「オタク」と「マニア」
2007/01/20/Sat
言語化することとは意外と体力を使う。思考を書き言葉という物質化させることは、思考の死を意味している。神話学では「死した自分」は「糞便」に暗喩されるそうだ。なるほど文章化することとは排泄行為に似ている。
糞便とは言わないが、これまで思考していた脳内ネタを耳垢をほじくるように漁ってみた。並行して当ブログの過去の記事も読み返してみてもしたが、ああいろいろと誤解を招く表現をしているなあ、と落ち込んでもいる。
そんな中あえて筆を、いや実際にはキーボードだが、取ってみたのは、一つ大事な書き忘れがあることに気付いたからだ。今日はそれをちょっとだけ書いてお茶を濁しておく。
過去の記事で、AFTER SEVENさんからいろいろご指摘を頂いた。とても感謝しています。
その中で補足しないとなあ、と思いながらそのままにしていたことが一点あった。そのことについて(以下の文章は反論ではありません。あくまで私の文章についての補足です)。
AFTER SEVENさんから、私のオタク二分論としての「パラノ/スキゾ」を、「ミーハー/マニア」と読み替えられるのではないか、と指摘を受けた。パラノ=ミーハー、スキゾ=マニアということだ。私の文章だけなら、感覚的にそう読み取られてしまうのは仕方ないと思う。文章力の無さを恥ずかしく思う。
私の「パラノ/スキゾ」オタク二分論(リンク先記事も読んでいただけるとありがたい)を「ミーハー/マニア」と言い換えると、実は全然意味が違ってくる。
浅田彰氏の「パラノ/スキゾ」論を読めばわかるように、パラノがマニア的である。スキゾについてはスキゾフレニーとスキゾイドという最初の定義が私の論と少し違うので、ここでは置いておく。
パラノがマニア的とはどういうことか。これをまずラカン論風に説明しよう。
斎藤環氏著『戦闘美少女の精神分析』において、氏は「マニア」と「オタク」を違う概念として取り扱っている。彼によれば「マニア」とは精神分析的なフェティシスムのことだ。その分析はフロイトの時代から行われているものである。もしマニア=オタクであるなら、ことさら新しく分析を及ぼす必要はない。なので、先の著作ではオタクとマニアは別物として考えられている。
現実的には、両者は厳密に区別できるものではないし、一人の内面にオタク的内面とマニア的内面を両立させている人間もいるかもしれない。しかしこの本では概念化として、「マニア=フェティシスム≠オタク」として考える、ということだ。注意しておきたいのは、非フェティシスム=オタクではないということである。前掲書では、フェティシスムという概念の関係ないところで「オタク」という「新語」を取り扱っている、ということだ。フェティシスム度が高いのがマニアで、低いのがオタク、という言い方ならわかりやすいかもしれない。
なので、私はオタクという群の中にはフェティシストが入ってもよいと考える(斎藤氏も前掲書において「マニアの一部がメディア環境の変化に対応して一種の「適応放散」を遂げた形」がオタクではないか、と述べている)。オタクをフェティシスムの文脈で読み解くことも可能であろうが、それはオタクという人種の一側面に過ぎないと私は体感的に思う。
ここでフェティシスムのラカン風精神分析をさらっと説明しておく。
フェティシスムとは、想像的ファルスの欠如を否認し、ペニスの代理物としてフェティッシュを所有したがることをいう。
誤解を恐れずあえて簡素な例を挙げるならば、「クルマ好き」というフェティシストにとってのクルマとは、想像的ファルスとしてのペニスの代理物であり、彼らは自己とクルマを想像的同一化していると言える。
実はこれはパラノイアの精神分析と途中まで同じ文脈である。
(男性の)パラノイアは、想像的ファルスの欠如を否認して、「非男性化」する。ここでペニスの代理人を得ればそれは「男性的性倒錯」になるし、代理物を得れば「フェティシスム」となる。それらを得られず、象徴的ファルスの去勢を否認すれば、後付で妄想的な象徴的ファルスを生み出すことになる。それがパラノイアだ。
つまり、フェティシスムは想像的同一化と象徴的同一化の狭間に留まり、パラノイア的妄想を育む手前で防いでいる症状とも言える。ローゼンフェルトの言に倣うなら、「フェティシスムはパラノイアに対する防衛である」ということだ。
私の「パラノ/スキゾ」はパラノイア的、スキゾイド的という意味で、暗喩的に、曖昧に意味させるものだと前に書いている。パラノイア「的」なる人格をパラノとし、スキゾイド「的」人格をスキゾと呼んで、オタクという対象を分析しようということだ。
つまり、オタク二分論としての「パラノ/スキゾ」において、フェティシスム度が高いオタクは、パラノ的オタクである、と言える。また、このことがパラノはマニア的、ということに繋がるだろう。
ではスキゾ的オタクはミーハーなのか。違う。そもそも「マニア/ミーハー」という二項自体が(マニアはともかく)表層的である。オタクの構造分析として、これまでの世代による分化などではない、彼らの内面からアプローチした分析モデルとして私はオタクにおける「パラノ/スキゾ」二分論を提案したのだ。
先程「違う」と書いたが、「マニア」と対比して、対象への(パラノ的フェティシスムと比較した)軽やかさという意味では、「ミーハー」はそう間違っていないかもしれない。先述の『戦闘美少女の精神分析』において斎藤氏はこう述べている。
=====
おたくにはこうした「実体」や「実効性」への志向がむしろ乏しい。彼らは自分の執着する対象に実体と呼べるものがないこと、その膨大な知識が世間では何の役にも立たないこと、あるいはその無駄な知識が(とりわけ「宮崎勤」以降)軽蔑され、警戒すらされかねないことを知っている、そして、それを承知の上で、ゲームのように熱狂を演じて見せ合うのだ。「虚構コンテクストに親和性が高い」という表現は、おおよそこういった区別を明確化するためのものだ。
いま私は「熱狂を演ずる」と述べたが、これにはいささかの解釈を要するかもしれない。つまり「おたくの熱狂」は「マニアの熱狂」よりも演技性が高いのだ。これはつまり「熱狂」というコードで他のおたくに交信しているような状況を指している。そうはいっても、けっして醒めているわけではなく、かといって我を忘れて熱狂しているわけでもない。この「斜に構えた熱狂」にこそ、「虚構コンテクストに親和性の高い」おたくの本質があるだろう。後でも触れるが「○○萌え」という表現が、このあたりの呼吸を見事に表現している。
=====
「実体」はラカンの三界区分では想像界における他者である。先にフェティシスムは想像的同一化と象徴的同一化の間に留まっていると書いたが、想像的同一化を避け、象徴的なもので戯れているのが斎藤氏の言う「おたく」であろう。その状態が心地よいと感じるのが、私の定義では象徴界における内的動力が想像界のそれよりも強い人格を「スキゾ」としているが、彼らになるだろう。つまり、「オタクはフェティシスム度が強いマニアという部族から、スキゾ的人格群が分離した部族である」、「マニアの中で、マニア一般とは違うスタイルを持つスキゾ的人格群を「おたく」と名付けた」という言い方もできるか。またはオタキングや大塚氏らが、「オタク」を定義化する際にベースとなった対象がたまたまスキゾ的人格な集団だっただけかもしれない。私には、オタキングの言うオタク第一世代はむしろマニアとオタクの境界線上にいるような感じさえする。
しかし、斎藤氏のこの著作は2000年刊行であり、分析されている「おたく」は90年代のそれである。それから10年近くたった今、斎藤氏や香山リカ氏や大塚英志氏のオタク擁護が実り(?)、現代のオタクからは宮崎勤的なイメージは薄れていると言ってよいだろう。それはテレビでの秋葉原の取り上げ方や、「電車男」などといった現象に表れている。秋葉原という街自体が、金になるということでオタク文化を積極的に受け入れているという話もよく聞く(個人的にD社の駅前開発云々の関係から聞いた話も含まれる)。
こういった時代背景の中で、現在のオタク文化には、本来はマニアと親和性の高い(スキゾ的人格と比して一般人=人口が圧倒する)パラノ的人格が流入してきているのではないか、というのが私の論である。勘違いしないで欲しいが私はこのこと自体を批判したいわけではない。批判や擁護とは関係なくオタク文化を分析しているのだ。従って、スキゾ的オタクを擁護するわけでもパラノ的オタクを批判しているわけでもない。それら関係なく、オタク文化を表現文化として捉えた場合の「記号のサイン化(リンク先記事を読んで欲しい)」なる現象を指摘しているのである。短絡的にパラノ的人格批判、フェティシストとしてのマニア批判と受け取ってもらっては困るので、明記しておく。
また、サイン化の傾向を食い止める手段として、スキゾ/パラノ関係なく、想像界・象徴界における対象物関係なく、対象に対峙した時の感受性の豊かさを掘り下げる受動的な、しかし内面では能動的な知である「パトスの知」にヒントがある、と思っている。またそれらの感動は深層の心性に近いところを揺り動かすものであるため、意識的なところにあるロゴスでは表現しづらい。そういった非ロゴス的な表現手段を思索する際の知のアプローチのヒントが「演劇的知」にある、と考えている。これらの「パトスの知」「演劇的知」という概念は、中村雄二郎氏の著作『魔女ランダ考』によるものである。
現在のオタク文化は、スキゾ的オタク主体だった90年代と比べ、本来マニアとなるようなパラノ的オタクが増えているというこのモデルが正しければ、先に述べたようなオタキングのいうオタク第一世代への先祖帰り的なものかもしれない。ではオタク第一世代の母体であったマニアと何が違うのか。
この辺はよくわからない。なので簡単にお茶を濁すような推測だけしておく。
第一世代は今のように、オタク的作品が過剰供給される時代ではなかった。だから「能動的」にそれらの作品を発掘しなければならなかった。この行動は傍から見ればマニアと変わらない。しかしその内面が違っていた。「マニア」は対象物をペニスの代理物とみなし、想像的同一化を図る、または対象物を「ファルス的享楽」的に、象徴的に「所有」しようとする。一方「おたく」は対象物をシンボルに見立て、象徴的対象としてそれを咀嚼(前の記事で書いたような、タイトルからさまざまなシンボルを取り出す作業)し、象徴的なものたちの中で「戯れ」ていた。そんな感じだろうか。
今のパラノ的オタクは、スキゾ的オタクが構築したスタイルを模倣しており、過剰供給がこの模倣を可能にさせている(このことは宮台氏のいう強迫的アイロニズムに繋がるかもしれない)。しかし、その内面はフェティシスム的に、象徴的なもの=シンボル記号と同一化しようとしているだろう。それは象徴的同一化ではなく、象徴的なものを想像的なものに一度変換してから行っているのか。確かにオタク文化のメインな表現であるアニメや漫画は象徴的でもあり想像的でもある。フェティシスム的な想像的同一化だけでは満足せず、象徴的同一化を図ると、それは精神病的な妄想を生み出す素地になる。精神病としてのパラノイアの妄想だ。
……こう考えると、90年代のオタクもパラノ的性格を持っていたようにも思える。ただ一点、対象と同一化しようとしない「軽やかさ」が違っていただけだ。むしろ現実ではオタキングらが言うようなスキゾ的なオタクは少なかったようにさえ思える。それはあくまでオタク擁護論の方便としての「理想のオタク像」ではなかったろうか。先述の斎藤氏の著作でも、この「軽やかさ」を「現実(ラカン論での「現実」ではなく、一般的な意味での「現実」)と虚構の区別がついている状態」だと言っている。だから、虚構の上でセクシュアリティを求めようが構わないのだと。それから10年近く経った現在のオタクが、この非フェティシスト的な「軽やかさ」を失ったことを、「オタクは死んだ」とオタキングは言っているのではないか。
アニメや漫画は、斎藤氏によると「ハイ・コンテクスト」な表現らしい。コンテクストとは文脈性のことだ。シンボル記号である言語同士が共鳴するからこそ文脈が生まれる。従って、アニメ(ジャパニメーションと言った方がいいかもしれない)や漫画は「記号的」な表現である、即ちオタクはアニメを「読んでいる」、という東浩紀氏や斎藤氏の指摘に繋がる。
以前にも書いたことだが、短絡的なオタク文化批判と捉えられると困るので再度言及するが、私は表現の「記号化」自体は批判しない。舞台芸術ならお能やバレエなどは、身体表現を「コード化」した表現だからだ。しかし記号がシンボルではなく、サインとして捉えられると、それらのコード、記号は共鳴しない。そこに芸術的な「曖昧な(面白さなどという)何か」が立ち上がらない。文芸なら行間みたいなもの、という比喩をしておく。オタク文化でよく言われる「お約束だからつまんない」ということが、「記号のサイン化」の表出である、とも言える。断っておくが(こればっかりや)表現者が悪い、受取手がそういうことを言うべきではない、などと言っているわけではない。こういう表現者と受取手の「関係性」が、「記号のサイン化」の表出であり、その本質である「記号のサイン化」を問題にしているのだ(もちろんこの傾向はオタク文化だけではなく、ポストモダンの表現文化全体に通底するものだと思う)。記号を一義的なサインとして受け取ってしまったら、それはシンボル=象徴として機能しない。ラカンの象徴界における「言語」とは違うものになる。またはデリダの「散種」が起動しなくなる。
話を戻そう。アニメや漫画は、見た目は絵的即ち想像的なものと、台詞などの象徴的なものを組み合わせた表現だが、その実はコンテクストという象徴的な側面に依存している「記号的な」表現である、という「想像的な仮定」を設定して話を進めよう。フェティシスムは、対象(フェティッシュ)に対する想像的同一化と象徴的同一化の間で揺らいでいる。マニアではないパラノ的オタクの象徴的同一化とはなんだろうか。象徴的同一化は、現実界と象徴界の重なり合いに近いところへ向かう。そこにあるのは「ファルス的享楽」である。これは「所有」的なものだ。オタク文化において、それの表出としてまず思い浮かぶのが二次創作であろう。しかし創作=表現であるからには、その根源には「他者の享楽」がある。簡単に二次創作全体を「所有」的なるものと指し示すのは間違いであろう。その登場人物(想像的他者)を「所有」することの代理として「二次創作」を行っていることが、象徴的同一化であると言えるだろうか。
今二次創作と書いたが、ライトノベルの一部の作品には、オリジナルキャラであってもどこかで見たアニメキャラの「二次創作的な」作品もある。これらも含め、作者はキャラという想像的他者を「創造」することを象徴的同一化への希求である「所有」の代理にしているのではないだろうか、と私は感じる。もちろん全ての二次創作作品、オタク向け作品がそうであるとは言わないが。想像的同一化と象徴的同一化が進み、そこで「挫折」があれば精神病としてのパラノイアの構成要件となる。ここでの挫折は容易に予測できる。現実的な、「その対象は二次元のものである」ということだ。彼らにとって同一化の挫折はいともたやすく眼前に現れるだろう。妄想の同一化が膨張する前にそれが挫折する。「(パラノ的)オタクは二次元の対象を求めることによりパラノイアを防衛している」、ということになろうか。しかし、彼らにとっての同一化した対象=対象aが、非現実的なものでもよいと思ってしまう可能性もある。対象aは自我でもあるから、この時彼らは初めて二次元の中で生きてしまうことになるだろう。ラカン論では人の精神において、虚構と現実の区別はないのだ。
もちろんオタク文化がパラノイアを生み出す温床である、などと言っているわけではない。このブログでは何度も言っているが、ラカンは「人格はパラノイアである」みたいなことも言っているし、人間皆(私も含め)パラノイアの素因を持っていると私は思う。
とにかく、ここで言いたいのはスキゾ的オタクにとって、象徴的なものとの「戯れ」としてあった文化の形態が、パラノ的オタクにとっては象徴的同一化を促進するものになりうる可能性がある、という指摘である。
「記号のサイン化」に戻る。これまで私はオタク文化を例に挙げて、「解釈の一本化」や「言葉の想像的他者化による散種停止」や「象徴界のサイン化」(セカイ系の「象徴界の消失」、法律を記号として捉えてしまう若者たち)や「アニメキャラをさらに抽象化する二次創作的なキャラの記号化」などといった表出からそれを論じてきた。記号がシンボル=象徴的なものであれば、多義性がある。しかし同一化しようとするならば、去勢というトラウマにより対象は象徴的ファルスへと向かうだろう。それは「真理」のように絶対的なもの、他者による揺らぎがないものでなければならない(この揺らぎのなさへの「方向」を私は違う記事で「差異化」と呼んでいる)。「神」や「前世の私」みたいな象徴でもよかろう。ここに、象徴的対象物の一義化=サイン化への力動の起源がある。ある個人の内部の、このサイン化への希求が、ここでも前の記事で述べたような環境因子に促進され、全体の傾向として表しているのが、現在の(表現文化として貧しさの原因となろう)「記号のサイン化」という現象であると私は思う。
――とここまで書いておいて何だが、最近はこの辺の思考はここで停止している。私の飽きっぽい性格が如実に表れている。困ったものだ。最近は言葉が連鎖しない。思考を言語化することが面倒だ。思考を言語化させてしまうとそれは思考の死になり、他者化し、そこで留まることに安心してしまう。まあ別にまた書きたくなったら書けばいいや、ぐらいには思っていますが……。
インプット期とアウトプット期があるなら、今はインプット期なのかなあ。まあ年末年始で酒飲みすぎたってことも大きいだろうけど……。
糞便とは言わないが、これまで思考していた脳内ネタを耳垢をほじくるように漁ってみた。並行して当ブログの過去の記事も読み返してみてもしたが、ああいろいろと誤解を招く表現をしているなあ、と落ち込んでもいる。
そんな中あえて筆を、いや実際にはキーボードだが、取ってみたのは、一つ大事な書き忘れがあることに気付いたからだ。今日はそれをちょっとだけ書いてお茶を濁しておく。
過去の記事で、AFTER SEVENさんからいろいろご指摘を頂いた。とても感謝しています。
その中で補足しないとなあ、と思いながらそのままにしていたことが一点あった。そのことについて(以下の文章は反論ではありません。あくまで私の文章についての補足です)。
AFTER SEVENさんから、私のオタク二分論としての「パラノ/スキゾ」を、「ミーハー/マニア」と読み替えられるのではないか、と指摘を受けた。パラノ=ミーハー、スキゾ=マニアということだ。私の文章だけなら、感覚的にそう読み取られてしまうのは仕方ないと思う。文章力の無さを恥ずかしく思う。
私の「パラノ/スキゾ」オタク二分論(リンク先記事も読んでいただけるとありがたい)を「ミーハー/マニア」と言い換えると、実は全然意味が違ってくる。
浅田彰氏の「パラノ/スキゾ」論を読めばわかるように、パラノがマニア的である。スキゾについてはスキゾフレニーとスキゾイドという最初の定義が私の論と少し違うので、ここでは置いておく。
パラノがマニア的とはどういうことか。これをまずラカン論風に説明しよう。
斎藤環氏著『戦闘美少女の精神分析』において、氏は「マニア」と「オタク」を違う概念として取り扱っている。彼によれば「マニア」とは精神分析的なフェティシスムのことだ。その分析はフロイトの時代から行われているものである。もしマニア=オタクであるなら、ことさら新しく分析を及ぼす必要はない。なので、先の著作ではオタクとマニアは別物として考えられている。
現実的には、両者は厳密に区別できるものではないし、一人の内面にオタク的内面とマニア的内面を両立させている人間もいるかもしれない。しかしこの本では概念化として、「マニア=フェティシスム≠オタク」として考える、ということだ。注意しておきたいのは、非フェティシスム=オタクではないということである。前掲書では、フェティシスムという概念の関係ないところで「オタク」という「新語」を取り扱っている、ということだ。フェティシスム度が高いのがマニアで、低いのがオタク、という言い方ならわかりやすいかもしれない。
なので、私はオタクという群の中にはフェティシストが入ってもよいと考える(斎藤氏も前掲書において「マニアの一部がメディア環境の変化に対応して一種の「適応放散」を遂げた形」がオタクではないか、と述べている)。オタクをフェティシスムの文脈で読み解くことも可能であろうが、それはオタクという人種の一側面に過ぎないと私は体感的に思う。
ここでフェティシスムのラカン風精神分析をさらっと説明しておく。
フェティシスムとは、想像的ファルスの欠如を否認し、ペニスの代理物としてフェティッシュを所有したがることをいう。
誤解を恐れずあえて簡素な例を挙げるならば、「クルマ好き」というフェティシストにとってのクルマとは、想像的ファルスとしてのペニスの代理物であり、彼らは自己とクルマを想像的同一化していると言える。
実はこれはパラノイアの精神分析と途中まで同じ文脈である。
(男性の)パラノイアは、想像的ファルスの欠如を否認して、「非男性化」する。ここでペニスの代理人を得ればそれは「男性的性倒錯」になるし、代理物を得れば「フェティシスム」となる。それらを得られず、象徴的ファルスの去勢を否認すれば、後付で妄想的な象徴的ファルスを生み出すことになる。それがパラノイアだ。
つまり、フェティシスムは想像的同一化と象徴的同一化の狭間に留まり、パラノイア的妄想を育む手前で防いでいる症状とも言える。ローゼンフェルトの言に倣うなら、「フェティシスムはパラノイアに対する防衛である」ということだ。
私の「パラノ/スキゾ」はパラノイア的、スキゾイド的という意味で、暗喩的に、曖昧に意味させるものだと前に書いている。パラノイア「的」なる人格をパラノとし、スキゾイド「的」人格をスキゾと呼んで、オタクという対象を分析しようということだ。
つまり、オタク二分論としての「パラノ/スキゾ」において、フェティシスム度が高いオタクは、パラノ的オタクである、と言える。また、このことがパラノはマニア的、ということに繋がるだろう。
ではスキゾ的オタクはミーハーなのか。違う。そもそも「マニア/ミーハー」という二項自体が(マニアはともかく)表層的である。オタクの構造分析として、これまでの世代による分化などではない、彼らの内面からアプローチした分析モデルとして私はオタクにおける「パラノ/スキゾ」二分論を提案したのだ。
先程「違う」と書いたが、「マニア」と対比して、対象への(パラノ的フェティシスムと比較した)軽やかさという意味では、「ミーハー」はそう間違っていないかもしれない。先述の『戦闘美少女の精神分析』において斎藤氏はこう述べている。
=====
おたくにはこうした「実体」や「実効性」への志向がむしろ乏しい。彼らは自分の執着する対象に実体と呼べるものがないこと、その膨大な知識が世間では何の役にも立たないこと、あるいはその無駄な知識が(とりわけ「宮崎勤」以降)軽蔑され、警戒すらされかねないことを知っている、そして、それを承知の上で、ゲームのように熱狂を演じて見せ合うのだ。「虚構コンテクストに親和性が高い」という表現は、おおよそこういった区別を明確化するためのものだ。
いま私は「熱狂を演ずる」と述べたが、これにはいささかの解釈を要するかもしれない。つまり「おたくの熱狂」は「マニアの熱狂」よりも演技性が高いのだ。これはつまり「熱狂」というコードで他のおたくに交信しているような状況を指している。そうはいっても、けっして醒めているわけではなく、かといって我を忘れて熱狂しているわけでもない。この「斜に構えた熱狂」にこそ、「虚構コンテクストに親和性の高い」おたくの本質があるだろう。後でも触れるが「○○萌え」という表現が、このあたりの呼吸を見事に表現している。
=====
「実体」はラカンの三界区分では想像界における他者である。先にフェティシスムは想像的同一化と象徴的同一化の間に留まっていると書いたが、想像的同一化を避け、象徴的なもので戯れているのが斎藤氏の言う「おたく」であろう。その状態が心地よいと感じるのが、私の定義では象徴界における内的動力が想像界のそれよりも強い人格を「スキゾ」としているが、彼らになるだろう。つまり、「オタクはフェティシスム度が強いマニアという部族から、スキゾ的人格群が分離した部族である」、「マニアの中で、マニア一般とは違うスタイルを持つスキゾ的人格群を「おたく」と名付けた」という言い方もできるか。またはオタキングや大塚氏らが、「オタク」を定義化する際にベースとなった対象がたまたまスキゾ的人格な集団だっただけかもしれない。私には、オタキングの言うオタク第一世代はむしろマニアとオタクの境界線上にいるような感じさえする。
しかし、斎藤氏のこの著作は2000年刊行であり、分析されている「おたく」は90年代のそれである。それから10年近くたった今、斎藤氏や香山リカ氏や大塚英志氏のオタク擁護が実り(?)、現代のオタクからは宮崎勤的なイメージは薄れていると言ってよいだろう。それはテレビでの秋葉原の取り上げ方や、「電車男」などといった現象に表れている。秋葉原という街自体が、金になるということでオタク文化を積極的に受け入れているという話もよく聞く(個人的にD社の駅前開発云々の関係から聞いた話も含まれる)。
こういった時代背景の中で、現在のオタク文化には、本来はマニアと親和性の高い(スキゾ的人格と比して一般人=人口が圧倒する)パラノ的人格が流入してきているのではないか、というのが私の論である。勘違いしないで欲しいが私はこのこと自体を批判したいわけではない。批判や擁護とは関係なくオタク文化を分析しているのだ。従って、スキゾ的オタクを擁護するわけでもパラノ的オタクを批判しているわけでもない。それら関係なく、オタク文化を表現文化として捉えた場合の「記号のサイン化(リンク先記事を読んで欲しい)」なる現象を指摘しているのである。短絡的にパラノ的人格批判、フェティシストとしてのマニア批判と受け取ってもらっては困るので、明記しておく。
また、サイン化の傾向を食い止める手段として、スキゾ/パラノ関係なく、想像界・象徴界における対象物関係なく、対象に対峙した時の感受性の豊かさを掘り下げる受動的な、しかし内面では能動的な知である「パトスの知」にヒントがある、と思っている。またそれらの感動は深層の心性に近いところを揺り動かすものであるため、意識的なところにあるロゴスでは表現しづらい。そういった非ロゴス的な表現手段を思索する際の知のアプローチのヒントが「演劇的知」にある、と考えている。これらの「パトスの知」「演劇的知」という概念は、中村雄二郎氏の著作『魔女ランダ考』によるものである。
現在のオタク文化は、スキゾ的オタク主体だった90年代と比べ、本来マニアとなるようなパラノ的オタクが増えているというこのモデルが正しければ、先に述べたようなオタキングのいうオタク第一世代への先祖帰り的なものかもしれない。ではオタク第一世代の母体であったマニアと何が違うのか。
この辺はよくわからない。なので簡単にお茶を濁すような推測だけしておく。
第一世代は今のように、オタク的作品が過剰供給される時代ではなかった。だから「能動的」にそれらの作品を発掘しなければならなかった。この行動は傍から見ればマニアと変わらない。しかしその内面が違っていた。「マニア」は対象物をペニスの代理物とみなし、想像的同一化を図る、または対象物を「ファルス的享楽」的に、象徴的に「所有」しようとする。一方「おたく」は対象物をシンボルに見立て、象徴的対象としてそれを咀嚼(前の記事で書いたような、タイトルからさまざまなシンボルを取り出す作業)し、象徴的なものたちの中で「戯れ」ていた。そんな感じだろうか。
今のパラノ的オタクは、スキゾ的オタクが構築したスタイルを模倣しており、過剰供給がこの模倣を可能にさせている(このことは宮台氏のいう強迫的アイロニズムに繋がるかもしれない)。しかし、その内面はフェティシスム的に、象徴的なもの=シンボル記号と同一化しようとしているだろう。それは象徴的同一化ではなく、象徴的なものを想像的なものに一度変換してから行っているのか。確かにオタク文化のメインな表現であるアニメや漫画は象徴的でもあり想像的でもある。フェティシスム的な想像的同一化だけでは満足せず、象徴的同一化を図ると、それは精神病的な妄想を生み出す素地になる。精神病としてのパラノイアの妄想だ。
……こう考えると、90年代のオタクもパラノ的性格を持っていたようにも思える。ただ一点、対象と同一化しようとしない「軽やかさ」が違っていただけだ。むしろ現実ではオタキングらが言うようなスキゾ的なオタクは少なかったようにさえ思える。それはあくまでオタク擁護論の方便としての「理想のオタク像」ではなかったろうか。先述の斎藤氏の著作でも、この「軽やかさ」を「現実(ラカン論での「現実」ではなく、一般的な意味での「現実」)と虚構の区別がついている状態」だと言っている。だから、虚構の上でセクシュアリティを求めようが構わないのだと。それから10年近く経った現在のオタクが、この非フェティシスト的な「軽やかさ」を失ったことを、「オタクは死んだ」とオタキングは言っているのではないか。
アニメや漫画は、斎藤氏によると「ハイ・コンテクスト」な表現らしい。コンテクストとは文脈性のことだ。シンボル記号である言語同士が共鳴するからこそ文脈が生まれる。従って、アニメ(ジャパニメーションと言った方がいいかもしれない)や漫画は「記号的」な表現である、即ちオタクはアニメを「読んでいる」、という東浩紀氏や斎藤氏の指摘に繋がる。
以前にも書いたことだが、短絡的なオタク文化批判と捉えられると困るので再度言及するが、私は表現の「記号化」自体は批判しない。舞台芸術ならお能やバレエなどは、身体表現を「コード化」した表現だからだ。しかし記号がシンボルではなく、サインとして捉えられると、それらのコード、記号は共鳴しない。そこに芸術的な「曖昧な(面白さなどという)何か」が立ち上がらない。文芸なら行間みたいなもの、という比喩をしておく。オタク文化でよく言われる「お約束だからつまんない」ということが、「記号のサイン化」の表出である、とも言える。断っておくが(こればっかりや)表現者が悪い、受取手がそういうことを言うべきではない、などと言っているわけではない。こういう表現者と受取手の「関係性」が、「記号のサイン化」の表出であり、その本質である「記号のサイン化」を問題にしているのだ(もちろんこの傾向はオタク文化だけではなく、ポストモダンの表現文化全体に通底するものだと思う)。記号を一義的なサインとして受け取ってしまったら、それはシンボル=象徴として機能しない。ラカンの象徴界における「言語」とは違うものになる。またはデリダの「散種」が起動しなくなる。
話を戻そう。アニメや漫画は、見た目は絵的即ち想像的なものと、台詞などの象徴的なものを組み合わせた表現だが、その実はコンテクストという象徴的な側面に依存している「記号的な」表現である、という「想像的な仮定」を設定して話を進めよう。フェティシスムは、対象(フェティッシュ)に対する想像的同一化と象徴的同一化の間で揺らいでいる。マニアではないパラノ的オタクの象徴的同一化とはなんだろうか。象徴的同一化は、現実界と象徴界の重なり合いに近いところへ向かう。そこにあるのは「ファルス的享楽」である。これは「所有」的なものだ。オタク文化において、それの表出としてまず思い浮かぶのが二次創作であろう。しかし創作=表現であるからには、その根源には「他者の享楽」がある。簡単に二次創作全体を「所有」的なるものと指し示すのは間違いであろう。その登場人物(想像的他者)を「所有」することの代理として「二次創作」を行っていることが、象徴的同一化であると言えるだろうか。
今二次創作と書いたが、ライトノベルの一部の作品には、オリジナルキャラであってもどこかで見たアニメキャラの「二次創作的な」作品もある。これらも含め、作者はキャラという想像的他者を「創造」することを象徴的同一化への希求である「所有」の代理にしているのではないだろうか、と私は感じる。もちろん全ての二次創作作品、オタク向け作品がそうであるとは言わないが。想像的同一化と象徴的同一化が進み、そこで「挫折」があれば精神病としてのパラノイアの構成要件となる。ここでの挫折は容易に予測できる。現実的な、「その対象は二次元のものである」ということだ。彼らにとって同一化の挫折はいともたやすく眼前に現れるだろう。妄想の同一化が膨張する前にそれが挫折する。「(パラノ的)オタクは二次元の対象を求めることによりパラノイアを防衛している」、ということになろうか。しかし、彼らにとっての同一化した対象=対象aが、非現実的なものでもよいと思ってしまう可能性もある。対象aは自我でもあるから、この時彼らは初めて二次元の中で生きてしまうことになるだろう。ラカン論では人の精神において、虚構と現実の区別はないのだ。
もちろんオタク文化がパラノイアを生み出す温床である、などと言っているわけではない。このブログでは何度も言っているが、ラカンは「人格はパラノイアである」みたいなことも言っているし、人間皆(私も含め)パラノイアの素因を持っていると私は思う。
とにかく、ここで言いたいのはスキゾ的オタクにとって、象徴的なものとの「戯れ」としてあった文化の形態が、パラノ的オタクにとっては象徴的同一化を促進するものになりうる可能性がある、という指摘である。
「記号のサイン化」に戻る。これまで私はオタク文化を例に挙げて、「解釈の一本化」や「言葉の想像的他者化による散種停止」や「象徴界のサイン化」(セカイ系の「象徴界の消失」、法律を記号として捉えてしまう若者たち)や「アニメキャラをさらに抽象化する二次創作的なキャラの記号化」などといった表出からそれを論じてきた。記号がシンボル=象徴的なものであれば、多義性がある。しかし同一化しようとするならば、去勢というトラウマにより対象は象徴的ファルスへと向かうだろう。それは「真理」のように絶対的なもの、他者による揺らぎがないものでなければならない(この揺らぎのなさへの「方向」を私は違う記事で「差異化」と呼んでいる)。「神」や「前世の私」みたいな象徴でもよかろう。ここに、象徴的対象物の一義化=サイン化への力動の起源がある。ある個人の内部の、このサイン化への希求が、ここでも前の記事で述べたような環境因子に促進され、全体の傾向として表しているのが、現在の(表現文化として貧しさの原因となろう)「記号のサイン化」という現象であると私は思う。
――とここまで書いておいて何だが、最近はこの辺の思考はここで停止している。私の飽きっぽい性格が如実に表れている。困ったものだ。最近は言葉が連鎖しない。思考を言語化することが面倒だ。思考を言語化させてしまうとそれは思考の死になり、他者化し、そこで留まることに安心してしまう。まあ別にまた書きたくなったら書けばいいや、ぐらいには思っていますが……。
インプット期とアウトプット期があるなら、今はインプット期なのかなあ。まあ年末年始で酒飲みすぎたってことも大きいだろうけど……。