ホビロンの汁
2009/06/19/Fri
結局、精神分析が治療を棄てきれないのは、自己防衛なんじゃないか。患者のためと限らない。自らの自己(自己愛の対象としてのそれ)を破壊する・されるのを怖れて治療を棄てきれないのではないか。
ラカン派においては「精神分析は必ずしも治療だけを目的としたものとは限らない」という言説をよく聞く。ラカンの学が哲学や言語学を数多く流用しているから、という理由もあるかもしれない。
しかし、こういった言説を唱える学徒でさえ、治療だけを目的としていなくとも、他者を根拠にした思考回路の基本から逃れられていない。たとえばここの斎藤環の言説。斎藤の場合、ガタリと等しくその学を社会に適用・応用させることを治療以外の(仮設的なものであれ)目的としている。引用する。
=====
この国においてすら、ラカン的な言説そのもののインパクトは、すでに消費され飽きられつつあることを危惧しているからだ。
=====
「ラカン的な言説」の社会への適用が「飽きられつつあること」を彼は危惧している。それを結語に持ってきている。
「精神分析は必ずしも治療だけを目的としたものとは限らない」と唱える学徒ですら、他者のために学を利用することしか考えられていない。この場合の他者とは自我や超自我あるいはユング論で言う自己の根拠となる他者である。現象学的語用ならば他我となるだろう。これにより定立するのが自己愛の対象となる自己である。だから冒頭で「自己防衛」と書いた。
他者のためにならない利用法としてもっともカウンター的にわかりやすいやり方は、治療という概念が棄却している実体を含めて考えることだ。つまり(中二病的なやり方ではあるが)逆説を(仮設的で構わないが)根拠にして考えてみればよい。
この場合なら、治療と逆の概念、精神疾患の悪化である。
この記事から。
=====
精神分析は治療に役立たない。そうかもしれない。ならば悪化に役立たせてみればよい。発想の転換である。精神に対しての作用という意味では治療も悪化も同じである。悪化を特別に目的とはしないが、悪化もよしとする精神分析があってもいい。そういう実験をしてみて初めて「精神分析は人間の精神に対して無力である」かどうかがわかる。
であるならば、悪化を目的とした精神分析を試してみよう、というのがわたしが主張する逆精神分析である。
=====
本当にその学を「治療だけを目的としたもの」じゃなくならせるためには、「治療」も「悪化」も同列に「精神に対しての作用」だと考えて、その学を利用しなければならない。
わたしが提唱する逆精神分析は、精神疾患の悪化を目的にしているが、それは仮設的な目的である。学を実体に即したやり方で利用するために、アンチテーゼ的な言い回しをしているだけである。おそらくこのやり方は『アンチ・オイディプス』と同じ構造をしているが、ガタリが提唱した分裂分析との違いは、逆精神分析の方が実体に即しているのである。この記事から。
=====
わたしは逆精神分析なるものを主張している。神経症者のファルスに不具合を起こさせるのが逆精神分析だ。ファルスに不具合のある症状のたとえば一つが分裂症なのだから、神経症者を分裂症者化させるのが逆精神分析である、と換言可能である。
こう書くとガタリが主張する分裂分析のように思われるかもしれないが、彼自身分裂分析は社会に適用させるものだと定義している。一方わたしの逆精神分析は、社会なんていう人なるものの集合体による影絵などではなく、人なるものそのものを破壊することを目的としている。人なるものを人なるものたらしめる原因はファルスである。分裂分析は逆精神分析のごっこ遊びなのだ。
=====
ガタリも斎藤と同じ錯誤に陥っている。結局、「治療を目的としない」ということから「社会あるいは他の学に適用させる」ということしか連想できていないのだ。
「治療」の根本には他者がいる。「社会」とは他者という人なるものの総体を示す概念である。
ガタリも斎藤も、「精神分析は必ずしも治療だけを目的としたものとは限らない」と唱える多くのラカニアンたちも、なべて自己愛の対象としての自己の根拠たる他者から逃れられていないのだ。
ラカン派有名ブロガーたるpikarrrたんの言葉を借りる。
=====
精神分析では(他者でない)環境は語れない、ということです。
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彼はまさしく実体を指摘している。ラカン派の傍流であるガタリや斎藤ですら他者でない環境を語れていない。「精神分析は必ずしも治療だけを目的としたものとは限らない」と唱える多くのラカニアンたちも同じである。
これは精神分析という道具の責任ではない。道具の使用者の問題である。つまりこれが神経症という症状である。正常という精神疾患なのである。
脳汁って卵の黄身みたいだな。
いやどちらかというとホビロンの汁だな。
神とは全知全能であるならば、あるいは全てのものがあるとされる場であるば、神は悪を知っているはずである。神は悪を内包しているはずである。ただそうであるものに善悪というレッテルを人間がぺたぺた貼っているだけではないのか? 善悪の基準が神だというならば、お前の信仰している神は、全知全能たる、あるいは全てのものがあるとされる場たる神の世界から堕落した神ではないか? 本当の神とは悪魔でもあるはずなのであって、神と悪魔という二分法で劣化したのがお前たちの神ではないか?
小学生の頃いつもこのような屁理屈を周囲の宗教関係者に問いかけていた。わたしはこの頃からちっとも成長していない。
もし神が全知全能ならば、あるいは全てのものがあるとされる場ならば、一番神に近い場所にいるのはわたしだ。全てのものが未知で全てのそれに怯えているだけのわたしが、お前たちがもっとも敬意を払わないガキであるわたしの方が、お前たちより神に近い。
その国の住人は大多数が洗脳されていた。
たまたま洗脳がうまくかからなかった少女は、洗脳にかかったふりをして生きていた。
ある日少女は、その国が洗脳を施すのに利用している武器を納めた倉庫を発見する。
これを使ってこの国は洗脳の施されていない辺境人たちを攻撃しているのだった。
この国の洗脳技術はあまりにも高いため、本当にほとんどの国民が洗脳されていた。従って特に都市部の住人は武器庫へのアクセスが容易だった。みんながみんなきちんと洗脳されているので、その矛先をまさか自分たちに向けるとは思われていなかったのだ。
少女は洗脳されているふりをしていたおかげでアクセスが容易だった。
しかし少女は洗脳されているふりをし続けることに疲弊していた。洗脳そのものに対しルサンチマンを抱いていた。
少女は武器庫に並んでいる武器を見つめながら、テロを決意する。
通りがかりの住人をその武器を用いて殺戮する。
相手が自分と同じ洗脳されているふりをしているだけの人かもしれない、ということは少女は理解していた。
しかしその武器を用いなければ洗脳されているのか洗脳されているふりをしているだけなのかもわからないので、無差別に攻撃するしかなかった。
少女のテロは連続殺人事件として報道されていた。
ラカン派においては「精神分析は必ずしも治療だけを目的としたものとは限らない」という言説をよく聞く。ラカンの学が哲学や言語学を数多く流用しているから、という理由もあるかもしれない。
しかし、こういった言説を唱える学徒でさえ、治療だけを目的としていなくとも、他者を根拠にした思考回路の基本から逃れられていない。たとえばここの斎藤環の言説。斎藤の場合、ガタリと等しくその学を社会に適用・応用させることを治療以外の(仮設的なものであれ)目的としている。引用する。
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この国においてすら、ラカン的な言説そのもののインパクトは、すでに消費され飽きられつつあることを危惧しているからだ。
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「ラカン的な言説」の社会への適用が「飽きられつつあること」を彼は危惧している。それを結語に持ってきている。
「精神分析は必ずしも治療だけを目的としたものとは限らない」と唱える学徒ですら、他者のために学を利用することしか考えられていない。この場合の他者とは自我や超自我あるいはユング論で言う自己の根拠となる他者である。現象学的語用ならば他我となるだろう。これにより定立するのが自己愛の対象となる自己である。だから冒頭で「自己防衛」と書いた。
他者のためにならない利用法としてもっともカウンター的にわかりやすいやり方は、治療という概念が棄却している実体を含めて考えることだ。つまり(中二病的なやり方ではあるが)逆説を(仮設的で構わないが)根拠にして考えてみればよい。
この場合なら、治療と逆の概念、精神疾患の悪化である。
この記事から。
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精神分析は治療に役立たない。そうかもしれない。ならば悪化に役立たせてみればよい。発想の転換である。精神に対しての作用という意味では治療も悪化も同じである。悪化を特別に目的とはしないが、悪化もよしとする精神分析があってもいい。そういう実験をしてみて初めて「精神分析は人間の精神に対して無力である」かどうかがわかる。
であるならば、悪化を目的とした精神分析を試してみよう、というのがわたしが主張する逆精神分析である。
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本当にその学を「治療だけを目的としたもの」じゃなくならせるためには、「治療」も「悪化」も同列に「精神に対しての作用」だと考えて、その学を利用しなければならない。
わたしが提唱する逆精神分析は、精神疾患の悪化を目的にしているが、それは仮設的な目的である。学を実体に即したやり方で利用するために、アンチテーゼ的な言い回しをしているだけである。おそらくこのやり方は『アンチ・オイディプス』と同じ構造をしているが、ガタリが提唱した分裂分析との違いは、逆精神分析の方が実体に即しているのである。この記事から。
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わたしは逆精神分析なるものを主張している。神経症者のファルスに不具合を起こさせるのが逆精神分析だ。ファルスに不具合のある症状のたとえば一つが分裂症なのだから、神経症者を分裂症者化させるのが逆精神分析である、と換言可能である。
こう書くとガタリが主張する分裂分析のように思われるかもしれないが、彼自身分裂分析は社会に適用させるものだと定義している。一方わたしの逆精神分析は、社会なんていう人なるものの集合体による影絵などではなく、人なるものそのものを破壊することを目的としている。人なるものを人なるものたらしめる原因はファルスである。分裂分析は逆精神分析のごっこ遊びなのだ。
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ガタリも斎藤と同じ錯誤に陥っている。結局、「治療を目的としない」ということから「社会あるいは他の学に適用させる」ということしか連想できていないのだ。
「治療」の根本には他者がいる。「社会」とは他者という人なるものの総体を示す概念である。
ガタリも斎藤も、「精神分析は必ずしも治療だけを目的としたものとは限らない」と唱える多くのラカニアンたちも、なべて自己愛の対象としての自己の根拠たる他者から逃れられていないのだ。
ラカン派有名ブロガーたるpikarrrたんの言葉を借りる。
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精神分析では(他者でない)環境は語れない、ということです。
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彼はまさしく実体を指摘している。ラカン派の傍流であるガタリや斎藤ですら他者でない環境を語れていない。「精神分析は必ずしも治療だけを目的としたものとは限らない」と唱える多くのラカニアンたちも同じである。
これは精神分析という道具の責任ではない。道具の使用者の問題である。つまりこれが神経症という症状である。正常という精神疾患なのである。
脳汁って卵の黄身みたいだな。
いやどちらかというとホビロンの汁だな。
神とは全知全能であるならば、あるいは全てのものがあるとされる場であるば、神は悪を知っているはずである。神は悪を内包しているはずである。ただそうであるものに善悪というレッテルを人間がぺたぺた貼っているだけではないのか? 善悪の基準が神だというならば、お前の信仰している神は、全知全能たる、あるいは全てのものがあるとされる場たる神の世界から堕落した神ではないか? 本当の神とは悪魔でもあるはずなのであって、神と悪魔という二分法で劣化したのがお前たちの神ではないか?
小学生の頃いつもこのような屁理屈を周囲の宗教関係者に問いかけていた。わたしはこの頃からちっとも成長していない。
もし神が全知全能ならば、あるいは全てのものがあるとされる場ならば、一番神に近い場所にいるのはわたしだ。全てのものが未知で全てのそれに怯えているだけのわたしが、お前たちがもっとも敬意を払わないガキであるわたしの方が、お前たちより神に近い。
その国の住人は大多数が洗脳されていた。
たまたま洗脳がうまくかからなかった少女は、洗脳にかかったふりをして生きていた。
ある日少女は、その国が洗脳を施すのに利用している武器を納めた倉庫を発見する。
これを使ってこの国は洗脳の施されていない辺境人たちを攻撃しているのだった。
この国の洗脳技術はあまりにも高いため、本当にほとんどの国民が洗脳されていた。従って特に都市部の住人は武器庫へのアクセスが容易だった。みんながみんなきちんと洗脳されているので、その矛先をまさか自分たちに向けるとは思われていなかったのだ。
少女は洗脳されているふりをしていたおかげでアクセスが容易だった。
しかし少女は洗脳されているふりをし続けることに疲弊していた。洗脳そのものに対しルサンチマンを抱いていた。
少女は武器庫に並んでいる武器を見つめながら、テロを決意する。
通りがかりの住人をその武器を用いて殺戮する。
相手が自分と同じ洗脳されているふりをしているだけの人かもしれない、ということは少女は理解していた。
しかしその武器を用いなければ洗脳されているのか洗脳されているふりをしているだけなのかもわからないので、無差別に攻撃するしかなかった。
少女のテロは連続殺人事件として報道されていた。