「私はお前たちとは違うのだよ」
2009/05/03/Sun
二日連続で十二時間以上寝た。頓服で飲んだレキソタンのせいかと思ったが眠気はそんなに催さない薬らしい。じゃあ体が寝たがっていただけだろう。
眠くて眠くて仕方がない、というわけではない。行動が重くなり(と言っても不快な重さではない)、ちょっとだけ横になろう、と思って横になると寝てしまっている。途中で起きている。喉乾いたな、お腹すいたな、トイレ行きたいな、などと。トイレはさすがに行くのだろうが、行動が重いのでまた横になる。横になるだけだと思っていても眠りに入る。
アモバンなんかは「あ、眠気来た」みたいに眠気とわかるんだよな。眠剤というシニフィアンの作用なのか。レキソタンは分類として眠剤ではないので不意打ちみたいに感じるのか。
スゴイネ、シニフィアンの恣意性って。
しかし一、二回飲んで「いい感じです」って言っただけなのにお約束のように毎回レキソタン出してくる医者も医者だわ。まあわたしは精神科医なんてお薬出してくれる機械としか思ってないんだけどさ。時々おもしろい話聞かせてくれるのはありがたいが。他の患者に対する愚痴とかな。「私はお前らメンヘラとは違う人種だ」という無意識を強く感じる。別にそれでむかつかない。お前はわたしにとって機械にすぎないのだから、わたしたちメンヘラとは違う人種であってくれた方がわたしも接しやすい。
断っておくが、今の精神科医さんは「私はお前たちとは違うのだよ(ザクとは違うのだよ、のノリ)」みたいな感じがあるのでわたしに合っている、という話で、彼を批判しているわけじゃなく「だがそれがいい」という話である。
テレビで「かけっこが速くなる特別な訓練法」みたいなのをやっていた。体にロープをくくりつけてゴール方向でがーって引っ張っていつもより速い速度で強制的に走らせる。それを何度かやってロープなしで走らせるとタイムが縮むらしい。ほー。
薬物療法もこれみたいなもんだろうな。
薬で強制的にβ要素からの接触防壁を構築させて、慣れさせて、やがて薬なしで自分で接触防壁を構築できるようにさせる。
しかしここで困った問題が一つある。
β要素という物自体の世界は、おぞましいものでもあるが魅惑的なものでもあるのだ。β要素をおぞましく思う態勢は生の欲動により、それを魅惑的に感じ惹きつけられてしまう態勢は死の欲動による、と言えるだろう。
要するにかけっこで速く走れない状態も視点を変えれば魅惑的なものになるのだな。
ある精神分析家が、「生の欲動/死の欲動」という二分法はくだらない、欲動は全て部分欲動と考えなければならない、みたいなことを主張していた。別にクライン派じゃなかったと思うが。
これも正しいんだよな。欲動は全て部分的だ。欲動が部分的である方向に向かうのが死の欲動だ。エントロピー増大則に従うのが死の欲動である。部分的な欲動を統御しようというのが生の欲動だ。ネゲントロピーなわけだ。となると先の精神分析家の主張は、生の欲動は欲動と見做さないという主張だ、となる。
ネゲントロピー的な作用を欲動と考えるかどうか。フロイトが示した欲動の定義を考えるならネゲントロピー的なそれも欲動と言うべきだとわたしは思うが、そんなに考えて言っているわけじゃないのでどっちでもいい。
かけっこの話なら「速く走れても別に嬉しくない」みたいなクソガキの言い分になるのかね。死の欲動は。本当は速く走りたい、速く走っている人たちが羨ましいと思っているのにそう言っているならそれは去勢の否認であり、本気で嬉しいと思えないのが未去勢者だ、ということになるな。
ラカンなら「三人の囚人」で「~だから既に走り出しているだろう」という推測が構築できないのが未去勢者、ってなるか。ってわたしがここだけピンと来ないって話なんだが。囚人の生活に満足しているというわけではないが監獄を出るのにためらいを覚えたりする囚人がいてもおかしかないだろう、と。このためらいの時間を考慮すれば「三人の囚人」における理屈は成立しなくなる。小説とかでは結構いるよなそんなキャラ。実際でも刑務所に戻りたがる浮浪者とかいるらしいし。
ここの囚人に未去勢者は存在しない、ということだ。「女(即ちファルスのない人間即ち未去勢者)は存在しない」と言明して理屈構築しているのがラカン論なわけだから正しいと言える。
ラカンの「三人の囚人」の喩え話は生の欲動の一側面である「せき立て」を説明していると言われている。まあすっきり理屈に符号してつまんねえ話だわ。
自閉症研究なら、「みんな監獄から少しでも早く出たいと思っている」という理屈的には単なる一条件にすぎないそれを、固定観念的に刷り込まれていることが、自閉症者が理解できないと言われている「心の理論」なんだろうな。
ラカン論の「三人の囚人」と「心の理論」って似ているとは前から思っていた。感覚で。
とはいえ、ラカン論は「心の理論」では隠蔽している「他人より早く」的な側面を含意している。要するに正常人の正常でありたがる気持ちにおける「他人を蹴落とす」側面を。「心の理論」はそれを隠蔽している。ちょうど自我心理学が自我を単なる葛藤の原因(即ち神経症という疾患の原因)だとしないように。って自我心理学のがましだよな。葛藤の原因であることを排除しているわけではない。それだけじゃない機能が自我にはあると言っているだけで。「心の理論」はそれらより劣った概念だ、となるな。
自閉症研究は、「心の理論」こそが正常人も罹患しうる精神疾患たる神経症の原因である、という事実を隠蔽している。
いや、「自閉症者は「心の理論」が理解できない」という文章あるいはこれに関わる文脈を考慮すれば、そこにこそ「他人を蹴落とす」「せき立て」が見て取れる、とも言える。自閉症研究者たちを精神分析するならば(シニフィアン連鎖即ち文脈を分析するのが精神分析である)、そういう文脈こそが彼らの神経症的な症状である、っつー話。そんな解釈も可能よね、程度に聞いてね。
別に研究者を精神分析しちゃいけないという法律はない。精神分析家さえも。
……という寝ぼけた話。
今思い出したけど、あるコンサートツアーにスタッフとして参加していた時、温泉旅館に泊まったのだよね。温泉はよかったんだけど、翌日体が言うことを聞かない。まじで働けない。昨日まで持てていた重い荷物が持てなくなっている。先輩に聞いたら「温泉つかって溜まってた疲れを思い出しちゃったんだろう」と言われた。結構そういうものらしい。ツアーのスタッフなんざ馬車馬のごとき扱いだしな。
緊張しっぱなしの方が社会的によい状態を生み出すことがある。リラックスはそれまで溜め込んでいた緊張を思い出させてしまうことがある。
どっちがいいって単純な話じゃないんだよね。
これも脱構築ですか?
眠くて眠くて仕方がない、というわけではない。行動が重くなり(と言っても不快な重さではない)、ちょっとだけ横になろう、と思って横になると寝てしまっている。途中で起きている。喉乾いたな、お腹すいたな、トイレ行きたいな、などと。トイレはさすがに行くのだろうが、行動が重いのでまた横になる。横になるだけだと思っていても眠りに入る。
アモバンなんかは「あ、眠気来た」みたいに眠気とわかるんだよな。眠剤というシニフィアンの作用なのか。レキソタンは分類として眠剤ではないので不意打ちみたいに感じるのか。
スゴイネ、シニフィアンの恣意性って。
しかし一、二回飲んで「いい感じです」って言っただけなのにお約束のように毎回レキソタン出してくる医者も医者だわ。まあわたしは精神科医なんてお薬出してくれる機械としか思ってないんだけどさ。時々おもしろい話聞かせてくれるのはありがたいが。他の患者に対する愚痴とかな。「私はお前らメンヘラとは違う人種だ」という無意識を強く感じる。別にそれでむかつかない。お前はわたしにとって機械にすぎないのだから、わたしたちメンヘラとは違う人種であってくれた方がわたしも接しやすい。
断っておくが、今の精神科医さんは「私はお前たちとは違うのだよ(ザクとは違うのだよ、のノリ)」みたいな感じがあるのでわたしに合っている、という話で、彼を批判しているわけじゃなく「だがそれがいい」という話である。
テレビで「かけっこが速くなる特別な訓練法」みたいなのをやっていた。体にロープをくくりつけてゴール方向でがーって引っ張っていつもより速い速度で強制的に走らせる。それを何度かやってロープなしで走らせるとタイムが縮むらしい。ほー。
薬物療法もこれみたいなもんだろうな。
薬で強制的にβ要素からの接触防壁を構築させて、慣れさせて、やがて薬なしで自分で接触防壁を構築できるようにさせる。
しかしここで困った問題が一つある。
β要素という物自体の世界は、おぞましいものでもあるが魅惑的なものでもあるのだ。β要素をおぞましく思う態勢は生の欲動により、それを魅惑的に感じ惹きつけられてしまう態勢は死の欲動による、と言えるだろう。
要するにかけっこで速く走れない状態も視点を変えれば魅惑的なものになるのだな。
ある精神分析家が、「生の欲動/死の欲動」という二分法はくだらない、欲動は全て部分欲動と考えなければならない、みたいなことを主張していた。別にクライン派じゃなかったと思うが。
これも正しいんだよな。欲動は全て部分的だ。欲動が部分的である方向に向かうのが死の欲動だ。エントロピー増大則に従うのが死の欲動である。部分的な欲動を統御しようというのが生の欲動だ。ネゲントロピーなわけだ。となると先の精神分析家の主張は、生の欲動は欲動と見做さないという主張だ、となる。
ネゲントロピー的な作用を欲動と考えるかどうか。フロイトが示した欲動の定義を考えるならネゲントロピー的なそれも欲動と言うべきだとわたしは思うが、そんなに考えて言っているわけじゃないのでどっちでもいい。
かけっこの話なら「速く走れても別に嬉しくない」みたいなクソガキの言い分になるのかね。死の欲動は。本当は速く走りたい、速く走っている人たちが羨ましいと思っているのにそう言っているならそれは去勢の否認であり、本気で嬉しいと思えないのが未去勢者だ、ということになるな。
ラカンなら「三人の囚人」で「~だから既に走り出しているだろう」という推測が構築できないのが未去勢者、ってなるか。ってわたしがここだけピンと来ないって話なんだが。囚人の生活に満足しているというわけではないが監獄を出るのにためらいを覚えたりする囚人がいてもおかしかないだろう、と。このためらいの時間を考慮すれば「三人の囚人」における理屈は成立しなくなる。小説とかでは結構いるよなそんなキャラ。実際でも刑務所に戻りたがる浮浪者とかいるらしいし。
ここの囚人に未去勢者は存在しない、ということだ。「女(即ちファルスのない人間即ち未去勢者)は存在しない」と言明して理屈構築しているのがラカン論なわけだから正しいと言える。
ラカンの「三人の囚人」の喩え話は生の欲動の一側面である「せき立て」を説明していると言われている。まあすっきり理屈に符号してつまんねえ話だわ。
自閉症研究なら、「みんな監獄から少しでも早く出たいと思っている」という理屈的には単なる一条件にすぎないそれを、固定観念的に刷り込まれていることが、自閉症者が理解できないと言われている「心の理論」なんだろうな。
ラカン論の「三人の囚人」と「心の理論」って似ているとは前から思っていた。感覚で。
とはいえ、ラカン論は「心の理論」では隠蔽している「他人より早く」的な側面を含意している。要するに正常人の正常でありたがる気持ちにおける「他人を蹴落とす」側面を。「心の理論」はそれを隠蔽している。ちょうど自我心理学が自我を単なる葛藤の原因(即ち神経症という疾患の原因)だとしないように。って自我心理学のがましだよな。葛藤の原因であることを排除しているわけではない。それだけじゃない機能が自我にはあると言っているだけで。「心の理論」はそれらより劣った概念だ、となるな。
自閉症研究は、「心の理論」こそが正常人も罹患しうる精神疾患たる神経症の原因である、という事実を隠蔽している。
いや、「自閉症者は「心の理論」が理解できない」という文章あるいはこれに関わる文脈を考慮すれば、そこにこそ「他人を蹴落とす」「せき立て」が見て取れる、とも言える。自閉症研究者たちを精神分析するならば(シニフィアン連鎖即ち文脈を分析するのが精神分析である)、そういう文脈こそが彼らの神経症的な症状である、っつー話。そんな解釈も可能よね、程度に聞いてね。
別に研究者を精神分析しちゃいけないという法律はない。精神分析家さえも。
……という寝ぼけた話。
今思い出したけど、あるコンサートツアーにスタッフとして参加していた時、温泉旅館に泊まったのだよね。温泉はよかったんだけど、翌日体が言うことを聞かない。まじで働けない。昨日まで持てていた重い荷物が持てなくなっている。先輩に聞いたら「温泉つかって溜まってた疲れを思い出しちゃったんだろう」と言われた。結構そういうものらしい。ツアーのスタッフなんざ馬車馬のごとき扱いだしな。
緊張しっぱなしの方が社会的によい状態を生み出すことがある。リラックスはそれまで溜め込んでいた緊張を思い出させてしまうことがある。
どっちがいいって単純な話じゃないんだよね。
これも脱構築ですか?