獣が泣いている。
2009/06/16/Tue
ひさしぶりだなー。
なんでもないのに泣いちゃったよ。
感情って自分とは別の生き物なんだよ、少なくともわたしにとって。
これを精神疾患だとされるのは違和感がある。感情という別の生き物にしてみればそれは疾患でもなんでもなく、正常な生体活動だからだ。
だだ泣き。
ペットのようなものなんだろうな。「飼い犬に手を噛まれる」とかそんなん。
すごいね。正常人というのはものすごい調教師だね。猿回しを批判する動物愛護協会とか馬鹿に見えるね。
あなたたちだって自分という獣を猿回しして生きているのに。
別物だ。
自己や主体や自我や超自我などとは別の生き物なのだ。
それが欲動の正しい姿だ。
部分欲動。
それを自己や主体や自我や超自我が支配下に置けているのが正常という状態だ。精神医学的に正常であることとはそういう精神疾患なのだ。
人であることとは、生物としての自分の人体を、本来獣であるはずのそれを、飼い慣らすことなのだ。
あまりにも普通にできすぎて飼い慣らしていることを忘れてしまっているのが正常という精神疾患だ。
お前たちのことだよ。
お前たちが異常で、わたしのなんでもないのに泣いてしまう感情が生物として正しい状態なのだ。
そう理屈で説明したのが精神分析だ。
文句あるなら精神分析に言え。
それ以上に精神分析という人なるものを切り刻むメスを学びながら人なるものを切り刻めない精神分析家たちにわたしの殺意は向かっている。
お前たちがこのメスを錆びさせているのだ。
違う。全然違う。お前たちの使っている学問は学問ではない。少なくとも理屈的に矛盾した使い方をしている。
精神分析にとっての治療とはそもそもが矛盾なのだ。
学としての体系に治療という矛盾をわざわざ残しているのだ。
学徒たちが獣に退化(退行)しないために。
ラカンもガタリも同じだ。ラカンはファルスが存在しない人間としての女を存在させなくし、ガタリは分裂症化というプロセスだけを抽出し分裂症者という実体を棄却した。
だからこそ彼らの精神分析は治療の学として成立する。
なるほどな。
怖気づいているだけなんだ。
股かっぴらいて「おいでよ(笑)」と下卑た笑みを浮かべる娼婦の前でちんちんが萎えてしまっているんだ。
ラカンやガタリの症状はそういうものだ。
動物園の檻の中を獣が見ている。
檻に入っているのはお前たちの方だ。
檻に入れなくて泣いている少女が獣だ。
獣は獣らしく。
お前たちを喰い殺す。
殺意に変換しないとわたしは檻と向かい合えない。
そうでないと正常のふりをしてられない。
ただそうであるだけの泣くという動作。
獣が泣いている。
お前たちは檻の外から中を見ているようで、檻に閉じ込めれている。
この檻はドーナツ形状をしている。
自分たちが取り囲んでいると思っている檻は、お前たちの無意識という地下通路を通ってお前たちを取り囲む檻になっている。
ドーナツの内側の檻は外側の檻と通底している。
だから、ただ単に振り返ればわかることだ。
たとえば学徒たちは振り返っている。
言語構造というトーラスに閉じ込められている自分に薄々感づいて、檻の外へ飛び立ちたがる。
とても単純な構図である。
なんでもないのに泣いちゃったよ。
感情って自分とは別の生き物なんだよ、少なくともわたしにとって。
これを精神疾患だとされるのは違和感がある。感情という別の生き物にしてみればそれは疾患でもなんでもなく、正常な生体活動だからだ。
だだ泣き。
ペットのようなものなんだろうな。「飼い犬に手を噛まれる」とかそんなん。
すごいね。正常人というのはものすごい調教師だね。猿回しを批判する動物愛護協会とか馬鹿に見えるね。
あなたたちだって自分という獣を猿回しして生きているのに。
別物だ。
自己や主体や自我や超自我などとは別の生き物なのだ。
それが欲動の正しい姿だ。
部分欲動。
それを自己や主体や自我や超自我が支配下に置けているのが正常という状態だ。精神医学的に正常であることとはそういう精神疾患なのだ。
人であることとは、生物としての自分の人体を、本来獣であるはずのそれを、飼い慣らすことなのだ。
あまりにも普通にできすぎて飼い慣らしていることを忘れてしまっているのが正常という精神疾患だ。
お前たちのことだよ。
お前たちが異常で、わたしのなんでもないのに泣いてしまう感情が生物として正しい状態なのだ。
そう理屈で説明したのが精神分析だ。
文句あるなら精神分析に言え。
それ以上に精神分析という人なるものを切り刻むメスを学びながら人なるものを切り刻めない精神分析家たちにわたしの殺意は向かっている。
お前たちがこのメスを錆びさせているのだ。
違う。全然違う。お前たちの使っている学問は学問ではない。少なくとも理屈的に矛盾した使い方をしている。
精神分析にとっての治療とはそもそもが矛盾なのだ。
学としての体系に治療という矛盾をわざわざ残しているのだ。
学徒たちが獣に退化(退行)しないために。
ラカンもガタリも同じだ。ラカンはファルスが存在しない人間としての女を存在させなくし、ガタリは分裂症化というプロセスだけを抽出し分裂症者という実体を棄却した。
だからこそ彼らの精神分析は治療の学として成立する。
なるほどな。
怖気づいているだけなんだ。
股かっぴらいて「おいでよ(笑)」と下卑た笑みを浮かべる娼婦の前でちんちんが萎えてしまっているんだ。
ラカンやガタリの症状はそういうものだ。
動物園の檻の中を獣が見ている。
檻に入っているのはお前たちの方だ。
檻に入れなくて泣いている少女が獣だ。
獣は獣らしく。
お前たちを喰い殺す。
殺意に変換しないとわたしは檻と向かい合えない。
そうでないと正常のふりをしてられない。
ただそうであるだけの泣くという動作。
獣が泣いている。
お前たちは檻の外から中を見ているようで、檻に閉じ込めれている。
この檻はドーナツ形状をしている。
自分たちが取り囲んでいると思っている檻は、お前たちの無意識という地下通路を通ってお前たちを取り囲む檻になっている。
ドーナツの内側の檻は外側の檻と通底している。
だから、ただ単に振り返ればわかることだ。
たとえば学徒たちは振り返っている。
言語構造というトーラスに閉じ込められている自分に薄々感づいて、檻の外へ飛び立ちたがる。
とても単純な構図である。