正常人は死ね。
2009/04/21/Tue
ここのコメント欄。
ぼんやりとした頭。このぼんやりは思考の鈍磨なのだろうか。インピーダンスなのだろうか。
インピーダンスは低いように思える。即ち波動の浸透を阻害するものは低い気がする。
思考は波動的になる。粒子のように確定されない。従って、「言語化できる思考」は鈍磨していると言える。
「酔っ払っている時の方が頭の回転早くなんのさ」
そんなことをよく言っていた。
酔っ払って喋る言葉は、実際に言語化されているが、他人に伝えるという目的の度合いが低下している。この時「言語化できる思考」は鈍磨していると言える。つまり「言語化できる思考」という表現はあまり正しくなく、「他人に伝える目的の度合いが高い思考」が正確だ、ということだ。
粒子的な思考と波動的な思考。確定された思考と不確定性の強い思考。
両方とも思考である。
不確定性の強い思考は、言語化できないことはないが、困難である。できたとしても酔っ払いの戯言と言われる。
「インピーダンス」という言葉を使った。電気回路的表現を使った会話だったからか何も考えずに比喩的にそう述べた。この概念の意味するところは要するに「波動の浸透を阻害する度合い」である。wikipediaの説明をぱくった。
インピーダンスが高ければ波動の浸透はより阻害される。電気回路で考えると理解しにくいかもしれないが、(wikipediaで説明されている通り)音波の伝達のしにくさで考えるとわかりやすいだろう。
「高い音を吸収するゴムでも低い音は比較的通したり、窓ガラスでは低い音が比較的遮断されるなど音の高さによって伝わり難さに違いがあるように」、物質によってだけではなく、振動数によって伝わりにくさが変わる。
全ての電気回路には、多少なりの抵抗が存在する。電線は電流そのままを伝導しない。どんな電線でも微小な抵抗が存在する。
人体における刺激の伝達回路における電線とはニューロンである。
フロイトは刺激という電流をそのままシステム全体に伝達するニューロンを「φ(ファイ)ニューロン」と呼んだ。これは刺激をそのまま他のニューロンに伝達するため「透過性ニューロン」とも呼ばれる。
一方、電線内部に抵抗が存在する、即ちインピーダンスが存在するニューロンを「ψ(プサイ)ニューロン」と呼んだ。これはつまり「非透過性ニューロン」と言える。これにおける抵抗即ちインピーダンスは「接触防壁」と呼ばれている。
物性物理を学んだ身からすると、φニューロンなどたとえば絶対零度に近い環境でしか存在しないのではないか、などと思ってしまうが、ここではフロイトのこの論を採用することにしよう。
わたしの理解では、微小ながら抵抗即ちインピーダンスは存在するが、システム構築する際の簡素化として、電線には抵抗が存在しないと考える方が有効である。これと同様に、物理的にはφニューロンにも微小ながらの抵抗即ちインピーダンスは存在するが、全体のシステムをモデリングする際に、インピーダンス即ち接触防壁が存在しないものとして考えるべき電線がφニューロンである、となる。要するに全てのニューロンは厳密にはψニューロンなのだが、インピーダンスがごく微小なものを便宜的にφニューロンと呼ぶ、ということである。
ここからキチガイの妄想的な私論になる。
全てのニューロンはインピーダンスが違っている。(電気)抵抗が違う、と言うと周波数によって阻害度合いが変わるという意味が含まれないため、以下インピーダンスと述べる。
wikipediaによる表現、「高い音を吸収するゴムでも低い音は比較的通したり、窓ガラスでは低い音が比較的遮断されるなど音の高さによって伝わり難さに違いがある」で言うならば、ゴムとしてのニューロンもあれば窓ガラスとしてのニューロンもある。また、伝達される音波即ち刺激の周波数によっても、伝わりにくさが違うのである。インピーダンスという概念はそういった意味を含意できる。
これは物理的な物質全てに言えることである。同じガラスでも色の違うガラスがある。同じゴムでも分子レベルで全く同一の物質を製造することは困難である。コンタミ問題などを考えればよいだろう。このことはニューロンにも適用される。物質によっても、音波によってもインピーダンスは変わる。ニューロンによっても、刺激によっても伝わり方が変わるのである。
しかしニューロンは成長過程において変成することができる。
たとえば、刺激のある帯域の周波数については伝わりにくくし、ある帯域の周波数については透過的にすることができる。
全てを全く同一性質のニューロンにすることは不可能であるが、ある程度類似した性質に変成することはできる。コンタミレベルが一定値以下の製品を同一品として出荷することができる。
ニューロンの多くをある程度類似した性質へと変成するには、ベンチマークが必要となる。バイパス・コンデンサにおけるグラウンドが必要となる。
人間という工場が生産するニューロンという既製品のベンチマークとはなんだろうか?
それがビオンの言う「養育者たる容器」であり、スターンの言う「間主観的自己感」であり、ラカンの言う「鏡像」である。人の成長においてこれを学ぶ過程が、ラカンの言う「鏡像段階」である。このベンチマークという水準によって作られた製品群(あるいはそのカタログ)が、ユングの言う「集合的無意識」であり、ラカンの言う「言語のように構造化された無意識」であり、超自我である。
そしてこのベンチマークは、あくまでただの水準であり、現実のものとして存在しないことを、幻想であることを強調したのがラカン論である。
要するに、ラカン論及びその他精神分析論に則れば、冒頭にリンクした会話における「メインCPU」など現実的に存在しない、となるのだ。
しかしそれを「ある」と確信しているのが神経症者、即ち正常という精神疾患なのである。厳密に言えば、現実にはないものを「ある」と確信しているせいで、それを疑ってしまった状態の苦痛が神経症という症状である。疑ってしまうのは当然なのである。現実にはないのだから。
そして、この現実にはないただのベンチマークを「ある」となかなか確信できずに、(脳を含めた)肉体だけ成長したのが自閉症者や統合失調症者やスキゾイドなどといった未去勢者である。
ちなみに、現実にはないベンチマークを「ある」とする過程は、たとえば自閉症者が幼児期において傾向的にしないと言われる「ごっこ遊び」に象徴されている、と言えるだろう。
先の会話でも書いた通り、フロイト論には二つの側面を仮設できる。即ち神経生理学的アプローチと精神医学的臨床によるアプローチと。
フロイト論は、ニューロンが変成して一個体の中で大体類似した性質になることについて、さまざまな(それこそ後の神経生理学などの)理屈を後付けできる。こういった見方をすれば先見性がある、という言い方もできる。しかし、人間という種において、他の種と比較して特別な刺激処理を、種全体として大体同様に行なっていることが説明できない。ψニューロンにおける備給の仕方が大体同様なことを説明できない。ユングはこの領域を論じたのである。フロイト論のある欠落をユングは補償しようとしたのである。
ガラスならば、分子レベルで多少の相違があろうとも、大体同じ物質性を示す。大体同じ音波帯域が伝わりにくい。これはニューロンにも言えることだろう。そういった意味での「メインCPU」は存在する。これはほとんど自然の理と等しいものである。
おそらくこの物質的な大体の同質性が禅問答で言う「獣にもある仏性」である。
しかし禅問答はこう言う。「獣と人間の違いは、その仏性に気づけるかどうかである」と。
多くの人間は、物質的な大体の同質性を自覚し、それを神経構造即ち精神構造の根拠にする。生後二年以内に生じる鏡像段階という過程において、乳児はニューロンの全体システムを、ひいては精神構造を養育者と同質化させる。
つまり、物質的な大体の同質性を根拠にし事後的にそれをさらに同質化する能力が、人間にはあるのだ。ユング風に言うならばこれは宗教的能力とも言えよう。
最初から存在するインピーダンス整合ではなく、事後的に操作されて生じるインピーダンス整合。
この宗教的能力、即ち事後的な同質化能力がたまたま欠けているのが未去勢者である。即ちわたしの語用におけるキチガイである。
そしてこの宗教的能力、即ち事後的な同質化能力は、ファシスムの原因でもある。
ここを論じずに、正常人とキチガイは同じ物質だ、と短絡化するのは危険である。「キチガイも同じ人間なのだから努力すれば正常人と同質化するはずだ」となる。「精神疾患は甘えである」などという時代錯誤的な思考に退化する。
こういった考え方は表向きなくなっているようだが、現代でも傾向的に残存している。アスペルガー症候群療育界隈ではしばしば言われていることである。この記事から。
=====
たまきんはおそらく無意識的に発達障害児に顔射している。アスペルガー症候群当事者によるこの文章を読んで、たまきんは自分が「発達障害者は支援科学の力によってどうにかできる相手(統御可能な相手)だと言っている」ことに気づくだろうか。気づかないんだろうな。「鈍感」なんだから。
=====
そう,〈彼ら〉と〈私たち〉との間に,決定的な隔たりなど存在しないのだ。
=====
ソウデスネ未去勢者トアナタタチ正常人ノ間ニ決定的ナ隔タリナド存在シナイワケデスカラ自閉症者ガ苦痛ヲ訴エテイルノハ自閉症者タチノ根性ガ健常者ヨリ足リナイカラトイウコトニナリマスヨネソウデスネ。
=====
物質にはさまざまな差異がある。どこにどのような差異があるかは現代でも未知の領域が多い。この未知を目の前にして、どの差異を取捨選択するかが倫理という作動である。
ミクロやマクロ問わず、さまざまな差異を放棄して、「大体同じだから同じでいいじゃない」などとする考え方は、倫理という作動の停止である。倫理の破壊である。
これがわたしの言う「危険」である。
現代ではこの倫理の破壊が倫理化している。倫理が劣化されている。
正常という精神疾患のせいで。
だからわたしは本気でこう主張している。
正常人は死ね。
あ? 酔っ払いの戯言よ。
原父殺害神話なんてフロイトという統合された事物としての人格を想定しないで、つまりそこだけ抜き出してフロイトだと知らずに読んだら、そこらの真性デムパブログにある文章そのまんまじゃん。
そういうこと。
ぼんやりとした頭。このぼんやりは思考の鈍磨なのだろうか。インピーダンスなのだろうか。
インピーダンスは低いように思える。即ち波動の浸透を阻害するものは低い気がする。
思考は波動的になる。粒子のように確定されない。従って、「言語化できる思考」は鈍磨していると言える。
「酔っ払っている時の方が頭の回転早くなんのさ」
そんなことをよく言っていた。
酔っ払って喋る言葉は、実際に言語化されているが、他人に伝えるという目的の度合いが低下している。この時「言語化できる思考」は鈍磨していると言える。つまり「言語化できる思考」という表現はあまり正しくなく、「他人に伝える目的の度合いが高い思考」が正確だ、ということだ。
粒子的な思考と波動的な思考。確定された思考と不確定性の強い思考。
両方とも思考である。
不確定性の強い思考は、言語化できないことはないが、困難である。できたとしても酔っ払いの戯言と言われる。
「インピーダンス」という言葉を使った。電気回路的表現を使った会話だったからか何も考えずに比喩的にそう述べた。この概念の意味するところは要するに「波動の浸透を阻害する度合い」である。wikipediaの説明をぱくった。
インピーダンスが高ければ波動の浸透はより阻害される。電気回路で考えると理解しにくいかもしれないが、(wikipediaで説明されている通り)音波の伝達のしにくさで考えるとわかりやすいだろう。
「高い音を吸収するゴムでも低い音は比較的通したり、窓ガラスでは低い音が比較的遮断されるなど音の高さによって伝わり難さに違いがあるように」、物質によってだけではなく、振動数によって伝わりにくさが変わる。
全ての電気回路には、多少なりの抵抗が存在する。電線は電流そのままを伝導しない。どんな電線でも微小な抵抗が存在する。
人体における刺激の伝達回路における電線とはニューロンである。
フロイトは刺激という電流をそのままシステム全体に伝達するニューロンを「φ(ファイ)ニューロン」と呼んだ。これは刺激をそのまま他のニューロンに伝達するため「透過性ニューロン」とも呼ばれる。
一方、電線内部に抵抗が存在する、即ちインピーダンスが存在するニューロンを「ψ(プサイ)ニューロン」と呼んだ。これはつまり「非透過性ニューロン」と言える。これにおける抵抗即ちインピーダンスは「接触防壁」と呼ばれている。
物性物理を学んだ身からすると、φニューロンなどたとえば絶対零度に近い環境でしか存在しないのではないか、などと思ってしまうが、ここではフロイトのこの論を採用することにしよう。
わたしの理解では、微小ながら抵抗即ちインピーダンスは存在するが、システム構築する際の簡素化として、電線には抵抗が存在しないと考える方が有効である。これと同様に、物理的にはφニューロンにも微小ながらの抵抗即ちインピーダンスは存在するが、全体のシステムをモデリングする際に、インピーダンス即ち接触防壁が存在しないものとして考えるべき電線がφニューロンである、となる。要するに全てのニューロンは厳密にはψニューロンなのだが、インピーダンスがごく微小なものを便宜的にφニューロンと呼ぶ、ということである。
ここからキチガイの妄想的な私論になる。
全てのニューロンはインピーダンスが違っている。(電気)抵抗が違う、と言うと周波数によって阻害度合いが変わるという意味が含まれないため、以下インピーダンスと述べる。
wikipediaによる表現、「高い音を吸収するゴムでも低い音は比較的通したり、窓ガラスでは低い音が比較的遮断されるなど音の高さによって伝わり難さに違いがある」で言うならば、ゴムとしてのニューロンもあれば窓ガラスとしてのニューロンもある。また、伝達される音波即ち刺激の周波数によっても、伝わりにくさが違うのである。インピーダンスという概念はそういった意味を含意できる。
これは物理的な物質全てに言えることである。同じガラスでも色の違うガラスがある。同じゴムでも分子レベルで全く同一の物質を製造することは困難である。コンタミ問題などを考えればよいだろう。このことはニューロンにも適用される。物質によっても、音波によってもインピーダンスは変わる。ニューロンによっても、刺激によっても伝わり方が変わるのである。
しかしニューロンは成長過程において変成することができる。
たとえば、刺激のある帯域の周波数については伝わりにくくし、ある帯域の周波数については透過的にすることができる。
全てを全く同一性質のニューロンにすることは不可能であるが、ある程度類似した性質に変成することはできる。コンタミレベルが一定値以下の製品を同一品として出荷することができる。
ニューロンの多くをある程度類似した性質へと変成するには、ベンチマークが必要となる。バイパス・コンデンサにおけるグラウンドが必要となる。
人間という工場が生産するニューロンという既製品のベンチマークとはなんだろうか?
それがビオンの言う「養育者たる容器」であり、スターンの言う「間主観的自己感」であり、ラカンの言う「鏡像」である。人の成長においてこれを学ぶ過程が、ラカンの言う「鏡像段階」である。このベンチマークという水準によって作られた製品群(あるいはそのカタログ)が、ユングの言う「集合的無意識」であり、ラカンの言う「言語のように構造化された無意識」であり、超自我である。
そしてこのベンチマークは、あくまでただの水準であり、現実のものとして存在しないことを、幻想であることを強調したのがラカン論である。
要するに、ラカン論及びその他精神分析論に則れば、冒頭にリンクした会話における「メインCPU」など現実的に存在しない、となるのだ。
しかしそれを「ある」と確信しているのが神経症者、即ち正常という精神疾患なのである。厳密に言えば、現実にはないものを「ある」と確信しているせいで、それを疑ってしまった状態の苦痛が神経症という症状である。疑ってしまうのは当然なのである。現実にはないのだから。
そして、この現実にはないただのベンチマークを「ある」となかなか確信できずに、(脳を含めた)肉体だけ成長したのが自閉症者や統合失調症者やスキゾイドなどといった未去勢者である。
ちなみに、現実にはないベンチマークを「ある」とする過程は、たとえば自閉症者が幼児期において傾向的にしないと言われる「ごっこ遊び」に象徴されている、と言えるだろう。
先の会話でも書いた通り、フロイト論には二つの側面を仮設できる。即ち神経生理学的アプローチと精神医学的臨床によるアプローチと。
フロイト論は、ニューロンが変成して一個体の中で大体類似した性質になることについて、さまざまな(それこそ後の神経生理学などの)理屈を後付けできる。こういった見方をすれば先見性がある、という言い方もできる。しかし、人間という種において、他の種と比較して特別な刺激処理を、種全体として大体同様に行なっていることが説明できない。ψニューロンにおける備給の仕方が大体同様なことを説明できない。ユングはこの領域を論じたのである。フロイト論のある欠落をユングは補償しようとしたのである。
ガラスならば、分子レベルで多少の相違があろうとも、大体同じ物質性を示す。大体同じ音波帯域が伝わりにくい。これはニューロンにも言えることだろう。そういった意味での「メインCPU」は存在する。これはほとんど自然の理と等しいものである。
おそらくこの物質的な大体の同質性が禅問答で言う「獣にもある仏性」である。
しかし禅問答はこう言う。「獣と人間の違いは、その仏性に気づけるかどうかである」と。
多くの人間は、物質的な大体の同質性を自覚し、それを神経構造即ち精神構造の根拠にする。生後二年以内に生じる鏡像段階という過程において、乳児はニューロンの全体システムを、ひいては精神構造を養育者と同質化させる。
つまり、物質的な大体の同質性を根拠にし事後的にそれをさらに同質化する能力が、人間にはあるのだ。ユング風に言うならばこれは宗教的能力とも言えよう。
最初から存在するインピーダンス整合ではなく、事後的に操作されて生じるインピーダンス整合。
この宗教的能力、即ち事後的な同質化能力がたまたま欠けているのが未去勢者である。即ちわたしの語用におけるキチガイである。
そしてこの宗教的能力、即ち事後的な同質化能力は、ファシスムの原因でもある。
ここを論じずに、正常人とキチガイは同じ物質だ、と短絡化するのは危険である。「キチガイも同じ人間なのだから努力すれば正常人と同質化するはずだ」となる。「精神疾患は甘えである」などという時代錯誤的な思考に退化する。
こういった考え方は表向きなくなっているようだが、現代でも傾向的に残存している。アスペルガー症候群療育界隈ではしばしば言われていることである。この記事から。
=====
たまきんはおそらく無意識的に発達障害児に顔射している。アスペルガー症候群当事者によるこの文章を読んで、たまきんは自分が「発達障害者は支援科学の力によってどうにかできる相手(統御可能な相手)だと言っている」ことに気づくだろうか。気づかないんだろうな。「鈍感」なんだから。
=====
そう,〈彼ら〉と〈私たち〉との間に,決定的な隔たりなど存在しないのだ。
=====
ソウデスネ未去勢者トアナタタチ正常人ノ間ニ決定的ナ隔タリナド存在シナイワケデスカラ自閉症者ガ苦痛ヲ訴エテイルノハ自閉症者タチノ根性ガ健常者ヨリ足リナイカラトイウコトニナリマスヨネソウデスネ。
=====
物質にはさまざまな差異がある。どこにどのような差異があるかは現代でも未知の領域が多い。この未知を目の前にして、どの差異を取捨選択するかが倫理という作動である。
ミクロやマクロ問わず、さまざまな差異を放棄して、「大体同じだから同じでいいじゃない」などとする考え方は、倫理という作動の停止である。倫理の破壊である。
これがわたしの言う「危険」である。
現代ではこの倫理の破壊が倫理化している。倫理が劣化されている。
正常という精神疾患のせいで。
だからわたしは本気でこう主張している。
正常人は死ね。
あ? 酔っ払いの戯言よ。
原父殺害神話なんてフロイトという統合された事物としての人格を想定しないで、つまりそこだけ抜き出してフロイトだと知らずに読んだら、そこらの真性デムパブログにある文章そのまんまじゃん。
そういうこと。