『あした』中島みゆき――性欲とは不快の共有である。
2009/04/23/Thu
すげえエロい夢を見た。
実際のセックスシーンはないのだが、セックスシーンをかき混ぜればいいエロ小説が書けるかもと思った。だけどこの「いい」はわたしにとってのであって、他人がそれを読んで性欲を惹起させるかどうかはわからない。
性欲の惹起は、不快の共有(ここのコメント欄参照)と似ている。
性欲らしきものを感じている肉体が、そのまま態度になったり言葉になったりして、それをヒントに性欲らしきものを感じていた瞬間の自分の肉体を呼び起こす。
凍えながら二人ともが二人分傷ついている
教えてよ
この二人の、少なくともこう歌う主人公の症状は、「二人いれば幸せは倍に、悲しみは半分に」という去勢済みな主体に特徴的な症状と反している。正常という精神疾患の症状に侵されていない。
この記事から。
=====
実体が言葉になる。欲動が「自然に彼の詩の中で赤裸々に語り出す」。
=====
大体の人間の態度や言葉はだめだ。赤裸々じゃない。
エロマンガ(同人誌含む)などいい線行っていると思うものもあるが、大体「こういう表現したら読者は興奮するだろう」という作法に則っているだけのものが多く、嘘臭い。ちなみにエロ小説はBL含めてほとんどだめだ。欲動の赤裸々度合いは全般的に言えばエロマンガの方が上だと言える。とはいえ松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』なんかはよかったな。あれはエロい。
しかし、あまりにも欲動が赤裸々に語りすぎると、それは不快と似ているため、商業的に成功しないと予測される。アルトーの言う通りだ。
=====
……人が存在の、また言語のウンコを掘り下げるとなれば、その詩は快適であろうはずがない。
=====
エロ作品然りである。
『アンチ・オイディプス』風に言うと、巷の大体のエロ作品は性欲という不快を共有させるための「強度」が足りない、ということであり、『ナチュラル・ウーマン』にはわたしは「強度」を感じた、ということである。ただし、「強度」が強すぎると不快と認知される可能性が高くなる。『ナチュラル・ウーマン』は「強度」はあるけれどもそれに対する多少の劣化も施されており、その劣化の仕方が、最低限の劣化で不快と認知される可能性を避けることを成功させている、と言える。
表象代理である限り「強度」の劣化は必ず伴う。この「強度」と表象代理である故必然的に生じる「強度」の劣化は、アウトサイダーアートと本来のアートの区分に関わってくる問題だろう。
性欲というより興奮だな。興奮という身体症状は不快と似ている。自分という「肉の本」をしっかり読めばそれがわかる。興奮という不快の一種が性欲、という言い方が正しいか。
笙野頼子『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』などは性欲とは言えない興奮を感じた。いぶきという登場人物の、備給先のない心的エネルギーに翻弄されている姿に不快を感じ、興奮した。
ある自閉症者が、グロ動画を見ている自分の姿をイラストに描いていたのだが、それにも興奮した。これは性欲に近い。おそらくそのキチガイは他人に性欲を惹起させるために描いたのではないだろうし、また誰かに自分のイラストひいては自分に性欲を覚えられるのに嫌悪を覚えるであろう。だけど言う。この時の不快あるいは興奮あるいは性欲は、「あーっ、こんなのさらしちゃだめよ、わたしみたいに性欲を覚える奴が出てくるでしょ」という箱入り娘に説教する母親のごとき感情となった。性欲を覚えている自分を他人が見ていると想定することで「恥ずかしい」という感情が惹起されたわけだ。正常人くせえ。精液くせえ。『だいにっほんシリーズ』における「火星人」が、盟友松浦をモデルにしているのならば、笙野も彼女の作品に似たような感情が惹起された故、あのような表現になったのかもしれない。
ちなみに笙野作品でも『なにもしてない』などはエロい。皮膚がひび割れる描写など。
大体わたしの言う「エロい」は一般的な「エロい」とずれていることが多い。同音異義語のようなものだ。あえて共通項を重視した言い方をすれば、正常人と比して倒錯的・アナルセックス的印象が強いエロだ。肛門欲動などといった部分欲動的なエロだ。中島みゆきの『仮面』の歌詞もエロい。メロディはエロくないが。『穴』という映画もエロい。グロ画像・動画はエロい。
このエロセンサーはキチガイセンサーと物質的構造は同じだが、検出する対象が違うだけである。そんな気がする。半導体がさまざまな用途に用いられるように。
わたしは箱入り娘(笑うとこ)だったから赤裸々にそれを「エロい」と言わず「キチガイ」と表現することが多い。それだけの話かもしれない。しかし「エロい」と「キチガイっぽさ」は別だ。グロとエロが同じなのは認めるが。「エログロ」が電場なら「キチガイっぽさ」は磁場だ。
この性欲は「わたし、潰すの、頭、フランシス」と身体反応として同種である。自分の身体反応においてそう思える。
わたし自身はまだキチガイと診断していないが(それほど観察していないため)、グロ画像を見ている自分のイラストを描いたキチガイがキチガイだと感じているらしい人のブログにこんな言葉があった。
=====
殺し合いで無いセックスは信用しない、
=====
多分この子もキチガイなんだろうな。あまりにも適切すぎる表現だ。
まあ要するにラカン論なら対象aですっぱり説明されてつまんねえ話なんだけどな。ここから引用する。
=====
アラブの太守のハーレムに独りの美女がいた。太守はその美女にストリップをさせた。一枚また一枚と着ているものを脱ぐよう、太守は美女に命じた。遂に美女が全裸になったとき、太守はさらにもう一枚脱がせるよう命じた。部下が刀を抜いて、太守の望みを充たすと、そこに残ったのは、もちろん血まみれの死体だった……。
(中略)
中沢はラカンを引用して自説を展開することもあるのだが、ラカンにとって、現実界は不可能なもの、で象徴界の亀裂としてある。その亀裂をふさぐ対象aは美しいものでもあるが、反転しておぞましいものにもなりうる。
=====
グロとエロは、不快即ちケガレ即ちアブジェと性欲は、表裏一体なんだよ。
イヤリングを外してきれいじゃなくなっても
まだわたしのことを見失ってしまわないでね
曖昧な笑み。無意味な笑み。
多くの人間は何故自分という「肉の本」を読めないのだろうか。読まないで済むのだろうか。
教えてよ。
この記事の補足。
ここで述べている「接触防壁」は、たとえばこの記事で述べている「接触防壁」とは違う。
物質一つ一つ(この「一つ」さえ恣意的なものだが)に不可避的に存在するインピーダンスが、フロイトが神経生理学の文脈で述べた「ψ(プサイ)ニューロン」における「接触防壁」であり、それらが事後的にインピーダンス整合を施された状態が、ビオンの言う「養育者たる容器」と親近する物自体的な「β要素」から保護されている原因たる「接触防壁」であり、わたしはこれらを別物と考えている。ラカン論の物自体的な現実界ではない想像界や象徴界は後者に相当する。広く使われている用語ならば超自我も後者である。当該記事中の言葉なら、前者のような事後的なインピーダンス整合が施されていない状態は「獣にもある仏性」だと言えよう。
「事後的」と述べたが、これは自然そのままに比べての事後であり、多くの人間にとってインピーダンス整合が施される過程は生後二年以内に生じる。スターンの言う「間主観的自己感」の形成期であり、クリステヴァの言う「想像的父たるアガペー」の降臨時期であり、クライン論の抑鬱態勢の時期に相当する。従って多くの人間にとってそれは事後的ではなく生得的なものとして感じられるであろう。
ψニューロンにおけるミクロな「接触防壁」と、それらが整合され統御されたものとしての「接触防壁」の違いであり、これらを比較すれば後者が事後的、二次的である、という話である。ここでは前者を「自然的な接触防壁」、後者を「二次的な接触防壁」と呼び区別しよう。
当該記事のコメント欄で「キチガイは高インピーダンスである」という要件を議論しているが、これについての判断はわたしは差し控えておく。一概にそう言っていいのかわからないのだ。たとえばある周波数帯域では高インピーダンスかもしれないが、別の周波数帯域では低インピーダンスかもしれない。高周波回路において高インピーダンスな部品は低周波回路においても高インピーダンスであるというわけではない。
「自然的な接触防壁」は正常人にも(わたし語用における)キチガイ(即ち未去勢者)にもある。人間という物質としておおまかな共通性はある。正常人とキチガイの決定的な差異は「二次的な接触防壁」にあり、この統御された「二次的な接触防壁」がない、あるいは壊れているのがキチガイである、という話である。わたしは「正常という精神疾患」という表現を好んで使っているが、二次的だから精神疾患なわけだ。
まあ交通整理みたいなつまらない文章だ。クリステヴァも交通整理している文章はつまらないもんな。いや整理されちゃったけどさ。この補足自体がインピーダンス整合(笑)。
もしもあしたわたしたちが何もかもをなくして
ただの心しか持たない痩せた猫になっても
もしもあしたあなたのためなんの得もなくても
言えるならその時 愛を聞かせて
ウチカゴってなんだと思ったらシカゴ大学か。
どうでもいいけどこの曲聞くとフィリピン人を連想してしまう。
『誘惑』の方が好きだ。
『あした』はわたしを無視している。
フィリピン人たちは「わたし」を裕福な日本人だと思っている。
「わたし」という嘘を素通りしていく。
『誘惑』の方が粘っこい(ここのコメント欄参照)。
『あした』も粘っこいが、粘っこさを昇華しようとしている。
新宮一成は「大学のディスクール」を「科学のディスクール」と読み替え、他者に位置する対象aを「自然」と表現した。この時能動者たる(自然科学の)学徒にとって「自然」は「ライナスの毛布」のごときものである。物自体的なモノであり同時に所有・把握可能なモノである。「モノの殺害」前後のモノが対象aだ。
だから対象aは物自体的なモノに一変する。ストリップをしている美女は皮膚を剥がれただの肉をさらけ出す。「イヤリングを外し」た彼女は「あした」「ただの心しか持たない痩せた猫」になるかもしれない。
だけどなっていない。なっていないのだ。「あした」なったとして「愛を聞かせて」と歌っているのだ。
『誘惑』の方が、皮を剥がれてもなお踊っている感じがする。いや、元々肉に癒着していない皮膚を纏って踊っている感じがする。
『あした』は皮を剥がされようとしている。『誘惑』は皮が未だ肉に癒着していない。ベクトルが逆なのだ。
悲しみは爪からやがて髪の先まで
天使たちの歌も忘れてしまう
あなた鍵を置いて
わたし髪を解いて
さみしかった さみしかった 夢の続きを始めましょう
彼女は「悲しみ」に「爪からやがて髪の先まで」侵された物自体的な肉体に即ち「β要素」に翻弄されている。不快の共有という幼稚で稚拙な共感能力しかない肉体に翻弄されている。「天使たちの歌」という「二次的な接触防壁」が癒着しきっていない「自然的な接触防壁」に翻弄されている。
彼女は「さみしかった」「夢の続き」を見ようとしている。「夢の続き」でさみしくなくなるのではなく、さみしいままの「夢の続き」を見たがっているように思える。
ロマンティックな話が けれど慣れてないから
黙りあって 黙りあって 寒い心は夜の中
悲しみをひとひらかじるごとに子供は
「悲しい」と言えない大人に育つ
彼女はまだ子供だ。未去勢的だ。皮膚が肉に癒着していないのだ。
彼女はまだ夜の中を生きている。
だからわたしは『あした』を正的な歌と感じた、のか。
しかしジジェクの映画評論は、ラカン論を読者にイメージを伴って理解させるために述べているのか、臨床の拡大版として述べているのか。映画ひいては芸術作品だってディスクールだかんね。小説なんかはわかりやすい。私小説ならなおさら。ラカン派じゃないけれど文学畑であるクリステヴァの仕事は非常に分析的だ。
もし後者のつもりで述べてるなら誰か注意してやんなよ。彼がやってるのは「分析家のディスクール」じゃなくて「大学のディスクール」だぜ? 映画という対象aを他者に置いている。映画という幻想に語りかけて「全ては幻想である」というS/を生産している。まあ「実際の臨床じゃねえもーん」なんて反論されたら「そうですねじゃあいいや」ってなるけれど。
前者ならお見事ですわ。「あんな判りやすいものは、ラカンではない」ばーいたまきん。あ、ちなみにこの論文の論旨には大体同意だけど、
=====
なぜ多くの「正統的」ラカニアンは、個別の事例を解釈せずに、えんえんとラカン理論の精読と注釈に腐心し続けているのか。
=====
についての反論になるかどうかしらんが「「正統的」ラカニアン」の言い分もリンクしておこう。
要するにわたしから見たらジジェクも「えんえんとラカン理論の」「注釈に腐心し続けている」ように見える、っつー話。少なくとも彼の映画評論は(文中の十川幸司言うところの)臨床とは言えない。
……へ、わたし? わたしのは「サバルタンのディスクール」です。いや別に「ヒステリー者のディスクール」でも構わんが。要するにどっちも「ほーれほれ、わたしを分析してみやがれこのインポ」ってことだしな。能動者のSにかかる斜線が綻んでいるかちゃんとあるかの違いだけで。後一応前者は何も生まないが後者はS2を生産するって違いがあんな。
わたしのディスクール何か生産してるかい? お前たちが現実と思っている幻想を壊しているだけだったりする?
……どっちでもええわ。
日本のラカン論を用いての評論が全く分析になっていないように思えるのはジジェク(の著作)のせいじゃないか、というキチガイの妄想です。「分析と評論は別物だ」とか反論されたら「そうですねじゃあいいや」ってなるけれど。
ジジェク派っつかこの界隈はほんとどうでもいいな。
つかたまきんさ、
=====
この国においてすら、ラカン的な言説そのもののインパクトは、すでに消費され飽きられつつあることを危惧しているからだ。
=====
他人が飽きようがどうでもいいじゃん。自分が飽きてなけりゃやればよい。それだけの話。みゆきの古い歌ばっか分析している(ようで実は「おらおらわたしを分析してみやがれ」なんだが)わたしはどうなるんだ。
必死でトレンド雑誌読んでおしゃれする中学生みたい。
本で読んだよー♪
おまいがまず(十川的な意味で)臨床してみろよ。「サルでもわかるラカン本」とか書いてるくせに何言ってんだか。おまいもジジェクも「えんえんとラカン理論の」「注釈に腐心し続けている」「「正統的」ラカニアン」となんも変わらんよ。
なんでこう自己愛型ひきこもり(たまきん言語なら「社会的ひきこもり」)タイプの人たちって社会的な他者ばっか気にすんだろ。って象徴的去勢は承認し想像的去勢は否認しているからですねそうですねじゃあいいや。
まにょまにょー♪
これも好きだったなー。確かに「きもわろす」だな(笑)。もっと言うなら「きもえろわろす」だけど。スケベイスだし。
ガラスならあなたの手の中で壊れたい
ナイフならあなたを傷つけながら折れてしまいたい
これ書きながら泣きかけているわたしを分析してみろよ。
ガラスに、ナイフに映るあなたが分析してください。
追記。
科学のディスクールにおける対象aという他者。おぞましい物自体的なモノであり、癒される所有・把握可能なモノである対象a。
おぞましい対象aが他者となった作品ってまさに『CSIシリーズ』だよなあ、と思った。科学が死体に語りかけている。グロ画像・動画収集家が感心するほどの特撮技術でつくりあげた死体に。
死蝋は美しかったよ。うん。
実際のセックスシーンはないのだが、セックスシーンをかき混ぜればいいエロ小説が書けるかもと思った。だけどこの「いい」はわたしにとってのであって、他人がそれを読んで性欲を惹起させるかどうかはわからない。
性欲の惹起は、不快の共有(ここのコメント欄参照)と似ている。
性欲らしきものを感じている肉体が、そのまま態度になったり言葉になったりして、それをヒントに性欲らしきものを感じていた瞬間の自分の肉体を呼び起こす。
凍えながら二人ともが二人分傷ついている
教えてよ
この二人の、少なくともこう歌う主人公の症状は、「二人いれば幸せは倍に、悲しみは半分に」という去勢済みな主体に特徴的な症状と反している。正常という精神疾患の症状に侵されていない。
この記事から。
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実体が言葉になる。欲動が「自然に彼の詩の中で赤裸々に語り出す」。
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大体の人間の態度や言葉はだめだ。赤裸々じゃない。
エロマンガ(同人誌含む)などいい線行っていると思うものもあるが、大体「こういう表現したら読者は興奮するだろう」という作法に則っているだけのものが多く、嘘臭い。ちなみにエロ小説はBL含めてほとんどだめだ。欲動の赤裸々度合いは全般的に言えばエロマンガの方が上だと言える。とはいえ松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』なんかはよかったな。あれはエロい。
しかし、あまりにも欲動が赤裸々に語りすぎると、それは不快と似ているため、商業的に成功しないと予測される。アルトーの言う通りだ。
=====
……人が存在の、また言語のウンコを掘り下げるとなれば、その詩は快適であろうはずがない。
=====
エロ作品然りである。
『アンチ・オイディプス』風に言うと、巷の大体のエロ作品は性欲という不快を共有させるための「強度」が足りない、ということであり、『ナチュラル・ウーマン』にはわたしは「強度」を感じた、ということである。ただし、「強度」が強すぎると不快と認知される可能性が高くなる。『ナチュラル・ウーマン』は「強度」はあるけれどもそれに対する多少の劣化も施されており、その劣化の仕方が、最低限の劣化で不快と認知される可能性を避けることを成功させている、と言える。
表象代理である限り「強度」の劣化は必ず伴う。この「強度」と表象代理である故必然的に生じる「強度」の劣化は、アウトサイダーアートと本来のアートの区分に関わってくる問題だろう。
性欲というより興奮だな。興奮という身体症状は不快と似ている。自分という「肉の本」をしっかり読めばそれがわかる。興奮という不快の一種が性欲、という言い方が正しいか。
笙野頼子『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』などは性欲とは言えない興奮を感じた。いぶきという登場人物の、備給先のない心的エネルギーに翻弄されている姿に不快を感じ、興奮した。
ある自閉症者が、グロ動画を見ている自分の姿をイラストに描いていたのだが、それにも興奮した。これは性欲に近い。おそらくそのキチガイは他人に性欲を惹起させるために描いたのではないだろうし、また誰かに自分のイラストひいては自分に性欲を覚えられるのに嫌悪を覚えるであろう。だけど言う。この時の不快あるいは興奮あるいは性欲は、「あーっ、こんなのさらしちゃだめよ、わたしみたいに性欲を覚える奴が出てくるでしょ」という箱入り娘に説教する母親のごとき感情となった。性欲を覚えている自分を他人が見ていると想定することで「恥ずかしい」という感情が惹起されたわけだ。正常人くせえ。精液くせえ。『だいにっほんシリーズ』における「火星人」が、盟友松浦をモデルにしているのならば、笙野も彼女の作品に似たような感情が惹起された故、あのような表現になったのかもしれない。
ちなみに笙野作品でも『なにもしてない』などはエロい。皮膚がひび割れる描写など。
大体わたしの言う「エロい」は一般的な「エロい」とずれていることが多い。同音異義語のようなものだ。あえて共通項を重視した言い方をすれば、正常人と比して倒錯的・アナルセックス的印象が強いエロだ。肛門欲動などといった部分欲動的なエロだ。中島みゆきの『仮面』の歌詞もエロい。メロディはエロくないが。『穴』という映画もエロい。グロ画像・動画はエロい。
このエロセンサーはキチガイセンサーと物質的構造は同じだが、検出する対象が違うだけである。そんな気がする。半導体がさまざまな用途に用いられるように。
わたしは箱入り娘(笑うとこ)だったから赤裸々にそれを「エロい」と言わず「キチガイ」と表現することが多い。それだけの話かもしれない。しかし「エロい」と「キチガイっぽさ」は別だ。グロとエロが同じなのは認めるが。「エログロ」が電場なら「キチガイっぽさ」は磁場だ。
この性欲は「わたし、潰すの、頭、フランシス」と身体反応として同種である。自分の身体反応においてそう思える。
わたし自身はまだキチガイと診断していないが(それほど観察していないため)、グロ画像を見ている自分のイラストを描いたキチガイがキチガイだと感じているらしい人のブログにこんな言葉があった。
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殺し合いで無いセックスは信用しない、
=====
多分この子もキチガイなんだろうな。あまりにも適切すぎる表現だ。
まあ要するにラカン論なら対象aですっぱり説明されてつまんねえ話なんだけどな。ここから引用する。
=====
アラブの太守のハーレムに独りの美女がいた。太守はその美女にストリップをさせた。一枚また一枚と着ているものを脱ぐよう、太守は美女に命じた。遂に美女が全裸になったとき、太守はさらにもう一枚脱がせるよう命じた。部下が刀を抜いて、太守の望みを充たすと、そこに残ったのは、もちろん血まみれの死体だった……。
(中略)
中沢はラカンを引用して自説を展開することもあるのだが、ラカンにとって、現実界は不可能なもの、で象徴界の亀裂としてある。その亀裂をふさぐ対象aは美しいものでもあるが、反転しておぞましいものにもなりうる。
=====
グロとエロは、不快即ちケガレ即ちアブジェと性欲は、表裏一体なんだよ。
イヤリングを外してきれいじゃなくなっても
まだわたしのことを見失ってしまわないでね
曖昧な笑み。無意味な笑み。
多くの人間は何故自分という「肉の本」を読めないのだろうか。読まないで済むのだろうか。
教えてよ。
この記事の補足。
ここで述べている「接触防壁」は、たとえばこの記事で述べている「接触防壁」とは違う。
物質一つ一つ(この「一つ」さえ恣意的なものだが)に不可避的に存在するインピーダンスが、フロイトが神経生理学の文脈で述べた「ψ(プサイ)ニューロン」における「接触防壁」であり、それらが事後的にインピーダンス整合を施された状態が、ビオンの言う「養育者たる容器」と親近する物自体的な「β要素」から保護されている原因たる「接触防壁」であり、わたしはこれらを別物と考えている。ラカン論の物自体的な現実界ではない想像界や象徴界は後者に相当する。広く使われている用語ならば超自我も後者である。当該記事中の言葉なら、前者のような事後的なインピーダンス整合が施されていない状態は「獣にもある仏性」だと言えよう。
「事後的」と述べたが、これは自然そのままに比べての事後であり、多くの人間にとってインピーダンス整合が施される過程は生後二年以内に生じる。スターンの言う「間主観的自己感」の形成期であり、クリステヴァの言う「想像的父たるアガペー」の降臨時期であり、クライン論の抑鬱態勢の時期に相当する。従って多くの人間にとってそれは事後的ではなく生得的なものとして感じられるであろう。
ψニューロンにおけるミクロな「接触防壁」と、それらが整合され統御されたものとしての「接触防壁」の違いであり、これらを比較すれば後者が事後的、二次的である、という話である。ここでは前者を「自然的な接触防壁」、後者を「二次的な接触防壁」と呼び区別しよう。
当該記事のコメント欄で「キチガイは高インピーダンスである」という要件を議論しているが、これについての判断はわたしは差し控えておく。一概にそう言っていいのかわからないのだ。たとえばある周波数帯域では高インピーダンスかもしれないが、別の周波数帯域では低インピーダンスかもしれない。高周波回路において高インピーダンスな部品は低周波回路においても高インピーダンスであるというわけではない。
「自然的な接触防壁」は正常人にも(わたし語用における)キチガイ(即ち未去勢者)にもある。人間という物質としておおまかな共通性はある。正常人とキチガイの決定的な差異は「二次的な接触防壁」にあり、この統御された「二次的な接触防壁」がない、あるいは壊れているのがキチガイである、という話である。わたしは「正常という精神疾患」という表現を好んで使っているが、二次的だから精神疾患なわけだ。
まあ交通整理みたいなつまらない文章だ。クリステヴァも交通整理している文章はつまらないもんな。いや整理されちゃったけどさ。この補足自体がインピーダンス整合(笑)。
もしもあしたわたしたちが何もかもをなくして
ただの心しか持たない痩せた猫になっても
もしもあしたあなたのためなんの得もなくても
言えるならその時 愛を聞かせて
ウチカゴってなんだと思ったらシカゴ大学か。
どうでもいいけどこの曲聞くとフィリピン人を連想してしまう。
『誘惑』の方が好きだ。
『あした』はわたしを無視している。
フィリピン人たちは「わたし」を裕福な日本人だと思っている。
「わたし」という嘘を素通りしていく。
『誘惑』の方が粘っこい(ここのコメント欄参照)。
『あした』も粘っこいが、粘っこさを昇華しようとしている。
新宮一成は「大学のディスクール」を「科学のディスクール」と読み替え、他者に位置する対象aを「自然」と表現した。この時能動者たる(自然科学の)学徒にとって「自然」は「ライナスの毛布」のごときものである。物自体的なモノであり同時に所有・把握可能なモノである。「モノの殺害」前後のモノが対象aだ。
だから対象aは物自体的なモノに一変する。ストリップをしている美女は皮膚を剥がれただの肉をさらけ出す。「イヤリングを外し」た彼女は「あした」「ただの心しか持たない痩せた猫」になるかもしれない。
だけどなっていない。なっていないのだ。「あした」なったとして「愛を聞かせて」と歌っているのだ。
『誘惑』の方が、皮を剥がれてもなお踊っている感じがする。いや、元々肉に癒着していない皮膚を纏って踊っている感じがする。
『あした』は皮を剥がされようとしている。『誘惑』は皮が未だ肉に癒着していない。ベクトルが逆なのだ。
悲しみは爪からやがて髪の先まで
天使たちの歌も忘れてしまう
あなた鍵を置いて
わたし髪を解いて
さみしかった さみしかった 夢の続きを始めましょう
彼女は「悲しみ」に「爪からやがて髪の先まで」侵された物自体的な肉体に即ち「β要素」に翻弄されている。不快の共有という幼稚で稚拙な共感能力しかない肉体に翻弄されている。「天使たちの歌」という「二次的な接触防壁」が癒着しきっていない「自然的な接触防壁」に翻弄されている。
彼女は「さみしかった」「夢の続き」を見ようとしている。「夢の続き」でさみしくなくなるのではなく、さみしいままの「夢の続き」を見たがっているように思える。
ロマンティックな話が けれど慣れてないから
黙りあって 黙りあって 寒い心は夜の中
悲しみをひとひらかじるごとに子供は
「悲しい」と言えない大人に育つ
彼女はまだ子供だ。未去勢的だ。皮膚が肉に癒着していないのだ。
彼女はまだ夜の中を生きている。
だからわたしは『あした』を正的な歌と感じた、のか。
しかしジジェクの映画評論は、ラカン論を読者にイメージを伴って理解させるために述べているのか、臨床の拡大版として述べているのか。映画ひいては芸術作品だってディスクールだかんね。小説なんかはわかりやすい。私小説ならなおさら。ラカン派じゃないけれど文学畑であるクリステヴァの仕事は非常に分析的だ。
もし後者のつもりで述べてるなら誰か注意してやんなよ。彼がやってるのは「分析家のディスクール」じゃなくて「大学のディスクール」だぜ? 映画という対象aを他者に置いている。映画という幻想に語りかけて「全ては幻想である」というS/を生産している。まあ「実際の臨床じゃねえもーん」なんて反論されたら「そうですねじゃあいいや」ってなるけれど。
前者ならお見事ですわ。「あんな判りやすいものは、ラカンではない」ばーいたまきん。あ、ちなみにこの論文の論旨には大体同意だけど、
=====
なぜ多くの「正統的」ラカニアンは、個別の事例を解釈せずに、えんえんとラカン理論の精読と注釈に腐心し続けているのか。
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についての反論になるかどうかしらんが「「正統的」ラカニアン」の言い分もリンクしておこう。
要するにわたしから見たらジジェクも「えんえんとラカン理論の」「注釈に腐心し続けている」ように見える、っつー話。少なくとも彼の映画評論は(文中の十川幸司言うところの)臨床とは言えない。
……へ、わたし? わたしのは「サバルタンのディスクール」です。いや別に「ヒステリー者のディスクール」でも構わんが。要するにどっちも「ほーれほれ、わたしを分析してみやがれこのインポ」ってことだしな。能動者のSにかかる斜線が綻んでいるかちゃんとあるかの違いだけで。後一応前者は何も生まないが後者はS2を生産するって違いがあんな。
わたしのディスクール何か生産してるかい? お前たちが現実と思っている幻想を壊しているだけだったりする?
……どっちでもええわ。
日本のラカン論を用いての評論が全く分析になっていないように思えるのはジジェク(の著作)のせいじゃないか、というキチガイの妄想です。「分析と評論は別物だ」とか反論されたら「そうですねじゃあいいや」ってなるけれど。
ジジェク派っつかこの界隈はほんとどうでもいいな。
つかたまきんさ、
=====
この国においてすら、ラカン的な言説そのもののインパクトは、すでに消費され飽きられつつあることを危惧しているからだ。
=====
他人が飽きようがどうでもいいじゃん。自分が飽きてなけりゃやればよい。それだけの話。みゆきの古い歌ばっか分析している(ようで実は「おらおらわたしを分析してみやがれ」なんだが)わたしはどうなるんだ。
必死でトレンド雑誌読んでおしゃれする中学生みたい。
本で読んだよー♪
おまいがまず(十川的な意味で)臨床してみろよ。「サルでもわかるラカン本」とか書いてるくせに何言ってんだか。おまいもジジェクも「えんえんとラカン理論の」「注釈に腐心し続けている」「「正統的」ラカニアン」となんも変わらんよ。
なんでこう自己愛型ひきこもり(たまきん言語なら「社会的ひきこもり」)タイプの人たちって社会的な他者ばっか気にすんだろ。って象徴的去勢は承認し想像的去勢は否認しているからですねそうですねじゃあいいや。
まにょまにょー♪
これも好きだったなー。確かに「きもわろす」だな(笑)。もっと言うなら「きもえろわろす」だけど。スケベイスだし。
ガラスならあなたの手の中で壊れたい
ナイフならあなたを傷つけながら折れてしまいたい
これ書きながら泣きかけているわたしを分析してみろよ。
ガラスに、ナイフに映るあなたが分析してください。
追記。
科学のディスクールにおける対象aという他者。おぞましい物自体的なモノであり、癒される所有・把握可能なモノである対象a。
おぞましい対象aが他者となった作品ってまさに『CSIシリーズ』だよなあ、と思った。科学が死体に語りかけている。グロ画像・動画収集家が感心するほどの特撮技術でつくりあげた死体に。
死蝋は美しかったよ。うん。