でも味噌汁つかない
2009/05/15/Fri
やけに登場人物が多い夢を見た。
ホテルの部屋でカラオケしてたり、ロードムービーみたくふらふら海岸沿いを歩いたり。
昔の友人がほとんどだったが、そういう人たちを遠巻きに眺めながら、某マンガのキャラクターと一緒にいたわたしだった。情けない。
ちょっと前母に味噌汁を飲ませたのだが、しょっぱくなったと言われた。
おふくろの味ねえ。
多分、「あーこんな感じ」というのはあるのだろうが、たとえば味を感じる器官に不具合が生じたらそれをそれと感じなくなる。
いや、記憶の側の問題かもしれない。
だとしたら、たとえば、おふくろの味を再現した料理と全く別の味の料理があったとして、多くの人が「全然味違うじゃん」と言ったとしても、器官に不具合のあるその人は全く別の味をおふくろの味と認知するかもしれない。
それが対象aってもんだ。
物はなんだっていいんだよ。
そう認知することが問題なんだ。
同棲ごっこした男は濃い味噌汁が好きだったな。
普通すぎるオチですまん。
『アンチ・オイディプス』より。
=====
むしろ、器官なき身体の上にあって逃走し、その中に身を隠して、そこに閉じこもっていることの方がよいのだ。ささやかな喜びとはプロセスとしての分裂症化であって、臨床実体としての分裂症者ではない。
=====
これは、この記事で言うところの
=====
ちっちゃなちんちんこすりながら未去勢な主観世界をレイプしている。幼女をレイプしながら「ほら、気持ちいいんだろ? おにいちゃんは君のことぜーんぶわかってるんだよ。痛いの? おにいちゃんも痛いんだよ。同じだねー(はぁと)」とか言ってるようなもんだ。
=====
レイパーであり、スキゾ仮面を被るパラノ人格者であり、去勢済みなのにアスペになりたがる人々を指している。
彼らは臨床実体としての分裂症者を棄却して、プロセスとしての分裂症化を行なっている。
お前らは分裂症者が生きるささやかな領土を略奪する征服者である。
この書物は快楽殺人者のディスクールを称揚している。
再び『アンチ・オイディプス』より。
=====
「あなたはプロセスを目標にしてしまった……。」
=====
この著者の主観世界にはプロセスか目標かしか存在しない。プロセスでも目標でもなく、物体として分裂症である、ただそうであるだけの人間が存在しない。
オイディプスの袋小路から逃れられていない。
プロセスか目標かというダブルバインドから逃れられていない。
父を乗り越えるか、父に到達するかというダブルバインドから逃れられていない。いや、父ではないから倒錯的なダブルバインドとでも言えようか。
『アンチ・オイディプス』は精神分析諸派の中でも、ラカンが唯一神経症を分裂症化させる道筋を拓いたと部分的に評価する。
しかし、ラカン論に対する批判、神経症が分裂症化できない理由をエディプスコンプレックスに閉じ込めてしまった。
一概にそれは誤りとは言えない。ラカンはフロイトが考えた去勢としてのエディプスコンプレックスを幻想とし、その本質に鏡像段階を持ち込んだ。
神経症が分裂症化する困難は厳としてある。
本当に分裂症化を論じるならこの困難を詳細に論じるべきであった。
すなわちラカンが考える去勢、鏡像段階を。
それなのにエディプスコンプレックスという、その当時充分論駁されていたそれしか論じられていない。(ガタリは)元ラカン派でありながら。
要するに、分裂症化をテーマとしたテクストとしては非常に出来の悪いものなのだ。
何故ガタリは(ファルスを批判しながらもその生成段階である)鏡像段階を論じなかったのか?
それは彼が去勢済みな主体だからである。
この書物が単なる去勢の否認、中二病の症状だからである。
しかしまあわたしから見れば『アンチ・オイディプス』こそがおんたこの量産を促している(あるいはおんたこがはびこることの予言である)ようにしか見えないのだが、おんたこを批判しながら「千プラ」を持ち上げる笙野頼子が見てて痛い。もちろんわたしの主観の話。
家族中心主義は、西欧文化と比すれば日本文化では希薄だとわたしは思う。
であるならば、フロイト的(エディプスコンプレックスを主軸とした)精神分析論は日本文化に馴染まない、となるだろう。実際、そういった経緯からアジャセコンプレックスなどという概念が提唱されたのだろう。
しかし『アンチ・オイディプス』は、ライヒの言説を根拠に、社会的抑制を主とし家族的抑制を従とした。それまでの(主流の)精神分析では逆だったらしい。要するに家族的抑制が原因となって総合的に社会的抑制を生み出す、と。そんな時代を知らないわたしからすれば「へーそうなんだ」ぐらいなんだが、こういった革命的(笑)主張が評価されてるらすい。
であるならば、『アンチ・オイディプス』は日本文化への精神分析の適用を助長する書物だと言えるかもしれんね。
わたしにとってはほんとどーでもいいことだが。雑談レベル。
あー河合隼雄が力説してた日本文化の特性もこれで理解したら実につまんねーこと論じてるのがわかるかもしれんな。
いやおもしろいよ、河合さんのは。ユング派は基本読み物としておもしろい。ライトノベルをおもしろいつってるのと似たおもしろいだが。
とはいえ河合さんも晩年は同じ論を使い回してたりするけどな。『神話の心理学』とかひどかったわ。使い回し度。まー新聞連載をまとめたものだから仕方ないのかもしれない。『ガン種』もバンクの多さに非難ごーごーだったろーがよ。それと同じ。
え? 「それまでの論の集大成」と言えばいいんですか? はいわかりました今度からそう言います。今のアニメは集大成ばっかりですね。
でもテレビはタダだから文句言わない。チャーハンAAいまだに持っててワラタ。
=====
文学が既成の概念に合致し、誰にとっても無害な消費対象に還元されてしまうとき、そこでもまたオイディプス化が最も重要な因子のひとつになっている。
=====
資本主義が生んだライトノベルはまさにこれであろう。
資本主義は分裂症化を促したのではなく、分裂症の仮面を大量生産し、その実体を専制君主化させたのである。
少なくとも日本においては。少なくともオタク文化においては。
あーこの「無害な消費対象」って言葉どっかで聞いたなと思ったが、車谷長吉が保坂和志作品を批判して似たようなこと言ってたな。
まあそういうことだ。
オイディプスすげーよ。って『アンチ・オイディプス』の「オイディプス」はネゲントロピーまで拡大しちゃってるからすげくもなるわ。
分析というよりもはや誇大妄想だな。「語る主体」が典型すぎるほどオイディプスなのに分裂症者の立場から論じている不自然さに誰も突っ込まないのが理解できない。
「そんなこと言ってるお前がもろオイディプスじゃねーかwww」
2ちゃんの煽りレベルで一蹴されうるテクストだ。出来の悪いレイプ小説だ。こんなん読むより氏賀Y太読んだ方がよっぽど器官なき身体を体感できると思うぜ。
ガタリはファロセントリストだ。潜在的な。口先だけでアンチ・ファルスをぶる去勢の否認、中二病者にすぎん。
そんなのがアルトーを語るから残酷演劇が誤読されてしまう。
ドゥルージアン、ガタリアンは八割死ねよ。今すぐ。
お前らはいまだにアルトーを殺している。粘着的に。
おそらく、『アンチ・オイディプス』が分裂症の臨床実体を棄却していることと、ラカンが女を存在させなくしたことには等しい作用がある。
「用心せよ、やりすぎるな、如才なさを欠いてはならない」
文学者に対する戒めの言葉と等しい作用がある。
それは彼らにとっての接触防壁なのだ。
自身がβ要素に、器官なき身体に、現実界に、物自体に翻弄されないための。
想像界・象徴界に、オイディプスの三角形に留まるための。
狂気に陥らないための。
「用心せよ、やりすぎるな、如才なさを欠いてはならない」
この戒めとアスペルガー症候群当事者のこの手記は好対照をなしている。
=====
いずれの人たちも「頭を切り換え」て「ほどほどのところで」「あきらめて譲る」「柔軟性」を持っていたことです。
どれほど破天荒に見えても、収拾を考えています。押さえるべきところは、寸止めで押さえています。
=====
オイディプスの三角形の淵で、彼らは「寸止め」している。「寸止め」できている。
おそらく無意識的に。
ガタリやラカンはましなのかもしれないな。意識的に「寸止め」しているようにも見える。
腐っても精神分析家。
折り畳めるならそれは器官なき身体ではない。『アンチ・オイディプス』が言う「器官なき身体」はファルスそのものだ。いやビオンの言う接触防壁、容器の方が厳密か(わたしはビオンの容器はファルスの裏面だと考えている。ここのコメント欄など)。
=====
<大地>の女神の充実身体は、その上で、耕作可能な種、農業用具そして人間の諸器官を結合するのだ。
=====
「<大地>の女神の充実身体」は去勢されている。そういった意味で巷のドゥルージアン、ガタリアンは誤読していない。アルトーが言う器官なき身体から言えば誤読だが。
「<大地>の女神の充実身体」は人を解体する。腐敗させ土に返す。そういう側面「も」ある。
ここでガタリは現実界を豊穣的なものとする中沢新一と同じ誤謬を犯している。「器官なき充実身体とは死の本能である」と冒頭で明言したにも関わらず。ガタリ自身の欲望機械が「<大地>の女神の充実身体」に覆い被さっている。ガタリはアルトーに飽き足らず女神さえもレイプしている。なんたるファロセントリスト。
=====
肉そのものにこのように登記することを「エクリチュール」と呼ぶならば、
=====
この辺りのくだりはわたしの論ならばこの記事に相当するが、「<大地>の女神の充実身体」は「登記」された「エクリチュール」を「結合」している。すなわち充実身体ではない。ガタリは部分対象を論拠にしておきながらその実体を理解できていない。原始社会は確かに未去勢的かもしれないが未去勢ではない。社会として成立しているからには去勢されている。構成員が全員アルトーである社会など瞬時に消滅するだろう。
違う。
滲むのだ。
工場のうなりや熱気は滲み出る。
滲んだそれを絵にするのが欲望機械である。分裂症のマッサージ療法における「欲望を認知させること」である。滲んだ絵を認知させることが「欲望を認知させること」である。工場の騒音を音楽だと言い張るのである。容器たる額縁に収めれば赤ん坊の落書きにも値段がつく。
それが絵になっていないのが器官なき身体である。騒音は騒音である。前衛芸術におけるドリッピングやポアリングのごときである。
折り畳んでも滲んでしまう。「やりすぎ」て「寸止め」できないのではなく、滲み出るように寸止めできない。絵画を描き終えた瞬間絵筆から垂れ落ちそれを失敗作たらしめる一滴の絵の具である。
むしろお前たちが、想像界・象徴界の、オイディプスの三角形のうちに強固に閉じこもっているから、故意に「やりすぎ」なければならないだけである。「やりすぎ」ないと絵の中から出られないだけである。
ガタリは死ぬ間際になってやっとこのことに気づいたらしい。
本当に精神分析家なのか、彼は。鈍感すぎる。分析家としての実績は高くなかったと予測できる。あ、だから精神分析を批判して社会運動に「逃走」したのか(笑)。
そりゃー臨床実体を棄却したくもなるわな。
精神分析家って職業選択が間違ってたんだろうね。ハナから政治家なりプロ市民なりになっときゃアジも有効だったろうに。
そういう本だよ。少なくとも『アンチ・オイディプス』は。
本気でガタリには殺意が湧く。これほど享楽ではなく快楽としてキチガイを殺しているテクストはそうそうない。強度を折り畳ませるための罠でこれほど用意周到なものはそうそうない。
「ボクチンだってだってビョーキなんだもーん」
異常なまでのスネオ度だ。ガタリのツラなんかまさにスネオじゃん。
ドゥルーズはまあ死に際があれだったから許してやらなくもない。
とはいえ二人とももう死んでいる。
代わりにドゥルージアン、ガタリアンにこの殺意を向けるのが機械的な作動だ。
だからドゥルージアン、ガタリアンたちは死ね。わたしのために。
お前たちはガタリという快楽殺人者が生産した「器官なき身体」なるコピー品でアルトーの器官なき身体を殺している。殺し続けている。
お前たちこそが、アルトーが非難するゴッホを殺した精神科医でありルイス・キャロルだ。
お前たちの教義に則るなら、もっとも生きる価値がないのがお前たちだ。お前たちは死んでいるのだ。生きていてはいけないのだ。
だから死ねと言っている。
こんな簡単な理屈を理解できないのが理解できない。
まず自分のそのちっちゃなちんちんを見つめろよ。コピースネオどもは。
あとついでにこの記事でも攻撃した松岡セイゴーっておっさんだけど、こいつレヴィ=ストロースのブリコラージュを誤読してるな。確かに編集って作業はブリコラージュ的だけど、レヴィレヴィのそれは出来上がるものはいびつなのだ。ガタリンが好きな言葉なら革命的(笑)(これつけないと気が済まない)なものが出来上がらなくてはならない。一方こいつは断片を組み合わせて何か形のある(既知な意味のある)ものを作ろうとしている。いや、作ってしまうのだろう。自分のやってることがエンジニアリングになってしまっているのに気づいてないのだろう。超自我なんだよな、こいつの出してくるものも。いびつでも革命的でもない、超自我の構造が焼きつけられたものしか出てこない。ガタリとおんなじことやってる。自分がひり出したうんこを見ようともしない。見てるのかもしれないが解体して回虫がいるかどうかを確かめようとしない。
こうやってガタリが分裂症化の一助として援用したレヴィ=ストロース論も神経症化促進剤として劣化されるんですね。
ほんと生きてていいことしねえな、正常人どもはよ。
このしとよく知らないからうぃきぺったらワセブンか(笑)。すごく如才なさそうですね(ごめん自分勝手にチョーウケタ)。
急に調子がよくなったわけだがあれだな。「棄てるエネルギー」なんだよな。
『アンチ・オイディプス』にも「棄てる」って言葉結構あるよな。棄てたものに襲われるのが分裂症だ、とかクリステヴァ論とばっち合っちゃう言い方してるし。
「棄却するエネルギー」なんだよなー。
ほぼ無意識的に棄却できる正常人はいいね。
ホテルの部屋でカラオケしてたり、ロードムービーみたくふらふら海岸沿いを歩いたり。
昔の友人がほとんどだったが、そういう人たちを遠巻きに眺めながら、某マンガのキャラクターと一緒にいたわたしだった。情けない。
ちょっと前母に味噌汁を飲ませたのだが、しょっぱくなったと言われた。
おふくろの味ねえ。
多分、「あーこんな感じ」というのはあるのだろうが、たとえば味を感じる器官に不具合が生じたらそれをそれと感じなくなる。
いや、記憶の側の問題かもしれない。
だとしたら、たとえば、おふくろの味を再現した料理と全く別の味の料理があったとして、多くの人が「全然味違うじゃん」と言ったとしても、器官に不具合のあるその人は全く別の味をおふくろの味と認知するかもしれない。
それが対象aってもんだ。
物はなんだっていいんだよ。
そう認知することが問題なんだ。
同棲ごっこした男は濃い味噌汁が好きだったな。
普通すぎるオチですまん。
『アンチ・オイディプス』より。
=====
むしろ、器官なき身体の上にあって逃走し、その中に身を隠して、そこに閉じこもっていることの方がよいのだ。ささやかな喜びとはプロセスとしての分裂症化であって、臨床実体としての分裂症者ではない。
=====
これは、この記事で言うところの
=====
ちっちゃなちんちんこすりながら未去勢な主観世界をレイプしている。幼女をレイプしながら「ほら、気持ちいいんだろ? おにいちゃんは君のことぜーんぶわかってるんだよ。痛いの? おにいちゃんも痛いんだよ。同じだねー(はぁと)」とか言ってるようなもんだ。
=====
レイパーであり、スキゾ仮面を被るパラノ人格者であり、去勢済みなのにアスペになりたがる人々を指している。
彼らは臨床実体としての分裂症者を棄却して、プロセスとしての分裂症化を行なっている。
お前らは分裂症者が生きるささやかな領土を略奪する征服者である。
この書物は快楽殺人者のディスクールを称揚している。
再び『アンチ・オイディプス』より。
=====
「あなたはプロセスを目標にしてしまった……。」
=====
この著者の主観世界にはプロセスか目標かしか存在しない。プロセスでも目標でもなく、物体として分裂症である、ただそうであるだけの人間が存在しない。
オイディプスの袋小路から逃れられていない。
プロセスか目標かというダブルバインドから逃れられていない。
父を乗り越えるか、父に到達するかというダブルバインドから逃れられていない。いや、父ではないから倒錯的なダブルバインドとでも言えようか。
『アンチ・オイディプス』は精神分析諸派の中でも、ラカンが唯一神経症を分裂症化させる道筋を拓いたと部分的に評価する。
しかし、ラカン論に対する批判、神経症が分裂症化できない理由をエディプスコンプレックスに閉じ込めてしまった。
一概にそれは誤りとは言えない。ラカンはフロイトが考えた去勢としてのエディプスコンプレックスを幻想とし、その本質に鏡像段階を持ち込んだ。
神経症が分裂症化する困難は厳としてある。
本当に分裂症化を論じるならこの困難を詳細に論じるべきであった。
すなわちラカンが考える去勢、鏡像段階を。
それなのにエディプスコンプレックスという、その当時充分論駁されていたそれしか論じられていない。(ガタリは)元ラカン派でありながら。
要するに、分裂症化をテーマとしたテクストとしては非常に出来の悪いものなのだ。
何故ガタリは(ファルスを批判しながらもその生成段階である)鏡像段階を論じなかったのか?
それは彼が去勢済みな主体だからである。
この書物が単なる去勢の否認、中二病の症状だからである。
しかしまあわたしから見れば『アンチ・オイディプス』こそがおんたこの量産を促している(あるいはおんたこがはびこることの予言である)ようにしか見えないのだが、おんたこを批判しながら「千プラ」を持ち上げる笙野頼子が見てて痛い。もちろんわたしの主観の話。
家族中心主義は、西欧文化と比すれば日本文化では希薄だとわたしは思う。
であるならば、フロイト的(エディプスコンプレックスを主軸とした)精神分析論は日本文化に馴染まない、となるだろう。実際、そういった経緯からアジャセコンプレックスなどという概念が提唱されたのだろう。
しかし『アンチ・オイディプス』は、ライヒの言説を根拠に、社会的抑制を主とし家族的抑制を従とした。それまでの(主流の)精神分析では逆だったらしい。要するに家族的抑制が原因となって総合的に社会的抑制を生み出す、と。そんな時代を知らないわたしからすれば「へーそうなんだ」ぐらいなんだが、こういった革命的(笑)主張が評価されてるらすい。
であるならば、『アンチ・オイディプス』は日本文化への精神分析の適用を助長する書物だと言えるかもしれんね。
わたしにとってはほんとどーでもいいことだが。雑談レベル。
あー河合隼雄が力説してた日本文化の特性もこれで理解したら実につまんねーこと論じてるのがわかるかもしれんな。
いやおもしろいよ、河合さんのは。ユング派は基本読み物としておもしろい。ライトノベルをおもしろいつってるのと似たおもしろいだが。
とはいえ河合さんも晩年は同じ論を使い回してたりするけどな。『神話の心理学』とかひどかったわ。使い回し度。まー新聞連載をまとめたものだから仕方ないのかもしれない。『ガン種』もバンクの多さに非難ごーごーだったろーがよ。それと同じ。
え? 「それまでの論の集大成」と言えばいいんですか? はいわかりました今度からそう言います。今のアニメは集大成ばっかりですね。
でもテレビはタダだから文句言わない。チャーハンAAいまだに持っててワラタ。
=====
文学が既成の概念に合致し、誰にとっても無害な消費対象に還元されてしまうとき、そこでもまたオイディプス化が最も重要な因子のひとつになっている。
=====
資本主義が生んだライトノベルはまさにこれであろう。
資本主義は分裂症化を促したのではなく、分裂症の仮面を大量生産し、その実体を専制君主化させたのである。
少なくとも日本においては。少なくともオタク文化においては。
あーこの「無害な消費対象」って言葉どっかで聞いたなと思ったが、車谷長吉が保坂和志作品を批判して似たようなこと言ってたな。
まあそういうことだ。
オイディプスすげーよ。って『アンチ・オイディプス』の「オイディプス」はネゲントロピーまで拡大しちゃってるからすげくもなるわ。
分析というよりもはや誇大妄想だな。「語る主体」が典型すぎるほどオイディプスなのに分裂症者の立場から論じている不自然さに誰も突っ込まないのが理解できない。
「そんなこと言ってるお前がもろオイディプスじゃねーかwww」
2ちゃんの煽りレベルで一蹴されうるテクストだ。出来の悪いレイプ小説だ。こんなん読むより氏賀Y太読んだ方がよっぽど器官なき身体を体感できると思うぜ。
ガタリはファロセントリストだ。潜在的な。口先だけでアンチ・ファルスをぶる去勢の否認、中二病者にすぎん。
そんなのがアルトーを語るから残酷演劇が誤読されてしまう。
ドゥルージアン、ガタリアンは八割死ねよ。今すぐ。
お前らはいまだにアルトーを殺している。粘着的に。
おそらく、『アンチ・オイディプス』が分裂症の臨床実体を棄却していることと、ラカンが女を存在させなくしたことには等しい作用がある。
「用心せよ、やりすぎるな、如才なさを欠いてはならない」
文学者に対する戒めの言葉と等しい作用がある。
それは彼らにとっての接触防壁なのだ。
自身がβ要素に、器官なき身体に、現実界に、物自体に翻弄されないための。
想像界・象徴界に、オイディプスの三角形に留まるための。
狂気に陥らないための。
「用心せよ、やりすぎるな、如才なさを欠いてはならない」
この戒めとアスペルガー症候群当事者のこの手記は好対照をなしている。
=====
いずれの人たちも「頭を切り換え」て「ほどほどのところで」「あきらめて譲る」「柔軟性」を持っていたことです。
どれほど破天荒に見えても、収拾を考えています。押さえるべきところは、寸止めで押さえています。
=====
オイディプスの三角形の淵で、彼らは「寸止め」している。「寸止め」できている。
おそらく無意識的に。
ガタリやラカンはましなのかもしれないな。意識的に「寸止め」しているようにも見える。
腐っても精神分析家。
折り畳めるならそれは器官なき身体ではない。『アンチ・オイディプス』が言う「器官なき身体」はファルスそのものだ。いやビオンの言う接触防壁、容器の方が厳密か(わたしはビオンの容器はファルスの裏面だと考えている。ここのコメント欄など)。
=====
<大地>の女神の充実身体は、その上で、耕作可能な種、農業用具そして人間の諸器官を結合するのだ。
=====
「<大地>の女神の充実身体」は去勢されている。そういった意味で巷のドゥルージアン、ガタリアンは誤読していない。アルトーが言う器官なき身体から言えば誤読だが。
「<大地>の女神の充実身体」は人を解体する。腐敗させ土に返す。そういう側面「も」ある。
ここでガタリは現実界を豊穣的なものとする中沢新一と同じ誤謬を犯している。「器官なき充実身体とは死の本能である」と冒頭で明言したにも関わらず。ガタリ自身の欲望機械が「<大地>の女神の充実身体」に覆い被さっている。ガタリはアルトーに飽き足らず女神さえもレイプしている。なんたるファロセントリスト。
=====
肉そのものにこのように登記することを「エクリチュール」と呼ぶならば、
=====
この辺りのくだりはわたしの論ならばこの記事に相当するが、「<大地>の女神の充実身体」は「登記」された「エクリチュール」を「結合」している。すなわち充実身体ではない。ガタリは部分対象を論拠にしておきながらその実体を理解できていない。原始社会は確かに未去勢的かもしれないが未去勢ではない。社会として成立しているからには去勢されている。構成員が全員アルトーである社会など瞬時に消滅するだろう。
違う。
滲むのだ。
工場のうなりや熱気は滲み出る。
滲んだそれを絵にするのが欲望機械である。分裂症のマッサージ療法における「欲望を認知させること」である。滲んだ絵を認知させることが「欲望を認知させること」である。工場の騒音を音楽だと言い張るのである。容器たる額縁に収めれば赤ん坊の落書きにも値段がつく。
それが絵になっていないのが器官なき身体である。騒音は騒音である。前衛芸術におけるドリッピングやポアリングのごときである。
折り畳んでも滲んでしまう。「やりすぎ」て「寸止め」できないのではなく、滲み出るように寸止めできない。絵画を描き終えた瞬間絵筆から垂れ落ちそれを失敗作たらしめる一滴の絵の具である。
むしろお前たちが、想像界・象徴界の、オイディプスの三角形のうちに強固に閉じこもっているから、故意に「やりすぎ」なければならないだけである。「やりすぎ」ないと絵の中から出られないだけである。
ガタリは死ぬ間際になってやっとこのことに気づいたらしい。
本当に精神分析家なのか、彼は。鈍感すぎる。分析家としての実績は高くなかったと予測できる。あ、だから精神分析を批判して社会運動に「逃走」したのか(笑)。
そりゃー臨床実体を棄却したくもなるわな。
精神分析家って職業選択が間違ってたんだろうね。ハナから政治家なりプロ市民なりになっときゃアジも有効だったろうに。
そういう本だよ。少なくとも『アンチ・オイディプス』は。
本気でガタリには殺意が湧く。これほど享楽ではなく快楽としてキチガイを殺しているテクストはそうそうない。強度を折り畳ませるための罠でこれほど用意周到なものはそうそうない。
「ボクチンだってだってビョーキなんだもーん」
異常なまでのスネオ度だ。ガタリのツラなんかまさにスネオじゃん。
ドゥルーズはまあ死に際があれだったから許してやらなくもない。
とはいえ二人とももう死んでいる。
代わりにドゥルージアン、ガタリアンにこの殺意を向けるのが機械的な作動だ。
だからドゥルージアン、ガタリアンたちは死ね。わたしのために。
お前たちはガタリという快楽殺人者が生産した「器官なき身体」なるコピー品でアルトーの器官なき身体を殺している。殺し続けている。
お前たちこそが、アルトーが非難するゴッホを殺した精神科医でありルイス・キャロルだ。
お前たちの教義に則るなら、もっとも生きる価値がないのがお前たちだ。お前たちは死んでいるのだ。生きていてはいけないのだ。
だから死ねと言っている。
こんな簡単な理屈を理解できないのが理解できない。
まず自分のそのちっちゃなちんちんを見つめろよ。コピースネオどもは。
あとついでにこの記事でも攻撃した松岡セイゴーっておっさんだけど、こいつレヴィ=ストロースのブリコラージュを誤読してるな。確かに編集って作業はブリコラージュ的だけど、レヴィレヴィのそれは出来上がるものはいびつなのだ。ガタリンが好きな言葉なら革命的(笑)(これつけないと気が済まない)なものが出来上がらなくてはならない。一方こいつは断片を組み合わせて何か形のある(既知な意味のある)ものを作ろうとしている。いや、作ってしまうのだろう。自分のやってることがエンジニアリングになってしまっているのに気づいてないのだろう。超自我なんだよな、こいつの出してくるものも。いびつでも革命的でもない、超自我の構造が焼きつけられたものしか出てこない。ガタリとおんなじことやってる。自分がひり出したうんこを見ようともしない。見てるのかもしれないが解体して回虫がいるかどうかを確かめようとしない。
こうやってガタリが分裂症化の一助として援用したレヴィ=ストロース論も神経症化促進剤として劣化されるんですね。
ほんと生きてていいことしねえな、正常人どもはよ。
このしとよく知らないからうぃきぺったらワセブンか(笑)。すごく如才なさそうですね(ごめん自分勝手にチョーウケタ)。
急に調子がよくなったわけだがあれだな。「棄てるエネルギー」なんだよな。
『アンチ・オイディプス』にも「棄てる」って言葉結構あるよな。棄てたものに襲われるのが分裂症だ、とかクリステヴァ論とばっち合っちゃう言い方してるし。
「棄却するエネルギー」なんだよなー。
ほぼ無意識的に棄却できる正常人はいいね。