「死ぬよかましでしょ」
2009/04/29/Wed
『ギニーピッグ』だかで目に針を刺すシーンが有名だが、あんな感じで針を刺していた。
耳かきでもするかのように針を細かく動かしたのち、針が引き出された。
針の先にはでかい耳糞ならぬどす黒い塊が刺さっていた。
大きさはビー玉の半分程度、と言ったところだろうか。
針に沿って人差し指を滑らせ、塊をトレイに落とす。
わたしはそれをまじまじと見ていた。
眼球の中にあったのは確かである。黒いので黒目の中にあったのだろう。であるならば、おそらくこれは瞳孔だ。
針を刺していた医者はわたしに背中を見せてごそごそやっている。縫合でもしているのだろう。
なるほど、とわたしは思う。
おそらくこれは蘇生手術だ。死人を生き返らせる手術だ。
人は死んだら瞳孔が開く。ならば死んだのち瞳孔を摘出すればよい。簡単な理屈だ。
生き返った人間は視力を失うのだろうが、「死ぬよかましでしょ」という話か、などと考えを巡らす。
しかし生き返った人間に目が見えた頃の記憶があったならば新しい人生は心的苦痛の多いものとなるだろうに、とも思ったが現代医療のことであるからさまざまなフォロー体制があるのだろう。この患者もそれを知って手術に同意したのだろうし。わたしには関係ないことだ。
そんなことをトレイの上のどす黒い塊を見ながら思った。
精神疾患の症状説明に「現実検討能力」という言葉がよく出てくる。
キチガイにも現実検討能力がある。現実が違うのだ。何を現実と思うかは原則人それぞれである。この記事から。
=====
精神分析においては、正常人が認知する日常的現実と、精神病者の幻覚や妄想に、明確な区別はつけられない、としている。どちらとも等しく幻想であるとし、本当の現実は、器官なき身体でなければ到達しない、即ち原理的に到達不可能であることを示したのが、ラカンの現実界という概念である。正常人が共有している日常的現実など、共同幻想に過ぎないのだ。
となると、「現実」という言葉にとって重要になるのは、何が現実感を惹起させているか、ということである。現実そのものが問題ではなく、それを主体に現実だと思い込ませる何かが問題となる。この現実感はサルトル的な文脈によるならば実存感と言い換えてもよいだろう。わたしは好きじゃないが。
=====
正常人の「現実」は共同幻想である。
正常人に現実検討能力がないのであり、正常人のそれは「共同幻想検討能力」なのである。
わたしは周りの人間よりはるかに現実検討能力がある。
気を失いかけても耐えられる。
谷山浩子の『おやすみ』という曲。わたしはこれは正的な曲と感じていた。今の言語構造なら去勢済みな曲ということになるが、歌詞を見返してもそうだと思える。
さみしくないか 一人の夜は
暗い夜道を迷っていないか
イトウさんと「退屈さ」について話したが、(一般的語用における)「さみしさ」も違うように思える。
周りの人間の「さみしさ」は抑鬱的だ。喪的だ。
しかしわたしのさみしさは、真夜中一人きりでいる時のような、ぞわぞわした感じを伴うものだ。迷子の時の不安感に似ているさみしさだ。
わたしのではないな。谷山がここで歌うさみしさがそうだということ。
ということは、去勢済みな主体にとっての「さみしさ」と未去勢者にとってのさみしさは違う、などという言い方も可能だろう。おそらくこの差異は男性的抑鬱症と女性的抑鬱症の差異に相似する。
抑鬱的でも喪的でもない。
ぞわぞわするさみしさ。
それは退屈などではない。
退屈なんて意味も忘れたわ
刺激なんていつも
飢えたこともないし
本当のさみしさは「さみしく」などない。
刺激は常にある。
絶対的未知な刺激が。
さみしいからぞわぞわする。このぞわぞわ感は時に攻撃性となる。
そんなさみしさ。
暗い夜道を迷うさみしさ。
ささやかながらも所有・把握可能な他者という覗き穴を持っているから「さみしさ」という語義に従えるだけで、その実体は、覗き穴の中で生きている人間とは別物だ。
わかんなくていいと思うよ。
これがわかんないことが正常であるということだから。
抑鬱的・喪的な「さみしさ」が正常な「さみしさ」だ。
「君は、僕の命よりその箱の方が大事だと言うのかい?」
「正確には箱の中身ね」
「君はその箱の中身を見たことがあるのかい?」
「箱が勝手に開くの」
「見たことがあるならいいじゃないか。その箱の中身は既に君の物だ。なのに僕の命よりその箱が大事だというのかい?」
「あなたが見たなら、あなたの物になるのかもしれない。わたしが見ても、わたしの物にならない」
――そりゃそうだ。箱の中身はお前自身なんだから。
「あなたがわたしを見れば、わたしはあなたの物になる。あなたはそういう人」
「そうだ、僕は君を僕の物にしたい。だからそんな箱は棄ててくれ」
――こいつ、殺してあげようか?
「箱の中の魔女があなたを殺そうとしている。その前に出ていって。お願いだから」
耳かきでもするかのように針を細かく動かしたのち、針が引き出された。
針の先にはでかい耳糞ならぬどす黒い塊が刺さっていた。
大きさはビー玉の半分程度、と言ったところだろうか。
針に沿って人差し指を滑らせ、塊をトレイに落とす。
わたしはそれをまじまじと見ていた。
眼球の中にあったのは確かである。黒いので黒目の中にあったのだろう。であるならば、おそらくこれは瞳孔だ。
針を刺していた医者はわたしに背中を見せてごそごそやっている。縫合でもしているのだろう。
なるほど、とわたしは思う。
おそらくこれは蘇生手術だ。死人を生き返らせる手術だ。
人は死んだら瞳孔が開く。ならば死んだのち瞳孔を摘出すればよい。簡単な理屈だ。
生き返った人間は視力を失うのだろうが、「死ぬよかましでしょ」という話か、などと考えを巡らす。
しかし生き返った人間に目が見えた頃の記憶があったならば新しい人生は心的苦痛の多いものとなるだろうに、とも思ったが現代医療のことであるからさまざまなフォロー体制があるのだろう。この患者もそれを知って手術に同意したのだろうし。わたしには関係ないことだ。
そんなことをトレイの上のどす黒い塊を見ながら思った。
精神疾患の症状説明に「現実検討能力」という言葉がよく出てくる。
キチガイにも現実検討能力がある。現実が違うのだ。何を現実と思うかは原則人それぞれである。この記事から。
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精神分析においては、正常人が認知する日常的現実と、精神病者の幻覚や妄想に、明確な区別はつけられない、としている。どちらとも等しく幻想であるとし、本当の現実は、器官なき身体でなければ到達しない、即ち原理的に到達不可能であることを示したのが、ラカンの現実界という概念である。正常人が共有している日常的現実など、共同幻想に過ぎないのだ。
となると、「現実」という言葉にとって重要になるのは、何が現実感を惹起させているか、ということである。現実そのものが問題ではなく、それを主体に現実だと思い込ませる何かが問題となる。この現実感はサルトル的な文脈によるならば実存感と言い換えてもよいだろう。わたしは好きじゃないが。
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正常人の「現実」は共同幻想である。
正常人に現実検討能力がないのであり、正常人のそれは「共同幻想検討能力」なのである。
わたしは周りの人間よりはるかに現実検討能力がある。
気を失いかけても耐えられる。
谷山浩子の『おやすみ』という曲。わたしはこれは正的な曲と感じていた。今の言語構造なら去勢済みな曲ということになるが、歌詞を見返してもそうだと思える。
さみしくないか 一人の夜は
暗い夜道を迷っていないか
イトウさんと「退屈さ」について話したが、(一般的語用における)「さみしさ」も違うように思える。
周りの人間の「さみしさ」は抑鬱的だ。喪的だ。
しかしわたしのさみしさは、真夜中一人きりでいる時のような、ぞわぞわした感じを伴うものだ。迷子の時の不安感に似ているさみしさだ。
わたしのではないな。谷山がここで歌うさみしさがそうだということ。
ということは、去勢済みな主体にとっての「さみしさ」と未去勢者にとってのさみしさは違う、などという言い方も可能だろう。おそらくこの差異は男性的抑鬱症と女性的抑鬱症の差異に相似する。
抑鬱的でも喪的でもない。
ぞわぞわするさみしさ。
それは退屈などではない。
退屈なんて意味も忘れたわ
刺激なんていつも
飢えたこともないし
本当のさみしさは「さみしく」などない。
刺激は常にある。
絶対的未知な刺激が。
さみしいからぞわぞわする。このぞわぞわ感は時に攻撃性となる。
そんなさみしさ。
暗い夜道を迷うさみしさ。
ささやかながらも所有・把握可能な他者という覗き穴を持っているから「さみしさ」という語義に従えるだけで、その実体は、覗き穴の中で生きている人間とは別物だ。
わかんなくていいと思うよ。
これがわかんないことが正常であるということだから。
抑鬱的・喪的な「さみしさ」が正常な「さみしさ」だ。
「君は、僕の命よりその箱の方が大事だと言うのかい?」
「正確には箱の中身ね」
「君はその箱の中身を見たことがあるのかい?」
「箱が勝手に開くの」
「見たことがあるならいいじゃないか。その箱の中身は既に君の物だ。なのに僕の命よりその箱が大事だというのかい?」
「あなたが見たなら、あなたの物になるのかもしれない。わたしが見ても、わたしの物にならない」
――そりゃそうだ。箱の中身はお前自身なんだから。
「あなたがわたしを見れば、わたしはあなたの物になる。あなたはそういう人」
「そうだ、僕は君を僕の物にしたい。だからそんな箱は棄ててくれ」
――こいつ、殺してあげようか?
「箱の中の魔女があなたを殺そうとしている。その前に出ていって。お願いだから」