受取手の芸術的享楽
2009/04/13/Mon
どんな作品をよいと思うのかはその時の気分による。
どんな作品でも、コピーじゃない限りなんらかの見るべきものがある。
それを見つけられなかったのは受取手の責任である。
ほぼ受取手の責任なのだ。
芸術作品がつまらないのは受取手の責任である。
どんな作品をよいとするのかは受取手の責任である。
この責任を自らのうちに取り込もうとする芸術作品は死んでいる。
受取手の責任を剥奪する作品は芸術作品ではなくプロパガンダである。
芸術作品は物自体的なものでなければならない。
ただそこにあるだけのもの。
絶対的未知を秘めているもの。
従って去勢済み主体に不快や緊張を引き起こすもの。
この不快や緊張は安心や癒しの原因となる本質的な不快や緊張であるため、受取手の責任においてそれを安心や癒しとできる。
隠喩を読み込むのは受取手の責任である。
隠喩を作り出すのが芸術作品ではない。
物自体に隠喩を読み込むのが受取手の芸術的享楽である。
ファルス的享楽である。
それをわかっていないラカニアンがいたりするから困る。
馬鹿は死ね。芸術を語るな。
お前が芸術の現実を怖れているだけだ。
なのに「もっと隠喩の豊かな作品を読みたい」だって?
どんだけ甘えてんだ。
お前が求めているのは芸術作品ではなく主人のディスクールだ。プロパガンダだ。
お前など芸術を語る資格はない。
受取手の資格はない。
芸術作品は固体ではない。固体であっても固体ではない。物の本質たる量子的な物だ。粒子性と波動性が両立している物だ。
量子は観測されるしかできない。
量子はただそこにあるだけだ。
いつもは泣かないようなただの映画で泣いたりする。
大雑把に見ていつもは泣かないような映画と似ているのだろうが、何かどこかに違いがあるのだろうと探す。
探してみれば作品と自分が混淆しているところにある。
この時の現実感と比べたら、統合された事物としてのわたしなど、正常人が考える「自分」など、マンガのキャラクター以下だ。
お前たちの「自分」はマンガのキャラクター以下だ。
芸術作品より劣化した事物だ。
マジで死ねよ。馬鹿ラカニアンも。女だったなそいつ。名前だけしか知らんが。
二階堂奥歯『八本脚の蝶』より。
=====
私を読んで。
新しい視点で、今までになかった解釈で。
誰も気がつかなかった隠喩を見つけて。
行間を読んで。読み込んで。
文脈を変えれば同じ言葉も違う意味になる。
解釈して、読みとって。
そして教えて、あなたの読みを。
その読みが説得力を持つならば、私はそのような物語でありましょう。
そうです、あなたの存在で私を説得して。
=====
谷山浩子『雪虫 Whisper』(中島みゆき作詞)より。
=====
補い合えばいいものを
二人歩きはおぼつかぬ
あなたのためになるかしら
答えきれずにわたし泣く
=====
被害妄想報告。
たまきんがある自閉症当事者本の書評を書いていた。これ。
もしかしたらたまきんこのブログ読んでんじゃねえか、と思い、わたしの「単に困難を提示しておしまい」的な文章を批判しているのではないか、と気になってしょうがなくなった。思い込みでいいよ。「被害妄想」って書いてるじゃんけ。「フレーム問題」で自閉症を語るのなんかそらパパさんもやってるし大体みんな思いつくことなんだろう、と自分に言い聞かせても気になる気になる。
しかしまあ腹が立つ文章だこと。
未去勢者に顔射してる文章だ。たまきんの文章の通りこの著者が「顔射してー」って言ってるならそれでいいんだけどな。
=====
おそらくここには,発達障害児の療育上の重要なヒントが示されている。
=====
たまきんはおそらく無意識的に発達障害児に顔射している。アスペルガー症候群当事者によるこの文章を読んで、たまきんは自分が「発達障害者は支援科学の力によってどうにかできる相手(統御可能な相手)だと言っている」ことに気づくだろうか。気づかないんだろうな。「鈍感」なんだから。
=====
そう,〈彼ら〉と〈私たち〉との間に,決定的な隔たりなど存在しないのだ。
=====
ソウデスネ未去勢者トアナタタチ正常人ノ間ニ決定的ナ隔タリナド存在シナイワケデスカラ自閉症者ガ苦痛ヲ訴エテイルノハ自閉症者タチノ根性ガ健常者ヨリ足リナイカラトイウコトニナリマスヨネソウデスネ。
お前それでも精神科医かアホウ。
未去勢者も「他者と繋がりたい」と思っている。それはいい。しかしほとんど無意識的に他者と繋がっていられることがパラノイアックな即ちモル的な正常という精神疾患なのだよ。
未去勢者は「繋がりたいけど物質的な自分の身体がそれを許してくれない」のであり「繋がりたくてほとんど無意識的に繋がることができる」正常人とは決定的な隔たりがあるんだバカヤロウ。この記事でちらっと書いたが「他者に甘えられたら正常人。ただし「甘えたい」と「甘えることができる」は別物」という奴だ。もっと言えば未去勢者にとっての「他者と繋がること」とは「わたし、潰すの、頭、フランシス」のごとき正常人に眉をひそめられるものとなりえる。だから繋がることができない。鏡像段階の渦中を生きている未去勢者の他者との繋がり方は、鏡像段階を生後二年以内に経過した去勢済みな主体にとっては棄却したいものとなる。自分も棄却したいものとなる。繋がりたいけれど拒否されてしまう。自分が拒否してしまう。
……とかいいつつ論文読めばたまきんはわかってそうに勝手にわたしが思い込んでいるのでこの文章は冗談みたいなもんだ。サイトがサイトだし一般人向けにいい顔してるんだろうな、と解釈しておく。前半部はいいこと言ってるしな。正常人の鈍感さに触れてるところとか(ここも被害妄想のきっかけになっている。正常であること即ち大人になることとは鈍感になることである、というのはこのブログで再三言っていることだ。たとえばここ)。ちなみに「ほとんど無意識的に他者と繋がることができる」のがその鈍感さの原因だ。
いい顔したいなら写真なんとかしろよな。あずまんなんか実物よりばりばりいい写真ばっか使ってるじゃん。「ラカニアンではなくラカン萌え派」とはいえラカン派広報みたいな活動してんだからちったあ気にしなさいよ。何この免許証みたいな写真。
というネタでした。
ってよく考えたら笙野頼子とかが読んでる可能性と比べたらラカン関係の人が読んでる可能性の方が高いに決まってるよな。
うー……、わたしもなんちゃってラカニアンなんだがまあいいや。
どんな作品でも、コピーじゃない限りなんらかの見るべきものがある。
それを見つけられなかったのは受取手の責任である。
ほぼ受取手の責任なのだ。
芸術作品がつまらないのは受取手の責任である。
どんな作品をよいとするのかは受取手の責任である。
この責任を自らのうちに取り込もうとする芸術作品は死んでいる。
受取手の責任を剥奪する作品は芸術作品ではなくプロパガンダである。
芸術作品は物自体的なものでなければならない。
ただそこにあるだけのもの。
絶対的未知を秘めているもの。
従って去勢済み主体に不快や緊張を引き起こすもの。
この不快や緊張は安心や癒しの原因となる本質的な不快や緊張であるため、受取手の責任においてそれを安心や癒しとできる。
隠喩を読み込むのは受取手の責任である。
隠喩を作り出すのが芸術作品ではない。
物自体に隠喩を読み込むのが受取手の芸術的享楽である。
ファルス的享楽である。
それをわかっていないラカニアンがいたりするから困る。
馬鹿は死ね。芸術を語るな。
お前が芸術の現実を怖れているだけだ。
なのに「もっと隠喩の豊かな作品を読みたい」だって?
どんだけ甘えてんだ。
お前が求めているのは芸術作品ではなく主人のディスクールだ。プロパガンダだ。
お前など芸術を語る資格はない。
受取手の資格はない。
芸術作品は固体ではない。固体であっても固体ではない。物の本質たる量子的な物だ。粒子性と波動性が両立している物だ。
量子は観測されるしかできない。
量子はただそこにあるだけだ。
いつもは泣かないようなただの映画で泣いたりする。
大雑把に見ていつもは泣かないような映画と似ているのだろうが、何かどこかに違いがあるのだろうと探す。
探してみれば作品と自分が混淆しているところにある。
この時の現実感と比べたら、統合された事物としてのわたしなど、正常人が考える「自分」など、マンガのキャラクター以下だ。
お前たちの「自分」はマンガのキャラクター以下だ。
芸術作品より劣化した事物だ。
マジで死ねよ。馬鹿ラカニアンも。女だったなそいつ。名前だけしか知らんが。
二階堂奥歯『八本脚の蝶』より。
=====
私を読んで。
新しい視点で、今までになかった解釈で。
誰も気がつかなかった隠喩を見つけて。
行間を読んで。読み込んで。
文脈を変えれば同じ言葉も違う意味になる。
解釈して、読みとって。
そして教えて、あなたの読みを。
その読みが説得力を持つならば、私はそのような物語でありましょう。
そうです、あなたの存在で私を説得して。
=====
谷山浩子『雪虫 Whisper』(中島みゆき作詞)より。
=====
補い合えばいいものを
二人歩きはおぼつかぬ
あなたのためになるかしら
答えきれずにわたし泣く
=====
被害妄想報告。
たまきんがある自閉症当事者本の書評を書いていた。これ。
もしかしたらたまきんこのブログ読んでんじゃねえか、と思い、わたしの「単に困難を提示しておしまい」的な文章を批判しているのではないか、と気になってしょうがなくなった。思い込みでいいよ。「被害妄想」って書いてるじゃんけ。「フレーム問題」で自閉症を語るのなんかそらパパさんもやってるし大体みんな思いつくことなんだろう、と自分に言い聞かせても気になる気になる。
しかしまあ腹が立つ文章だこと。
未去勢者に顔射してる文章だ。たまきんの文章の通りこの著者が「顔射してー」って言ってるならそれでいいんだけどな。
=====
おそらくここには,発達障害児の療育上の重要なヒントが示されている。
=====
たまきんはおそらく無意識的に発達障害児に顔射している。アスペルガー症候群当事者によるこの文章を読んで、たまきんは自分が「発達障害者は支援科学の力によってどうにかできる相手(統御可能な相手)だと言っている」ことに気づくだろうか。気づかないんだろうな。「鈍感」なんだから。
=====
そう,〈彼ら〉と〈私たち〉との間に,決定的な隔たりなど存在しないのだ。
=====
ソウデスネ未去勢者トアナタタチ正常人ノ間ニ決定的ナ隔タリナド存在シナイワケデスカラ自閉症者ガ苦痛ヲ訴エテイルノハ自閉症者タチノ根性ガ健常者ヨリ足リナイカラトイウコトニナリマスヨネソウデスネ。
お前それでも精神科医かアホウ。
未去勢者も「他者と繋がりたい」と思っている。それはいい。しかしほとんど無意識的に他者と繋がっていられることがパラノイアックな即ちモル的な正常という精神疾患なのだよ。
未去勢者は「繋がりたいけど物質的な自分の身体がそれを許してくれない」のであり「繋がりたくてほとんど無意識的に繋がることができる」正常人とは決定的な隔たりがあるんだバカヤロウ。この記事でちらっと書いたが「他者に甘えられたら正常人。ただし「甘えたい」と「甘えることができる」は別物」という奴だ。もっと言えば未去勢者にとっての「他者と繋がること」とは「わたし、潰すの、頭、フランシス」のごとき正常人に眉をひそめられるものとなりえる。だから繋がることができない。鏡像段階の渦中を生きている未去勢者の他者との繋がり方は、鏡像段階を生後二年以内に経過した去勢済みな主体にとっては棄却したいものとなる。自分も棄却したいものとなる。繋がりたいけれど拒否されてしまう。自分が拒否してしまう。
……とかいいつつ論文読めばたまきんはわかってそうに勝手にわたしが思い込んでいるのでこの文章は冗談みたいなもんだ。サイトがサイトだし一般人向けにいい顔してるんだろうな、と解釈しておく。前半部はいいこと言ってるしな。正常人の鈍感さに触れてるところとか(ここも被害妄想のきっかけになっている。正常であること即ち大人になることとは鈍感になることである、というのはこのブログで再三言っていることだ。たとえばここ)。ちなみに「ほとんど無意識的に他者と繋がることができる」のがその鈍感さの原因だ。
いい顔したいなら写真なんとかしろよな。あずまんなんか実物よりばりばりいい写真ばっか使ってるじゃん。「ラカニアンではなくラカン萌え派」とはいえラカン派広報みたいな活動してんだからちったあ気にしなさいよ。何この免許証みたいな写真。
というネタでした。
ってよく考えたら笙野頼子とかが読んでる可能性と比べたらラカン関係の人が読んでる可能性の方が高いに決まってるよな。
うー……、わたしもなんちゃってラカニアンなんだがまあいいや。