「コミュニケーション」の失敗が「誤解」ではない。
2009/06/10/Wed
自分が確信していることは自分にとって当然のことであるため、わざわざ言う必要がない。
言わない結果、誤解が生じる。自分にとって当然のことは相手にとっても当然であるとは限らないからだ。
それが普通なんだ。正しいコミュニケーションなんだ。
コミュニケーションとは誤解を土台にしているんだ。全てのエクリチュールは誤読なんだ。シニフィアンはブラウン運動している。シニフィアンの示差性はわやわやしている。差延。
「わやわや」って表現はわたしにとって便利だけど読者にはそうでもないかもしれないので一応説明すると、ブラウン運動みたいに動いているってこと、とここではしとく。
結局、思考なるものは自分の器官や脳を経由したものであるため、思考とは全て自らの自体愛の対象としての身体反応についての思考なんだ。
なのにここをすっとばすことができるのが正常人。評論にしろ自然科学にしろゴシップにしろ選挙にしろ、何かについての思考において自分の身体反応をすっ飛ばした思考が可能だ。
違うんだよ。
だから「誤解」と「コミュニケーション」が相反するものとして考えられちゃうんだよ。
それじゃあ全く分裂症化しないよ。
ファルスに支配されたままだよ。
鳥篭の中でピーチク鳴き続けるだけだよ(ここのコメント欄参照)。
「誤解」というラカン的な意味での現実の上にさまざまな工夫を凝らして構築するのが「コミュニケーション」であって、「誤解」はむしろ「コミュニケーション」の土台なんだ。「コミュニケーション」の失敗が「誤解」ではない。
こんなこと言っても正常人はすぐ「「コミュニケーション」の失敗が「誤解」だ」と思ってしまう。ファルスの支配下に舞い戻れる。
殺してやりたい。この憎悪はルサンチマンと言われてもおかしくないものであろう。いいよルサンチマンで。どうでもいい。
わたしのこのような思考についての思考を正常人にぶつけると、「哲学的だ」などと言われる。哲学でもなんでもないのに。ただそのような生き方をしているだけなのに。わたしが普通にしている思考を書き連ねたら「哲学的な問答をする気はありません」などと言われる。
もういいよ、「哲学的」で。どうでもいい。
「自明なるものを徹底的に懐疑することが哲学」ばーいたまきん。
懐疑しようとして懐疑しているんじゃないんだけどな。ただそういう思考が「哲学的」あるいは「自明なるものを懐疑している」と言われるだけで。
そんな思考を表明すると怒られる。「そんな考え方しちゃだめ」と教育されたから言わないようにしているけど、正常人たちの自明なるものを自明なるものとしてする思考とは土台が違う。
誤解し続ける。
わたしは誤解という現実を生きているだけ。
誤解という現実的土台の上にコミュニケーションを築こうとしているだけ。本当のコミュニケーションを。
それがわたしという言葉。
でも伝わらない。小学生の頃から繰り返された小言と同じ構造の言い分で叱られ続ける。
もうどうでもいい。
『棒状の罪』を聞いている。エロ歌好きだなわたし。
罪である「人間であること」であった自分を思い出して泣くのか。
そうなれなかったことに泣くのか。
言わない結果、誤解が生じる。自分にとって当然のことは相手にとっても当然であるとは限らないからだ。
それが普通なんだ。正しいコミュニケーションなんだ。
コミュニケーションとは誤解を土台にしているんだ。全てのエクリチュールは誤読なんだ。シニフィアンはブラウン運動している。シニフィアンの示差性はわやわやしている。差延。
「わやわや」って表現はわたしにとって便利だけど読者にはそうでもないかもしれないので一応説明すると、ブラウン運動みたいに動いているってこと、とここではしとく。
結局、思考なるものは自分の器官や脳を経由したものであるため、思考とは全て自らの自体愛の対象としての身体反応についての思考なんだ。
なのにここをすっとばすことができるのが正常人。評論にしろ自然科学にしろゴシップにしろ選挙にしろ、何かについての思考において自分の身体反応をすっ飛ばした思考が可能だ。
違うんだよ。
だから「誤解」と「コミュニケーション」が相反するものとして考えられちゃうんだよ。
それじゃあ全く分裂症化しないよ。
ファルスに支配されたままだよ。
鳥篭の中でピーチク鳴き続けるだけだよ(ここのコメント欄参照)。
「誤解」というラカン的な意味での現実の上にさまざまな工夫を凝らして構築するのが「コミュニケーション」であって、「誤解」はむしろ「コミュニケーション」の土台なんだ。「コミュニケーション」の失敗が「誤解」ではない。
こんなこと言っても正常人はすぐ「「コミュニケーション」の失敗が「誤解」だ」と思ってしまう。ファルスの支配下に舞い戻れる。
殺してやりたい。この憎悪はルサンチマンと言われてもおかしくないものであろう。いいよルサンチマンで。どうでもいい。
わたしのこのような思考についての思考を正常人にぶつけると、「哲学的だ」などと言われる。哲学でもなんでもないのに。ただそのような生き方をしているだけなのに。わたしが普通にしている思考を書き連ねたら「哲学的な問答をする気はありません」などと言われる。
もういいよ、「哲学的」で。どうでもいい。
「自明なるものを徹底的に懐疑することが哲学」ばーいたまきん。
懐疑しようとして懐疑しているんじゃないんだけどな。ただそういう思考が「哲学的」あるいは「自明なるものを懐疑している」と言われるだけで。
そんな思考を表明すると怒られる。「そんな考え方しちゃだめ」と教育されたから言わないようにしているけど、正常人たちの自明なるものを自明なるものとしてする思考とは土台が違う。
誤解し続ける。
わたしは誤解という現実を生きているだけ。
誤解という現実的土台の上にコミュニケーションを築こうとしているだけ。本当のコミュニケーションを。
それがわたしという言葉。
でも伝わらない。小学生の頃から繰り返された小言と同じ構造の言い分で叱られ続ける。
もうどうでもいい。
『棒状の罪』を聞いている。エロ歌好きだなわたし。
罪である「人間であること」であった自分を思い出して泣くのか。
そうなれなかったことに泣くのか。