不安と欲望
2007/01/31/Wed
いろいろオタク文化にまつわるブログめぐりをしています。そんな中結構ラカン論とか引用している記事もあったりするんですね。斎藤環さんの影響でしょうか。私もそうなんですけどw
こちらから一部引用しましょう。
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ラカンによれば、不安は欲望の対象=原因が欠けているときに起こるのではない。不安を引き起こすのは対象の欠如ではない。反対に、われわれが対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が、不安を引き起こすのだ。つまり、不安は欲望の消滅によってもたらされるのである。
(スロヴォイ・ジジェク氏著「斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へ」より)
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ラカンでは自分の欲望は他者の欲望です。なので「対象に近づく」ということは「その欲望の元となった他者への同一化」になります。そのゴールにあるのが対象aですね。しかし現実で「同一」となることは無理です。だから「近づきすぎたら」になるわけです。
この「同一化」の根源は赤子の時代まで遡ります。赤子は母親の胎内では「母親と同一だった」といえるでしょう。そこは「求めるだけ与えられる」(=全能感)世界です。しかしこの世に生を受けてしまうと、そうは生きません。その代わりに鏡(=他者の暗喩です)に映る自分の体を手に入れます。母親との差異に気付くわけです。でも鏡を見て自分の体は自分の思い通りに動くことに気付きます。これは全能感を彷彿とさせます。赤子は自分の体を愛します。これが「差異化」の根源になります。
差異化にしろ同一化にしろ、自分の欲望の元にあるのは母親か他者という鏡、つまり「他者の欲望」になるわけです。
これを「曖昧なもの」「確かなもの」二項論理で見てみましょう。
不安は「曖昧なもの」に惹起されます。「曖昧なもの」が多ければ不安を感じるのです。ホラーやミステリなどを考えればわかりやすいと思います。
さて、欲望の対象。これは小文字の他者であれ大文字の他者であれ、「確かなもの」と言えるわけです。「確かなもの」は安心を与えてくれます。
現実では「確かなもの」とはいえ、その周辺には「曖昧なもの」を漂わせています。この「曖昧なもの」が目立つ箇所が「欠如」となるのです。
欲望の対象、つまり他者に近づいたとして、ここで仮に「究極の近づき」、つまり同一化された場合のことを考えて見ましょう。
自分は欲望の対象について、「確かなもの」だと思っていても、それは欠如なり「曖昧なもの」を漂わせています。でも「確かなもの」を求めているので、同一化は対象中の「確かなもの」を中心に向かっていくことになります。だけどそれは、「欠如」を初めとした周りに漂う「曖昧なもの」に包まれることにもなるのです。自分の周りが「曖昧なもの」ばかりになり、それにより自分=対象の「欠如」に気付かなくなります。自分の欠点は気付きにくい、自分の背中は見えない、ということと同じです。「曖昧なもの」に包まれるとなると、不安が生じます。ジジェクが言っているのはこういうことだと思います。
ラカンのこの論は、実は禅の思想にも繋がります。仏教では全他者=自然との同一化を目的としています。そんなことは無理なのですが、無理だからこそそこを目指しています。
禅では、修行の中この「自然との一体感」的なものを味わうことがあります。これを「悟り」と言うのですが、禅ではそこに留まることが許されません。そこに留まれば魔境となるのです。これは、「確かなもの」を求めて同一化したと思ったら周りに「曖昧なもの」が広がっていることと類似します。だから禅では修行は死ぬまで続けられるのです。
欲望が再現なくエスカレートするのと、禅の修行とはこういった同じ構造を持っていると思います。
禅では、全他者との同一化を求めます。これは自我が他者との関係性の中に拡散していくことと表現できます。
一方、ラカンは他者の鏡に反射したものとしてのみ自我はあると考えます。この他者、つまり全他者=自然と自我が同「一」化すればどうなるか。ラカンは独特の数学的比喩でそれを表現しました。つまり全他者と自我をイコールで結んでみたわけです。すると、対象aつまり自我は黄金数で表現することがわかりました。禅の境地は、ラカン論では黄金数で比喩できることがわかったのですね。
ラカンが自分の論と禅思想の類似を指摘したのも頷けます。
こういった、仏教思想の無限回廊的考え方は、比較的ロゴス重視のキリスト教では薄まります。ロゴス主義なので、目的・ゴールなどを、現実に辿り着けないにしても「言葉」という「確かなもの」で表現したからです。哲学もそうですね。イデアなど究極の「確かなもの」を仮設して進められた思考と言えます。科学は再現性のあるものという「確かなもの」に限って掘り下げられていきました。
現代では、「確かなもの」だけに場合分けする近代的知に限界を感じる人々が生まれてきました。そこで、「確かなもの」と「確かなもの」を繋ぐ「曖昧なもの」への注目が始まったのです。「差異哲学」などですね。これが現代思想のテーマだと私は勝手に考えています。
しかし勘違いしないで欲しいのは、「曖昧なもの」に着目するとはいえ、「確かなもの」を否定するわけではありません。理論などの「ロゴス」がなければ「曖昧なもの」は発見できないからです。
現実では辿り着けない究極の「曖昧なもの」と「確かなもの」は、私の直感ではそれは表裏一体的に同一のものだと考えていますが、現実では「曖昧なもの」に「確かなもの」は含まれていますし、「確かなもの」にも「曖昧なもの」は含まれています。なので、実はこの二項論理による分類は程度の差を表すものにしか過ぎません。相対主義的なのです。上下のない横の広がりだけ。なのでこの論理はシステムを生みません。システムを解読する時だけに役立つ思考方法だと私は考えています。
――なんかすごく味気ない文章になってしまった。
言葉って怖い。
こちらから一部引用しましょう。
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ラカンによれば、不安は欲望の対象=原因が欠けているときに起こるのではない。不安を引き起こすのは対象の欠如ではない。反対に、われわれが対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が、不安を引き起こすのだ。つまり、不安は欲望の消滅によってもたらされるのである。
(スロヴォイ・ジジェク氏著「斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へ」より)
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ラカンでは自分の欲望は他者の欲望です。なので「対象に近づく」ということは「その欲望の元となった他者への同一化」になります。そのゴールにあるのが対象aですね。しかし現実で「同一」となることは無理です。だから「近づきすぎたら」になるわけです。
この「同一化」の根源は赤子の時代まで遡ります。赤子は母親の胎内では「母親と同一だった」といえるでしょう。そこは「求めるだけ与えられる」(=全能感)世界です。しかしこの世に生を受けてしまうと、そうは生きません。その代わりに鏡(=他者の暗喩です)に映る自分の体を手に入れます。母親との差異に気付くわけです。でも鏡を見て自分の体は自分の思い通りに動くことに気付きます。これは全能感を彷彿とさせます。赤子は自分の体を愛します。これが「差異化」の根源になります。
差異化にしろ同一化にしろ、自分の欲望の元にあるのは母親か他者という鏡、つまり「他者の欲望」になるわけです。
これを「曖昧なもの」「確かなもの」二項論理で見てみましょう。
不安は「曖昧なもの」に惹起されます。「曖昧なもの」が多ければ不安を感じるのです。ホラーやミステリなどを考えればわかりやすいと思います。
さて、欲望の対象。これは小文字の他者であれ大文字の他者であれ、「確かなもの」と言えるわけです。「確かなもの」は安心を与えてくれます。
現実では「確かなもの」とはいえ、その周辺には「曖昧なもの」を漂わせています。この「曖昧なもの」が目立つ箇所が「欠如」となるのです。
欲望の対象、つまり他者に近づいたとして、ここで仮に「究極の近づき」、つまり同一化された場合のことを考えて見ましょう。
自分は欲望の対象について、「確かなもの」だと思っていても、それは欠如なり「曖昧なもの」を漂わせています。でも「確かなもの」を求めているので、同一化は対象中の「確かなもの」を中心に向かっていくことになります。だけどそれは、「欠如」を初めとした周りに漂う「曖昧なもの」に包まれることにもなるのです。自分の周りが「曖昧なもの」ばかりになり、それにより自分=対象の「欠如」に気付かなくなります。自分の欠点は気付きにくい、自分の背中は見えない、ということと同じです。「曖昧なもの」に包まれるとなると、不安が生じます。ジジェクが言っているのはこういうことだと思います。
ラカンのこの論は、実は禅の思想にも繋がります。仏教では全他者=自然との同一化を目的としています。そんなことは無理なのですが、無理だからこそそこを目指しています。
禅では、修行の中この「自然との一体感」的なものを味わうことがあります。これを「悟り」と言うのですが、禅ではそこに留まることが許されません。そこに留まれば魔境となるのです。これは、「確かなもの」を求めて同一化したと思ったら周りに「曖昧なもの」が広がっていることと類似します。だから禅では修行は死ぬまで続けられるのです。
欲望が再現なくエスカレートするのと、禅の修行とはこういった同じ構造を持っていると思います。
禅では、全他者との同一化を求めます。これは自我が他者との関係性の中に拡散していくことと表現できます。
一方、ラカンは他者の鏡に反射したものとしてのみ自我はあると考えます。この他者、つまり全他者=自然と自我が同「一」化すればどうなるか。ラカンは独特の数学的比喩でそれを表現しました。つまり全他者と自我をイコールで結んでみたわけです。すると、対象aつまり自我は黄金数で表現することがわかりました。禅の境地は、ラカン論では黄金数で比喩できることがわかったのですね。
ラカンが自分の論と禅思想の類似を指摘したのも頷けます。
こういった、仏教思想の無限回廊的考え方は、比較的ロゴス重視のキリスト教では薄まります。ロゴス主義なので、目的・ゴールなどを、現実に辿り着けないにしても「言葉」という「確かなもの」で表現したからです。哲学もそうですね。イデアなど究極の「確かなもの」を仮設して進められた思考と言えます。科学は再現性のあるものという「確かなもの」に限って掘り下げられていきました。
現代では、「確かなもの」だけに場合分けする近代的知に限界を感じる人々が生まれてきました。そこで、「確かなもの」と「確かなもの」を繋ぐ「曖昧なもの」への注目が始まったのです。「差異哲学」などですね。これが現代思想のテーマだと私は勝手に考えています。
しかし勘違いしないで欲しいのは、「曖昧なもの」に着目するとはいえ、「確かなもの」を否定するわけではありません。理論などの「ロゴス」がなければ「曖昧なもの」は発見できないからです。
現実では辿り着けない究極の「曖昧なもの」と「確かなもの」は、私の直感ではそれは表裏一体的に同一のものだと考えていますが、現実では「曖昧なもの」に「確かなもの」は含まれていますし、「確かなもの」にも「曖昧なもの」は含まれています。なので、実はこの二項論理による分類は程度の差を表すものにしか過ぎません。相対主義的なのです。上下のない横の広がりだけ。なのでこの論理はシステムを生みません。システムを解読する時だけに役立つ思考方法だと私は考えています。
――なんかすごく味気ない文章になってしまった。
言葉って怖い。