巨大な手と目
2009/06/08/Mon
何もない。
しゅわあああ。
「流れ/ストックあるいは切断」ばーい『アンチオイディプス』。
なるほどな。
「量子の波動性/粒子性」と等しいものか。「エントロピー/ネゲントロピー」は少しマクロ視点な気がするので表現として粗い。それならやはり「流れ/ストックあるいは切断」の方が簡素で正確な気がする。
またこれは肛門欲動でもあるんだろうな。「排泄する/我慢する」って。要するに、
「流れ/ストックあるいは切断」≒「量子の波動性/粒子性」≒「肛門欲動的な排泄/我慢」
→マクロ化して「エントロピー/ネゲントロピー」
ってことか。
ここでの「量子」には部分対象が相当する。
「流れ」も「量子の波動性」的な浸透運動が含意されていない点は粗いと言えるけどね。ガタリは晩年になってやっとそこを補足できた。
ここで「二階堂奥歯は散弾銃に撃ち抜かれた」と書いているが、『八本脚の蝶』を読み直すと若干「一本の槍で貫かれた」ようにも見える。若干去勢済み臭さがある。しかしまあ本もホームページも同じだけど誰かに見られていることは確信できないことでもないので去勢済みっぽい文体になる場合もあるだろう。二階堂が未去勢者である可能性が大幅に減少したわけではない。証拠を挙げるなら「聖女テレジアの法悦」に疑問を呈してること。ここが彼女が未去勢者と診断される決定的な一つの根拠となる。
このブログで再三述べている「軸と柵」理論で言うなら、「流れ/ストックあるいは切断」≒「量子の波動性/粒子性」の軸部分が「肛門欲動的な排泄/我慢」に相当し、『アンチ・オイディプス」による構造人類学の近親相姦というテーマから導き出された「流れ/ストックあるいは切断」は柵部分になるだろう。だから彼らは家族的な定型化された「流れ/ストックあるいは切断」を批判する。軸があるから定型化されるのであって、軸がないなら近親相姦などというマクロ視点からの概念によって統合されない。統合されたとしても柵的な統合の仕方、仮設的な仕方になる。
このことは、『アンチ・オイディプス』はアンチ・ファルス論でもあるが、辻褄が合っている。アンチ・ファルスを主張したいから「未開文明における近親相姦への無関心」を著者は強調する。納得できる。
なんか最近『アンチ・オイディプス』に優しくなってきたな、わたし。
おそらく散弾銃で撃ち抜かれたのは二階堂ではなくわたしなのだろう。
とても強力な散弾銃。胸部に命中したら上半身が肉片になって吹っ飛ぶぐらいの強力な散弾銃。
飛び散った肉片は空中を乱舞する。ブラウン運動のような軌跡で、それより驚くほどの速さで肉片が飛び交う。
この時わたしは巨大な手を夢想する。期待する。
どんなに巨大な手でも、手であるからには無限ではないため、多少の取りこぼしはあるだろう。ちょうどビオンが言うところの「特定域の電磁波に感度がある」「電波望遠鏡」のごとく。「特定域の電磁波」以外の思考は取りこぼしてしまうだろう。どんなに広域の電磁波を感知できる電波望遠鏡であっても。
だけど、取りこぼされた肉片もわたしだ。排泄物もわたしだ。
わたしに関係なくそれらは身勝手にあちこちを飛び交っているが、「量子は狂気の振る舞いをする」ので仕方ない。
多分、わたしは人を殺したことがあるのだと思う。そんな気がする。そんな気がしてならない。
実際には殺していないし、もし殺していたとしても現代の法律では裁かれない殺害方法である。このことをもって「わたしは人殺しなんかしていない」と言えなくはないが、どうしても人殺しをしているような気がしてならない。
この「人を殺したことがあるような気分」は「自分が殺されているような気分」とそう大差がない。殺されているのがわたしであってもわたしは別に驚かない。
わたしは散弾銃に撃ち抜かれているのだから。
巨大な手が。
容器が。
想像的父が。
アガペーが。
思考を考えるにふさわしくない電波望遠鏡が。
「流れ/ストックあるいは切断」の両立性ってある程度便利な言葉だね。『アンチ・オイディプス』の文脈を引きずったそれは。
「あれでありこれである」は「なんでもある」と等値であり、同時に「なんでもない」と等値だ。
絶対的未知としての無限。この時夢想する巨大な手は、わたしを掴み上げるために目が必要となるだろう。まなざしとは、巨大な手あるいは容器あるいは想像的父あるいはアガペーあるいは思考を考えるにふさわしくない電波望遠鏡を定立させるための、パラノイアックな妄想としての原因なのかもしれない。
多分、幼子が初めてする妄想。
あ、散弾銃には目がいらないんだよ。それはあちこちに設置されているから普通に生きているだけで流れ弾にあたるから。乱射している散弾銃だから目はいらないんだ。目という原因を妄想する必要はないんだ。必要だったとしても、その目は複数になるだろう。無数の目。
これが本当の「流れ/ストックあるいは切断」≒「量子の波動性/粒子性」だ。
こんな状態に必要なのは、目ではなく巨大な手だ。
目はその次。
……でもやっぱ「流れ/ストックあるいは切断」は便利だな。
ううむ。「強度」は粗すぎるけど『アンチ・オイディプス』中の文脈と精神分析理論を引きずればそこそこ使える程度だったが、構造人類学を引用した文脈を引きずったそれは「強度」より鋭利かもしれない。
「流れが強いのが強度なのかストック量が多いのが強度なのか」なんて馬鹿な質問はしないでね。激しい流れと膨大なストックとが強度だ。
正常人たちは、「流れの仕方/ストックあるいは切断の仕方」を事後的に人工的に定型化する。整流器だ。整流された「流れ/ストックあるいは切断」は強度が弱まる。そういう話。ここのインピーダンスうんぬんって話とも繋がるわな。それを「電流/抵抗」で比喩したってこと。
まあそんな話だ。
しゅわあああ。
「流れ/ストックあるいは切断」ばーい『アンチオイディプス』。
なるほどな。
「量子の波動性/粒子性」と等しいものか。「エントロピー/ネゲントロピー」は少しマクロ視点な気がするので表現として粗い。それならやはり「流れ/ストックあるいは切断」の方が簡素で正確な気がする。
またこれは肛門欲動でもあるんだろうな。「排泄する/我慢する」って。要するに、
「流れ/ストックあるいは切断」≒「量子の波動性/粒子性」≒「肛門欲動的な排泄/我慢」
→マクロ化して「エントロピー/ネゲントロピー」
ってことか。
ここでの「量子」には部分対象が相当する。
「流れ」も「量子の波動性」的な浸透運動が含意されていない点は粗いと言えるけどね。ガタリは晩年になってやっとそこを補足できた。
ここで「二階堂奥歯は散弾銃に撃ち抜かれた」と書いているが、『八本脚の蝶』を読み直すと若干「一本の槍で貫かれた」ようにも見える。若干去勢済み臭さがある。しかしまあ本もホームページも同じだけど誰かに見られていることは確信できないことでもないので去勢済みっぽい文体になる場合もあるだろう。二階堂が未去勢者である可能性が大幅に減少したわけではない。証拠を挙げるなら「聖女テレジアの法悦」に疑問を呈してること。ここが彼女が未去勢者と診断される決定的な一つの根拠となる。
このブログで再三述べている「軸と柵」理論で言うなら、「流れ/ストックあるいは切断」≒「量子の波動性/粒子性」の軸部分が「肛門欲動的な排泄/我慢」に相当し、『アンチ・オイディプス」による構造人類学の近親相姦というテーマから導き出された「流れ/ストックあるいは切断」は柵部分になるだろう。だから彼らは家族的な定型化された「流れ/ストックあるいは切断」を批判する。軸があるから定型化されるのであって、軸がないなら近親相姦などというマクロ視点からの概念によって統合されない。統合されたとしても柵的な統合の仕方、仮設的な仕方になる。
このことは、『アンチ・オイディプス』はアンチ・ファルス論でもあるが、辻褄が合っている。アンチ・ファルスを主張したいから「未開文明における近親相姦への無関心」を著者は強調する。納得できる。
なんか最近『アンチ・オイディプス』に優しくなってきたな、わたし。
おそらく散弾銃で撃ち抜かれたのは二階堂ではなくわたしなのだろう。
とても強力な散弾銃。胸部に命中したら上半身が肉片になって吹っ飛ぶぐらいの強力な散弾銃。
飛び散った肉片は空中を乱舞する。ブラウン運動のような軌跡で、それより驚くほどの速さで肉片が飛び交う。
この時わたしは巨大な手を夢想する。期待する。
どんなに巨大な手でも、手であるからには無限ではないため、多少の取りこぼしはあるだろう。ちょうどビオンが言うところの「特定域の電磁波に感度がある」「電波望遠鏡」のごとく。「特定域の電磁波」以外の思考は取りこぼしてしまうだろう。どんなに広域の電磁波を感知できる電波望遠鏡であっても。
だけど、取りこぼされた肉片もわたしだ。排泄物もわたしだ。
わたしに関係なくそれらは身勝手にあちこちを飛び交っているが、「量子は狂気の振る舞いをする」ので仕方ない。
多分、わたしは人を殺したことがあるのだと思う。そんな気がする。そんな気がしてならない。
実際には殺していないし、もし殺していたとしても現代の法律では裁かれない殺害方法である。このことをもって「わたしは人殺しなんかしていない」と言えなくはないが、どうしても人殺しをしているような気がしてならない。
この「人を殺したことがあるような気分」は「自分が殺されているような気分」とそう大差がない。殺されているのがわたしであってもわたしは別に驚かない。
わたしは散弾銃に撃ち抜かれているのだから。
巨大な手が。
容器が。
想像的父が。
アガペーが。
思考を考えるにふさわしくない電波望遠鏡が。
「流れ/ストックあるいは切断」の両立性ってある程度便利な言葉だね。『アンチ・オイディプス』の文脈を引きずったそれは。
「あれでありこれである」は「なんでもある」と等値であり、同時に「なんでもない」と等値だ。
絶対的未知としての無限。この時夢想する巨大な手は、わたしを掴み上げるために目が必要となるだろう。まなざしとは、巨大な手あるいは容器あるいは想像的父あるいはアガペーあるいは思考を考えるにふさわしくない電波望遠鏡を定立させるための、パラノイアックな妄想としての原因なのかもしれない。
多分、幼子が初めてする妄想。
あ、散弾銃には目がいらないんだよ。それはあちこちに設置されているから普通に生きているだけで流れ弾にあたるから。乱射している散弾銃だから目はいらないんだ。目という原因を妄想する必要はないんだ。必要だったとしても、その目は複数になるだろう。無数の目。
これが本当の「流れ/ストックあるいは切断」≒「量子の波動性/粒子性」だ。
こんな状態に必要なのは、目ではなく巨大な手だ。
目はその次。
……でもやっぱ「流れ/ストックあるいは切断」は便利だな。
ううむ。「強度」は粗すぎるけど『アンチ・オイディプス』中の文脈と精神分析理論を引きずればそこそこ使える程度だったが、構造人類学を引用した文脈を引きずったそれは「強度」より鋭利かもしれない。
「流れが強いのが強度なのかストック量が多いのが強度なのか」なんて馬鹿な質問はしないでね。激しい流れと膨大なストックとが強度だ。
正常人たちは、「流れの仕方/ストックあるいは切断の仕方」を事後的に人工的に定型化する。整流器だ。整流された「流れ/ストックあるいは切断」は強度が弱まる。そういう話。ここのインピーダンスうんぬんって話とも繋がるわな。それを「電流/抵抗」で比喩したってこと。
まあそんな話だ。