腕の創造的な働き
2009/05/30/Sat
そういや映画の話いろいろ書いているけど好きな役者はマット・デイモンだって書いてなかった。自分にとって当たり前すぎることは書く必要がないもんな。
いろいろ考えていることはあるが文字にする気力が湧かない。
『ハガレン』第五話。細かい動作まで描けていて感心する。子供エドが母親に鉄(?)の馬のおもちゃを渡すシーンで立ち止まる瞬間とか、現在エドが悪夢を見て起きた直後のベッドの上の微妙な動きとか。それとギャグの手抜き描写(壊れされたアルがエドを殴るシーンとか)との落差がいい。戦闘シーンもよく動いてたな。なんでこんな中途半端な話数で力入れるんだろうな。『NARUTO』もそうだったよな。制作陣の事情があるんだろう。
え? 『ハガレン』好きですよ? 前作はアニメ板スレに常駐してたし。
今作は主題歌が気に入らない。曲はよくわからんからまーいいとして歌詞が。まさに「主語の欠落」(ばーい宮台真司)。
さて。
歯を磨いていると歯茎から血ならぬ涙が出ませんか?
どうでもいいんですそんなこと。
こちらを見つめていてもこちらに背を向けていても気に入らない。
子供の駄々ですよね。
そんな人間なんです。未去勢者という人種は。
「腕の創造的な働き」という言葉がぽっと浮かんだ。べ、別にエドの錬金ポーズに感化されたわけじゃないんだからねっ!
腕なんだよなあ、と思った。
物自体的な世界、ビオン論で言うβ要素の世界、ラカン論で言う現実界から離脱するための「モノの殺害」という段階においては、「所有・把握」という概念が重要となる。物自体は所有・把握可能性を確信されることで殺害される。「人は人を殺せる」と歌う風の歌が聞こえなくなる。周囲の人や物に存在を脅かされている迷子はそれらを所有・把握することで迷子じゃなくなる。溺れる者は藁をつかむ。
笙野頼子は『だいにっほんシリーズ』において、自らの概念「仏教的自我」を論じる際、ブッダが国を「所有」していたことを強調している。恐るべき洞察だと感じる。
しかしこの時、自分自身も所有・把握可能となる。この時彼は自分自身という物自体を殺害している。だから風は「人は人を殺せる」と歌う。迷子は不安感を抹殺する。人は藁でできた地上を生きていく。
自分自身を所有・把握可能なモノとすること。物自体的な自分自身を殺害すること。これがラカン論における鏡像段階である。あるいは禅問答における「獣にも人間にも仏性はある。ただし人間はそれに気づくことができる」という論旨にも相当するだろう。
物自体的な自分自身をまだ殺せていない未去勢者たちは、去勢済みな主体としての迷子が脇目もふらず親のもとへと駆け寄るようにはいかない。迷子であり続ける。迷子である自分自身が殺害する・される恐怖におののいている。常に。この恐怖は未去勢者の一例たる自閉症について論じた斎藤環のこのテクストにおける「主体化への恐れ」に相当する。
未去勢者という迷子は迷子から抜け出した状態に怯えている。
去勢済みな主体たちがだらしない笑みを浮かべ歓迎する天国に怯えている。
『エヴァンゲリオン』ラストシーンの「おめでとう」という言葉に怯えている。
とはいえ、迷子の未去勢者たちも、他人の助けを借りず自力で周囲の物自体を所有・把握可能にするよう努力することもある。物自体的な自分自身を殺すことなく妥協的、戦略的、綱渡り的に周囲を所有・把握していく。
この作業は去勢済みな主体たちも同様にこなして生きているが、未去勢者のそれは(社会的に、ラカン論で言えば想像界・象徴界において)非生産的なものとなる。何故なら彼らのうちに所有・把握可能な自分自身が存在していない、あるいは希薄だからである。
去勢済みな主体にとってこの作業は、自らのうちに秘めた所有・把握可能な自分、我思う故にある我と共鳴するため、いわば「アイデンティティ確立の一助となる社会的に望ましい労働」となりえる。とはいえ、この我思う故にある我とは無意識の奥底に格納されているのが普通であるため、共鳴先があっても共鳴が届かない場合も多かろう。
一方、未去勢者の労働には共鳴先が存在していない、あるいは希薄である。従ってそれは非生産的なものとなる。しかし彼らは生きるためにこれをこなさなければならない。去勢済みな主体たちがそれをアイデンティティなどという幻想の糧にする術を知っているだけである。彼らは物自体的な自分自身を既に殺害済みだから。
この未去勢者がする非生産的な労働がラカン論におけるサントームである。
わたしはこの記事やこの記事で「軸」と「柵」という言葉を多用してこのことを述べている。これに倣うなら「軸」とはファルスであり、「軸のない柵」がサントームである、と言える。ただし去勢済みな主体即ち軸を持っている主体即ちファルスを持っている主体でも柵はある。彼らの軸と柵は通底している。この記事から。
=====
補足しておくと、自閉症者のエコラリアやエコプラクシアも現実界的なものではない。現実界のうねりから防衛するための、「軸」のない「柵」である。一方、「軸」もあって「柵」もあるのが定型発達者の精神構造である。定型発達者たちは、安心の二重構造により防衛されている。これらの二重構造は精神分析において様々な側面を様々な言い方で表現されている。快楽原則と現実原則、自我と超自我、想像界と象徴界、S1とS2、ファルスとサントーム、セミオティックとサンボリック、等々。
(中略)
なお、この「軸」は現実的には中空軸であり、「軸」と「柵」は通底している。このことを図式的に表すならば、シフォンケーキの型を想像すればよろしい。この型を上下にくっつけるとあら不思議、ドーナツになる。ラカンの言う言語構造というトーラスになる。
=====
あるいはこの記事のコメント欄から。
=====
ここでこの記事にも書いた軸(ファルス)と柵(サントーム)理論を活用する(厳密には定義上軸のない柵がサントームであるとなるが)。
この軸と柵は通底している。軸が成長すれば柵も成長するし、柵が成長すれば軸も成長する。通底している用水路によって。
柵は、社会から学び取る即ち社会性を補填する知識や知恵(学問的なものとは限らない。たとえば世渡りテクニックなども含まれる)により成長する。
=====
この通底していることが、先に述べた「自らのうちに秘めた所有・把握可能な自分、我思う故にある我と共鳴する」ことに相当する。
……話がそれたな。腕の話か。ここまでは序論ってことで。序論の方が文量多いなんてよくあること。
物自体という絶対的未知性を帯びたそれを所有・把握可能にしていくこと。ここには人間という種に特徴的な腕の運動機能が強く関わっているんじゃないか、という話かな。
去勢済みな主体がする「アイデンティティ確立の一助となる社会的に望ましい労働」となる作業も、たまたま共鳴先に届かなかった作業も、未去勢者がする刑務作業も、等しく「腕の創造的な働き」が根本にあるのではないだろうか。なんせ所有・把握なわけだから。
あれね、ボケ防止には指を動かすといい、とかって話にもなるかもね。無理矢理日常に引き寄せるなら。
刑務作業っつーよりここのコメント欄に書いているように賽の河原で小石を積み重ねる作業だな。
まとまってないけどうpしとく。
あるキチガイの握力測定値が自分よりあってびっくりした。
こんな握力でよく剣道なんかやってられたな。授業中鉄扇(って手首鍛える道具があったのさ、ってぐぐったら似たのがあった。扇っつってるけど別に開かないただの鉄の棒)振り回してたにも関わらずこれだもんな。
でも結構強かったんだぜ。県大会ベスト8常連校の団体戦レギュラーだったもん。
まあ競技人口がアホみたいに少なかったけどな。
引き分けのスペシャリストでした。先生とも引き分けたことあるもんな。「こんにゃくみたい」って言われたな。にゅるにゅるかわすんだと。よくわかんねーが。
ああまともな文章書きたくねえ。
いろいろ考えていることはあるが文字にする気力が湧かない。
『ハガレン』第五話。細かい動作まで描けていて感心する。子供エドが母親に鉄(?)の馬のおもちゃを渡すシーンで立ち止まる瞬間とか、現在エドが悪夢を見て起きた直後のベッドの上の微妙な動きとか。それとギャグの手抜き描写(壊れされたアルがエドを殴るシーンとか)との落差がいい。戦闘シーンもよく動いてたな。なんでこんな中途半端な話数で力入れるんだろうな。『NARUTO』もそうだったよな。制作陣の事情があるんだろう。
え? 『ハガレン』好きですよ? 前作はアニメ板スレに常駐してたし。
今作は主題歌が気に入らない。曲はよくわからんからまーいいとして歌詞が。まさに「主語の欠落」(ばーい宮台真司)。
さて。
歯を磨いていると歯茎から血ならぬ涙が出ませんか?
どうでもいいんですそんなこと。
こちらを見つめていてもこちらに背を向けていても気に入らない。
子供の駄々ですよね。
そんな人間なんです。未去勢者という人種は。
「腕の創造的な働き」という言葉がぽっと浮かんだ。べ、別にエドの錬金ポーズに感化されたわけじゃないんだからねっ!
腕なんだよなあ、と思った。
物自体的な世界、ビオン論で言うβ要素の世界、ラカン論で言う現実界から離脱するための「モノの殺害」という段階においては、「所有・把握」という概念が重要となる。物自体は所有・把握可能性を確信されることで殺害される。「人は人を殺せる」と歌う風の歌が聞こえなくなる。周囲の人や物に存在を脅かされている迷子はそれらを所有・把握することで迷子じゃなくなる。溺れる者は藁をつかむ。
笙野頼子は『だいにっほんシリーズ』において、自らの概念「仏教的自我」を論じる際、ブッダが国を「所有」していたことを強調している。恐るべき洞察だと感じる。
しかしこの時、自分自身も所有・把握可能となる。この時彼は自分自身という物自体を殺害している。だから風は「人は人を殺せる」と歌う。迷子は不安感を抹殺する。人は藁でできた地上を生きていく。
自分自身を所有・把握可能なモノとすること。物自体的な自分自身を殺害すること。これがラカン論における鏡像段階である。あるいは禅問答における「獣にも人間にも仏性はある。ただし人間はそれに気づくことができる」という論旨にも相当するだろう。
物自体的な自分自身をまだ殺せていない未去勢者たちは、去勢済みな主体としての迷子が脇目もふらず親のもとへと駆け寄るようにはいかない。迷子であり続ける。迷子である自分自身が殺害する・される恐怖におののいている。常に。この恐怖は未去勢者の一例たる自閉症について論じた斎藤環のこのテクストにおける「主体化への恐れ」に相当する。
未去勢者という迷子は迷子から抜け出した状態に怯えている。
去勢済みな主体たちがだらしない笑みを浮かべ歓迎する天国に怯えている。
『エヴァンゲリオン』ラストシーンの「おめでとう」という言葉に怯えている。
とはいえ、迷子の未去勢者たちも、他人の助けを借りず自力で周囲の物自体を所有・把握可能にするよう努力することもある。物自体的な自分自身を殺すことなく妥協的、戦略的、綱渡り的に周囲を所有・把握していく。
この作業は去勢済みな主体たちも同様にこなして生きているが、未去勢者のそれは(社会的に、ラカン論で言えば想像界・象徴界において)非生産的なものとなる。何故なら彼らのうちに所有・把握可能な自分自身が存在していない、あるいは希薄だからである。
去勢済みな主体にとってこの作業は、自らのうちに秘めた所有・把握可能な自分、我思う故にある我と共鳴するため、いわば「アイデンティティ確立の一助となる社会的に望ましい労働」となりえる。とはいえ、この我思う故にある我とは無意識の奥底に格納されているのが普通であるため、共鳴先があっても共鳴が届かない場合も多かろう。
一方、未去勢者の労働には共鳴先が存在していない、あるいは希薄である。従ってそれは非生産的なものとなる。しかし彼らは生きるためにこれをこなさなければならない。去勢済みな主体たちがそれをアイデンティティなどという幻想の糧にする術を知っているだけである。彼らは物自体的な自分自身を既に殺害済みだから。
この未去勢者がする非生産的な労働がラカン論におけるサントームである。
わたしはこの記事やこの記事で「軸」と「柵」という言葉を多用してこのことを述べている。これに倣うなら「軸」とはファルスであり、「軸のない柵」がサントームである、と言える。ただし去勢済みな主体即ち軸を持っている主体即ちファルスを持っている主体でも柵はある。彼らの軸と柵は通底している。この記事から。
=====
補足しておくと、自閉症者のエコラリアやエコプラクシアも現実界的なものではない。現実界のうねりから防衛するための、「軸」のない「柵」である。一方、「軸」もあって「柵」もあるのが定型発達者の精神構造である。定型発達者たちは、安心の二重構造により防衛されている。これらの二重構造は精神分析において様々な側面を様々な言い方で表現されている。快楽原則と現実原則、自我と超自我、想像界と象徴界、S1とS2、ファルスとサントーム、セミオティックとサンボリック、等々。
(中略)
なお、この「軸」は現実的には中空軸であり、「軸」と「柵」は通底している。このことを図式的に表すならば、シフォンケーキの型を想像すればよろしい。この型を上下にくっつけるとあら不思議、ドーナツになる。ラカンの言う言語構造というトーラスになる。
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あるいはこの記事のコメント欄から。
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ここでこの記事にも書いた軸(ファルス)と柵(サントーム)理論を活用する(厳密には定義上軸のない柵がサントームであるとなるが)。
この軸と柵は通底している。軸が成長すれば柵も成長するし、柵が成長すれば軸も成長する。通底している用水路によって。
柵は、社会から学び取る即ち社会性を補填する知識や知恵(学問的なものとは限らない。たとえば世渡りテクニックなども含まれる)により成長する。
=====
この通底していることが、先に述べた「自らのうちに秘めた所有・把握可能な自分、我思う故にある我と共鳴する」ことに相当する。
……話がそれたな。腕の話か。ここまでは序論ってことで。序論の方が文量多いなんてよくあること。
物自体という絶対的未知性を帯びたそれを所有・把握可能にしていくこと。ここには人間という種に特徴的な腕の運動機能が強く関わっているんじゃないか、という話かな。
去勢済みな主体がする「アイデンティティ確立の一助となる社会的に望ましい労働」となる作業も、たまたま共鳴先に届かなかった作業も、未去勢者がする刑務作業も、等しく「腕の創造的な働き」が根本にあるのではないだろうか。なんせ所有・把握なわけだから。
あれね、ボケ防止には指を動かすといい、とかって話にもなるかもね。無理矢理日常に引き寄せるなら。
刑務作業っつーよりここのコメント欄に書いているように賽の河原で小石を積み重ねる作業だな。
まとまってないけどうpしとく。
あるキチガイの握力測定値が自分よりあってびっくりした。
こんな握力でよく剣道なんかやってられたな。授業中鉄扇(って手首鍛える道具があったのさ、ってぐぐったら似たのがあった。扇っつってるけど別に開かないただの鉄の棒)振り回してたにも関わらずこれだもんな。
でも結構強かったんだぜ。県大会ベスト8常連校の団体戦レギュラーだったもん。
まあ競技人口がアホみたいに少なかったけどな。
引き分けのスペシャリストでした。先生とも引き分けたことあるもんな。「こんにゃくみたい」って言われたな。にゅるにゅるかわすんだと。よくわかんねーが。
ああまともな文章書きたくねえ。