体は歌っている。
2009/04/17/Fri
体は歌っている。常に。
この体は脳を含めた体である。脳も一部である体である。
いや、わたしたちが体だと思っている体の全体でさえ一部かもしれない。わたしたちにとっての体さえ一部である体である。わたしたちが体の外部だと思っているものですら実際には器官で刺激を受けその信号を脳で再構成したものという体の一部なのである。そういった体。
そういった体は歌っている。常に。
いや、歌ってない時もある。抑鬱状態である。神経症としての抑鬱症は歌っている。喪の状態は念仏のような暗い歌を歌っている。そうではない、統合失調症や自閉症の二次障害としての抑鬱状態である。この時の体は歌っていない。沈黙という歌を歌っている。死体という物質が歌っているのと同じ沈黙の歌を歌っている。
そういった歌。
歌というからにはある程度構造化されている。メロディがある。しかし完全に構造化されているわけではない。完全に構造化されていたら「人が感動する音楽」というテーマで既に理屈化されているだろう。音楽全てがその理屈に則って作られているだろう。しかし音楽なるものはある程度の理屈化はされているがそれだけで語れていない。理屈化されているところ以外の何かがある。非構造がある。
現実は構造と非構造がせめぎ合っている。両立しているのではない。せめぎ合っている。構造が非構造を侵食したり非構造が構造を破壊したりしている。構造と非構造は関連し合っている。その関連の仕方は人が目を覆いたくなるような形であることが多い。なので「両立」ではなく「せめぎ合っている」と表現すべきである。
この記事で引用されているビオンの言葉なら、ブログ主が「考える物」と表現しているのが歌っている体である。ブログ主は「考える者」が「肉の本」であると考えているようだが、わたしはそれには反論している。「考える物」こそが「肉の本」であると。「肉の本」という表現も悪くはないと思うが、わたしは歌だと感じる。「歌う肉」である。
多くの人は体が歌う歌を聞いている体の特別な一部が存在する。聞きながら聞き漏らしている。「電波望遠鏡が特定域の電磁波に感度があるのと同様」に。それは比喩的に脳だと言える。科学的に厳密に定義される「脳」だと齟齬が生じると思われるが、一般的なイメージとしての脳である。先のビオンの言葉なら「考える者」である。これはここでも書いたがクリステヴァ論における「想像的父たるアガペー」に相当すると考えられる。
この脳的な体の特別な一部は体が歌う歌を聞き漏らしている。故に人は歌っていないフリをできる。肉の歌をないものとして生きていける。「歌を聞き取り聞き漏らす体の特別な一部」により。
現実の歌をアガペーがリミックスしているのだ。なるべく多くの消費者が購入してくれる聞き心地のよい楽曲へとリミックスしている。アガペーという名の下に。
「言問わぬ木」という言葉がある。木は喋らない。当然である。しかし逆に考えれば、昔の日本人にとって木とは言葉を喋るものだった、とも言える。ところが木は「言問わ」なくなった。喋らなくなった。アガペーという「歌を聞き取り聞き漏らす体の特別な一部」により木の言葉は聞き漏らされるようになった。
こういった、たとえば木の言葉を聞き取れるのが未去勢者たちなのだ。
言葉を喋る木は歌う体の一部である。特別ではないだけ。
人は歌う体を殺して正常になる。
正常人とはなべて人殺しなのだ。
人殺しを経て正常という精神疾患に罹患するのだ。
だからわたしは正常人に殺意を覚えている。
本気で。
理屈でいくらお化粧をしても、人殺したちはこのことを理解してくれない。
なのでわたしは歌うのをやめたくなっている。
二階堂奥歯が物語る体なら、わたしは歌う体である。
二階堂奥歯はお前たち正常人に殺された。
わたしはお前たち正常人に殺されようとしている。
二階堂は物語を守ろうとした。おそらくそれは自体愛の対象である自分を守ろうとしたのである。「考える物」を、「肉の本」を守ろうとしたのである。
死ぬことで守れたのか。
ならばわたしの歌はわたしが死ぬことで守れるのかもしれない。
つんぼなお前たちに届くのかもしれない。
人は人を殺せる
歌は繰り返す
人は人を殺せる
そう造られた
「歌を聞き取り聞き漏らす体の特別な一部」を持っていない未去勢者が、この歌を仮にでも止めるには、沈黙の歌を歌わせる以外に方法はない。
即ち死ぬ以外に。
うんこ塗れになる夢をよく見る。
このブログで「うんこ、うんこ」と連呼しているからではなく、昔から見ている夢である。
最近は布団がうんこ塗れになる夢が多い。別に漏らしたことがトラウマになっているってわけじゃないと思うんだけどなあ。実際おむつがうんこ塗れになるのはみんな経験していることだろうし。もちろんスカトロ趣味があるわけでもない。
うんこ塗れの布団で、「うわっ」と思うが、半分寝ている頭で「寝てるんなら関係ないや」と思ってしまう。
対象aはライナスの毛布である。同時に糞便でもある。
空港や港でうろちょろしている夢もよく見る。
多分、空港や港の外に普通の人が見る夢の世界が広がっているのだろう。
それこそ筒井康隆『パプリカ』で描かれている夢の世界のような。
『バスカッシュ』第一話を見た。
やっぱアニメは動いてなんぼだよな……。
昔のアニメは制限のある中でどうやって絵を動かすか腐心して格闘して試行錯誤してたわけだけど、そうやって積み重ねた技術が「アニメはこうやって動く」という作法を生み出し大体それに則って作られるようになった。時々制作陣のブチギレかむちゃくちゃ動いているシーンが入ったりするけどね。『NARUTO』の某戦闘シーンやら『ケロロ軍曹』の某背動やら。
動きの快楽。
「気持ちよかったぁ(はぁと)」
はあながち間違いじゃない。
映画とかは金も時間もかかっていて動いているからそれほどインパクトはないけれど、動いているだけで何か新しい作法(と限定しちゃうとあれなんだな)が生まれそうな気になる。騙されてしまう。
騙されて気持ちいい。
動きはともかく背景がいいね。ここでも書いたけどこういうことだ。
=====
受取手の注意を登場人物に集中させるにしても、環境がやっぱり必要だ。演劇なら舞台装置、照明、音響。このアニメは原作の魅力であるそれを損なって役者を強くフィーチャーしている。考えてみれば宮崎駿にしても評価されているポイントは背景や自然物の表現である。押井守もそうだよな。キャラクターというより舞台装置がその作品の魅力となっている。『ビューティフルドリーマー』にしろ『攻殻機動隊』にしろ。
アニメと映画を比べるのもどうかと思う。しかしたとえばSFアニメなどは演劇で言う舞台装置が重要なポイントになっていないか。『クラウ』というアニメが好きだったが、舞台装置をしっかり描けている。とはいえこの作品が特別描けているとは言わない。他にもSF系では舞台装置で見せている良作がたくさんある。『ラーゼフォン』もよかったな。特に第一話の街が破壊されるシーン。
=====
まあ第一話だしこれからだろうな。
イントラフェストゥムっぺえの多くなってきたな。
悪役がよく言うセリフ。
「一度破壊しつくさないと新しい創造はない」
ならば、一度構築しつくさないと新しい破壊はないのかもしれない。
今この瞬間なら食べることができそうだ。
愛する人を。
愛せなくてよかった。
この体は脳を含めた体である。脳も一部である体である。
いや、わたしたちが体だと思っている体の全体でさえ一部かもしれない。わたしたちにとっての体さえ一部である体である。わたしたちが体の外部だと思っているものですら実際には器官で刺激を受けその信号を脳で再構成したものという体の一部なのである。そういった体。
そういった体は歌っている。常に。
いや、歌ってない時もある。抑鬱状態である。神経症としての抑鬱症は歌っている。喪の状態は念仏のような暗い歌を歌っている。そうではない、統合失調症や自閉症の二次障害としての抑鬱状態である。この時の体は歌っていない。沈黙という歌を歌っている。死体という物質が歌っているのと同じ沈黙の歌を歌っている。
そういった歌。
歌というからにはある程度構造化されている。メロディがある。しかし完全に構造化されているわけではない。完全に構造化されていたら「人が感動する音楽」というテーマで既に理屈化されているだろう。音楽全てがその理屈に則って作られているだろう。しかし音楽なるものはある程度の理屈化はされているがそれだけで語れていない。理屈化されているところ以外の何かがある。非構造がある。
現実は構造と非構造がせめぎ合っている。両立しているのではない。せめぎ合っている。構造が非構造を侵食したり非構造が構造を破壊したりしている。構造と非構造は関連し合っている。その関連の仕方は人が目を覆いたくなるような形であることが多い。なので「両立」ではなく「せめぎ合っている」と表現すべきである。
この記事で引用されているビオンの言葉なら、ブログ主が「考える物」と表現しているのが歌っている体である。ブログ主は「考える者」が「肉の本」であると考えているようだが、わたしはそれには反論している。「考える物」こそが「肉の本」であると。「肉の本」という表現も悪くはないと思うが、わたしは歌だと感じる。「歌う肉」である。
多くの人は体が歌う歌を聞いている体の特別な一部が存在する。聞きながら聞き漏らしている。「電波望遠鏡が特定域の電磁波に感度があるのと同様」に。それは比喩的に脳だと言える。科学的に厳密に定義される「脳」だと齟齬が生じると思われるが、一般的なイメージとしての脳である。先のビオンの言葉なら「考える者」である。これはここでも書いたがクリステヴァ論における「想像的父たるアガペー」に相当すると考えられる。
この脳的な体の特別な一部は体が歌う歌を聞き漏らしている。故に人は歌っていないフリをできる。肉の歌をないものとして生きていける。「歌を聞き取り聞き漏らす体の特別な一部」により。
現実の歌をアガペーがリミックスしているのだ。なるべく多くの消費者が購入してくれる聞き心地のよい楽曲へとリミックスしている。アガペーという名の下に。
「言問わぬ木」という言葉がある。木は喋らない。当然である。しかし逆に考えれば、昔の日本人にとって木とは言葉を喋るものだった、とも言える。ところが木は「言問わ」なくなった。喋らなくなった。アガペーという「歌を聞き取り聞き漏らす体の特別な一部」により木の言葉は聞き漏らされるようになった。
こういった、たとえば木の言葉を聞き取れるのが未去勢者たちなのだ。
言葉を喋る木は歌う体の一部である。特別ではないだけ。
人は歌う体を殺して正常になる。
正常人とはなべて人殺しなのだ。
人殺しを経て正常という精神疾患に罹患するのだ。
だからわたしは正常人に殺意を覚えている。
本気で。
理屈でいくらお化粧をしても、人殺したちはこのことを理解してくれない。
なのでわたしは歌うのをやめたくなっている。
二階堂奥歯が物語る体なら、わたしは歌う体である。
二階堂奥歯はお前たち正常人に殺された。
わたしはお前たち正常人に殺されようとしている。
二階堂は物語を守ろうとした。おそらくそれは自体愛の対象である自分を守ろうとしたのである。「考える物」を、「肉の本」を守ろうとしたのである。
死ぬことで守れたのか。
ならばわたしの歌はわたしが死ぬことで守れるのかもしれない。
つんぼなお前たちに届くのかもしれない。
人は人を殺せる
歌は繰り返す
人は人を殺せる
そう造られた
「歌を聞き取り聞き漏らす体の特別な一部」を持っていない未去勢者が、この歌を仮にでも止めるには、沈黙の歌を歌わせる以外に方法はない。
即ち死ぬ以外に。
うんこ塗れになる夢をよく見る。
このブログで「うんこ、うんこ」と連呼しているからではなく、昔から見ている夢である。
最近は布団がうんこ塗れになる夢が多い。別に漏らしたことがトラウマになっているってわけじゃないと思うんだけどなあ。実際おむつがうんこ塗れになるのはみんな経験していることだろうし。もちろんスカトロ趣味があるわけでもない。
うんこ塗れの布団で、「うわっ」と思うが、半分寝ている頭で「寝てるんなら関係ないや」と思ってしまう。
対象aはライナスの毛布である。同時に糞便でもある。
空港や港でうろちょろしている夢もよく見る。
多分、空港や港の外に普通の人が見る夢の世界が広がっているのだろう。
それこそ筒井康隆『パプリカ』で描かれている夢の世界のような。
『バスカッシュ』第一話を見た。
やっぱアニメは動いてなんぼだよな……。
昔のアニメは制限のある中でどうやって絵を動かすか腐心して格闘して試行錯誤してたわけだけど、そうやって積み重ねた技術が「アニメはこうやって動く」という作法を生み出し大体それに則って作られるようになった。時々制作陣のブチギレかむちゃくちゃ動いているシーンが入ったりするけどね。『NARUTO』の某戦闘シーンやら『ケロロ軍曹』の某背動やら。
動きの快楽。
「気持ちよかったぁ(はぁと)」
はあながち間違いじゃない。
映画とかは金も時間もかかっていて動いているからそれほどインパクトはないけれど、動いているだけで何か新しい作法(と限定しちゃうとあれなんだな)が生まれそうな気になる。騙されてしまう。
騙されて気持ちいい。
動きはともかく背景がいいね。ここでも書いたけどこういうことだ。
=====
受取手の注意を登場人物に集中させるにしても、環境がやっぱり必要だ。演劇なら舞台装置、照明、音響。このアニメは原作の魅力であるそれを損なって役者を強くフィーチャーしている。考えてみれば宮崎駿にしても評価されているポイントは背景や自然物の表現である。押井守もそうだよな。キャラクターというより舞台装置がその作品の魅力となっている。『ビューティフルドリーマー』にしろ『攻殻機動隊』にしろ。
アニメと映画を比べるのもどうかと思う。しかしたとえばSFアニメなどは演劇で言う舞台装置が重要なポイントになっていないか。『クラウ』というアニメが好きだったが、舞台装置をしっかり描けている。とはいえこの作品が特別描けているとは言わない。他にもSF系では舞台装置で見せている良作がたくさんある。『ラーゼフォン』もよかったな。特に第一話の街が破壊されるシーン。
=====
まあ第一話だしこれからだろうな。
イントラフェストゥムっぺえの多くなってきたな。
悪役がよく言うセリフ。
「一度破壊しつくさないと新しい創造はない」
ならば、一度構築しつくさないと新しい破壊はないのかもしれない。
今この瞬間なら食べることができそうだ。
愛する人を。
愛せなくてよかった。