本当の退行
2009/04/12/Sun
わたしとチャットで激論を交わしながら馴れ合いできているという意味で鈍感さの極地を生きているとも言える妖怪紳士にこう言われたことがある。
「脂さんは辺境人なんですよね」
彼と議論を交わす場を「妖怪村」などと自称していたのだが、そこにアスペルガー症候群当事者が参加することもあった。妖怪紳士は彼について「彼はあちら側だから、そういうものか、と思える」と述べる。しかしわたしについては「あちら側とこちら側の中間(即ち辺境)にいて、こちら側とも話が通じると思える」と言う。
中二病者が多いチャットなので、他の人間については「お前それ去勢の否認にすぎねえじゃん」という意見で大体彼と一致することが多かった。しかしわたしは「去勢の否認に留まらず未去勢の領域に来い」=「本当の退行をしろ」となり、一方彼は正常人的な、ここのコメント欄で述べられている保坂和志の言説のごとき「だから去勢を承認しろ」=「大人になれ」という結論になる。彼と珍しく合意できた言葉だが、「見ているものは同じだけど見ている視点が(わたしと彼とで)全く逆だ」ということだ。
わたしから見れば去勢の否認たる中二病者たちは、大人である。本当の子供ではない。未去勢ではない。確かに妖怪紳士などという大人から見れば去勢の否認は退行であろう。笙野頼子も後書などでおんたこたちについて退行という言葉で表現しているが、おそらく彼と同じような視点で述べていると思われる。おんたこたちは去勢されているからだ。「反権力ブリッコする権力者」たちは去勢済みの主体であり、去勢を否認しているのである。
とはいえ、笙野頼子という作者もわたしの診断では去勢済みな主体であるので、彼女が作中作者という自身をキャラクター化させたものを「キチガイ」と表現しているのは去勢の否認である、と言える。キチガイたる作中作者もまた「反権力ブリッコする権力者」なのである。
去勢済みな主体とは、未去勢者(笙野の言葉なら「火星人」)から見れば、権利という幻想を我が物に所有できている本質的権力者なのである。笙野頼子は、火星人にとっての地球スーツを生後二年以内に初めて着用し、以来着用し続け、皮膚に癒着し、無意識の奥底に格納されて水晶化された地球人であり、火星人ではない、ということだ。
去勢の否認は厳密には退行ではない。退行とは未去勢な領域に踏み込むことである。神経症者が象徴界や想像界の穴に落ちて溺れる領域である。自閉症者や統合失調症者やスキゾイドが常態として生きている領域である。
とはいえ、去勢されているからには間主観的自己感にトランポリンのようなセーフティネットがある。ビオン論で言うところの「contact barrier」であり母親(と言いきるのがクライン派の癇に障るところなので「養育者」とわたしは言い換えることが多い)たる「容器」であり、クリステヴァ論で言うところの「想像的父たるアガペー」(わたしが「母親」と言いたくない理由がリンク先に書いてある)であり、笙野頼子のテクストならば「無意識の奥底に格納され」た「水晶」となるだろう。
これにより、彼らは未去勢の領域に落ちることはまずない。「β要素」に翻弄され続けることはない。「セミオティック」な領域を生き続けることはない。物自体という悪意に恐怖し続けることはない。彼らの中二病は時を経れば寛解するだろう。去勢の否認は最終的にファルスの再発見即ち去勢の承認に導かれるだろう。去勢済みな主体であれば。
そういった意味では妖怪紳士や保坂和志の言い分の方が正しいのだ。人口比率として去勢済みな主体が圧倒的多数なのは事実だから。彼らの主観世界に未去勢者が存在していないだけで。妖怪紳士などはまだましだ。「あちら側」が自らの主観世界に存在していないことを認めている。まあわたしの教育の賜物だろうがな(正常人としてのギャグだよ)。
少し補足。
「象徴界や想像界の穴」と述べたが、(正常人にとっての)象徴界は構造として定立している。「無意識は言語のように構造化されている」超自我である。従って象徴界においては「穴」という表現はおかしくない。
一方、想像界は流動的である。流動的とはいえある程度の構造化はされている。想像界に開いた穴は、「穴」というより「渦」に近いものと言えるだろう。
従ってこう言い直しておく。「象徴界の穴や想像界の渦に落ちて溺れる」ことが神経症という病態である、と。
別の補足。
「母親(と言いきるのがクライン派の癇に障るところなので「養育者」とわたしは言い換えることが多い)」と書き、その理由もリンク先に示しているが、要約するとこういうことだ。
(おそらく去勢済みな主体である)クラインやビオンにとって、「アガペー」的な「容器」は「母親」という女性的なものであるのだ。それに対し、「容器」に詰め込む即ち無限を有限化する権力者という男性的な側面を強調したのがクリステヴァの「想像的父」という概念になろう。
去勢済みな主体にとって母親あるいは女性的なものとして感じられるそれは、未去勢者にとって父親あるいは男性的なものとして感じられる、と乱暴に言い直すことも可能だ。
ここでも去勢済みな主体の主観世界と未去勢者のそれにおける価値観が部分的に逆転している。
いや、正確には逆転しているのではない。未去勢者から見ればそれは母親でもあり父親でもあり、母親でも父親でもない。正常という精神疾患に罹患する最初の原因たる他者である。
「ファリックマザー」とかと繋げるとおもしろいんじゃね? わたしはむしろ「父の名」に近いと思うがまあざっくばらんな印象なので自分でも信用していない。
また別の補足。
「火星人にとっての地球スーツを生後二年以内に初めて着用し」のリンクのところから。
=====
あと一つだけ注意して欲しいのは、地球スーツの中のどろどろは無限の主観世界を示していると考えなければならない。どろどろは無限だから、火星人即ち未去勢者は地球スーツという有限化装置を必要とする。
=====
これについて、わたしが個人的に未去勢者だと診断している谷山浩子の楽曲『卵』から引用しておく。
=====
卵の中に全てがある
卵の中に世界が丸ごと
=====
「卵」=「地球スーツという有限化装置」なわけだな。
=====
であるならば軸だけがあって柵がないのが正常人で、軸がなくて柵だけがあるのがキチガイだ、という風に理解されるかもしれない。そうではない。後者は正しい。未去勢者即ちファルスという軸に不具合のある人間には、軸がなくて事後的にやりくりして築き上げた柵しかない。正常人の場合、軸即ちファルスもあり柵即ちサントームもある。
=====
この歌とか軸がなく柵だけで生きる未去勢者の実体をよく表していると思うよ。
=====
卵が割れる
僕が壊れる
こんな痛みを僕は知らない
=====
軸を、水晶を持っていない人間にとって、柵が壊れることは自分が壊れることなのだ。
それは軸を生後二年以内に初めて持って常に既に持ち続けている去勢済みな主体たちには想像できない痛みを伴うのだ。
「僕」は卵から生まれ、「丸ごと」の「世界」じゃない世界を生きようとしている。
無限の世界から有限の世界を生きようとしている。外側から見た卵だった頃の自分という過去を軸として。卵が割れる時の痛みという心的外傷を持ち続けて。
つまり、「僕」は去勢されようとしている。
正常人と比して何年も遅れて。
ここ最近の谷山の曲ってこんなんばっかだな。「去勢されたいのー」って曲。『よその子』もそうだな。
体が淀んでいる。脳も含め。なんかいろいろ疲れた。誰のせいってわけじゃない。しいて言うなら自分のせい。一気に疲れが溢れてくる。こんな疲れどこにあったのかと思えるくらい。
疲れが溢れてくると脳を含めた体が浮き上がる。「シニフィアンスは産業廃棄処理施設の巨大な穴にある」と書いたことがあるが、そこから自力で這い上がるわけではない。不快や嫌悪とはまた違う疲れが体を浮き上がらせる。
わたしを去勢の領域に近づけていく。
華厳の極楽を垣間見る。
この記事の「無意識は海である」という保坂和志の言葉。現実界と読み替えれば確かに「海」という表現もわからなくはない。しかしわたしは構造主義者でもある。ラカンの「無意識は言語のように構造化されている」という言説を認めている。レヴィ=ストロースの研究によって明らかにされた、社会ルールが明文化されていない未開文明において当時の西洋文明にも引けを取らない高度な構造が存在しているという事実を排除しない。これは人間という種において去勢済みな主体が圧倒的多数である事実を原因としている。
わたしは現実を否認しない。現実として多くの人間の無意識が似たようなものとして構造化されていることを否認しない。
そこでわたしは問う。保坂や荒川やガタリなどのような、「無意識は海である」や「無意識は存在しない」や「無意識の本質は孤児である」などとのたまう人間たちに、「本当にお前の無意識は構造化されていないのか?」と。
大体の人間は無意識が構造化されている。どんなに口先だけで「いや、無意識は構造化なんかされていない」などと否認しても、そいつらの無意識は構造化されている。大体が去勢されている。
ここで言う「そいつら」とはこの記事で言うところの「我を丸出しで無我を語るアホウ」である。「そいつら」は「うんこにどれだけ指を近づけられるかゲーム」をしているにすぎない。
うんこに塗れているわたしから見ればそんな風にしか見えない。
もし保坂や荒川をわたしが去勢済みと診断したら、わたしは保坂や荒川に殺意を覚えるだろう。ガタリに覚えたのと同様に。アルトーがゴッホを殺した精神科医を激しく糾弾したのと同様に。
去勢済みでありながらケガレたる未去勢な主観世界をきらきらした目で語る「そいつら」にキチガイは殺意を覚える。
お前たちは「海」でありそこにいるものは「孤児」である「存在しない」「無意識の本質」たる「しかめっ面」をしている現実界をケガレとして棄却できているから、正常なのだ。これが正常という精神疾患である。
殺意を覚える。保坂や荒川やガタリなどという個人にではない。
お前たち正常人全員に。
うんこ塗れのこの世界を棄却しておきながら、きれいなもの・いいもの・ないものとして語りたがる傲慢なお前たちに。
死ね。
本気で死ね。
何を言ってもだめだ。お前たちが去勢済みである限り、この世界について言及すればわたしは殺意を覚える。お前たちが去勢済みであることは揺るがない。生後二年以内に鏡像段階を経た事実は揺るがない。
お前たちはキチガイになれない。
それをきれいなもの・いいもの・ないものとして語るのがお前らが正常という精神疾患に罹患している証拠だ。
これをきれいなもの・いいもの・ないものとして語る正常人たちにわたしは殺意を覚えている。
本気の殺意を。
この殺意をないことにして欲しい。
わたしの殺意を誰か受け止めて。
『ケロロ軍曹』六年目かよ……。よく続くな。こないだ久しぶりに見たら変わってないところがまたすげえな。
『笑っていいとも』でタモリが「こんなに長く番組続けるコツはなんですか?」って質問に「んー、適当にやることかなー」とか答えていた。このセリフ自体は普通の大人が自己防衛的にそう言う場合(即ち適当じゃなくムキになっているその主体の真実の否認である場合)が多いのだが、タモリは本当に二日酔いであるいは酒が残った状態で番組をやったりしている。本当に適当なのである。本当に適当ならば「長く続けよう」などとも思ってないだろう。従って正確には先の質問に対しては「適当にやってたらたまたま長く続いただけ」と答えるのが正しいと思われる。
それに似てるよなー『ケロロ軍曹』。『笑っていいとも』のタモリに似てる。
それだけ。
「脂さんは辺境人なんですよね」
彼と議論を交わす場を「妖怪村」などと自称していたのだが、そこにアスペルガー症候群当事者が参加することもあった。妖怪紳士は彼について「彼はあちら側だから、そういうものか、と思える」と述べる。しかしわたしについては「あちら側とこちら側の中間(即ち辺境)にいて、こちら側とも話が通じると思える」と言う。
中二病者が多いチャットなので、他の人間については「お前それ去勢の否認にすぎねえじゃん」という意見で大体彼と一致することが多かった。しかしわたしは「去勢の否認に留まらず未去勢の領域に来い」=「本当の退行をしろ」となり、一方彼は正常人的な、ここのコメント欄で述べられている保坂和志の言説のごとき「だから去勢を承認しろ」=「大人になれ」という結論になる。彼と珍しく合意できた言葉だが、「見ているものは同じだけど見ている視点が(わたしと彼とで)全く逆だ」ということだ。
わたしから見れば去勢の否認たる中二病者たちは、大人である。本当の子供ではない。未去勢ではない。確かに妖怪紳士などという大人から見れば去勢の否認は退行であろう。笙野頼子も後書などでおんたこたちについて退行という言葉で表現しているが、おそらく彼と同じような視点で述べていると思われる。おんたこたちは去勢されているからだ。「反権力ブリッコする権力者」たちは去勢済みの主体であり、去勢を否認しているのである。
とはいえ、笙野頼子という作者もわたしの診断では去勢済みな主体であるので、彼女が作中作者という自身をキャラクター化させたものを「キチガイ」と表現しているのは去勢の否認である、と言える。キチガイたる作中作者もまた「反権力ブリッコする権力者」なのである。
去勢済みな主体とは、未去勢者(笙野の言葉なら「火星人」)から見れば、権利という幻想を我が物に所有できている本質的権力者なのである。笙野頼子は、火星人にとっての地球スーツを生後二年以内に初めて着用し、以来着用し続け、皮膚に癒着し、無意識の奥底に格納されて水晶化された地球人であり、火星人ではない、ということだ。
去勢の否認は厳密には退行ではない。退行とは未去勢な領域に踏み込むことである。神経症者が象徴界や想像界の穴に落ちて溺れる領域である。自閉症者や統合失調症者やスキゾイドが常態として生きている領域である。
とはいえ、去勢されているからには間主観的自己感にトランポリンのようなセーフティネットがある。ビオン論で言うところの「contact barrier」であり母親(と言いきるのがクライン派の癇に障るところなので「養育者」とわたしは言い換えることが多い)たる「容器」であり、クリステヴァ論で言うところの「想像的父たるアガペー」(わたしが「母親」と言いたくない理由がリンク先に書いてある)であり、笙野頼子のテクストならば「無意識の奥底に格納され」た「水晶」となるだろう。
これにより、彼らは未去勢の領域に落ちることはまずない。「β要素」に翻弄され続けることはない。「セミオティック」な領域を生き続けることはない。物自体という悪意に恐怖し続けることはない。彼らの中二病は時を経れば寛解するだろう。去勢の否認は最終的にファルスの再発見即ち去勢の承認に導かれるだろう。去勢済みな主体であれば。
そういった意味では妖怪紳士や保坂和志の言い分の方が正しいのだ。人口比率として去勢済みな主体が圧倒的多数なのは事実だから。彼らの主観世界に未去勢者が存在していないだけで。妖怪紳士などはまだましだ。「あちら側」が自らの主観世界に存在していないことを認めている。まあわたしの教育の賜物だろうがな(正常人としてのギャグだよ)。
少し補足。
「象徴界や想像界の穴」と述べたが、(正常人にとっての)象徴界は構造として定立している。「無意識は言語のように構造化されている」超自我である。従って象徴界においては「穴」という表現はおかしくない。
一方、想像界は流動的である。流動的とはいえある程度の構造化はされている。想像界に開いた穴は、「穴」というより「渦」に近いものと言えるだろう。
従ってこう言い直しておく。「象徴界の穴や想像界の渦に落ちて溺れる」ことが神経症という病態である、と。
別の補足。
「母親(と言いきるのがクライン派の癇に障るところなので「養育者」とわたしは言い換えることが多い)」と書き、その理由もリンク先に示しているが、要約するとこういうことだ。
(おそらく去勢済みな主体である)クラインやビオンにとって、「アガペー」的な「容器」は「母親」という女性的なものであるのだ。それに対し、「容器」に詰め込む即ち無限を有限化する権力者という男性的な側面を強調したのがクリステヴァの「想像的父」という概念になろう。
去勢済みな主体にとって母親あるいは女性的なものとして感じられるそれは、未去勢者にとって父親あるいは男性的なものとして感じられる、と乱暴に言い直すことも可能だ。
ここでも去勢済みな主体の主観世界と未去勢者のそれにおける価値観が部分的に逆転している。
いや、正確には逆転しているのではない。未去勢者から見ればそれは母親でもあり父親でもあり、母親でも父親でもない。正常という精神疾患に罹患する最初の原因たる他者である。
「ファリックマザー」とかと繋げるとおもしろいんじゃね? わたしはむしろ「父の名」に近いと思うがまあざっくばらんな印象なので自分でも信用していない。
また別の補足。
「火星人にとっての地球スーツを生後二年以内に初めて着用し」のリンクのところから。
=====
あと一つだけ注意して欲しいのは、地球スーツの中のどろどろは無限の主観世界を示していると考えなければならない。どろどろは無限だから、火星人即ち未去勢者は地球スーツという有限化装置を必要とする。
=====
これについて、わたしが個人的に未去勢者だと診断している谷山浩子の楽曲『卵』から引用しておく。
=====
卵の中に全てがある
卵の中に世界が丸ごと
=====
「卵」=「地球スーツという有限化装置」なわけだな。
=====
であるならば軸だけがあって柵がないのが正常人で、軸がなくて柵だけがあるのがキチガイだ、という風に理解されるかもしれない。そうではない。後者は正しい。未去勢者即ちファルスという軸に不具合のある人間には、軸がなくて事後的にやりくりして築き上げた柵しかない。正常人の場合、軸即ちファルスもあり柵即ちサントームもある。
=====
この歌とか軸がなく柵だけで生きる未去勢者の実体をよく表していると思うよ。
=====
卵が割れる
僕が壊れる
こんな痛みを僕は知らない
=====
軸を、水晶を持っていない人間にとって、柵が壊れることは自分が壊れることなのだ。
それは軸を生後二年以内に初めて持って常に既に持ち続けている去勢済みな主体たちには想像できない痛みを伴うのだ。
「僕」は卵から生まれ、「丸ごと」の「世界」じゃない世界を生きようとしている。
無限の世界から有限の世界を生きようとしている。外側から見た卵だった頃の自分という過去を軸として。卵が割れる時の痛みという心的外傷を持ち続けて。
つまり、「僕」は去勢されようとしている。
正常人と比して何年も遅れて。
ここ最近の谷山の曲ってこんなんばっかだな。「去勢されたいのー」って曲。『よその子』もそうだな。
体が淀んでいる。脳も含め。なんかいろいろ疲れた。誰のせいってわけじゃない。しいて言うなら自分のせい。一気に疲れが溢れてくる。こんな疲れどこにあったのかと思えるくらい。
疲れが溢れてくると脳を含めた体が浮き上がる。「シニフィアンスは産業廃棄処理施設の巨大な穴にある」と書いたことがあるが、そこから自力で這い上がるわけではない。不快や嫌悪とはまた違う疲れが体を浮き上がらせる。
わたしを去勢の領域に近づけていく。
華厳の極楽を垣間見る。
この記事の「無意識は海である」という保坂和志の言葉。現実界と読み替えれば確かに「海」という表現もわからなくはない。しかしわたしは構造主義者でもある。ラカンの「無意識は言語のように構造化されている」という言説を認めている。レヴィ=ストロースの研究によって明らかにされた、社会ルールが明文化されていない未開文明において当時の西洋文明にも引けを取らない高度な構造が存在しているという事実を排除しない。これは人間という種において去勢済みな主体が圧倒的多数である事実を原因としている。
わたしは現実を否認しない。現実として多くの人間の無意識が似たようなものとして構造化されていることを否認しない。
そこでわたしは問う。保坂や荒川やガタリなどのような、「無意識は海である」や「無意識は存在しない」や「無意識の本質は孤児である」などとのたまう人間たちに、「本当にお前の無意識は構造化されていないのか?」と。
大体の人間は無意識が構造化されている。どんなに口先だけで「いや、無意識は構造化なんかされていない」などと否認しても、そいつらの無意識は構造化されている。大体が去勢されている。
ここで言う「そいつら」とはこの記事で言うところの「我を丸出しで無我を語るアホウ」である。「そいつら」は「うんこにどれだけ指を近づけられるかゲーム」をしているにすぎない。
うんこに塗れているわたしから見ればそんな風にしか見えない。
もし保坂や荒川をわたしが去勢済みと診断したら、わたしは保坂や荒川に殺意を覚えるだろう。ガタリに覚えたのと同様に。アルトーがゴッホを殺した精神科医を激しく糾弾したのと同様に。
去勢済みでありながらケガレたる未去勢な主観世界をきらきらした目で語る「そいつら」にキチガイは殺意を覚える。
お前たちは「海」でありそこにいるものは「孤児」である「存在しない」「無意識の本質」たる「しかめっ面」をしている現実界をケガレとして棄却できているから、正常なのだ。これが正常という精神疾患である。
殺意を覚える。保坂や荒川やガタリなどという個人にではない。
お前たち正常人全員に。
うんこ塗れのこの世界を棄却しておきながら、きれいなもの・いいもの・ないものとして語りたがる傲慢なお前たちに。
死ね。
本気で死ね。
何を言ってもだめだ。お前たちが去勢済みである限り、この世界について言及すればわたしは殺意を覚える。お前たちが去勢済みであることは揺るがない。生後二年以内に鏡像段階を経た事実は揺るがない。
お前たちはキチガイになれない。
それをきれいなもの・いいもの・ないものとして語るのがお前らが正常という精神疾患に罹患している証拠だ。
これをきれいなもの・いいもの・ないものとして語る正常人たちにわたしは殺意を覚えている。
本気の殺意を。
この殺意をないことにして欲しい。
わたしの殺意を誰か受け止めて。
『ケロロ軍曹』六年目かよ……。よく続くな。こないだ久しぶりに見たら変わってないところがまたすげえな。
『笑っていいとも』でタモリが「こんなに長く番組続けるコツはなんですか?」って質問に「んー、適当にやることかなー」とか答えていた。このセリフ自体は普通の大人が自己防衛的にそう言う場合(即ち適当じゃなくムキになっているその主体の真実の否認である場合)が多いのだが、タモリは本当に二日酔いであるいは酒が残った状態で番組をやったりしている。本当に適当なのである。本当に適当ならば「長く続けよう」などとも思ってないだろう。従って正確には先の質問に対しては「適当にやってたらたまたま長く続いただけ」と答えるのが正しいと思われる。
それに似てるよなー『ケロロ軍曹』。『笑っていいとも』のタモリに似てる。
それだけ。