精神分析というペスト
2009/04/14/Tue
渡米したフロイトは、自分たちを歓迎する人たちを見て、ユングにこう言った。
「彼らは私たちがペストを持ち込んできたことを知らないようだ」
……ユングはどう思っただろう?
精神分析というペストを深層心理学という宗教へと昇華したユングは。
いやな夢を見た。
わたしのお気に入りの役者さんが、わたしが裏方をしている舞台にゲスト出演している。ほんの一シーンだけの。
花道からその役者さんが現れる。出てくるだけで観客は笑う。
セリフはニ、三しかないが、アドリブで観客を笑わせている。
わたしはキャットウォークからそれを見下ろしながら、さすがだなー、と思う。
いつの間にかその役者さんはわたしになっていた。
しかしわたしはそれに気づいていない。
どういうことかと言うと、本番が終わって家に帰ると、周囲の人たちと話が噛み合わない。話をよく聞いてみれば、わたしがゲスト出演していて、その日酔っ払って家に帰ったそうだ。
家には二人の友人が付き添っていた。彼女らの証言も得た。間違いないようだ。
しかしわたしにはその記憶がない。
今日もゲストとして舞台に上がらなければならない。裏方であるわたしが。台本なんて覚えていない。アドリブで演技なんてできない。わたしは混乱する。
家まで付き添ってくれた二人のうち一人はリアルの昔の友人だった。もう一人はアニメ『鉄腕バーディ』の中杉さんというキャラだったのだがこっちはどうでもいい。リアルの友人にそう言われたら信じるしかない。いくらわたしが違うと思っていてもそうでいなければならない。
舞台装置は廃墟だった。こんな舞台装置だったかどうかも覚えていない。とても大がかりでリアルな廃墟だ。随分とお金がかかっていそう。大道具メインだったので大体わかる。廃墟なのにお金がかかっているのがおかしくなる。
舞台装置は舞台の裏にも及んでいた。つまり袖舞台や楽屋までもが廃墟だった。とても素晴らしい趣向だと思う。そう思わなければ舞台に立てない。
とはいえ客席は普通だった。日和ってるなあ、と思う。
スタッフにこのブログのことがばれていた。よくわからないが何かの請求書のようなものから判明したらしい。
困った、と思う。まあどうにかなるか、とも思う。
どうにもならなかった。
ネット上にさまざまな悪口が書かれている。多少知識がありそうな人の反論でさえ理解不能な理屈を並べ立ててわたしを攻撃している。
それが気になってしょうがない。
周りのスタッフや役者たちもそれを知っている。「こんな悪口書いてあったよ」と屈託のない笑みを浮かべてわたしに報告する。
だけどわたしはその役者であり、ブログのわたしではない。従ってこう言う。
「それわたしじゃないよー」
卑屈な笑みを浮かべながら。
舞台に上がると、わたしは観客の前で振り落としの幕を仕込むことになった。役者なのに裏方だ。やっぱりわたしは裏方なのか。じゃあブログのわたしはわたしだ。わたしは混乱する。周りのスタッフや役者がわたしのブログの噂をしている。混乱を鎮めるため、噂を聞かないようにするため、わたしは作業に集中する。これらは全て観客に見られている。
振り落としとは、袖中でスタッフがロープを引っ張って幕を落とすシカケである。大体観客には最初その幕が見えていて、幕が落ちることによってその後ろの舞台装置が姿を現すことになるのだが、今回は最初から幕の後ろが見えている。ネタばれしている。不思議な舞台だ、と思う。
極彩色の幕の向こうには、金属のような凍った湖面と血肉のような火山噴火の装置があった。
もうやだ。
もいっこ。割と他人から見て普通っぽい夢だがこっちのがダメージがでかい。
つるつるの大理石のような床。その上に少年が寝転がっている。人形かもしれない。わたしはそいつに泥を塗りたくっている。砂浜で誰かを埋めたりするようなあんな感じで。だけど泥が足りない。仕方がないのでそいつの口やお腹に手を突っ込んで泥を引き出す。泥の詰まった人形を泥で埋めている。
それを祖母に見つかる。
バケツのようなものを被されて、何も見えなくなる。何も見えないのに祖母の手が千手観音のように何本もあるのがわかる。それがバケツをぺしぺしと叩いているが、わたしは何も見えないし聞こえない。
本当に申し訳なくなる。死にたくなるほど反省している。
祖母というよりペットボトルだ。だからバケツか、と思う。
起きて泣いた。
社会という器はどこまで広がるのだろうか。
内容量が無限に近づくほどファルスのない世界、即ち獣の世界に近づくだけなのに。
狭いというか有限の器を好むマッチョイストがそれを妨害してくれるんだろう。石原慎太郎とか。
もうどうでもいいや。
出て来いよ馬鹿ラカニアンども。わたしと言葉というナイフで切り合おうぜ。殺し合おうぜ。
まじで殺してあげるから。こんなに手加減しないモルモットもなかなかいないよ? 貴重だよ?
ほれ出て来いよバカチンども。
わたしに精密な理屈を刺青してみろ。
精密な理屈で縛りつけそしてばらばらにしてください。
緊縛してください、っていうとエロあざといけどそんな感じ。それだけじゃ足りないから締め上げてぶちぶちぶちってなるまで。
ほら来いよアホタレども。
包丁研いで待ってるぜ。
『真マジンガー 衝撃! Z編』』の第一話がテンション高くてすげえ。タイトルが既に視聴者を置き去りにしている(笑)。いんとらふぇすとぅむぅー。
『戦国BASARA』もちょっと「おお」って思ったけど同じハイテンション系でこういうの来ちゃったらなー。ちっとかわいそうだ。
『キャシャーンSins』にしてもそうだったけど作り手の熱意がひしひしと感じられる。両方ともオリジナルを見たことないんだけど、リメイクはなんていうか制作陣の多くが昔熱中していた頃を思い出すのかもしれない。だから熱いのかな。
そういえば熱血系アニメ増えたなあ。『蒼天航路』もマンガは熱血っちゃー熱血。
一方「戦闘美少女」系は根強いのね。戦闘美少女の対極ってヤンデレだと思ってたけどBPDばっかだからなあ。ネクラ系鬱少女もの来ないか。『地獄少女』が近いのか。「黒い少女」系。途中で見るのやめたけど。全然未去勢じゃありませんでした。
「もっとどろどろを」
昼ドラのどろどろをさらに未去勢化つまり少女化した奴が見たい。
どろどろした自分でコントロールできない自分勝手な感情に翻弄される少女が見たい。感情自体が自分勝手なのだ。それは感情というより部分欲動だ。ブラウン運動のようなものだ。
今のアニメの少女キャラたちはみんな欲動を統御できている。霊や宇宙人に取り憑かれたりしない限りとても正常だ。
外面では普通に見えても内面では備給先のない心的エネルギーに翻弄されている少女。宛先のない手紙を書き溜め投棄し続ける少女。
備給先が一点に絞られ、水鉄砲のようにあるいはそれこそ射精のように心的エネルギーが奔流するのが男の子の熱血系ってことか。『キャシャーンSins』は純粋熱血系というより最初は備給先がよく見えなかったが後半段々見えてくるという「悩める少年」系でおもしろかった。
閻魔あいは全く部分欲動に翻弄されていない。β要素に翻弄されていない。自体愛的な必死さが感じられない。立派な接触防壁がある。
熱血系のファルス的享楽を目指した良作は多いのにネクラ少女系の他者の享楽を目指した作品がアニメ界にはほとんどない。純文学などに多い。あるいは上野千鶴子命名「自傷系アート」とかか。見る者に迷子の時のような不快感を惹起させるのを目的とした作品。絶対的未知としての無限という地獄を生きるしかない人間の作品。行くも地獄退くも地獄そのままいるのも地獄な作品。救いようのない作品。ってヨーロッパ系コメディなんか救いようのなさではこっちなのがおもしろい。
『School Days』とか出してきたら鼻で笑ってやるがな。備給先ありまくり。
映画『『CASSHERN』は作り手の映像美についての美学を押しつけてくる感じがしてつまらなかった。ストーリーうんぬんはどうでもいい。そっち重要視してないんだろーなーとは思ったし。んでウリにしたいはずの映像がそれだったからアウト。多分監督の中に「自分が作りたい映像」というのがあってそれを目指しているからイメージとしてちゃらい。書道で言うならお手本を真似て書いている段階。湧いてくるイメージのように感じなかった。夢のような現実感がなかった。ただの夢。ただの幻想。小手先のイメージ。映画初挑戦だったから仕方ないのかね。唐沢さん好きだから最後まで見たけどさ。ってwikipedia見たら助監督が交代したりしてたのね。ほう。そう考えるとおもしろい気がするな。この情報ありで見ればわぎわぎする感じがして評価したかもしれない。
映像への拘りとかなくても「キャシャーン俺昔チョーはまったんだよなー」とか興奮しながら作るアニメの方がおもしろい。
表象から臭い立つアウラが大事なのだよ。芸術は。
「彼らは私たちがペストを持ち込んできたことを知らないようだ」
……ユングはどう思っただろう?
精神分析というペストを深層心理学という宗教へと昇華したユングは。
いやな夢を見た。
わたしのお気に入りの役者さんが、わたしが裏方をしている舞台にゲスト出演している。ほんの一シーンだけの。
花道からその役者さんが現れる。出てくるだけで観客は笑う。
セリフはニ、三しかないが、アドリブで観客を笑わせている。
わたしはキャットウォークからそれを見下ろしながら、さすがだなー、と思う。
いつの間にかその役者さんはわたしになっていた。
しかしわたしはそれに気づいていない。
どういうことかと言うと、本番が終わって家に帰ると、周囲の人たちと話が噛み合わない。話をよく聞いてみれば、わたしがゲスト出演していて、その日酔っ払って家に帰ったそうだ。
家には二人の友人が付き添っていた。彼女らの証言も得た。間違いないようだ。
しかしわたしにはその記憶がない。
今日もゲストとして舞台に上がらなければならない。裏方であるわたしが。台本なんて覚えていない。アドリブで演技なんてできない。わたしは混乱する。
家まで付き添ってくれた二人のうち一人はリアルの昔の友人だった。もう一人はアニメ『鉄腕バーディ』の中杉さんというキャラだったのだがこっちはどうでもいい。リアルの友人にそう言われたら信じるしかない。いくらわたしが違うと思っていてもそうでいなければならない。
舞台装置は廃墟だった。こんな舞台装置だったかどうかも覚えていない。とても大がかりでリアルな廃墟だ。随分とお金がかかっていそう。大道具メインだったので大体わかる。廃墟なのにお金がかかっているのがおかしくなる。
舞台装置は舞台の裏にも及んでいた。つまり袖舞台や楽屋までもが廃墟だった。とても素晴らしい趣向だと思う。そう思わなければ舞台に立てない。
とはいえ客席は普通だった。日和ってるなあ、と思う。
スタッフにこのブログのことがばれていた。よくわからないが何かの請求書のようなものから判明したらしい。
困った、と思う。まあどうにかなるか、とも思う。
どうにもならなかった。
ネット上にさまざまな悪口が書かれている。多少知識がありそうな人の反論でさえ理解不能な理屈を並べ立ててわたしを攻撃している。
それが気になってしょうがない。
周りのスタッフや役者たちもそれを知っている。「こんな悪口書いてあったよ」と屈託のない笑みを浮かべてわたしに報告する。
だけどわたしはその役者であり、ブログのわたしではない。従ってこう言う。
「それわたしじゃないよー」
卑屈な笑みを浮かべながら。
舞台に上がると、わたしは観客の前で振り落としの幕を仕込むことになった。役者なのに裏方だ。やっぱりわたしは裏方なのか。じゃあブログのわたしはわたしだ。わたしは混乱する。周りのスタッフや役者がわたしのブログの噂をしている。混乱を鎮めるため、噂を聞かないようにするため、わたしは作業に集中する。これらは全て観客に見られている。
振り落としとは、袖中でスタッフがロープを引っ張って幕を落とすシカケである。大体観客には最初その幕が見えていて、幕が落ちることによってその後ろの舞台装置が姿を現すことになるのだが、今回は最初から幕の後ろが見えている。ネタばれしている。不思議な舞台だ、と思う。
極彩色の幕の向こうには、金属のような凍った湖面と血肉のような火山噴火の装置があった。
もうやだ。
もいっこ。割と他人から見て普通っぽい夢だがこっちのがダメージがでかい。
つるつるの大理石のような床。その上に少年が寝転がっている。人形かもしれない。わたしはそいつに泥を塗りたくっている。砂浜で誰かを埋めたりするようなあんな感じで。だけど泥が足りない。仕方がないのでそいつの口やお腹に手を突っ込んで泥を引き出す。泥の詰まった人形を泥で埋めている。
それを祖母に見つかる。
バケツのようなものを被されて、何も見えなくなる。何も見えないのに祖母の手が千手観音のように何本もあるのがわかる。それがバケツをぺしぺしと叩いているが、わたしは何も見えないし聞こえない。
本当に申し訳なくなる。死にたくなるほど反省している。
祖母というよりペットボトルだ。だからバケツか、と思う。
起きて泣いた。
社会という器はどこまで広がるのだろうか。
内容量が無限に近づくほどファルスのない世界、即ち獣の世界に近づくだけなのに。
狭いというか有限の器を好むマッチョイストがそれを妨害してくれるんだろう。石原慎太郎とか。
もうどうでもいいや。
出て来いよ馬鹿ラカニアンども。わたしと言葉というナイフで切り合おうぜ。殺し合おうぜ。
まじで殺してあげるから。こんなに手加減しないモルモットもなかなかいないよ? 貴重だよ?
ほれ出て来いよバカチンども。
わたしに精密な理屈を刺青してみろ。
精密な理屈で縛りつけそしてばらばらにしてください。
緊縛してください、っていうとエロあざといけどそんな感じ。それだけじゃ足りないから締め上げてぶちぶちぶちってなるまで。
ほら来いよアホタレども。
包丁研いで待ってるぜ。
『真マジンガー 衝撃! Z編』』の第一話がテンション高くてすげえ。タイトルが既に視聴者を置き去りにしている(笑)。いんとらふぇすとぅむぅー。
『戦国BASARA』もちょっと「おお」って思ったけど同じハイテンション系でこういうの来ちゃったらなー。ちっとかわいそうだ。
『キャシャーンSins』にしてもそうだったけど作り手の熱意がひしひしと感じられる。両方ともオリジナルを見たことないんだけど、リメイクはなんていうか制作陣の多くが昔熱中していた頃を思い出すのかもしれない。だから熱いのかな。
そういえば熱血系アニメ増えたなあ。『蒼天航路』もマンガは熱血っちゃー熱血。
一方「戦闘美少女」系は根強いのね。戦闘美少女の対極ってヤンデレだと思ってたけどBPDばっかだからなあ。ネクラ系鬱少女もの来ないか。『地獄少女』が近いのか。「黒い少女」系。途中で見るのやめたけど。全然未去勢じゃありませんでした。
「もっとどろどろを」
昼ドラのどろどろをさらに未去勢化つまり少女化した奴が見たい。
どろどろした自分でコントロールできない自分勝手な感情に翻弄される少女が見たい。感情自体が自分勝手なのだ。それは感情というより部分欲動だ。ブラウン運動のようなものだ。
今のアニメの少女キャラたちはみんな欲動を統御できている。霊や宇宙人に取り憑かれたりしない限りとても正常だ。
外面では普通に見えても内面では備給先のない心的エネルギーに翻弄されている少女。宛先のない手紙を書き溜め投棄し続ける少女。
備給先が一点に絞られ、水鉄砲のようにあるいはそれこそ射精のように心的エネルギーが奔流するのが男の子の熱血系ってことか。『キャシャーンSins』は純粋熱血系というより最初は備給先がよく見えなかったが後半段々見えてくるという「悩める少年」系でおもしろかった。
閻魔あいは全く部分欲動に翻弄されていない。β要素に翻弄されていない。自体愛的な必死さが感じられない。立派な接触防壁がある。
熱血系のファルス的享楽を目指した良作は多いのにネクラ少女系の他者の享楽を目指した作品がアニメ界にはほとんどない。純文学などに多い。あるいは上野千鶴子命名「自傷系アート」とかか。見る者に迷子の時のような不快感を惹起させるのを目的とした作品。絶対的未知としての無限という地獄を生きるしかない人間の作品。行くも地獄退くも地獄そのままいるのも地獄な作品。救いようのない作品。ってヨーロッパ系コメディなんか救いようのなさではこっちなのがおもしろい。
『School Days』とか出してきたら鼻で笑ってやるがな。備給先ありまくり。
映画『『CASSHERN』は作り手の映像美についての美学を押しつけてくる感じがしてつまらなかった。ストーリーうんぬんはどうでもいい。そっち重要視してないんだろーなーとは思ったし。んでウリにしたいはずの映像がそれだったからアウト。多分監督の中に「自分が作りたい映像」というのがあってそれを目指しているからイメージとしてちゃらい。書道で言うならお手本を真似て書いている段階。湧いてくるイメージのように感じなかった。夢のような現実感がなかった。ただの夢。ただの幻想。小手先のイメージ。映画初挑戦だったから仕方ないのかね。唐沢さん好きだから最後まで見たけどさ。ってwikipedia見たら助監督が交代したりしてたのね。ほう。そう考えるとおもしろい気がするな。この情報ありで見ればわぎわぎする感じがして評価したかもしれない。
映像への拘りとかなくても「キャシャーン俺昔チョーはまったんだよなー」とか興奮しながら作るアニメの方がおもしろい。
表象から臭い立つアウラが大事なのだよ。芸術は。