正常であるために必要な努力量
2009/04/28/Tue
言葉が繋がらなれぬねららりない。つながらナウい、って打ってて自分でワラタ。
また食事を摂らなくなった。そのせいか病院での待ち時間、気を失いかけた。貧血のようなものだ。しかし根性で耐えた。なんとかなるものなんだよ、根性で。
ここでの「根性」とは「意識的な努力」ぐらいに読み替えといて欲しい。
劇団やってた頃。
腹式呼吸とは胸筋で呼吸するのではなく、横隔膜で呼吸するものだ。筋肉には随意筋と不随意筋がある。腕の筋肉なんかはもちろん随意筋、心臓なんかは不随意筋。そりゃそうよね、「よし、いっちょ心臓止めたろ」つって止めることができたら自殺が楽になる。
んで、横隔膜なんかは半随意筋らしい。随意筋っぽくもあるし不随意筋っぽくもある、ということだ。
んじゃ訓練したら思い通りに動かせるんじゃないの? と思って、発声練習の時横隔膜(と思われる周辺)を常に意識してやっていた。
そんなことで鍛えられるものなのだろうか。よくわからないんだよね。日常生活では。
でも、あるきっかけで効果があることが判明した。
しゃっくりは横隔膜の痙攣だということは知識で知っていた。である時、そんなら意識して止められるんじゃないの? と思ったわけだ。
止まったんだよ、まじで。
横隔膜周辺の筋肉に力を入れるというか意識を集中すると、しゃっくり止まったんだよ。
劇団員に自慢して「おーすげー」とか言われた。実演もして見せたことがある。
当時これはわたしの特技みたいなもんだった。しゃっくりが始まると「見てて、息止めたり水飲んだりしないでしゃっくり止めて見せるから」などとはしゃいで見せてたもん。反応はまちまちだったがね(笑)。
これも訓練の賜物なんだよな。劇団で発声練習やってなかったらできなかったこと。心臓も随意筋になんねえかな。
病院の話も、外出中気が遠くなることはよくあるので、日々が訓練になっていたわけだ。そういった意味で「根性で耐えた」と言った。仮にこの時のわたしがわたしより気が遠くなるのに慣れてない人だったら、失神していただろう。
こんなこと言うと「精神疾患なんて根性が足りないんだよ」などという体育会系的言い分を擁護しているように思われるかもしれないが、その通りなのだ。字義通り受け取れば正しい部分もある。「心頭滅却すれば火もまた涼し」である。根性でなんとかなる部分はわたしたちが思っているより遥かに多い。精神含めた人体とは未知の世界の凝縮体である。ラカン派精神分析と対立する自我心理学的言い分も援用可能だろう。自我にはわれわれが考える以上の力が備わっている、などと。
しかし、正常である(正常に見られる)ために必要な根性量、努力量は、人それぞれなのだ。ここが重要なところである。
普通に考えれば当たり前のこの事実を、正常人は忘れがちだ。「人それぞれつっても大体同じだろ?」と思ってしまう。とはいえ一概にこの推測が間違っているというわけではない。おそらく大多数の人間にとって大体同じなのだろう。統計的にもっとも可能性が高い推測であり、正しい判断なのだろう。しかし、たとえば物理学においてある数値で予測もつかない大きな変動を示すことがある。生物学ならば突然変異が生じる場合がある。精神においても同様なのだ。流行の概念ならカオス理論など考慮してもよかろう。
正常人たちが他者と相対した時、予想より遥かに「人それぞれ」である可能性を、ただの統計的判断を根拠に、現実的な根拠のないままに棄却している。ほぼ無意識的に。その他者が自分の予想より遥かに根性あるいは努力が必要な人であるという、ごくわずかな可能性がその人の主観世界に存在していない。推測が推測のままでいられない。
こういった主観世界において「精神疾患は根性が足りないんだ」と言うと、「お前はほとんどの人間がこなしてきた正常でいるためのある一定量の努力が足りていない」というメタ言語が発生する。体育会系な人じゃなくても「私も昔はそうだったのよ」などとのたまうババアも同様のメタ言語から逃れられていない。「正常であるために必要な努力量は人間大体同じである」というメタ言語即ちパラノイアックな妄想から。もしかしたら自分が今話している相手は正常であるために自分の予想以上の努力が必要な人かもしれない。そんな現実的可能性が彼ら彼女らの主観世界から棄却されている。
日常的に努力している奴から見ればその瞬間のそいつが努力しているかどうかはなんとなくわかる。自体愛的に自分のことに必死にならずに済む奴らがここで言う正常人だ。
わたしは常に大多数の人間が共有しているこの妄想に苦しめられてきた。見た目が普通だから「努力が足りないんだよ、甘えてるだけだよ」と言われ続けてきた。自分でそう思った。「自分は努力が足りないんだ、甘えてるだけなんだ」と。だから努力した。努力すれば努力しないで済む世界が待っていると思っていた。努力の一つが役者の稽古だった。
こういった努力の結果、わたしはより普通に見られるようになった。より「努力が足りないんだよ、甘えてるだけだよ」と言われるようになった。
自閉症者など、正常に見られるため努力している未去勢者は多いと思う。しかしその結果、より自分を苦しめるようになるかもしれない。その努力が実った未来は薔薇色とは限らない。より努力が必要な世界が待っているだけである。地獄を克服した先にはより辛い地獄が待っている。
それが現実である。
もちろん以上はわたしの経験から述べているだけであり、そうじゃない未去勢者がいても構わない。
この問題は未去勢者に責任はない。
精神分析を学んだ今は言明できる。
「正常であるために必要な努力量とは人間大体同じである」という妄想から逃れられないパラノイアックなBPD即ち正常人たちのせいなのだ。その妄想が引き起こしている問題なのだ。
生後二年以内に柵が軸にならなかった人間にとって、柵は柵のままなのだ。
柵の内外には始原の暴力が渦巻いている。
また、わたしの論においては軸のない柵についてサントームという概念が相当するため、ラカン派の「自我とはただの自己防衛機制である」という言い分と、自我心理学の「自我とは防衛機制のみではない、もっと素晴らしい機能を持っている」という言い分が脱構築される。ラカン派の語用で言うなれば、軸もあり柵もある正常人にとって自我になっているだけであり、それよりもっと現実的な防衛機制がある、という具合に。この現実的な防衛機制を定義上どの概念に含めるかの問題にすぎなくなる。わたし論ではサントームの一例として自閉症者のエコラリアが含まれるが、この時エコラリアさせているのは自我なのだろうか。一般の防衛機制とは違う症状を示しているそれを自我の機能に含めさせることができるのだろうか。
どっちでもいい。
しかし彼らはなべてパラノイアックなBPDだから人の言うことなんか聞きやしない。頭で理解してもすぐ忘れてしまう。パラノイア患者とは大体そういうものだ。自分の妄想を強固に信じきっている。たまたまその妄想が大多数の他者と共有できているだけなのが正常人である。同じパラノイア人種なのだ、彼らは。ラカン論では「人格とはパラノイアである」となる。むしろ(スキゾフレニックな)人格障害者の方が人間として正しい姿をしているのである。むしろ人格は攻撃すべきなのである。破壊してあげるべきなのである。
人格などパラノイアックな精神疾患の一症状にすぎないのだから。
殺せ、殺せ、正常人を殺せ。
わたしの論に何か矛盾ある?
まあバカの反論にゃ相手するつもりはないからどうでもいいけれど。
黙れ。
お前など主人ではない。
お前は、それは、血肉だ。
あと前記事の「フィールド」という言葉から「他者の場」を連想しなかったラカニアンは失格だから。既に。
来てもいいよ。その血肉を引き裂いてあげる。合格者も失格者も平等に。
つまるところ、「頭の中の小人、その小人の頭の中の小人、その小人の……」問題は、未去勢者にとって解決されていないのだ。
しかし、神経症者という大多数の人間が、それをパラノイアックな妄想で無理矢理解決、いや臭い物に蓋をして、日常に生かされていることを示したラカン論の功績は大きい。
物理学でさえ「岩を半分にして、さらに半分にして、さらに……」の延長線上にある量子力学も問題が解決されていない。
しかし、大多数の正常人たちは、その多数派の権力をもって、この問題を幻想で蓋をして生きているのだ。
恐るべきかな、素晴らしきかな、正常というパラノイアックな精神疾患。
多分、終わらせたいんだろうな。
ラカンのカマキリの喩え話は、「他者の享楽」という「寄生されることの享楽」に対応する「寄生することの快楽」を示している。幻想の蓋を示している。この時他者の享楽はメスのカマキリ側にある。
フィールドはあくまで自分の主観世界である。理解し合える客観的(間主観的)世界は妄想である。
しかし他者の主観世界は到達不可能である。
覗き穴がある。体が通り抜けられるほど大きくない。正常人たちは、オスのカマキリたちは、この覗き穴の中を生きている。二次元的で有限な空間にバーチャルな精神世界を構築し、幻想のわたしやあなたや彼や彼女らをログインさせている。要するに映画『マトリックス』である。その住人たちはそれがバーチャルであることを知らない。バーチャルな世界から覗き穴のこちら側に気づくには、たとえば象徴界の穴を見つめなければならない。
覗き穴だと知っている人間にとっても、他者を見るには覗き穴を通すしかない。バーチャル世界の外にザイオンのような世界は存在しない。器官なき身体は孤児である。わたしという孤児にとって、絶対的未知ではなくささやかな所有・把握可能な他者は、二次元的で有限なバーチャル精神世界を通してでしか見えない。
覗き穴に隔てられた人間が他者に近づこうとするならば、二次元的で有限なバーチャル世界に自己を流入させなければならない。
覗き穴の世界を生きている他の住人から見ると、そいつは正常化しようとしていることになる。他の住人は、味方でも敵でもなく野性の世界における緊張感に満ちた関係だったそいつに、自分を脅かしてきた正常人臭を感じるだろう。
未去勢者と正常人の他者が全く別物であるように、オスのカマキリとメスのカマキリの「終わり」は全く別物である。
わたしの終着駅はどちらだろう。
自分が吐いたあるキチガイへの言葉に自分で正常人臭を感じている。
十円玉ほどの覗き穴に頭を突っ込んでしまっている。
あなたが正常人なら、丸刈りにすると、頭に穴が開いているのがわかるだろう。肛門のような穴が。
わたしはそこに梅干のようなものを埋め込もうとしている。
これはカプセルのようなものだ。脳の神経活動に反応してカプセルにつまった薬剤が流出する仕掛けになっている。
とはいえ普段の生活で流出することはほとんどないだろう。詳らかなデータを取ったわけではないが、九十パーセントは一生流出しないと考えられる。
しかし、この梅干カプセルは、もともと人間の脳にあるシステムなんだよ。
現代の脳科学ではきちんと特定されていないが、脳幹に近いところの領野で司っているシステムだ。
ところが、このシステムは脳全体に影響を及ぼさない。機能として不完全なのだ。おそらく大脳皮質が肥大化したためだと思われる。
それを補おうというのがこの梅干カプセルなわけ。
逆精神分析なわけ。
無限が有限に寄生されて正常になるのならば、有限に無限を埋め込もうというわけ。
わかった?
じゃあ、始めるよ。
お前初めてかここは、力抜けよ。
頭の。
また食事を摂らなくなった。そのせいか病院での待ち時間、気を失いかけた。貧血のようなものだ。しかし根性で耐えた。なんとかなるものなんだよ、根性で。
ここでの「根性」とは「意識的な努力」ぐらいに読み替えといて欲しい。
劇団やってた頃。
腹式呼吸とは胸筋で呼吸するのではなく、横隔膜で呼吸するものだ。筋肉には随意筋と不随意筋がある。腕の筋肉なんかはもちろん随意筋、心臓なんかは不随意筋。そりゃそうよね、「よし、いっちょ心臓止めたろ」つって止めることができたら自殺が楽になる。
んで、横隔膜なんかは半随意筋らしい。随意筋っぽくもあるし不随意筋っぽくもある、ということだ。
んじゃ訓練したら思い通りに動かせるんじゃないの? と思って、発声練習の時横隔膜(と思われる周辺)を常に意識してやっていた。
そんなことで鍛えられるものなのだろうか。よくわからないんだよね。日常生活では。
でも、あるきっかけで効果があることが判明した。
しゃっくりは横隔膜の痙攣だということは知識で知っていた。である時、そんなら意識して止められるんじゃないの? と思ったわけだ。
止まったんだよ、まじで。
横隔膜周辺の筋肉に力を入れるというか意識を集中すると、しゃっくり止まったんだよ。
劇団員に自慢して「おーすげー」とか言われた。実演もして見せたことがある。
当時これはわたしの特技みたいなもんだった。しゃっくりが始まると「見てて、息止めたり水飲んだりしないでしゃっくり止めて見せるから」などとはしゃいで見せてたもん。反応はまちまちだったがね(笑)。
これも訓練の賜物なんだよな。劇団で発声練習やってなかったらできなかったこと。心臓も随意筋になんねえかな。
病院の話も、外出中気が遠くなることはよくあるので、日々が訓練になっていたわけだ。そういった意味で「根性で耐えた」と言った。仮にこの時のわたしがわたしより気が遠くなるのに慣れてない人だったら、失神していただろう。
こんなこと言うと「精神疾患なんて根性が足りないんだよ」などという体育会系的言い分を擁護しているように思われるかもしれないが、その通りなのだ。字義通り受け取れば正しい部分もある。「心頭滅却すれば火もまた涼し」である。根性でなんとかなる部分はわたしたちが思っているより遥かに多い。精神含めた人体とは未知の世界の凝縮体である。ラカン派精神分析と対立する自我心理学的言い分も援用可能だろう。自我にはわれわれが考える以上の力が備わっている、などと。
しかし、正常である(正常に見られる)ために必要な根性量、努力量は、人それぞれなのだ。ここが重要なところである。
普通に考えれば当たり前のこの事実を、正常人は忘れがちだ。「人それぞれつっても大体同じだろ?」と思ってしまう。とはいえ一概にこの推測が間違っているというわけではない。おそらく大多数の人間にとって大体同じなのだろう。統計的にもっとも可能性が高い推測であり、正しい判断なのだろう。しかし、たとえば物理学においてある数値で予測もつかない大きな変動を示すことがある。生物学ならば突然変異が生じる場合がある。精神においても同様なのだ。流行の概念ならカオス理論など考慮してもよかろう。
正常人たちが他者と相対した時、予想より遥かに「人それぞれ」である可能性を、ただの統計的判断を根拠に、現実的な根拠のないままに棄却している。ほぼ無意識的に。その他者が自分の予想より遥かに根性あるいは努力が必要な人であるという、ごくわずかな可能性がその人の主観世界に存在していない。推測が推測のままでいられない。
こういった主観世界において「精神疾患は根性が足りないんだ」と言うと、「お前はほとんどの人間がこなしてきた正常でいるためのある一定量の努力が足りていない」というメタ言語が発生する。体育会系な人じゃなくても「私も昔はそうだったのよ」などとのたまうババアも同様のメタ言語から逃れられていない。「正常であるために必要な努力量は人間大体同じである」というメタ言語即ちパラノイアックな妄想から。もしかしたら自分が今話している相手は正常であるために自分の予想以上の努力が必要な人かもしれない。そんな現実的可能性が彼ら彼女らの主観世界から棄却されている。
日常的に努力している奴から見ればその瞬間のそいつが努力しているかどうかはなんとなくわかる。自体愛的に自分のことに必死にならずに済む奴らがここで言う正常人だ。
わたしは常に大多数の人間が共有しているこの妄想に苦しめられてきた。見た目が普通だから「努力が足りないんだよ、甘えてるだけだよ」と言われ続けてきた。自分でそう思った。「自分は努力が足りないんだ、甘えてるだけなんだ」と。だから努力した。努力すれば努力しないで済む世界が待っていると思っていた。努力の一つが役者の稽古だった。
こういった努力の結果、わたしはより普通に見られるようになった。より「努力が足りないんだよ、甘えてるだけだよ」と言われるようになった。
自閉症者など、正常に見られるため努力している未去勢者は多いと思う。しかしその結果、より自分を苦しめるようになるかもしれない。その努力が実った未来は薔薇色とは限らない。より努力が必要な世界が待っているだけである。地獄を克服した先にはより辛い地獄が待っている。
それが現実である。
もちろん以上はわたしの経験から述べているだけであり、そうじゃない未去勢者がいても構わない。
この問題は未去勢者に責任はない。
精神分析を学んだ今は言明できる。
「正常であるために必要な努力量とは人間大体同じである」という妄想から逃れられないパラノイアックなBPD即ち正常人たちのせいなのだ。その妄想が引き起こしている問題なのだ。
生後二年以内に柵が軸にならなかった人間にとって、柵は柵のままなのだ。
柵の内外には始原の暴力が渦巻いている。
また、わたしの論においては軸のない柵についてサントームという概念が相当するため、ラカン派の「自我とはただの自己防衛機制である」という言い分と、自我心理学の「自我とは防衛機制のみではない、もっと素晴らしい機能を持っている」という言い分が脱構築される。ラカン派の語用で言うなれば、軸もあり柵もある正常人にとって自我になっているだけであり、それよりもっと現実的な防衛機制がある、という具合に。この現実的な防衛機制を定義上どの概念に含めるかの問題にすぎなくなる。わたし論ではサントームの一例として自閉症者のエコラリアが含まれるが、この時エコラリアさせているのは自我なのだろうか。一般の防衛機制とは違う症状を示しているそれを自我の機能に含めさせることができるのだろうか。
どっちでもいい。
しかし彼らはなべてパラノイアックなBPDだから人の言うことなんか聞きやしない。頭で理解してもすぐ忘れてしまう。パラノイア患者とは大体そういうものだ。自分の妄想を強固に信じきっている。たまたまその妄想が大多数の他者と共有できているだけなのが正常人である。同じパラノイア人種なのだ、彼らは。ラカン論では「人格とはパラノイアである」となる。むしろ(スキゾフレニックな)人格障害者の方が人間として正しい姿をしているのである。むしろ人格は攻撃すべきなのである。破壊してあげるべきなのである。
人格などパラノイアックな精神疾患の一症状にすぎないのだから。
殺せ、殺せ、正常人を殺せ。
わたしの論に何か矛盾ある?
まあバカの反論にゃ相手するつもりはないからどうでもいいけれど。
黙れ。
お前など主人ではない。
お前は、それは、血肉だ。
あと前記事の「フィールド」という言葉から「他者の場」を連想しなかったラカニアンは失格だから。既に。
来てもいいよ。その血肉を引き裂いてあげる。合格者も失格者も平等に。
つまるところ、「頭の中の小人、その小人の頭の中の小人、その小人の……」問題は、未去勢者にとって解決されていないのだ。
しかし、神経症者という大多数の人間が、それをパラノイアックな妄想で無理矢理解決、いや臭い物に蓋をして、日常に生かされていることを示したラカン論の功績は大きい。
物理学でさえ「岩を半分にして、さらに半分にして、さらに……」の延長線上にある量子力学も問題が解決されていない。
しかし、大多数の正常人たちは、その多数派の権力をもって、この問題を幻想で蓋をして生きているのだ。
恐るべきかな、素晴らしきかな、正常というパラノイアックな精神疾患。
多分、終わらせたいんだろうな。
ラカンのカマキリの喩え話は、「他者の享楽」という「寄生されることの享楽」に対応する「寄生することの快楽」を示している。幻想の蓋を示している。この時他者の享楽はメスのカマキリ側にある。
フィールドはあくまで自分の主観世界である。理解し合える客観的(間主観的)世界は妄想である。
しかし他者の主観世界は到達不可能である。
覗き穴がある。体が通り抜けられるほど大きくない。正常人たちは、オスのカマキリたちは、この覗き穴の中を生きている。二次元的で有限な空間にバーチャルな精神世界を構築し、幻想のわたしやあなたや彼や彼女らをログインさせている。要するに映画『マトリックス』である。その住人たちはそれがバーチャルであることを知らない。バーチャルな世界から覗き穴のこちら側に気づくには、たとえば象徴界の穴を見つめなければならない。
覗き穴だと知っている人間にとっても、他者を見るには覗き穴を通すしかない。バーチャル世界の外にザイオンのような世界は存在しない。器官なき身体は孤児である。わたしという孤児にとって、絶対的未知ではなくささやかな所有・把握可能な他者は、二次元的で有限なバーチャル精神世界を通してでしか見えない。
覗き穴に隔てられた人間が他者に近づこうとするならば、二次元的で有限なバーチャル世界に自己を流入させなければならない。
覗き穴の世界を生きている他の住人から見ると、そいつは正常化しようとしていることになる。他の住人は、味方でも敵でもなく野性の世界における緊張感に満ちた関係だったそいつに、自分を脅かしてきた正常人臭を感じるだろう。
未去勢者と正常人の他者が全く別物であるように、オスのカマキリとメスのカマキリの「終わり」は全く別物である。
わたしの終着駅はどちらだろう。
自分が吐いたあるキチガイへの言葉に自分で正常人臭を感じている。
十円玉ほどの覗き穴に頭を突っ込んでしまっている。
あなたが正常人なら、丸刈りにすると、頭に穴が開いているのがわかるだろう。肛門のような穴が。
わたしはそこに梅干のようなものを埋め込もうとしている。
これはカプセルのようなものだ。脳の神経活動に反応してカプセルにつまった薬剤が流出する仕掛けになっている。
とはいえ普段の生活で流出することはほとんどないだろう。詳らかなデータを取ったわけではないが、九十パーセントは一生流出しないと考えられる。
しかし、この梅干カプセルは、もともと人間の脳にあるシステムなんだよ。
現代の脳科学ではきちんと特定されていないが、脳幹に近いところの領野で司っているシステムだ。
ところが、このシステムは脳全体に影響を及ぼさない。機能として不完全なのだ。おそらく大脳皮質が肥大化したためだと思われる。
それを補おうというのがこの梅干カプセルなわけ。
逆精神分析なわけ。
無限が有限に寄生されて正常になるのならば、有限に無限を埋め込もうというわけ。
わかった?
じゃあ、始めるよ。
お前初めてかここは、力抜けよ。
頭の。