「女」という言葉
2007/01/22/Mon
精神分析は女性の評判が悪い。それもそうだ。フロイトから始まる男根主義的な考えが敬遠されているのだ。フロイト論を推し進めたラカンなどは「女は存在しない」とまで言っている。しかし、だからといって遠ざけるのももったいない知ではあると思う。
男根主義的な考えになる原因はなんであろう。やはり「去勢」などといった概念が問題か。しかし極まるのは女の幼児が持っているとされる「ペニス羨望」だろう。「去勢」にしても「ペニス羨望」にしても幼児期に起こる心の動きだ。精神分析では大人になっても、幼い頃のトラウマが精神活動に影響しているとする。「精神分析学は全ての精神病理を幼児期に求める」などという揶揄もあるが、人間意外と子供の頃の精神的影響は大人になっても残るものと私は思う。日本語には上手い言い回しがあるではないか。「三つ子の魂百まで」。
ともかく、女性に悪評高いこの「去勢」「ペニス羨望」などという概念はどのようなものか、今回は自分の思考のまとめがてらたらたらそれを垂れ流してみようと思う。
生まれたばかりの赤ん坊は、自分の性には気づいてないだろう。彼にあるのは、「求めるだけ与えられる」母親の胎内にいた頃の記憶と、出産時に感じた恐怖、不安であろう。母親から母乳が与えられる時間は、母親の胎内を思い出させるものだ。
母乳に限らず、赤ん坊の周りで起こる出来事は、赤ん坊にとってはわけのわからないことばかりだ。赤ん坊はそれらを頭の中で処理しなければならない。赤ん坊が行う処理とは、ごく単純な象徴化、つまり全ての心の動きを「快/不快」という二項のどちらかにあてはめるというものだ。例えば母乳については、母乳が与えられることを「快」とし、与えられないことを「不快」とする。「快/不快」という単純なものから、成長するにつれ感情は複雑化していくのだ。しかし先に述べたように、赤ん坊の内面が単純だから「快/不快」という二項になるのではなく、内面は矛盾にとんだ複雑なものではあるけれど、それを処理する象徴化能力が単純だから「快/不快」という二項でしか処理できない、ということに注意しておいて欲しい。
この「快/不快」は、「母乳が与えられる/与えられない」以外にも、様々な事柄を象徴する。多義性があるわけだ。「プラス/マイナス」と言い換えてもよい。少し例を挙げてみよう。
母乳に近い事柄であるが、「母親がそこにいる/いない」。赤ん坊にとって不在は死を意味するので、「在/不在」=「生/死」と言ってもいいだろう。他には「思い通りに動く/動かない」。前者の条件を満たすのは自分の体だ。だから幼児は鏡に映る自分の姿を見て喜ぶのだ。
また、幼児が持つ母親への愛情とは、母親の胎内にいた頃のような、まさしく同一化を求めるものに近い。その幻想を生後の世界でも繋げていたのが乳房である。しかし胎内にいた頃と違い、求めても与えられないことが現実世界には起こる。「不快」を感じる。幼児は母親という一人の人間に「快/不快」を見てとっているのである。これをメラニー・クラインは「良い乳房/悪い乳房」と表現している。
このように、赤ん坊は自分の周りの様々な出来事を「快/不快」の二項に集約、つまり二項を象徴化させる。内面のリアクションとして、その出来事をこのどちらかにあてはめようとするのだ。まあ、生後しばらくすると日常的な出来事になどは「興味を持たない」という選択肢も生まれるだろうが。これは赤ん坊は視力聴力とも未発達なので、意識がその出来事に向かない限り、その出来事は認知されにくいのである。人間の赤ん坊は、他の動物と比べ未発達な状態、即ち早産で生まれてくるのだ。
先に、「快/不快」の一つの例に、「在/不在」を挙げた。これは「有/無」に近いものだ。
赤ん坊は成長し、幼児になり、やがて己の解剖学的性差に気づくであろう。つまり、自分の周りにいる人間は、「ペニスがある/ない」の違いで、二種類に分けられていることに気づくわけだ。そして、自分さえそのどちらかに含まれていることも。それまでは、男女関係無く、彼らは(精神的に)等しく「幼児」であったのだ。
ここからは、その幼児が男の子だとして話を進めよう。これは男根中心主義というわけではなく、男性の方がその心理的成長が単純に表記できるからだ。女性の成長は曖昧で複雑なので、シンプルな男性幼児の成長モデルと照らし合わせて説明されるのが合理的である。なので、女性幼児の説明を後回しにする。
男性幼児は、母親との解剖学的違いに気づく。ペニスだ。股間に、何かの物体が「ついている/ついていない」という現象に気づくのだ。これは単純に換喩するなら「有/無」であり、従って、「ついている=快/ついていない=不快」という象徴化に落ち着く「はず」である。
しかし、先に述べたように、この頃の幼児が持っている母親への愛情とは同一化的なものである。その母親にはペニスが「ついていない」。自分には「ついている」。この時男性幼児はどういう心境なのだろう。ついていない母親を可哀想と思うだろうか。違うだろう。よく考えてみよう。この時の幼児の母親に対する愛情とは「同一化的」なものである。男の子は、母親と同一化することで、自分のペニスが無くなってしまうのではないか、という不安を感じるのだ。
また、幼児はこの頃には父親という存在も認識しているであろう。父親という二番目の他者は、幼児にとってはもちろん「快」なものである。しかし母乳を与えてくれる母親と比べるなら、その愛情は「母親>父親」である。だが、自分の中で母親と父親が対立した場合はどうなるだろう。二者択一しなければならない場合だ。この時、男性幼児の内面において、「母親=快/父親=不快」という象徴化になるのは当然のことと言える。
男性幼児は、「ペニスがついている/ついていない」という二項を眼前につきつけられた。単純に象徴化するなら「ついている=有=快/ついていない=無=不快」となるはずだが、自身が大きな愛情を注ぐ母親にはペニスが「ついていない」。父親には「ついている」。母親と同一化しようとしている自分にも「ついている」。幼児は父親と母親の二者択一をせまられる。愛情の度合いから判断して、「母親=快/父親=不快」という象徴化が行われる。しかしその象徴化には、母親と同じようにいつかはペニスが無くなってしまうのではないかという不安が伴う。この不安を「去勢不安」という。不安は不快なものである。よってこの「去勢不安」は同じ不快な存在である父親に付託される。「父親によって去勢されるのではないか」という「去勢不安」になるのだ。この「母親=快/父親=不快」という象徴化と、父親に付託された「去勢不安」が、エディプスコンプレックスの構成要件である。
同時にこの頃にはもう一つ重要なイベントが幼児を待ち受けている。「言葉の世界への参入」である。
言葉とは、象徴化という処理を複雑に行うことが可能になる道具である。この頃にはいくつかの単語は覚えているだろうが、「複雑な象徴化のための道具」という視点なら、文法などといった言語構造を把握することが重要になるだろう。
エディプスコンプレックスの幼児は、言語を、そして言語構造を覚える。「複雑な象徴化のための道具」を手に入れる。ここで、単純な二項化である「母親=快/父親=不快」という象徴化は終わる。男性幼児は、象徴化の道具である言葉を手に入れることにより、「去勢」されるのだ。この言葉の世界への参入を、ラカン論では「象徴界への参入」と呼ぶ。また、「去勢」とはもっと広範囲のものを指す場合もあるので、この最初の「去勢」を「原抑圧」と呼ぶこともある。男性幼児は、「去勢」により、エディプスコンプレックスを終えるのだ。
ここで注意しておきたいのは、「去勢不安」は、明確な論理で解消されていないことである。幼児にしてみれば、父親から「去勢しない」という確約を得たわけではない。この不安は、二項化という単純な象徴化により成り立っていた自分の内的世界そのものが、言葉という道具を手に入れることで消失し、それにより解消されているのだ。
二項化の世界で恐れていた父親は、その世界が消失することで、永遠になったのだ。ラカンはこれらのことを「父の名において去勢される」と表現している。この「父の名」は、男性にとって永遠となり、トラウマのように男性の無意識に潜むことになる。またそれは、消失した世界のものであるから、永遠に手に入らない「シニフィアン」(シニフィアンとは、言葉においてそれを指し示す記号のことである。例えば「海」なら、「海」という文字や音声がシニフィアンとなる。ちなみに「海」の意味内容は、シニフィエと呼ぶ。こちらを参照されたし)でもあるのだ。
ついでに、ラカン精神分析論の用語説明をここで少ししておこう。
幼児が感じる「快」の原点とはなんだろうか。それは母親の胎内にいた頃の「求めるだけ与えられる」という感覚である。それは「全能感」と表現してもいいだろう。欲するものは何でも叶えられる(幼児にとっての「何でも」は大人のそれと比べ限られているが)という感覚だ。これを「ファルス」と呼ぶ。これは具体的には、「快」繋がりで「ペニス」に換喩される。想像的ファルス=ペニスと考えてよい(記号は「φ」)。ここでの「想像的」とは、象徴化ではない、イメージ化という意味ぐらいに考えて欲しい。
また、成長後このファルスは象徴化される。それは、消失した二項化の世界における抑圧者「父の名」がもたらすものであり、象徴界への参入後永遠に手に入らないシニフィアンに象徴化されるのだ。永遠に手に入らない象徴的ファルスとは、「父の名」というシニフィアンと表裏一体のものである。これを記号化するならば、象徴的ファルスは「Φ」、永遠に手に入らないシニフィアンは「S1」であり、正常な成人男性の場合はΦ=S1となる。また、このファルスは去勢後も男性に存在する。去勢されたとはいえ全能感は諦めきれない。なのでファルスは「去勢痕」などと説明されることもある。この「(ファルスは)あるけどない」というような一見論理的に矛盾しているような内面は、男性も女性も同じである。
失われた二項化の世界は、「象徴界から抹消された主体」として、「/S」(この斜線(barre)はSの上にかかっているものと思って欲しい。フォントがない)と表される。
S1はその他のシニフィアンに暗喩的作用を施す。男性の言語はトラウマ的にS1から逃れられないのだ。しかし/Sにはその作用が届かない。先に書いた矛盾をラカンはこう表現する。「あるx(=/S)に対してΦの作用が及ばない」かつ「全てのx(=シニフィアン)にΦの作用が及んでいる」のが男性性であると。
なんか小難しいこと言っているようだが、その表出はたくさん身の回りにある。例えば少年漫画によくある、「究極の強さを手に入れたい」などというのは、男性の、そこには存在しない象徴的ファルスに対する志向を暗喩しているのだ。
――さて。
以上で男性幼児の原抑圧までを説明したわけが、次は女性幼児の内面を見ていこう。
男女の解剖学的差異に気づくまでは男性幼児と同じだ。即ち「ペニスがついている/ついていない」に気づくまでは。それまでは男女とも性差無く「幼児」である。従って、「ペニスが有る=快/無い=不快」と象徴化するまでも同じである。これが、精神分析のいう女性の「ペニス羨望」の起源である。
ペニスの有る無いに気づくからには、男性他者がその女性幼児の世界にいることになる。父親でも兄弟でも何でもいい。父親が一番可能性が高いだろうか。女性幼児もこの頃は母親へ同一化的な愛情を注いでいる。母親は父親を愛している。つまりもっとも印象的で起源的な男性他者は父親であると言って構わないだろう。
母親は「ついていない」。母親と同一化したい自分も「ついていない」。父親には「ついている」。女性幼児にとって、ペニスの有る無しは男性幼児のように母親との同一化を阻害する要因とはならないが、自らと同一化の対象である母親が「不快」なものに象徴化されてしまう。なので女性幼児は「いつかは自分にもペニスが生えてくる」というような、「ペニス羨望」の一つと言える感情を覚える。「いつかは自分にもペニスが生えてくる」と思うことで、父親と母親双方に愛情を注ぐことができる。とはいってもこの時には愛情の度合いは「母親>父親」であろう。同時期男性幼児は「去勢不安」を感じているが、女性幼児は母親に対して、幼い自分と同じく「ペニスがついていない」ことについて同情にも似たような感情を、その愛情の中に覚えているかもしれない。
やがて、女性幼児も言語を覚える。「象徴界への参入」「去勢」「原抑圧」が訪れる。女性幼児は男性幼児のような「去勢不安」を持っていない。なので「去勢」や「抑圧」という言葉は少し不適格かもしれない。このことを「女性は去勢が行われない」という言い方をする人もいる。
男性幼児にとっては、「去勢不安」を解消する「複雑な象徴化のための道具」である言語であったが、女性幼児にとってはそれはただの「象徴化するのに便利な道具」である。しかし、その便利な道具によって彼女は拘束されることになる。即ち、自分は母親と同じ「女性」という存在であり、母親と同じく「ペニスは生えてこない」ことに気づかされるわけだ。
男性幼児にとって、ペニスのついていない母親が永遠に手に入らない対象であるように、女性幼児にとって、ペニスは永遠に手に入らないことが、「象徴界への参入」によって気づかされるのだ。これにより女性幼児の内面でペニスの価値が上がる。ここで、愛情の度合いが、「母親>父親」から「ペニスの無い母親<ペニスが有る父親」に逆転する。しかしこの時点で女性幼児は言語という「複雑な象徴化を可能にせしめる道具」を手に入れている。二項化に集約することはない。とはいっても二項化の世界の名残はあるだろう。男性幼児にとって、その世界は去勢不安を解消するために抹消するものであるが、女性幼児に不安はない。女性幼児は緩やかにそれを忘れていくのだ。女性幼児にとっての母親への愛情が、同情や、近親憎悪に似た感覚に取って代わられ、二項的な「父親=快/母親=不快」に近い感情になることもありえる。
女性幼児にとってのエディプスコンプレックス(エレクトラコンプレックス)とは、「ペニス羨望」により愛情の度合いが「母親<父親」または「父親=快/母親=不快」となることである、と言える。また、男性幼児のエディプスコンプレックスは「象徴界への参入」(=「去勢」「原抑圧」)によって終焉するが、女性幼児は「象徴界への参入」によりエディプスコンプレックス(エレクトラコンプレックス)が開始される、と言うこともできる。
これで女性幼児の原抑圧までを説明したことになるが、感覚的に何か曖昧さを覚えないだろうか? 男性幼児の説明を先にして具体性を伴わせたにも関わらず、女性幼児の説明にはいろいろ不確定な要素があるように思える。
そう、女性の性の決定は、男性のそれと比べて曖昧に進むのである。
女性は自らの性について、原抑圧以降も、このような曖昧さに身を委ねなければならない。
その「女性」と言うシニフィアンすらも、先に述べたように、言語の世界の他者=象徴界の他者=大文字の他者によって与えられたものである。男性は同一化したい母親との間にペニスという「差異」があるからこそ、去勢不安を乗り越え、その性は自らのものという自負が生まれる。女性にはそれがない。
男性にとって女性というのは謎であるように、女性にとっても女性性というのは曖昧であり、謎なのだ。女性が自らの性を振り返る時、大文字の他者の海を漂っているような感覚を覚えるのである。女性が「女性」というシニフィアンを生きることは、相対化された世界=象徴的ファルスのない象徴界を生きることでもある。
だから、女性は、男性のモラトリアムが理解できない。多様化=相対化された選択肢を前にして、能動的たらんとして受動的にしかなれないことが引き起こすニヒリズム、アイロニズムが理解できない。「女性」というシニフィアンそのものが与えられたもの、即ち「女性」として生きること自体が受動的であるからだ。また、男性の、真理などといった絶対的なものに拘る本能的希求が理解できない。精神分析を学んで初めて、それは去勢というトラウマ的なものが無意識的にそうさせていると理解できるのだ。
「女性」というシニフィアンは他者から与えられると書いた。それを「/La」という記号で表す。斜線(欠如を意味する)が引かれていることからわかるように、女性にとって象徴的ファルスはその内部にはない。よってこのシニフィアンはS1(男性にとってのΦ)ではなく、S2というS1から連鎖したシニフィアンの中にあることになる。しかし男性が知という道具を用いてΦを求めるように、女性も知を用いて「自分とは何者であるか」を知ろうとすることがある。男性のΦにあたるS1(知の中心)は、女性ではS(/A)と表記される。先に書いた男性性の矛盾のように女性性の矛盾を表すと、「Φの作用は全てのxに及んでいるわけではない」かつ「Φの作用が及ばないようなxは存在しない」のが女性性である。今矛盾と書いたが、これはxの集合が開放集合であれば、直観主義論理学では成り立つのだ。つまり/Laは開放集合=無限に広がる大文字の他者の海に浮かぶ小舟であるわけだ。大文字の他者という開放集合から、自らの拠り所であるS(/A)を求めても、そこは大文字の他者の境界である。つまり男性は、内部でどこにもないΦという屹立した知の中心をトラウマ的に求めさまよっているが、女性は外部の他者の海から近づき、他者の境界=S(/A)からそれを眺めているのだ。精神的な人格形成から鑑みても、女性は知に対して軽やかな態度を取ることが可能なのである。
「男って単純」という言葉は、実は真理なのかもしれない。
象徴的ファルスの存在を信じて(トラウマ的に)そこに突き進むのが男性ならば、そこにファルスがないことを(直感的に)知りつつ、大文字の他者の海を漂いながらそれを包み込むようにいるのが女性なのである。
二階堂奥歯氏著『八本脚の蝶』より。
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児童文学を読んでいたころ、そこに出てくるのは女の子だった。大人の本を読み始めた九歳頃、私は「少女」というものに出会った。
「少女」は女の子とははっきり言って関係がない。それはすぐにわかった。
それはとても抽象的な存在だ。女の子や人間よりは妖精に近い。ただ、女の子と同じ姿形をしているのでとても間違われやすい。
「少女」は素敵なものだ。それは純粋できれいで観念的だ。
でも当然気付く、「少女」はすぐに大人の男の人に利用されるのだ。
それは無垢で悪魔で天使でいたずらで非日常で無邪気で神秘的で繊細で元気で優しくて残酷で甘えん坊でわがままで弱くて強くて無口でおしゃべりで白痴で悩みがなくて憂いに沈んで無表情で明るくておてんばで物静かでこわがりでなにもこわくなくて何も知らなくて何でも受け入れてくれて潔癖で閉鎖的な性質を持っている。
だから、いつでも一番都合のいい性質が選び取られて、男の人を気持ちよくするために利用される。そして、どうやら、男の人たち(私が知っていた大人の男の人とは、つまりみんな本を書いた人のこと)は「少女」と女の子の区別がつかないらしいのだ。
私は女の子だ。
私は「少女」ではない。
私は「少女」が素敵だと思う。
私は「少女」ごっこをする女の子になった。
素敵な抽象物になろうとした。
お手本は例えば美術館で見た天野可淡の人形。
でも勿論私は自分が「少女」じゃないということは知っていたのだ。
そして大好きな「少女」を都合よく利用して卑しめる心性に対して敏感になった。
なにしろ「少女」は女の子のようには実在しないから、その観念を持つ者がきちんと護らなくては消えてしまうのだ。
その内私は女になった。女の場合はもっとすごい。
女の子と「少女」よりもっともっと混同されているのだ。
出版物や社会組織を成り立たせている言説に出てくる「女」はどうやら大抵女の子の成長後ではなくて「少女」の成長後のことらしい。文学に出てくるのも、哲学に出てくるのも。
私は「女」ごっこをする女になった。
「女」の仮装をする女になった。
「女」は「少女」程素敵ではないのだが、やはり高度に抽象的な美しい概念だ。
そしてなにより、「少女」でなくても女の子はなんとか上手くやっていけるかもしれないが、大抵「女」じゃないと女は上手くやっていけないのだ。
能力(仕事、学力、趣味、なんでも)が高い女がいても、「女」度が低いと減点される。
「女」度が高くても、能力が低ければとてもよく利用される。
両方ちゃんとできてやっと一人前だ。
私は「女」ではないのをはっきりと知っている。
それが架空の存在であることをはっきり知っている(なにしろ女だから)。
だから、私はまた素敵な抽象物になろうとした。
自分の躰は着せ替え人形だと思う。
問題なのは、着せ替え人形はいくつでも持つことができるが、自分の躰は一つしか持てないということだ。
このたったひとつの着せ替え人形で私は遊ぶ、メイクやお洋服や小物を入れ替えて遊ぶ。
この躰は私が作った。いろいろなイメージを投影した作り物だ。
女を素材にして「女」を作ってみました。
ドラァグ・クイーンの知人が何人かいる。
ドラァグ・クイーンとは、表象的・社会的に女性的とされている記号を意識的に過剰に身につけた人間のことで、通常男性である。とにかく派手なドレスを着て、激しく化粧をして、女性性をパロディ化する。
肉体すべてをその観念の金属でできた着せ替え人形にしてみた。
私は、女のドラァグ・クイーンだ。
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男根主義的な考えになる原因はなんであろう。やはり「去勢」などといった概念が問題か。しかし極まるのは女の幼児が持っているとされる「ペニス羨望」だろう。「去勢」にしても「ペニス羨望」にしても幼児期に起こる心の動きだ。精神分析では大人になっても、幼い頃のトラウマが精神活動に影響しているとする。「精神分析学は全ての精神病理を幼児期に求める」などという揶揄もあるが、人間意外と子供の頃の精神的影響は大人になっても残るものと私は思う。日本語には上手い言い回しがあるではないか。「三つ子の魂百まで」。
ともかく、女性に悪評高いこの「去勢」「ペニス羨望」などという概念はどのようなものか、今回は自分の思考のまとめがてらたらたらそれを垂れ流してみようと思う。
生まれたばかりの赤ん坊は、自分の性には気づいてないだろう。彼にあるのは、「求めるだけ与えられる」母親の胎内にいた頃の記憶と、出産時に感じた恐怖、不安であろう。母親から母乳が与えられる時間は、母親の胎内を思い出させるものだ。
母乳に限らず、赤ん坊の周りで起こる出来事は、赤ん坊にとってはわけのわからないことばかりだ。赤ん坊はそれらを頭の中で処理しなければならない。赤ん坊が行う処理とは、ごく単純な象徴化、つまり全ての心の動きを「快/不快」という二項のどちらかにあてはめるというものだ。例えば母乳については、母乳が与えられることを「快」とし、与えられないことを「不快」とする。「快/不快」という単純なものから、成長するにつれ感情は複雑化していくのだ。しかし先に述べたように、赤ん坊の内面が単純だから「快/不快」という二項になるのではなく、内面は矛盾にとんだ複雑なものではあるけれど、それを処理する象徴化能力が単純だから「快/不快」という二項でしか処理できない、ということに注意しておいて欲しい。
この「快/不快」は、「母乳が与えられる/与えられない」以外にも、様々な事柄を象徴する。多義性があるわけだ。「プラス/マイナス」と言い換えてもよい。少し例を挙げてみよう。
母乳に近い事柄であるが、「母親がそこにいる/いない」。赤ん坊にとって不在は死を意味するので、「在/不在」=「生/死」と言ってもいいだろう。他には「思い通りに動く/動かない」。前者の条件を満たすのは自分の体だ。だから幼児は鏡に映る自分の姿を見て喜ぶのだ。
また、幼児が持つ母親への愛情とは、母親の胎内にいた頃のような、まさしく同一化を求めるものに近い。その幻想を生後の世界でも繋げていたのが乳房である。しかし胎内にいた頃と違い、求めても与えられないことが現実世界には起こる。「不快」を感じる。幼児は母親という一人の人間に「快/不快」を見てとっているのである。これをメラニー・クラインは「良い乳房/悪い乳房」と表現している。
このように、赤ん坊は自分の周りの様々な出来事を「快/不快」の二項に集約、つまり二項を象徴化させる。内面のリアクションとして、その出来事をこのどちらかにあてはめようとするのだ。まあ、生後しばらくすると日常的な出来事になどは「興味を持たない」という選択肢も生まれるだろうが。これは赤ん坊は視力聴力とも未発達なので、意識がその出来事に向かない限り、その出来事は認知されにくいのである。人間の赤ん坊は、他の動物と比べ未発達な状態、即ち早産で生まれてくるのだ。
先に、「快/不快」の一つの例に、「在/不在」を挙げた。これは「有/無」に近いものだ。
赤ん坊は成長し、幼児になり、やがて己の解剖学的性差に気づくであろう。つまり、自分の周りにいる人間は、「ペニスがある/ない」の違いで、二種類に分けられていることに気づくわけだ。そして、自分さえそのどちらかに含まれていることも。それまでは、男女関係無く、彼らは(精神的に)等しく「幼児」であったのだ。
ここからは、その幼児が男の子だとして話を進めよう。これは男根中心主義というわけではなく、男性の方がその心理的成長が単純に表記できるからだ。女性の成長は曖昧で複雑なので、シンプルな男性幼児の成長モデルと照らし合わせて説明されるのが合理的である。なので、女性幼児の説明を後回しにする。
男性幼児は、母親との解剖学的違いに気づく。ペニスだ。股間に、何かの物体が「ついている/ついていない」という現象に気づくのだ。これは単純に換喩するなら「有/無」であり、従って、「ついている=快/ついていない=不快」という象徴化に落ち着く「はず」である。
しかし、先に述べたように、この頃の幼児が持っている母親への愛情とは同一化的なものである。その母親にはペニスが「ついていない」。自分には「ついている」。この時男性幼児はどういう心境なのだろう。ついていない母親を可哀想と思うだろうか。違うだろう。よく考えてみよう。この時の幼児の母親に対する愛情とは「同一化的」なものである。男の子は、母親と同一化することで、自分のペニスが無くなってしまうのではないか、という不安を感じるのだ。
また、幼児はこの頃には父親という存在も認識しているであろう。父親という二番目の他者は、幼児にとってはもちろん「快」なものである。しかし母乳を与えてくれる母親と比べるなら、その愛情は「母親>父親」である。だが、自分の中で母親と父親が対立した場合はどうなるだろう。二者択一しなければならない場合だ。この時、男性幼児の内面において、「母親=快/父親=不快」という象徴化になるのは当然のことと言える。
男性幼児は、「ペニスがついている/ついていない」という二項を眼前につきつけられた。単純に象徴化するなら「ついている=有=快/ついていない=無=不快」となるはずだが、自身が大きな愛情を注ぐ母親にはペニスが「ついていない」。父親には「ついている」。母親と同一化しようとしている自分にも「ついている」。幼児は父親と母親の二者択一をせまられる。愛情の度合いから判断して、「母親=快/父親=不快」という象徴化が行われる。しかしその象徴化には、母親と同じようにいつかはペニスが無くなってしまうのではないかという不安が伴う。この不安を「去勢不安」という。不安は不快なものである。よってこの「去勢不安」は同じ不快な存在である父親に付託される。「父親によって去勢されるのではないか」という「去勢不安」になるのだ。この「母親=快/父親=不快」という象徴化と、父親に付託された「去勢不安」が、エディプスコンプレックスの構成要件である。
同時にこの頃にはもう一つ重要なイベントが幼児を待ち受けている。「言葉の世界への参入」である。
言葉とは、象徴化という処理を複雑に行うことが可能になる道具である。この頃にはいくつかの単語は覚えているだろうが、「複雑な象徴化のための道具」という視点なら、文法などといった言語構造を把握することが重要になるだろう。
エディプスコンプレックスの幼児は、言語を、そして言語構造を覚える。「複雑な象徴化のための道具」を手に入れる。ここで、単純な二項化である「母親=快/父親=不快」という象徴化は終わる。男性幼児は、象徴化の道具である言葉を手に入れることにより、「去勢」されるのだ。この言葉の世界への参入を、ラカン論では「象徴界への参入」と呼ぶ。また、「去勢」とはもっと広範囲のものを指す場合もあるので、この最初の「去勢」を「原抑圧」と呼ぶこともある。男性幼児は、「去勢」により、エディプスコンプレックスを終えるのだ。
ここで注意しておきたいのは、「去勢不安」は、明確な論理で解消されていないことである。幼児にしてみれば、父親から「去勢しない」という確約を得たわけではない。この不安は、二項化という単純な象徴化により成り立っていた自分の内的世界そのものが、言葉という道具を手に入れることで消失し、それにより解消されているのだ。
二項化の世界で恐れていた父親は、その世界が消失することで、永遠になったのだ。ラカンはこれらのことを「父の名において去勢される」と表現している。この「父の名」は、男性にとって永遠となり、トラウマのように男性の無意識に潜むことになる。またそれは、消失した世界のものであるから、永遠に手に入らない「シニフィアン」(シニフィアンとは、言葉においてそれを指し示す記号のことである。例えば「海」なら、「海」という文字や音声がシニフィアンとなる。ちなみに「海」の意味内容は、シニフィエと呼ぶ。こちらを参照されたし)でもあるのだ。
ついでに、ラカン精神分析論の用語説明をここで少ししておこう。
幼児が感じる「快」の原点とはなんだろうか。それは母親の胎内にいた頃の「求めるだけ与えられる」という感覚である。それは「全能感」と表現してもいいだろう。欲するものは何でも叶えられる(幼児にとっての「何でも」は大人のそれと比べ限られているが)という感覚だ。これを「ファルス」と呼ぶ。これは具体的には、「快」繋がりで「ペニス」に換喩される。想像的ファルス=ペニスと考えてよい(記号は「φ」)。ここでの「想像的」とは、象徴化ではない、イメージ化という意味ぐらいに考えて欲しい。
また、成長後このファルスは象徴化される。それは、消失した二項化の世界における抑圧者「父の名」がもたらすものであり、象徴界への参入後永遠に手に入らないシニフィアンに象徴化されるのだ。永遠に手に入らない象徴的ファルスとは、「父の名」というシニフィアンと表裏一体のものである。これを記号化するならば、象徴的ファルスは「Φ」、永遠に手に入らないシニフィアンは「S1」であり、正常な成人男性の場合はΦ=S1となる。また、このファルスは去勢後も男性に存在する。去勢されたとはいえ全能感は諦めきれない。なのでファルスは「去勢痕」などと説明されることもある。この「(ファルスは)あるけどない」というような一見論理的に矛盾しているような内面は、男性も女性も同じである。
失われた二項化の世界は、「象徴界から抹消された主体」として、「/S」(この斜線(barre)はSの上にかかっているものと思って欲しい。フォントがない)と表される。
S1はその他のシニフィアンに暗喩的作用を施す。男性の言語はトラウマ的にS1から逃れられないのだ。しかし/Sにはその作用が届かない。先に書いた矛盾をラカンはこう表現する。「あるx(=/S)に対してΦの作用が及ばない」かつ「全てのx(=シニフィアン)にΦの作用が及んでいる」のが男性性であると。
なんか小難しいこと言っているようだが、その表出はたくさん身の回りにある。例えば少年漫画によくある、「究極の強さを手に入れたい」などというのは、男性の、そこには存在しない象徴的ファルスに対する志向を暗喩しているのだ。
――さて。
以上で男性幼児の原抑圧までを説明したわけが、次は女性幼児の内面を見ていこう。
男女の解剖学的差異に気づくまでは男性幼児と同じだ。即ち「ペニスがついている/ついていない」に気づくまでは。それまでは男女とも性差無く「幼児」である。従って、「ペニスが有る=快/無い=不快」と象徴化するまでも同じである。これが、精神分析のいう女性の「ペニス羨望」の起源である。
ペニスの有る無いに気づくからには、男性他者がその女性幼児の世界にいることになる。父親でも兄弟でも何でもいい。父親が一番可能性が高いだろうか。女性幼児もこの頃は母親へ同一化的な愛情を注いでいる。母親は父親を愛している。つまりもっとも印象的で起源的な男性他者は父親であると言って構わないだろう。
母親は「ついていない」。母親と同一化したい自分も「ついていない」。父親には「ついている」。女性幼児にとって、ペニスの有る無しは男性幼児のように母親との同一化を阻害する要因とはならないが、自らと同一化の対象である母親が「不快」なものに象徴化されてしまう。なので女性幼児は「いつかは自分にもペニスが生えてくる」というような、「ペニス羨望」の一つと言える感情を覚える。「いつかは自分にもペニスが生えてくる」と思うことで、父親と母親双方に愛情を注ぐことができる。とはいってもこの時には愛情の度合いは「母親>父親」であろう。同時期男性幼児は「去勢不安」を感じているが、女性幼児は母親に対して、幼い自分と同じく「ペニスがついていない」ことについて同情にも似たような感情を、その愛情の中に覚えているかもしれない。
やがて、女性幼児も言語を覚える。「象徴界への参入」「去勢」「原抑圧」が訪れる。女性幼児は男性幼児のような「去勢不安」を持っていない。なので「去勢」や「抑圧」という言葉は少し不適格かもしれない。このことを「女性は去勢が行われない」という言い方をする人もいる。
男性幼児にとっては、「去勢不安」を解消する「複雑な象徴化のための道具」である言語であったが、女性幼児にとってはそれはただの「象徴化するのに便利な道具」である。しかし、その便利な道具によって彼女は拘束されることになる。即ち、自分は母親と同じ「女性」という存在であり、母親と同じく「ペニスは生えてこない」ことに気づかされるわけだ。
男性幼児にとって、ペニスのついていない母親が永遠に手に入らない対象であるように、女性幼児にとって、ペニスは永遠に手に入らないことが、「象徴界への参入」によって気づかされるのだ。これにより女性幼児の内面でペニスの価値が上がる。ここで、愛情の度合いが、「母親>父親」から「ペニスの無い母親<ペニスが有る父親」に逆転する。しかしこの時点で女性幼児は言語という「複雑な象徴化を可能にせしめる道具」を手に入れている。二項化に集約することはない。とはいっても二項化の世界の名残はあるだろう。男性幼児にとって、その世界は去勢不安を解消するために抹消するものであるが、女性幼児に不安はない。女性幼児は緩やかにそれを忘れていくのだ。女性幼児にとっての母親への愛情が、同情や、近親憎悪に似た感覚に取って代わられ、二項的な「父親=快/母親=不快」に近い感情になることもありえる。
女性幼児にとってのエディプスコンプレックス(エレクトラコンプレックス)とは、「ペニス羨望」により愛情の度合いが「母親<父親」または「父親=快/母親=不快」となることである、と言える。また、男性幼児のエディプスコンプレックスは「象徴界への参入」(=「去勢」「原抑圧」)によって終焉するが、女性幼児は「象徴界への参入」によりエディプスコンプレックス(エレクトラコンプレックス)が開始される、と言うこともできる。
これで女性幼児の原抑圧までを説明したことになるが、感覚的に何か曖昧さを覚えないだろうか? 男性幼児の説明を先にして具体性を伴わせたにも関わらず、女性幼児の説明にはいろいろ不確定な要素があるように思える。
そう、女性の性の決定は、男性のそれと比べて曖昧に進むのである。
女性は自らの性について、原抑圧以降も、このような曖昧さに身を委ねなければならない。
その「女性」と言うシニフィアンすらも、先に述べたように、言語の世界の他者=象徴界の他者=大文字の他者によって与えられたものである。男性は同一化したい母親との間にペニスという「差異」があるからこそ、去勢不安を乗り越え、その性は自らのものという自負が生まれる。女性にはそれがない。
男性にとって女性というのは謎であるように、女性にとっても女性性というのは曖昧であり、謎なのだ。女性が自らの性を振り返る時、大文字の他者の海を漂っているような感覚を覚えるのである。女性が「女性」というシニフィアンを生きることは、相対化された世界=象徴的ファルスのない象徴界を生きることでもある。
だから、女性は、男性のモラトリアムが理解できない。多様化=相対化された選択肢を前にして、能動的たらんとして受動的にしかなれないことが引き起こすニヒリズム、アイロニズムが理解できない。「女性」というシニフィアンそのものが与えられたもの、即ち「女性」として生きること自体が受動的であるからだ。また、男性の、真理などといった絶対的なものに拘る本能的希求が理解できない。精神分析を学んで初めて、それは去勢というトラウマ的なものが無意識的にそうさせていると理解できるのだ。
「女性」というシニフィアンは他者から与えられると書いた。それを「/La」という記号で表す。斜線(欠如を意味する)が引かれていることからわかるように、女性にとって象徴的ファルスはその内部にはない。よってこのシニフィアンはS1(男性にとってのΦ)ではなく、S2というS1から連鎖したシニフィアンの中にあることになる。しかし男性が知という道具を用いてΦを求めるように、女性も知を用いて「自分とは何者であるか」を知ろうとすることがある。男性のΦにあたるS1(知の中心)は、女性ではS(/A)と表記される。先に書いた男性性の矛盾のように女性性の矛盾を表すと、「Φの作用は全てのxに及んでいるわけではない」かつ「Φの作用が及ばないようなxは存在しない」のが女性性である。今矛盾と書いたが、これはxの集合が開放集合であれば、直観主義論理学では成り立つのだ。つまり/Laは開放集合=無限に広がる大文字の他者の海に浮かぶ小舟であるわけだ。大文字の他者という開放集合から、自らの拠り所であるS(/A)を求めても、そこは大文字の他者の境界である。つまり男性は、内部でどこにもないΦという屹立した知の中心をトラウマ的に求めさまよっているが、女性は外部の他者の海から近づき、他者の境界=S(/A)からそれを眺めているのだ。精神的な人格形成から鑑みても、女性は知に対して軽やかな態度を取ることが可能なのである。
「男って単純」という言葉は、実は真理なのかもしれない。
象徴的ファルスの存在を信じて(トラウマ的に)そこに突き進むのが男性ならば、そこにファルスがないことを(直感的に)知りつつ、大文字の他者の海を漂いながらそれを包み込むようにいるのが女性なのである。
二階堂奥歯氏著『八本脚の蝶』より。
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児童文学を読んでいたころ、そこに出てくるのは女の子だった。大人の本を読み始めた九歳頃、私は「少女」というものに出会った。
「少女」は女の子とははっきり言って関係がない。それはすぐにわかった。
それはとても抽象的な存在だ。女の子や人間よりは妖精に近い。ただ、女の子と同じ姿形をしているのでとても間違われやすい。
「少女」は素敵なものだ。それは純粋できれいで観念的だ。
でも当然気付く、「少女」はすぐに大人の男の人に利用されるのだ。
それは無垢で悪魔で天使でいたずらで非日常で無邪気で神秘的で繊細で元気で優しくて残酷で甘えん坊でわがままで弱くて強くて無口でおしゃべりで白痴で悩みがなくて憂いに沈んで無表情で明るくておてんばで物静かでこわがりでなにもこわくなくて何も知らなくて何でも受け入れてくれて潔癖で閉鎖的な性質を持っている。
だから、いつでも一番都合のいい性質が選び取られて、男の人を気持ちよくするために利用される。そして、どうやら、男の人たち(私が知っていた大人の男の人とは、つまりみんな本を書いた人のこと)は「少女」と女の子の区別がつかないらしいのだ。
私は女の子だ。
私は「少女」ではない。
私は「少女」が素敵だと思う。
私は「少女」ごっこをする女の子になった。
素敵な抽象物になろうとした。
お手本は例えば美術館で見た天野可淡の人形。
でも勿論私は自分が「少女」じゃないということは知っていたのだ。
そして大好きな「少女」を都合よく利用して卑しめる心性に対して敏感になった。
なにしろ「少女」は女の子のようには実在しないから、その観念を持つ者がきちんと護らなくては消えてしまうのだ。
その内私は女になった。女の場合はもっとすごい。
女の子と「少女」よりもっともっと混同されているのだ。
出版物や社会組織を成り立たせている言説に出てくる「女」はどうやら大抵女の子の成長後ではなくて「少女」の成長後のことらしい。文学に出てくるのも、哲学に出てくるのも。
私は「女」ごっこをする女になった。
「女」の仮装をする女になった。
「女」は「少女」程素敵ではないのだが、やはり高度に抽象的な美しい概念だ。
そしてなにより、「少女」でなくても女の子はなんとか上手くやっていけるかもしれないが、大抵「女」じゃないと女は上手くやっていけないのだ。
能力(仕事、学力、趣味、なんでも)が高い女がいても、「女」度が低いと減点される。
「女」度が高くても、能力が低ければとてもよく利用される。
両方ちゃんとできてやっと一人前だ。
私は「女」ではないのをはっきりと知っている。
それが架空の存在であることをはっきり知っている(なにしろ女だから)。
だから、私はまた素敵な抽象物になろうとした。
自分の躰は着せ替え人形だと思う。
問題なのは、着せ替え人形はいくつでも持つことができるが、自分の躰は一つしか持てないということだ。
このたったひとつの着せ替え人形で私は遊ぶ、メイクやお洋服や小物を入れ替えて遊ぶ。
この躰は私が作った。いろいろなイメージを投影した作り物だ。
女を素材にして「女」を作ってみました。
ドラァグ・クイーンの知人が何人かいる。
ドラァグ・クイーンとは、表象的・社会的に女性的とされている記号を意識的に過剰に身につけた人間のことで、通常男性である。とにかく派手なドレスを着て、激しく化粧をして、女性性をパロディ化する。
肉体すべてをその観念の金属でできた着せ替え人形にしてみた。
私は、女のドラァグ・クイーンだ。
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