葉にひっかかっててな。
無意識は海である、というのは、超自我というフィルターの向こうにある現実界のことだと思うんだな。ガタリなら「無意識の本質は孤児である」に相当するな。「無意識の本質」=現実界で、「孤児」=「海の上に浮いているイカダ」になるな。
フィルター(即ちイカダ)が壊れている未去勢者は「無意識は海である」とは言いづらい。現実界とは無意識でもあり意識でもあり、無意識でもなく意識でもない。そもそも無意識と意識という区切りが事後的なものだから。
イカダに乗れているからそれが「海」だと言えるわけで、海を生きる魚はそれを「海」だと思ってない感じがしないかい? そんな感じ。
あるみん(筆者注:アスペルガー症候群当事者)も「海」とか言ってたが、要するに解離症状だと思うんだな。彼の言う解離症状は「海」のような無意識とは限らない現実界に翻弄されていることではないか。
(少なくともあるみんは)解離状態をそれとして意識できているわけだから、無意識とは言えない。
未去勢者にとって保坂の言う「海」は無意識とも意識とも言えない、ということだ。
んで、「寄生」という言葉に絡ませるなら、「虫」に寄生した「悲しみの茎」が成長して枝葉を茂らせたのが保坂の言う「イカダ」であり「超自我というフィルター」になろうな。
だけど、虫の体内に寄生した種とは別物。「イカダ」や「フィルター」はその結果だ。
……とわたしは思うな。
やがて「イカダ」や「フィルター」や「穴の開いたトイレのドア」に成長する種に寄生されることの享楽が他者の享楽であり、生後二年以内という遠い昔に既に寄生されてしまっている去勢済み主体は味わうことの不可能な享楽である、ということだ。
イトウ URL @
04/11 00:56 .
>ガタリなら「無意識の本質は孤児である」に相当するな。「無意識の本質」=現実界で、「孤児」=「海の上に浮いているイカダ」になるな。
無意識の本質ってそういうことだったのか。ようやくわかりました。
>現実界とは無意識でもあり意識でもあり、無意識でもなく意識でもない。そもそも無意識と意識という区切りが事後的なものだから。
荒川修作が「無意識は存在しない」と言っていたのを思い出した。思い出しただけであまり関連性はないです。ただ連想しただけ。
意識/無意識の区別は事後的ほんとら、と打とうとしたら間違えて地獄的、と書いてしまいました。
この区別は地獄的じゃなくて天国的なものだと思いました。
事後的な区別ってほとんどゲンソウ、と言っちゃうと大雑把過ぎるか。いや区別自体がゲンソウだから別に言っちゃっていいのか。
補足。
この解釈を採用するならば、「意識は海の上に浮いているイカダのようなもの」などではなく、イカダの上に乗っかっている自分が意識であり、「イカダ」は超自我という無意識になっている、となる。
保坂が去勢済みな主体か未去勢者かわたしは診断していないが(車谷長吉と比べたら(ここのコメント欄参照)去勢済みっぺえなあ、くらいには思ってる)、彼が未去勢者だとしたら、イカダは「擬似的な超自我らしきもの」となり、イトウさんの言葉なら「木を一本一本結んでいる太い紐が解けてばらばらになって」おり、意識的なものであるというのは間違いではなかろう。ラカン用語ならサントームに親近するものである。彼が去勢済みな主体であるとしたら、イカダという無意識である超自我を意識として述べているのは(象徴的な)去勢の否認である、と理屈上はなる。神経症的な症状だということだ。海で生きられない自分なるものが彼の思考から欠落している。ラカン論の重要な定理である「主体(去勢済みな主体ね)の真理は隠喩の隙間に落ちている」そのものである。
荒川の「無意識は存在しない」という言葉も、未去勢者として言っているのか、去勢の否認として言っているのかで意味は変わろう。現実を述べているのか、学問なり芸術なりの手法論という幻想として述べているのか。
まあ原文知らないからなんとも。
保坂も最近ラカン手えつけてるらしいしどうでもよか。
脂 URL @
04/10 06:40 .
ブログに書こうかと思ったけどパス制なのでこっちに書く。
>最近の自分の行動はほとんど反射的になっています。
>相手が自分に対してアクションを起こしてきたから、反作用的にこっちもアクションを返す。
中島みゆき『友情』より。
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救われない魂は
傷ついた自分のことじゃなく
救われない魂は
傷つけ返そうとしている自分だ
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谷山浩子『よその子』より。
=====
君はよその子母に憧れ
君はよその子母を憎んだ
果てしない旅の始まりは
もう思い出せない記憶の彼方
それでも僕は全ての家の
全ての人の幸せを
祈れるくらいの強い心を
強い心を僕は持ちたい
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わたしは谷山は未去勢者で中島は去勢済みな主体だと考えているが、この部分に限っては逆転してるな。この部分だけを対比すると谷山のそれは去勢済み的で中島のそれは未去勢的だ。
『よその子』に関しては「無意識の本質は孤児である」ってことと関連させて歪曲して解釈してるから(わたしが)ちっと引用として微妙だが、「反作用的」なリアクションってこういうことだと思った。
「傷つけ返そうとしている自分」やよその子として「母を憎んだ」ことが未去勢者がする物理的な反作用だ。
とすると谷山が「僕は持ちたい」と歌う「全ての人の幸せを祈れるくらいの強い心」とはファルスだ、ということになる。
イトウ URL @
04/10 21:04 .
最初「反射」と書いて、なんか違うと思い、
「反作用」にしたら、結構近づいたと思ったので、
「反作用」と書きました。だから、大して考えて使った言葉ではありませんでした。
いつまで自分はこんなことをしているのだろうと思いました。
自分ではどうすることもできず、なんかずるずる反応してしまいますが、
身体的に限界が近づいてきたのか、ほとんど書き込めなくなりました。
どうにか一個また書き込めた。
内臓が酷く圧迫されるかのような腹痛がするし、恐怖のあまりガタガタ体が震えるし、怯えて外にもろくに出られなくなるわ、体重は減るわ、吐き気がするわと、かなり辛い状態です。
ファルスというが「固定化作用」するものだということはわかりました、そして、ペニスと重ねあわすと非常に的確な表現だということも理解できるのですが、なんとなくピンと来ないので、自分は代わりに「フィルター」という表現を使うことにしようと思いました。
今度使ってみようと思います。
でも、「フィルター」というのは自分にしかピンとこない表現かもしれません。と気づきました。
脂 URL @
04/10 22:20 .
最近わたしのブログ、非公開コメで興味深いこと書き込んでくる人がいてな。その人と話してて気づいたことだが。
ファルスから隠喩的作用が及ぼされて「言語のように構造化された無意識」即ち超自我が構成される。
この超自我は正常人にとっての身体と心あるいは無意識と意識を区切るパーテーションになっている。
壁じゃなくパーテーションなわけだからトイレのドアみたいに上下の部分が開いてたりする。完全に間仕切りしているわけではない。正常人でも。
そういった意味ではフィルターとも言える。
トイレのドアにぼつぼつ穴が開いてる状態。
まあ要するに「フィルター」と言われるとわたしはファルスではなくそれが電磁波的な力を及ぼして構造化した超自我を連想する、という話ですた。
イトウ URL @
04/10 23:44 .
>壁じゃなくパーテーションなわけだからトイレのドアみたいに上下の部分が開いてたりする。完全に間仕切りしているわけではない。正常人でも。
>そういった意味ではフィルターとも言える。
>トイレのドアにぼつぼつ穴が開いてる状態。
すごくおもしろいと思った。
全く違う話ですが、保坂和志が
「無意識は海。意識は海の上に浮いているイカダのようなもの」
みたいなことを言っていたのを思い出しました。
イカダの木を一本一本結んでいる太い紐が解けてばらばらになっているのが未去勢者で、
その太い紐が頑丈に結ばれているけど、木のところどころに小さな穴が開いているのが正常人、
ということなのだろうか、と思いました。
そもそも無意識というものがよくわからなくて、今、ちまちまラカンを読んでいるので (ここ最近は某スレのおかげで全く読めていませんが)、
「無意識は海」という表現はどうなんだろう、なんか違うな、の、「なんか違うな」の部分の正体に近づこうとしています。
フィルターで濾過された汚水は全部無色透明のキレイな水になってしまいます。
フィルターというのは、そんな安直なイメージから生まれた。ちょっと後悔しています。
脂 URL @
04/11 00:22 .
戸川純『パンク蛹化の女』より。
=====
飴色の腹持つ虫と化した女は
不思議な草に寄生されて
飴色の背中に悲しみの茎が伸びる
=====
最近「寄生」という言葉にひっかかっててな。
無意識は海である、というのは、超自我というフィルターの向こうにある現実界のことだと思うんだな。ガタリなら「無意識の本質は孤児である」に相当するな。「無意識の本質」=現実界で、「孤児」=「海の上に浮いているイカダ」になるな。
フィルター(即ちイカダ)が壊れている未去勢者は「無意識は海である」とは言いづらい。現実界とは無意識でもあり意識でもあり、無意識でもなく意識でもない。そもそも無意識と意識という区切りが事後的なものだから。
イカダに乗れているからそれが「海」だと言えるわけで、海を生きる魚はそれを「海」だと思ってない感じがしないかい? そんな感じ。
あるみん(筆者注:アスペルガー症候群当事者)も「海」とか言ってたが、要するに解離症状だと思うんだな。彼の言う解離症状は「海」のような無意識とは限らない現実界に翻弄されていることではないか。
(少なくともあるみんは)解離状態をそれとして意識できているわけだから、無意識とは言えない。
未去勢者にとって保坂の言う「海」は無意識とも意識とも言えない、ということだ。
んで、「寄生」という言葉に絡ませるなら、「虫」に寄生した「悲しみの茎」が成長して枝葉を茂らせたのが保坂の言う「イカダ」であり「超自我というフィルター」になろうな。
だけど、虫の体内に寄生した種とは別物。「イカダ」や「フィルター」はその結果だ。
……とわたしは思うな。
やがて「イカダ」や「フィルター」や「穴の開いたトイレのドア」に成長する種に寄生されることの享楽が他者の享楽であり、生後二年以内という遠い昔に既に寄生されてしまっている去勢済み主体は味わうことの不可能な享楽である、ということだ。
イトウ URL @
04/11 00:56 .
>ガタリなら「無意識の本質は孤児である」に相当するな。「無意識の本質」=現実界で、「孤児」=「海の上に浮いているイカダ」になるな。
無意識の本質ってそういうことだったのか。ようやくわかりました。
>現実界とは無意識でもあり意識でもあり、無意識でもなく意識でもない。そもそも無意識と意識という区切りが事後的なものだから。
荒川修作が「無意識は存在しない」と言っていたのを思い出した。思い出しただけであまり関連性はないです。ただ連想しただけ。
意識/無意識の区別は事後的ほんとら、と打とうとしたら間違えて地獄的、と書いてしまいました。
この区別は地獄的じゃなくて天国的なものだと思いました。
事後的な区別ってほとんどゲンソウ、と言っちゃうと大雑把過ぎるか。いや区別自体がゲンソウだから別に言っちゃっていいのか。
補足。
この解釈を採用するならば、「意識は海の上に浮いているイカダのようなもの」などではなく、イカダの上に乗っかっている自分が意識であり、「イカダ」は超自我という無意識になっている、となる。
保坂が去勢済みな主体か未去勢者かわたしは診断していないが(車谷長吉と比べたら(ここのコメント欄参照)去勢済みっぺえなあ、くらいには思ってる)、彼が未去勢者だとしたら、イカダは「擬似的な超自我らしきもの」となり、イトウさんの言葉なら「木を一本一本結んでいる太い紐が解けてばらばらになって」おり、意識的なものであるというのは間違いではなかろう。ラカン用語ならサントームに親近するものである。彼が去勢済みな主体であるとしたら、イカダという無意識である超自我を意識として述べているのは(象徴的な)去勢の否認である、と理屈上はなる。神経症的な症状だということだ。海で生きられない自分なるものが彼の思考から欠落している。ラカン論の重要な定理である「主体(去勢済みな主体ね)の真理は隠喩の隙間に落ちている」そのものである。
荒川の「無意識は存在しない」という言葉も、未去勢者として言っているのか、去勢の否認として言っているのかで意味は変わろう。現実を述べているのか、学問なり芸術なりの手法論という幻想として述べているのか。
まあ原文知らないからなんとも。
保坂も最近ラカン手えつけてるらしいしどうでもよか。