どんな器
2009/04/20/Mon
目的がある迷子はまだいい。
目的があるから。目的という把握しているものがあるから。
ただ迷子になっている時、目的もない時、全てが絶対的未知となる。
仮に把握することはできる。拾い上げることはできる。
知らない間に落ちている。
拾い上げたことが幻想のように思えてくる。
わたしの肉片を拾い上げて。糞便を拾い上げて。
わたしを拾い上げるあなたを拾い上げましょう。
持たないで。持ってしまったらそれはわたしではない。あなたは拾い上げてない。わたしはあなたを拾い上げない。
過去は傷という器におさまっている。傷が多ければ器は大きくなる。
だけど傷は器を壊す。
傷の器を傷が壊す。
ここにいるわたしとあなたはそういうものです。
傷が器になるかそれを壊すかの違いだけ。
わたしはあなたの器になりあなたはわたしの器になる。
わたしはあなたの器を壊しあなたはわたしの器を壊す。
物置から老人が出てくる。老人は物置にしまわれていた。死を間際にしてやっと老人は物置から出られた。
動物病院の医者だった。
死なないとわからないけど、犬の舌は驚くほど長いんだよ、と笑って言った。
見せて。
あなたの舌を引きずり出す。
わたしを持っているあなたではなく、わたしを拾い上げるあなたを引きずり出す。
だけど僕は最初から持っている。
君を閉じ込める鳥篭を持っている。
君はその中で鳴いている。
鳥篭から放たれた君はもういない。
鳥篭の中にいるから君はいる。
僕は初めから鳥篭を持っている。
鳥篭を置き忘れてしまったのは、きっと君のせいだ。
だからわたしはあなたを壊したい。
あなたを閉じ込めている鳥篭を。
迷子の世界へようこそ。
苦痛を増幅し合う地下鉄へようこそ。
この器はそこにあります。あなたのすぐそばに。少しでも近づくとあなたは窒息してしまうでしょう。だからあなたは拾えない。わたしは拾えない。
鳥篭の中が外で、僕がいる世界が篭の中だ。
そんな風に言えば満足かい?
鳥篭を差し出そう。
僕が鳥篭から脱出するために。
鳥篭の中には糞しか残っていなかった。
この中が外だ。
そんな風に思ってしまったのは、きっと君のせいだ。
君はもう違う鳥篭を見ている。
わたしを拾って。あなたが拾って。
あなたが誰かわからない。
そんな風に言えば満足なの?
どんな言葉なら許してくれるの?
『ブロークン・フラワーズ』を見た。
ああうん。多分監督はこの最後の息子かもしれない若者なんだろう。主人公は彼を息子とすることで旅を終わらせようとする。しかし息子は逃げてしまう。旅を続けさせる。そういった映画だ。
遊び人が改心して一人の女性を愛するようになった、なんてありがちなまとめ方にせず、隠喩的に遊び人の人生を、旅が終わらないことを映している、のかね。
ほへんほへん、って映画でした。
この記事のうじゃうじゃを読み返している。うじゃうじゃ相手の言葉。
=====
>大体が不快であって、だからこそそれに興味を持つ。それに囚われてしまう。
あ、それ同意。
でっかい鼻くそとかスゲー長い鼻毛な。
=====
まあ多分彼のは症状としては小文字の倒錯なんだろうけど。
象徴界に開いた穴から見えるものはなんだろう? 「穴」というからには非象徴界であろう。それは現実界か想像界か知らないが、穴は確かに開いている。
想像界は象徴界より幾分流動的だが、象徴界と等しく穴が開いている。流動的な穴なのでわたしは「渦」と言ったりする。
想像界と象徴界二重のフィルターによって人は現実界から保護されている。逆に言えば、人が現実界に触れようとすれば想像界の渦と象徴界の穴二つをすり抜けなければならない、ということになる。
象徴界に開いた穴は、不完全性定理などに比喩される。もっと簡単に言えば自己言及の不完全性である。要するに自問自答に解答はないという奴だ。
なんかかっこいいじゃん。
一方、想像界の渦はあまりかっこよくない。そりゃそうだ。想像界の流動的ではあるが実際にある構造「快/不快」二項原理が渦巻く領域だから。不快だからかっこよくない。
この渦は、穴と等しくどこにでも開いている。大きいか小さいか問わず。
どこにでもあるちっちゃな渦の一例。
それが鼻毛である。
憧れの先輩を見つめていてある時ふと気づいた鼻毛。やけに長い鼻毛。鼻息にたなびく鼻毛。
「ああん、わたしが抜いてあげたいわ」
ギャグに走るしか説明できんだろう、もう。
でもまあ要するにそういうことだよ。かっこよく言うとアンビバレンツな情動状態なわけじゃん。コンプレックスなんてのも情動が複合していることだから、なべて想像界の渦に巻き込まれている状態とも言えるだろう。オーバーに言うとあれだ。昼ドラチックな愛憎が渦巻く状態。まさに渦。
渦に飲まれても象徴界というフィルターにすがりつける場合がある。
「そりゃ先輩だって人間だもん。そういうことだってあるさ」みたいな。
逆もありうる。穴に落ちて想像界という流動的な構造(音楽的とも言えよう)にしがみつける場合。悩める若者が最後に辿り着いたのは愛する人のもとでした、とかありがちじゃない。
この二重のフィルターがビオンの言う「β領域から保護されるための接触防壁」であり「養育者という容器」である。
すごいね接触防壁。えらいぞ僕らの接触防壁。
まあそういうこった。えっらいちっちゃな渦だけどさ。渦に飲み込まれているその瞬間の人にとっちゃー大変だが。
穴も渦もすり抜けたいのー、っていうのが父錯だな。彼のはこんなさらっと言えるからにゃー小文字の倒錯と判断せざるを得ない。もちろん内面は計り知れんが推測することまで否定されるいわれはない。
仕方ないじゃん。彼と話してて現実界のうねりを感じなかったんだもん。彼が現実界に翻弄されているかどうかという話じゃなく、彼のテクストからそれをわたしが感じなかったという話。
というわけでちっちゃな渦の歌を紹介しておこう。有名だけど。
かっこいい「渦」がいいならこっち。いや渦かどうか知らんが。
フロイトの著作を読むと、臨床分析についての彼の文脈は非常に神経症的なのだが、科学的アプローチを取り出してそこだけ読むと、非常に自体愛的な視点が強いように思える。そりゃそうだ。彼は元は神経生理学者なのだから。神経生理学的アプローチは自体愛の対象となる自分に向かうものとなる。神経生理学者だったフロイトだからこそ、自己愛の前に自体愛という一種メタ的あるいはオカルト的な、その証拠に学問村では自己愛や対象愛という概念と比べて忘れ去れているような印象さえあるそれを、設置できたのではないか。
そんな妄想をした。夢うつつで。
ビル・マーレーの沈黙を上手く活かす演技は、自体愛的な印象を受ける。実際彼は自己愛的な人間を演じることが多いが、『ブロークン・フラワー』での演技は自体愛的な領域に踏み込んでいる。
しかしながら、キャリアが邪魔をしている。経験がそれを劣化している。上手いのだ。演技として。演技として上手いから、自己愛が老化した老いぼれたドン・ファンになってしまっている。
違う。年老いると子供に戻ると言われるが、この老いぼれたドン・ファンは自体愛的なのだ。そうであるはずなのだ。
しかし登場人物としての人生の積み重ねや、ビル自身の演技力の積み重ねにより、見えなくなっている。見えなくなっているのが上手いということだ。
だから、上手いっていいことなのだろうか、と思った。
目的があるから。目的という把握しているものがあるから。
ただ迷子になっている時、目的もない時、全てが絶対的未知となる。
仮に把握することはできる。拾い上げることはできる。
知らない間に落ちている。
拾い上げたことが幻想のように思えてくる。
わたしの肉片を拾い上げて。糞便を拾い上げて。
わたしを拾い上げるあなたを拾い上げましょう。
持たないで。持ってしまったらそれはわたしではない。あなたは拾い上げてない。わたしはあなたを拾い上げない。
過去は傷という器におさまっている。傷が多ければ器は大きくなる。
だけど傷は器を壊す。
傷の器を傷が壊す。
ここにいるわたしとあなたはそういうものです。
傷が器になるかそれを壊すかの違いだけ。
わたしはあなたの器になりあなたはわたしの器になる。
わたしはあなたの器を壊しあなたはわたしの器を壊す。
物置から老人が出てくる。老人は物置にしまわれていた。死を間際にしてやっと老人は物置から出られた。
動物病院の医者だった。
死なないとわからないけど、犬の舌は驚くほど長いんだよ、と笑って言った。
見せて。
あなたの舌を引きずり出す。
わたしを持っているあなたではなく、わたしを拾い上げるあなたを引きずり出す。
だけど僕は最初から持っている。
君を閉じ込める鳥篭を持っている。
君はその中で鳴いている。
鳥篭から放たれた君はもういない。
鳥篭の中にいるから君はいる。
僕は初めから鳥篭を持っている。
鳥篭を置き忘れてしまったのは、きっと君のせいだ。
だからわたしはあなたを壊したい。
あなたを閉じ込めている鳥篭を。
迷子の世界へようこそ。
苦痛を増幅し合う地下鉄へようこそ。
この器はそこにあります。あなたのすぐそばに。少しでも近づくとあなたは窒息してしまうでしょう。だからあなたは拾えない。わたしは拾えない。
鳥篭の中が外で、僕がいる世界が篭の中だ。
そんな風に言えば満足かい?
鳥篭を差し出そう。
僕が鳥篭から脱出するために。
鳥篭の中には糞しか残っていなかった。
この中が外だ。
そんな風に思ってしまったのは、きっと君のせいだ。
君はもう違う鳥篭を見ている。
わたしを拾って。あなたが拾って。
あなたが誰かわからない。
そんな風に言えば満足なの?
どんな言葉なら許してくれるの?
『ブロークン・フラワーズ』を見た。
ああうん。多分監督はこの最後の息子かもしれない若者なんだろう。主人公は彼を息子とすることで旅を終わらせようとする。しかし息子は逃げてしまう。旅を続けさせる。そういった映画だ。
遊び人が改心して一人の女性を愛するようになった、なんてありがちなまとめ方にせず、隠喩的に遊び人の人生を、旅が終わらないことを映している、のかね。
ほへんほへん、って映画でした。
この記事のうじゃうじゃを読み返している。うじゃうじゃ相手の言葉。
=====
>大体が不快であって、だからこそそれに興味を持つ。それに囚われてしまう。
あ、それ同意。
でっかい鼻くそとかスゲー長い鼻毛な。
=====
まあ多分彼のは症状としては小文字の倒錯なんだろうけど。
象徴界に開いた穴から見えるものはなんだろう? 「穴」というからには非象徴界であろう。それは現実界か想像界か知らないが、穴は確かに開いている。
想像界は象徴界より幾分流動的だが、象徴界と等しく穴が開いている。流動的な穴なのでわたしは「渦」と言ったりする。
想像界と象徴界二重のフィルターによって人は現実界から保護されている。逆に言えば、人が現実界に触れようとすれば想像界の渦と象徴界の穴二つをすり抜けなければならない、ということになる。
象徴界に開いた穴は、不完全性定理などに比喩される。もっと簡単に言えば自己言及の不完全性である。要するに自問自答に解答はないという奴だ。
なんかかっこいいじゃん。
一方、想像界の渦はあまりかっこよくない。そりゃそうだ。想像界の流動的ではあるが実際にある構造「快/不快」二項原理が渦巻く領域だから。不快だからかっこよくない。
この渦は、穴と等しくどこにでも開いている。大きいか小さいか問わず。
どこにでもあるちっちゃな渦の一例。
それが鼻毛である。
憧れの先輩を見つめていてある時ふと気づいた鼻毛。やけに長い鼻毛。鼻息にたなびく鼻毛。
「ああん、わたしが抜いてあげたいわ」
ギャグに走るしか説明できんだろう、もう。
でもまあ要するにそういうことだよ。かっこよく言うとアンビバレンツな情動状態なわけじゃん。コンプレックスなんてのも情動が複合していることだから、なべて想像界の渦に巻き込まれている状態とも言えるだろう。オーバーに言うとあれだ。昼ドラチックな愛憎が渦巻く状態。まさに渦。
渦に飲まれても象徴界というフィルターにすがりつける場合がある。
「そりゃ先輩だって人間だもん。そういうことだってあるさ」みたいな。
逆もありうる。穴に落ちて想像界という流動的な構造(音楽的とも言えよう)にしがみつける場合。悩める若者が最後に辿り着いたのは愛する人のもとでした、とかありがちじゃない。
この二重のフィルターがビオンの言う「β領域から保護されるための接触防壁」であり「養育者という容器」である。
すごいね接触防壁。えらいぞ僕らの接触防壁。
まあそういうこった。えっらいちっちゃな渦だけどさ。渦に飲み込まれているその瞬間の人にとっちゃー大変だが。
穴も渦もすり抜けたいのー、っていうのが父錯だな。彼のはこんなさらっと言えるからにゃー小文字の倒錯と判断せざるを得ない。もちろん内面は計り知れんが推測することまで否定されるいわれはない。
仕方ないじゃん。彼と話してて現実界のうねりを感じなかったんだもん。彼が現実界に翻弄されているかどうかという話じゃなく、彼のテクストからそれをわたしが感じなかったという話。
というわけでちっちゃな渦の歌を紹介しておこう。有名だけど。
かっこいい「渦」がいいならこっち。いや渦かどうか知らんが。
フロイトの著作を読むと、臨床分析についての彼の文脈は非常に神経症的なのだが、科学的アプローチを取り出してそこだけ読むと、非常に自体愛的な視点が強いように思える。そりゃそうだ。彼は元は神経生理学者なのだから。神経生理学的アプローチは自体愛の対象となる自分に向かうものとなる。神経生理学者だったフロイトだからこそ、自己愛の前に自体愛という一種メタ的あるいはオカルト的な、その証拠に学問村では自己愛や対象愛という概念と比べて忘れ去れているような印象さえあるそれを、設置できたのではないか。
そんな妄想をした。夢うつつで。
ビル・マーレーの沈黙を上手く活かす演技は、自体愛的な印象を受ける。実際彼は自己愛的な人間を演じることが多いが、『ブロークン・フラワー』での演技は自体愛的な領域に踏み込んでいる。
しかしながら、キャリアが邪魔をしている。経験がそれを劣化している。上手いのだ。演技として。演技として上手いから、自己愛が老化した老いぼれたドン・ファンになってしまっている。
違う。年老いると子供に戻ると言われるが、この老いぼれたドン・ファンは自体愛的なのだ。そうであるはずなのだ。
しかし登場人物としての人生の積み重ねや、ビル自身の演技力の積み重ねにより、見えなくなっている。見えなくなっているのが上手いということだ。
だから、上手いっていいことなのだろうか、と思った。