『ストロボ』広瀬香美――断片しか知らない。
2009/06/30/Tue
よくあたる星占いにそう言えば書いてあった
今日会う人と結ばれる
今週も来週もさ来週もずっと oh yeah!
広瀬香美も結構歌ってるな。タイトルど忘れしたけどうぃきぺってああそうそう『ストロボ』だわ。これ好きだな。
さて『ロマンスの神様』。
普通に歌詞を通して読めばこの歌の主人公(広瀬自身ではない)は去勢済みと予測されうるが、仮に彼女が未去勢者だったとして考えてみよう。
未去勢者である彼女にとって「今日会う人と結ばれる」ことは他者の享楽となる。
未去勢者たちは、意味が劇的に差延し続ける、意味が去勢済み主体と比して不確定的な世界を生きている。ここでの世界とは独我論における世界と等値である。正常人の独我論上の世界は未去勢者と比して確定的である。
そんな不確定的な独我論上の世界を生きている彼女にとって、「今日会う人」は世界としての意味を確定させる人である。自他問わない存在を確信させてくれる人である。
この記事でも触れたビオンの言葉で言うならば、「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」(即ち「考える物」)たる主人公が「考える者」と出会うのである。クリステヴァの言葉なら「想像的父たるアガペー」と出会い続けるのである。正常人にとってはなべて生後二年以内に経験済みな出会いを、何年も遅れて経験しているのである。
つまりシニフィアンスである。シニフィアンスの瞬間を歌った歌である、となる。
そういう状態が「今週も来週もさ来週もずっと」であるならば、シニフィアンスが乱舞している状態だと言えよう。イントラ・フェストゥムである。
意味が不確定な無限の領域に、確定的な意味(連鎖)という有限が寄生する瞬間である。寄生されまくっている。輪姦され続けている。
一方、普通に主人公が去勢済み主体だったと考えよう。
彼女にとっての出会いとは、ファルス的享楽的なものとなる。つまり、水鉄砲のごとくちっちゃな穴から現実がぴゅっと飛び出るような出会い。ニキビを潰した時皮脂がにゅるっと出てくるような出会い。射精のような出会い。
それが「今週も来週もさ来週もずっと」であるということは、シニフィアンスの乱舞ではなく、オナニーを覚えた猿のような状態である、と言える。ファルス的享楽とはまさに自慰である。
歌詞を普通に読めば去勢済みっぽいが、広瀬の歌唱法などを考慮すると、多少イントラ・フェストゥムの印象がある。未去勢的だとは言えないが、未去勢の主観世界と似た臭いを、『アンチ・オイディプス』的な意味での強度を感じさせる。
なのでこの歌が去勢済みを称揚しているのか未去勢を歌っているのかは診断できない。どちらの解釈をされてもわたしはあまり文句を言わないだろう。
比喩的に述べてみる。
歌の主人公が未去勢者ならば、「今日会う人と結ばれる」のが「今週も来週もさ来週もずっと」である状態とは、常態的に誰かと心中し続けているごときことである。
去勢済み主体ならば、正常人同士の正常位だけのセックスがごとき、お互いが自慰しあっているがごとき状態だと言える。精神分析学的な文脈で言えば、正常人同士の「セックス」とは生物学的な男女の性交のことではなくファルスが射精しあっている状態である、ということだ。
ラカンの言葉、「性関係は存在しない」とは、正常人たちは「セックス」していると思い込んでいるだけであり、「セックス」というシニフィアンを行為しているだけであり、現実的・自体愛的な視点から言うと、ただ自慰をしあっているだけであるということを示している。それが去勢済み主体同士のする「セックス」なのだ。ここに生物学的な男女は関係ない。男も女もファルスが射精しあっている。これが巷で称揚されている「健全な恋愛」なる事物である。それと対比されうる未去勢的な恋愛がこの記事で述べている獣としての恋愛である。
未去勢者にとって過去の恋愛は心中の繰り返しであるのに対し、去勢済み主体にとってそれはただのニキビ跡にすぎない。
どちらも刻印ではあるけどね。
昔お手伝いした劇団で、コメディばっかやってたとこなのだが、劇作家兼演出家兼役者である主宰者がちょっとぶっ壊れて、自分の役に長ったらしいモノローグを言わせた。その中に「セックスなんて粘液の擦りあいにすぎないじゃないか!」といういかにも中二病的な叫びがあったが、そういうことなのだ。彼は正常人同士のセックスは自慰のしあいっこだということに薄々感づいてこんなセリフを言わせたのだ。言いたかったのだ。他の役者ではだめだったのだ。これは劇作家兼演出家兼役者である彼のうちに住む(ささやかかもしれないが)器官なき身体という孤児のうめき声だったからである。赤ん坊の泣き声のごときセリフだったからである。
わたし自身、当時は「中二病くせえセリフだなあ」くらいにしか思わなかった(当時「中二病」なんて言葉なかったかもしれないがまあフィーリングとして)。しかしこんな文章を書いている時にふと思い出したということは、そういう強度が多少はあったのだろう。わたしにとって。
シニフィアンスの乱舞。
たとえば、常態としてアンテ・フェストゥム的であることが多いアスペルガー症候群者でも、そんな瞬間があるだろう。
苦痛が頂点に達した状態。疲弊が極限に達した状態。
確定的な意味が、意味が確定化する瞬間が、強力なブラックホールのごとき重力の集中点が、あちこちに生じる。
これがアスペルガー症候群者のパニックや解離症状であろう。正常人がする混乱と比べると、逆方向から生じるのである。正常人は多くの場合、不確定的な意味に直面した時に混乱する。たとえば解離性障害と診断されている人は、実際には去勢済み主体(即ち正常人)が多いとわたしは考えているが、アスペルガー症候群者の解離と去勢済み主体の解離は、同じ場所で苦しんでいるだけで、そこにやってくる方向が逆なのである。去勢済み主体は迷子になって混乱し、未去勢者は迷子状態から救い出されようとして混乱する。
しかしこの瞬間は、未去勢者が去勢済みの主観世界に触れた瞬間でもある。去勢済み主体が未去勢的な主観世界に触れた瞬間でもある。
生後二年以内にシニフィアンスを経験し、その経験が無意識の軸(ラカン用語で言えばS1)として常に既に機能している去勢済み主体に、シニフィアンスは到来しない。享楽を享受するのが困難である。
それこそあるちっちゃな一点の穴でしかシニフィアンスの面影を感知できないだろう。去勢という遠い昔に生じた主観世界の大激動としてのトラウマが再帰するわけだ。あるちっちゃな一点の穴で。「特定域の電磁波に感度がある」「電波望遠鏡」が取りこぼす電波はここから漏れる。
これがファルス的享楽である。
去勢済みな主体は原理的にファルス的享楽しか味わえないのである。
しかし未去勢者の享楽は他者の享楽的である。輪姦されるがごときものである。嬲られるのである。無限が有限に寄生されるのである。穴だらけ、いや、穴が穴になっていない。穴しかないから穴ではない。特定域以外の電波を感知できないポンコツ電波望遠鏡が壊れているからこそ、特定域以外の帯域を含めた無限の電波に翻弄され続ける。
確定的な意味に輪姦される。ポンコツ電波望遠鏡に嬲られる。
不確定的な主観世界を確定化させようとする正常人の「人間らしさ」という暴力に輪姦されている。ファルス的享楽に嬲られている。さらさらの流砂のような、無限で流動的な海のような意味が、意味の連結の仕方の自由度が高い状態即ち差延が激しい状態(無限に連結可能な意味だから「無意味」とも表現可能だが、巷にはびこる「ナンセンス」とは違う。中坊さんのマンガみたいなのとは違う)が、アスファルトの道路のごとく舗装される。
生後二年以内に舗装の基礎工事を終え舗装道路を長く生きてきた正常人には到底理解できない主観世界を、正常人たちはパラノイアックに、権力的に支配しようとする。舗装しようとする。「全ての人間の主観、考え方とは、たとえ人種が違ってても大体似たようなものだ」などというような確定的で有限な主観世界が、未知としての無限を生きる迷子の主観世界をレイプする。ただの共同幻想でしかないそれを「現実」と勝手に呼称し、ラカン的な意味で本当の現実に近い世界を生きている人間の現実を圧殺している。
未去勢者にとっては、正常人の思う「現実」即ちパラノイアックな妄想でしかすぎない共同幻想こそが、理解できないのだ。無限の世界にとって有限とは一部でしかない。ただの一部を全体と考えるのが、それがほとんどの人間に共通する考え方になっているのが、理解できない。
未去勢者が正常人たちの中で生きることとはそういうことだ。
わたしはアスペルガー症候群ではないが、少なくともわたしはそう生きてきた。生かされてきた。
まさにシニフィアンスが常態的に生じている。享楽が「今週も来週もさ来週もずっと」なのである。パニック的な享楽。確定的な意味という悪い乳房の取り込み。
アンテ・フェストゥム者が、正常な(ポスト・フェストゥム的な、と言ってもよかろう)主観世界と接触すれば、イントラ・フェストゥムが生じる、という話である。
『ロマンスの神様』に戻ろう。
もし主人公が未去勢者であって、シニフィアンスが、他者の享楽が「今週も来週もさ来週もずっと」である状態だったならば、おそらく彼女は精神病圏であると診断されるだろう。ビオンの言う「受肉」が、シニフィアンスの乱舞が常態になっているのである。
広瀬がこの曲で初めてテレビ出演した時だったと思う。「歌唱法を本格的に学んだ歌手」として紹介されていたにも関わらず、緊張のためか「ど素人か」と思えるような歌い方をしていた。本当にヘタクソだった。歌唱法は知らないが発声のイロハ程度なら知っているわたしは「なんだこりゃ」と思った。当然、段々慣れていったのか、しばらくした後のテレビ出演では普通に歌えていたが。
そういう記憶も、彼女の歌にほんのちょっとした未去勢的な印象を与える要素になっているのかもしれない。
んで『ストロボ』。
ストロボ光った 出会ったあの夜 照れちゃうくらい
心のメモリーいっぱいになった
あなただけで
すねる素振り わたしを急に振り返るまなざし
めぐりめぐる瞬間よ 憧れも思い出も大切な宝物
「心のメモリー」は、少なくともわたしにとっては、パソコンのそれみたいだ。それが「いっぱいに」なることとはパソコンが固まる時のようなことだ。実際にパソコンが重くなったりウイルスに感染したりしたら、パソコンが自分自身になったかのように動揺する。未だに。「パソコンが壊れでもしたらもったいないから」なんて理由はただの後づけにすぎない。
「瞬間」だけなのだ。「めぐりめぐる瞬間」はそれぞれであり、統合された「あなたとわたしの数ヶ月間の恋愛関係」のごとき事物ではない。時々ある瞬間とある瞬間が衝突し結合的なものになることもあるが、基本的にそれらは自分勝手だ。自分勝手に作動するアプリケーションだ。トロイの木馬だ。
未知なアプリケーションが「心のメモリー」に「いっぱい」になる。
一つ一つの「めぐりめぐる瞬間」はブラウン運動をしている。大体そうなるだろうという統計的な予測が可能な場合もあるが、トロイの木馬であってもそれを(たとえば嫌がらせなどに)利用することも可能だが、そしておそらくこのことをもって正常人たちは「あなたとわたしの数ヶ月間の恋愛関係」という事物に統合したりするのであろうが、原理として予測不可能なのである。統合できないのである。それらの「瞬間」たちは。未知なるものは。
量子は狂気の振る舞いをする。
お前たちがほぼ無意識的にしている統合は、その結果としての「全体」は、パラノイア患者がする妄想と同じ機制で生じる産物である。人格とはパラノイアである。
量子たちはあなたという正常人化ウイルスに、パラノイアウイルスに感染しつつある。
わたしは焦っている。
これでいいのかと焦っている。
β要素は死の恐怖である。アブジェはおぞましいものであるが同時に魅惑的なものである。
それを今実感している。β要素もアブジェも断片である。部分対象である。
怖い。
誰でもいい。
わたしが勝手に、一般的には「愛」と呼称される、正常であるために必要な物自体的でありかつ所有・把握可能である両価的な対象aという踏み台を、言葉を覚えたばかりの少女が隣家の少年について「わたし、潰すの、頭、フランシス」と言ったごとく、
あなただけで
怖い。
再起動が必要だ。
人というシステムにとっての再起動とは一旦死ぬことだ。
「断片的に恋愛の場面を思い出しますね」
「それはいいことかもしれませんね」
まあ精神科医はそう答えるんだろうな。奴はわたしを去勢済み主体だと思っているのだろうから。
奴はわたしが阿部定のような恋愛をしていたと想像できないんだろう。
ストロボなんだ。シニフィアンスの乱舞とは。イントラ・フェストゥムとは。
あなたたち側から言えば断片。断片の世界。
メロディも不安な感じがするのがいい。「恋するスピード上げて」の「上げて」のとことか。マイナー調って言うの? ごめん適当。間違ってたらバンドやってるらしい中坊さん指摘よろ。
『ストロボ』と中島みゆきの『HALF』で泣けるな、今。自己陶酔。自己に陶酔できたら「よし明日からがんばろう」ってなれるんだろうから自己陶酔じゃないんだよな。自己愛の対象としての自分ではなく自体愛の対象としての自分に陶酔している。いわば自体陶酔。
だから心中するしかない。相手がいないなら一人で死ねばいい。「一人で死ぬのなんてさみしいじゃん」なんて意味わかんない。死という再起動が必要なのであって、再起動後正常に作動するために「考える者」あるいは「想像的父というアガペー」というOSあるいはウイルスが必要なだけ。それは「現実」的な人でなくてもいいんだ。だからあなたたちが考えるパラノイアックな妄想・共同幻想としての「現実」で言うと「一人で死ぬ」ことになるのかもしれないけど、違う。もともとが器官なき身体という孤児状態を生きてきたのだから、「一人」を終わらせるために死ぬのだ。瞬間、断片、量子とともにだから、パラノイアックな集団妄想としての「現実」では「一人」かもしれないけど、一人じゃない。器官なき身体は孤児だが悪意としての物自体たちとともに生きている。それはたとえば「もののけ」である。谷山浩子という魔女が召還する「みんな」である。
みんな ねえみんな 出てきておくれ
今ならば一人きりさ 祭りもできる
みんな ねえみんな 出てきておくれよ
暗い夜空に身を投げて踊り明かそうよ
ああ お前たちだけさ あたしのそばにいつもいるのは
ああ 人たちはそれぞれ別々の舟
時に近寄りまた遠ざかる
みんな ねえみんな 出てきておくれよ
あの人の明日からあたしを守ってよ
あの人の昼間からあたしを守ってよ
悪意たる物自体たちは自分勝手だ。だから「明日」なんてない。その瞬間しかない。断片しかない。
物自体に囲まれて生きている未去勢者たちはリゾームという迷路をさまよう迷子だ。「昼間」のようにそこがどこかわからない。
「あの人」はわたしに予測可能な「明日」を植えつけようとする。周囲を把握できる「昼間」に引きずり出そうとする。
現実的に「人たちはそれぞれ別々の舟」なのに、自分勝手に近寄ったり遠ざかったりするものなのに、孤児なのに、迷子なのに、正常人たちが乗っている妄想の大型客船に同乗させようとする。
あたかも強姦するかのように。
魔女を強姦しようとした「あの人」はそういう現実に気づいたのかもしれない。だから逃げたのかもしれない。
気づいただけましなのかもしれない。
わたしから逃げる人の方がわたしを理解しているのかもしれない。
わたしは悪意たる物自体たちと、断片たちと、「みんな」と踊り続ける。
自分勝手な「みんな」とは違う「自分のことを考えてくれる者」である「あの人」は、わたしから逃げてしまう。
ああ そんなに逃げたきゃ思う存分逃げるがいいよ
勝手に死まで、去勢というイニシエーションまで、妄想で劣化しないでくれ。生きている間これだけレイプしてきたのに、死すらレイプしないでくれ。それならいっそ逃げてくれ。「メンヘラきめえ」とか言いながら。
去るあなたは美しいわ
「行かないで」とすがるわたしより
僕が壊した人形のきみを
捨てて明日はきっとここを出てゆく
もう帰れない どんなに夢を見ても
お前たちの性欲は異常だ。この記事で触れた斎藤環の文章とかキチガイじみている。キチガイから見てキチガイじみている。サイトがそういうサイトだから、精神科医というパラノイアックな精神疾患者集団の異常さ(症状)が顕著に表れている、とも言えるだろう。
わたしの死はただそうであるだけの死だ。
わたしが思い出す恋愛の断片とはただそうであるだけのものだ。
それを勝手に統合の兆しなどと、自己・主体の快復などと判断しないでくれ。
……いや、実を言うと、恋愛は統合の兆しである、というのもわかるんだけどね。実感で。恋愛は欲動の粘着性・ネゲントロピーを促進する。
だけど、もともと統合機能に不具合がある人間にとって、統合あるいは主体化は、局地的な粘着・ネゲントロピーの結果にすぎない。わたしは恋愛に溺れるとストーカーじみた行為をしてしまう。しばらくするとそんなことけろっと忘れてただの友人として対応したりする。
恋愛は快復ではなく苦痛だ。去勢済みな主体がするパラノイアックな妄想・共同幻想の共有という快楽(要するに「人と人とは必ず理解しあえる」とかそんなん)である統合・主体化は、未去勢者にとっては恐怖の対象だ。重篤な精神疾患は治りかけが一番危険だっつー奴。
もちろん疾患状態も苦痛なんだけどね。治るも苦痛、そのままも苦痛、悪化も苦痛。恋愛なら、成就も片思いも悲恋も苦痛。
あ、次『横恋慕』入れて。
精神科医さんたち。お前が勝手に精神医学について無知だと思っている目の前に座る患者は、こんなことを考えているのかもしれないよ。お前の見下している態度・無意識を敏感に感じ取って軽蔑しているかもしれないよ。ここでやり取りした心理士とかわかりやすすぎてワラタ。
お前の方が正常という精神疾患じゃん、とか精神分析されてるのかもしれないよ。診察しているのはお前だけじゃないんだ。
ただ口に出して言わないだけで。
だってほら、精神分析は分析内容をクライアントに言わないから。論文で発表することはあっても。
お前たちが精神疾患者なんだよ。
あるアスペルガー症候群者の心理士についての冷静で客観的な分析とかほうほうと思えるぞ。
未去勢者たちの中でも会話ができるアスペルガー症候群者やスキゾイドたちを観察すれば、彼らがいかに天然の精神分析家であるかがわかるだろう。
キチガイたちの反乱を促しているブログだと読まれているのかもしれない。だとしたらそれは、精神科医や心理士に診察されている患者やクライアントの反乱を促している、と「現実」的に置き換えられる。
それでいいよ。そう言われると違和感を覚えるが、最近どうでもよくなってきている。氏賀Y太『真・現代猟奇伝 女子高生コンクリ詰め殺人事件』のごとく。
キチガイは正常人をキチガイだと言っていい。正常人がキチガイを異常だとするのが理屈上誤りなのである。
人類という種が太古から傾向的に慢性的に恒久的にし続けてきた誤謬である。
アルトーのゴッホ論なんかはこの大いなる誤謬を指摘している。
昔のロシアではキチガイを聖者扱いしてたらしいな。日本でもそんな感じの伝記がある。
そういえば木村敏もんな感じのことぼそっと言ってたな。「正常であることがいやんなる」みたいな。
もういい。
正常にならせてくれ。
死なせてくれ。
享楽に埋没させてくれ。
まっすぐ届けさせて。
あなたに、誰かに、
備給先を、
〆は『ドクロちゃん』歌お。ぴぴるぴー♪ これだけで千葉紗子は評価する。そーいや南青山って仕込みやったことあるな(笑)。
なんかねー、声がアンパンマンの人みたいらしい。行きつけのカラオケスナックに幼稚園児くらいのガキを連れてくる人がいたんだが、わたしがアニソン歌うとそんガキ、キチガイみたいにはしゃいでた。キモかった。もし大人になってこのことを覚えてたらすっげー恥ずかしい記憶になるだろうな、ってくらい。アニソン向けなのかね、わたしの声。
アニメ声ではないけどなー。酒焼けしてるだろーし。
「瞬間」を「永遠の宝物」にするには心中するしかないじゃん。当然のことすぎて説明するのもあほらしい。
断られたら一人で死ぬだけ。
なのに何故あなたは嘲笑うん? 「一緒に死んで」とマジメに言ってしまったわたしを。未だに恥ずかしいよ。死にそうなほど。
あなたじゃなかっただけ? 備給先が。じゃあ、統合された事物としてのあなたじゃないあなたとの断片という現実的なそれと心中しましょ。断片のあなたを殺して、断片しか知らないわたしを殺しましょ。
気のせいでしょうとそれきり忙しく
時は流れてゆく 費やす日々
傷つけ傷つく苦い旅の中で
わたしあなたのこと思い出したわ
瞬間が、断片が、量子が、統合されかけている。劣化されかけている。
思い出したその瞬間。
シニフィアンスの乱舞が、「あなた」の背後で一つの超越論的シニフィアンになろうとしている。ファルスを所有する直前。
中島はなったのだろう。所有しているのだろう。
谷山はなれなかったのだろう。所有できなかったのだろう。いや最近は宗教にはまってるらしいから、なりつつある・所有しつつあるのかもしれない。
わたしは、
わたしは、
治るもそのままも悪化も苦痛なら、成就も片思いも悲恋も苦痛なら、『横恋慕』でいいや。
そう、こんな風に歌ってていい。
こんな風に歌いながら再起動すればいい。
それでも時の流れさえ見放すわたしの思いを
伝えてから消えたい
ビールがまずい。
涙が止まらない。
泣いててごめんね。長くなっちゃったね。
嘘です、ごめんね。
あなたが好きだったなんて嘘です。
さよなら。
一度だけ言いたいことはあるけど、言えない。人生で一度だけだから、言ったら消えるしかなくなる。
言ったらどうなるんだろう? 多分だめね、言ってもどうにもならないと思う。
三つ編みにしてくれたのはあなた。
それをばっさり切ったのはわたし。
三つ編みしてた頃にあなたはいなかったから、切るしかなかった。正常であるために、自分勝手に泣く髪という断片を自分で切るしかなかった。
あはは、想像的父か(笑)。なんかおかしい。
嘘です、ごめんね。
嘘かほんとか自分でわからないからそれでいいよ。
ただね、……、
やめとく。
やめとかない。
一言ちょうだい。
やっぱりいい。
でも、否定でいい。
あなたの本性の声を聞きたい。
器官なき身体のうめき声を、赤ん坊のあなたの泣き声を、
断片の声を、
わたしの髪を優しく三つ編みにするあなた以前のあなたの声を、
聞きたい、聞きたくない、それを聞いてからじゃないと統合できない。
だって知らないから、断片しか知らないから、
怖い。
断片を殺すのが、殺されるのが、
見ないで。読まないで。未去勢者も去勢済み主体も。
声が怖い。まなざしが怖い。
統合が怖い。断片が怖い。
ごめんね。
雨が降っていたわ。雪が残ってたわ。踏み潰されて泥と混じった汚らしい雪が。
その上をあなたが去っていく。
逃げていく。
殺してやる。
バットでドスドスドクロちゃん♪
ここの自己愛型ひきこもり野郎なんかドクロちゃんに殺される主人公だわ。
ドクロちゃんに撲殺されることを「他者の享楽だ」と言い張っている。
ほんとはドクロちゃんのが他者の享楽的なのに。
ドクロちゃんは主人公という糸車でフォルト・ダー遊びをしている。
はふんあひぃぱぷぅ許して
そんなにぎとぎとしないで
お願いだから
えいっ!
「愛」だよ? 「愛」(笑)。
かわいい擬音で人生どきどきばくばくー♪
ワラケル。
小説も読んだが意外と評価してたりすんだよな(笑)、『ドクロちゃん』。自己愛型ひきこもり野郎の「うんこは贈り物だ」っつー記事程度にはね。嘘だと思うならこのブログの人に聞いてみ。某ライトノベル系チャットでは前から言ってること。
魔法の擬音で人生やり直してあげるー♪
ハライテエ(爆笑)。
今日会う人と結ばれる
今週も来週もさ来週もずっと oh yeah!
広瀬香美も結構歌ってるな。タイトルど忘れしたけどうぃきぺってああそうそう『ストロボ』だわ。これ好きだな。
さて『ロマンスの神様』。
普通に歌詞を通して読めばこの歌の主人公(広瀬自身ではない)は去勢済みと予測されうるが、仮に彼女が未去勢者だったとして考えてみよう。
未去勢者である彼女にとって「今日会う人と結ばれる」ことは他者の享楽となる。
未去勢者たちは、意味が劇的に差延し続ける、意味が去勢済み主体と比して不確定的な世界を生きている。ここでの世界とは独我論における世界と等値である。正常人の独我論上の世界は未去勢者と比して確定的である。
そんな不確定的な独我論上の世界を生きている彼女にとって、「今日会う人」は世界としての意味を確定させる人である。自他問わない存在を確信させてくれる人である。
この記事でも触れたビオンの言葉で言うならば、「自分のことを考えてくれる者を待っている思考」(即ち「考える物」)たる主人公が「考える者」と出会うのである。クリステヴァの言葉なら「想像的父たるアガペー」と出会い続けるのである。正常人にとってはなべて生後二年以内に経験済みな出会いを、何年も遅れて経験しているのである。
つまりシニフィアンスである。シニフィアンスの瞬間を歌った歌である、となる。
そういう状態が「今週も来週もさ来週もずっと」であるならば、シニフィアンスが乱舞している状態だと言えよう。イントラ・フェストゥムである。
意味が不確定な無限の領域に、確定的な意味(連鎖)という有限が寄生する瞬間である。寄生されまくっている。輪姦され続けている。
一方、普通に主人公が去勢済み主体だったと考えよう。
彼女にとっての出会いとは、ファルス的享楽的なものとなる。つまり、水鉄砲のごとくちっちゃな穴から現実がぴゅっと飛び出るような出会い。ニキビを潰した時皮脂がにゅるっと出てくるような出会い。射精のような出会い。
それが「今週も来週もさ来週もずっと」であるということは、シニフィアンスの乱舞ではなく、オナニーを覚えた猿のような状態である、と言える。ファルス的享楽とはまさに自慰である。
歌詞を普通に読めば去勢済みっぽいが、広瀬の歌唱法などを考慮すると、多少イントラ・フェストゥムの印象がある。未去勢的だとは言えないが、未去勢の主観世界と似た臭いを、『アンチ・オイディプス』的な意味での強度を感じさせる。
なのでこの歌が去勢済みを称揚しているのか未去勢を歌っているのかは診断できない。どちらの解釈をされてもわたしはあまり文句を言わないだろう。
比喩的に述べてみる。
歌の主人公が未去勢者ならば、「今日会う人と結ばれる」のが「今週も来週もさ来週もずっと」である状態とは、常態的に誰かと心中し続けているごときことである。
去勢済み主体ならば、正常人同士の正常位だけのセックスがごとき、お互いが自慰しあっているがごとき状態だと言える。精神分析学的な文脈で言えば、正常人同士の「セックス」とは生物学的な男女の性交のことではなくファルスが射精しあっている状態である、ということだ。
ラカンの言葉、「性関係は存在しない」とは、正常人たちは「セックス」していると思い込んでいるだけであり、「セックス」というシニフィアンを行為しているだけであり、現実的・自体愛的な視点から言うと、ただ自慰をしあっているだけであるということを示している。それが去勢済み主体同士のする「セックス」なのだ。ここに生物学的な男女は関係ない。男も女もファルスが射精しあっている。これが巷で称揚されている「健全な恋愛」なる事物である。それと対比されうる未去勢的な恋愛がこの記事で述べている獣としての恋愛である。
未去勢者にとって過去の恋愛は心中の繰り返しであるのに対し、去勢済み主体にとってそれはただのニキビ跡にすぎない。
どちらも刻印ではあるけどね。
昔お手伝いした劇団で、コメディばっかやってたとこなのだが、劇作家兼演出家兼役者である主宰者がちょっとぶっ壊れて、自分の役に長ったらしいモノローグを言わせた。その中に「セックスなんて粘液の擦りあいにすぎないじゃないか!」といういかにも中二病的な叫びがあったが、そういうことなのだ。彼は正常人同士のセックスは自慰のしあいっこだということに薄々感づいてこんなセリフを言わせたのだ。言いたかったのだ。他の役者ではだめだったのだ。これは劇作家兼演出家兼役者である彼のうちに住む(ささやかかもしれないが)器官なき身体という孤児のうめき声だったからである。赤ん坊の泣き声のごときセリフだったからである。
わたし自身、当時は「中二病くせえセリフだなあ」くらいにしか思わなかった(当時「中二病」なんて言葉なかったかもしれないがまあフィーリングとして)。しかしこんな文章を書いている時にふと思い出したということは、そういう強度が多少はあったのだろう。わたしにとって。
シニフィアンスの乱舞。
たとえば、常態としてアンテ・フェストゥム的であることが多いアスペルガー症候群者でも、そんな瞬間があるだろう。
苦痛が頂点に達した状態。疲弊が極限に達した状態。
確定的な意味が、意味が確定化する瞬間が、強力なブラックホールのごとき重力の集中点が、あちこちに生じる。
これがアスペルガー症候群者のパニックや解離症状であろう。正常人がする混乱と比べると、逆方向から生じるのである。正常人は多くの場合、不確定的な意味に直面した時に混乱する。たとえば解離性障害と診断されている人は、実際には去勢済み主体(即ち正常人)が多いとわたしは考えているが、アスペルガー症候群者の解離と去勢済み主体の解離は、同じ場所で苦しんでいるだけで、そこにやってくる方向が逆なのである。去勢済み主体は迷子になって混乱し、未去勢者は迷子状態から救い出されようとして混乱する。
しかしこの瞬間は、未去勢者が去勢済みの主観世界に触れた瞬間でもある。去勢済み主体が未去勢的な主観世界に触れた瞬間でもある。
生後二年以内にシニフィアンスを経験し、その経験が無意識の軸(ラカン用語で言えばS1)として常に既に機能している去勢済み主体に、シニフィアンスは到来しない。享楽を享受するのが困難である。
それこそあるちっちゃな一点の穴でしかシニフィアンスの面影を感知できないだろう。去勢という遠い昔に生じた主観世界の大激動としてのトラウマが再帰するわけだ。あるちっちゃな一点の穴で。「特定域の電磁波に感度がある」「電波望遠鏡」が取りこぼす電波はここから漏れる。
これがファルス的享楽である。
去勢済みな主体は原理的にファルス的享楽しか味わえないのである。
しかし未去勢者の享楽は他者の享楽的である。輪姦されるがごときものである。嬲られるのである。無限が有限に寄生されるのである。穴だらけ、いや、穴が穴になっていない。穴しかないから穴ではない。特定域以外の電波を感知できないポンコツ電波望遠鏡が壊れているからこそ、特定域以外の帯域を含めた無限の電波に翻弄され続ける。
確定的な意味に輪姦される。ポンコツ電波望遠鏡に嬲られる。
不確定的な主観世界を確定化させようとする正常人の「人間らしさ」という暴力に輪姦されている。ファルス的享楽に嬲られている。さらさらの流砂のような、無限で流動的な海のような意味が、意味の連結の仕方の自由度が高い状態即ち差延が激しい状態(無限に連結可能な意味だから「無意味」とも表現可能だが、巷にはびこる「ナンセンス」とは違う。中坊さんのマンガみたいなのとは違う)が、アスファルトの道路のごとく舗装される。
生後二年以内に舗装の基礎工事を終え舗装道路を長く生きてきた正常人には到底理解できない主観世界を、正常人たちはパラノイアックに、権力的に支配しようとする。舗装しようとする。「全ての人間の主観、考え方とは、たとえ人種が違ってても大体似たようなものだ」などというような確定的で有限な主観世界が、未知としての無限を生きる迷子の主観世界をレイプする。ただの共同幻想でしかないそれを「現実」と勝手に呼称し、ラカン的な意味で本当の現実に近い世界を生きている人間の現実を圧殺している。
未去勢者にとっては、正常人の思う「現実」即ちパラノイアックな妄想でしかすぎない共同幻想こそが、理解できないのだ。無限の世界にとって有限とは一部でしかない。ただの一部を全体と考えるのが、それがほとんどの人間に共通する考え方になっているのが、理解できない。
未去勢者が正常人たちの中で生きることとはそういうことだ。
わたしはアスペルガー症候群ではないが、少なくともわたしはそう生きてきた。生かされてきた。
まさにシニフィアンスが常態的に生じている。享楽が「今週も来週もさ来週もずっと」なのである。パニック的な享楽。確定的な意味という悪い乳房の取り込み。
アンテ・フェストゥム者が、正常な(ポスト・フェストゥム的な、と言ってもよかろう)主観世界と接触すれば、イントラ・フェストゥムが生じる、という話である。
『ロマンスの神様』に戻ろう。
もし主人公が未去勢者であって、シニフィアンスが、他者の享楽が「今週も来週もさ来週もずっと」である状態だったならば、おそらく彼女は精神病圏であると診断されるだろう。ビオンの言う「受肉」が、シニフィアンスの乱舞が常態になっているのである。
広瀬がこの曲で初めてテレビ出演した時だったと思う。「歌唱法を本格的に学んだ歌手」として紹介されていたにも関わらず、緊張のためか「ど素人か」と思えるような歌い方をしていた。本当にヘタクソだった。歌唱法は知らないが発声のイロハ程度なら知っているわたしは「なんだこりゃ」と思った。当然、段々慣れていったのか、しばらくした後のテレビ出演では普通に歌えていたが。
そういう記憶も、彼女の歌にほんのちょっとした未去勢的な印象を与える要素になっているのかもしれない。
んで『ストロボ』。
ストロボ光った 出会ったあの夜 照れちゃうくらい
心のメモリーいっぱいになった
あなただけで
すねる素振り わたしを急に振り返るまなざし
めぐりめぐる瞬間よ 憧れも思い出も大切な宝物
「心のメモリー」は、少なくともわたしにとっては、パソコンのそれみたいだ。それが「いっぱいに」なることとはパソコンが固まる時のようなことだ。実際にパソコンが重くなったりウイルスに感染したりしたら、パソコンが自分自身になったかのように動揺する。未だに。「パソコンが壊れでもしたらもったいないから」なんて理由はただの後づけにすぎない。
「瞬間」だけなのだ。「めぐりめぐる瞬間」はそれぞれであり、統合された「あなたとわたしの数ヶ月間の恋愛関係」のごとき事物ではない。時々ある瞬間とある瞬間が衝突し結合的なものになることもあるが、基本的にそれらは自分勝手だ。自分勝手に作動するアプリケーションだ。トロイの木馬だ。
未知なアプリケーションが「心のメモリー」に「いっぱい」になる。
一つ一つの「めぐりめぐる瞬間」はブラウン運動をしている。大体そうなるだろうという統計的な予測が可能な場合もあるが、トロイの木馬であってもそれを(たとえば嫌がらせなどに)利用することも可能だが、そしておそらくこのことをもって正常人たちは「あなたとわたしの数ヶ月間の恋愛関係」という事物に統合したりするのであろうが、原理として予測不可能なのである。統合できないのである。それらの「瞬間」たちは。未知なるものは。
量子は狂気の振る舞いをする。
お前たちがほぼ無意識的にしている統合は、その結果としての「全体」は、パラノイア患者がする妄想と同じ機制で生じる産物である。人格とはパラノイアである。
量子たちはあなたという正常人化ウイルスに、パラノイアウイルスに感染しつつある。
わたしは焦っている。
これでいいのかと焦っている。
β要素は死の恐怖である。アブジェはおぞましいものであるが同時に魅惑的なものである。
それを今実感している。β要素もアブジェも断片である。部分対象である。
怖い。
誰でもいい。
わたしが勝手に、一般的には「愛」と呼称される、正常であるために必要な物自体的でありかつ所有・把握可能である両価的な対象aという踏み台を、言葉を覚えたばかりの少女が隣家の少年について「わたし、潰すの、頭、フランシス」と言ったごとく、
あなただけで
怖い。
再起動が必要だ。
人というシステムにとっての再起動とは一旦死ぬことだ。
「断片的に恋愛の場面を思い出しますね」
「それはいいことかもしれませんね」
まあ精神科医はそう答えるんだろうな。奴はわたしを去勢済み主体だと思っているのだろうから。
奴はわたしが阿部定のような恋愛をしていたと想像できないんだろう。
ストロボなんだ。シニフィアンスの乱舞とは。イントラ・フェストゥムとは。
あなたたち側から言えば断片。断片の世界。
メロディも不安な感じがするのがいい。「恋するスピード上げて」の「上げて」のとことか。マイナー調って言うの? ごめん適当。間違ってたらバンドやってるらしい中坊さん指摘よろ。
『ストロボ』と中島みゆきの『HALF』で泣けるな、今。自己陶酔。自己に陶酔できたら「よし明日からがんばろう」ってなれるんだろうから自己陶酔じゃないんだよな。自己愛の対象としての自分ではなく自体愛の対象としての自分に陶酔している。いわば自体陶酔。
だから心中するしかない。相手がいないなら一人で死ねばいい。「一人で死ぬのなんてさみしいじゃん」なんて意味わかんない。死という再起動が必要なのであって、再起動後正常に作動するために「考える者」あるいは「想像的父というアガペー」というOSあるいはウイルスが必要なだけ。それは「現実」的な人でなくてもいいんだ。だからあなたたちが考えるパラノイアックな妄想・共同幻想としての「現実」で言うと「一人で死ぬ」ことになるのかもしれないけど、違う。もともとが器官なき身体という孤児状態を生きてきたのだから、「一人」を終わらせるために死ぬのだ。瞬間、断片、量子とともにだから、パラノイアックな集団妄想としての「現実」では「一人」かもしれないけど、一人じゃない。器官なき身体は孤児だが悪意としての物自体たちとともに生きている。それはたとえば「もののけ」である。谷山浩子という魔女が召還する「みんな」である。
みんな ねえみんな 出てきておくれ
今ならば一人きりさ 祭りもできる
みんな ねえみんな 出てきておくれよ
暗い夜空に身を投げて踊り明かそうよ
ああ お前たちだけさ あたしのそばにいつもいるのは
ああ 人たちはそれぞれ別々の舟
時に近寄りまた遠ざかる
みんな ねえみんな 出てきておくれよ
あの人の明日からあたしを守ってよ
あの人の昼間からあたしを守ってよ
悪意たる物自体たちは自分勝手だ。だから「明日」なんてない。その瞬間しかない。断片しかない。
物自体に囲まれて生きている未去勢者たちはリゾームという迷路をさまよう迷子だ。「昼間」のようにそこがどこかわからない。
「あの人」はわたしに予測可能な「明日」を植えつけようとする。周囲を把握できる「昼間」に引きずり出そうとする。
現実的に「人たちはそれぞれ別々の舟」なのに、自分勝手に近寄ったり遠ざかったりするものなのに、孤児なのに、迷子なのに、正常人たちが乗っている妄想の大型客船に同乗させようとする。
あたかも強姦するかのように。
魔女を強姦しようとした「あの人」はそういう現実に気づいたのかもしれない。だから逃げたのかもしれない。
気づいただけましなのかもしれない。
わたしから逃げる人の方がわたしを理解しているのかもしれない。
わたしは悪意たる物自体たちと、断片たちと、「みんな」と踊り続ける。
自分勝手な「みんな」とは違う「自分のことを考えてくれる者」である「あの人」は、わたしから逃げてしまう。
ああ そんなに逃げたきゃ思う存分逃げるがいいよ
勝手に死まで、去勢というイニシエーションまで、妄想で劣化しないでくれ。生きている間これだけレイプしてきたのに、死すらレイプしないでくれ。それならいっそ逃げてくれ。「メンヘラきめえ」とか言いながら。
去るあなたは美しいわ
「行かないで」とすがるわたしより
僕が壊した人形のきみを
捨てて明日はきっとここを出てゆく
もう帰れない どんなに夢を見ても
お前たちの性欲は異常だ。この記事で触れた斎藤環の文章とかキチガイじみている。キチガイから見てキチガイじみている。サイトがそういうサイトだから、精神科医というパラノイアックな精神疾患者集団の異常さ(症状)が顕著に表れている、とも言えるだろう。
わたしの死はただそうであるだけの死だ。
わたしが思い出す恋愛の断片とはただそうであるだけのものだ。
それを勝手に統合の兆しなどと、自己・主体の快復などと判断しないでくれ。
……いや、実を言うと、恋愛は統合の兆しである、というのもわかるんだけどね。実感で。恋愛は欲動の粘着性・ネゲントロピーを促進する。
だけど、もともと統合機能に不具合がある人間にとって、統合あるいは主体化は、局地的な粘着・ネゲントロピーの結果にすぎない。わたしは恋愛に溺れるとストーカーじみた行為をしてしまう。しばらくするとそんなことけろっと忘れてただの友人として対応したりする。
恋愛は快復ではなく苦痛だ。去勢済みな主体がするパラノイアックな妄想・共同幻想の共有という快楽(要するに「人と人とは必ず理解しあえる」とかそんなん)である統合・主体化は、未去勢者にとっては恐怖の対象だ。重篤な精神疾患は治りかけが一番危険だっつー奴。
もちろん疾患状態も苦痛なんだけどね。治るも苦痛、そのままも苦痛、悪化も苦痛。恋愛なら、成就も片思いも悲恋も苦痛。
あ、次『横恋慕』入れて。
精神科医さんたち。お前が勝手に精神医学について無知だと思っている目の前に座る患者は、こんなことを考えているのかもしれないよ。お前の見下している態度・無意識を敏感に感じ取って軽蔑しているかもしれないよ。ここでやり取りした心理士とかわかりやすすぎてワラタ。
お前の方が正常という精神疾患じゃん、とか精神分析されてるのかもしれないよ。診察しているのはお前だけじゃないんだ。
ただ口に出して言わないだけで。
だってほら、精神分析は分析内容をクライアントに言わないから。論文で発表することはあっても。
お前たちが精神疾患者なんだよ。
あるアスペルガー症候群者の心理士についての冷静で客観的な分析とかほうほうと思えるぞ。
未去勢者たちの中でも会話ができるアスペルガー症候群者やスキゾイドたちを観察すれば、彼らがいかに天然の精神分析家であるかがわかるだろう。
キチガイたちの反乱を促しているブログだと読まれているのかもしれない。だとしたらそれは、精神科医や心理士に診察されている患者やクライアントの反乱を促している、と「現実」的に置き換えられる。
それでいいよ。そう言われると違和感を覚えるが、最近どうでもよくなってきている。氏賀Y太『真・現代猟奇伝 女子高生コンクリ詰め殺人事件』のごとく。
キチガイは正常人をキチガイだと言っていい。正常人がキチガイを異常だとするのが理屈上誤りなのである。
人類という種が太古から傾向的に慢性的に恒久的にし続けてきた誤謬である。
アルトーのゴッホ論なんかはこの大いなる誤謬を指摘している。
昔のロシアではキチガイを聖者扱いしてたらしいな。日本でもそんな感じの伝記がある。
そういえば木村敏もんな感じのことぼそっと言ってたな。「正常であることがいやんなる」みたいな。
もういい。
正常にならせてくれ。
死なせてくれ。
享楽に埋没させてくれ。
まっすぐ届けさせて。
あなたに、誰かに、
備給先を、
〆は『ドクロちゃん』歌お。ぴぴるぴー♪ これだけで千葉紗子は評価する。そーいや南青山って仕込みやったことあるな(笑)。
なんかねー、声がアンパンマンの人みたいらしい。行きつけのカラオケスナックに幼稚園児くらいのガキを連れてくる人がいたんだが、わたしがアニソン歌うとそんガキ、キチガイみたいにはしゃいでた。キモかった。もし大人になってこのことを覚えてたらすっげー恥ずかしい記憶になるだろうな、ってくらい。アニソン向けなのかね、わたしの声。
アニメ声ではないけどなー。酒焼けしてるだろーし。
「瞬間」を「永遠の宝物」にするには心中するしかないじゃん。当然のことすぎて説明するのもあほらしい。
断られたら一人で死ぬだけ。
なのに何故あなたは嘲笑うん? 「一緒に死んで」とマジメに言ってしまったわたしを。未だに恥ずかしいよ。死にそうなほど。
あなたじゃなかっただけ? 備給先が。じゃあ、統合された事物としてのあなたじゃないあなたとの断片という現実的なそれと心中しましょ。断片のあなたを殺して、断片しか知らないわたしを殺しましょ。
気のせいでしょうとそれきり忙しく
時は流れてゆく 費やす日々
傷つけ傷つく苦い旅の中で
わたしあなたのこと思い出したわ
瞬間が、断片が、量子が、統合されかけている。劣化されかけている。
思い出したその瞬間。
シニフィアンスの乱舞が、「あなた」の背後で一つの超越論的シニフィアンになろうとしている。ファルスを所有する直前。
中島はなったのだろう。所有しているのだろう。
谷山はなれなかったのだろう。所有できなかったのだろう。いや最近は宗教にはまってるらしいから、なりつつある・所有しつつあるのかもしれない。
わたしは、
わたしは、
治るもそのままも悪化も苦痛なら、成就も片思いも悲恋も苦痛なら、『横恋慕』でいいや。
そう、こんな風に歌ってていい。
こんな風に歌いながら再起動すればいい。
それでも時の流れさえ見放すわたしの思いを
伝えてから消えたい
ビールがまずい。
涙が止まらない。
泣いててごめんね。長くなっちゃったね。
嘘です、ごめんね。
あなたが好きだったなんて嘘です。
さよなら。
一度だけ言いたいことはあるけど、言えない。人生で一度だけだから、言ったら消えるしかなくなる。
言ったらどうなるんだろう? 多分だめね、言ってもどうにもならないと思う。
三つ編みにしてくれたのはあなた。
それをばっさり切ったのはわたし。
三つ編みしてた頃にあなたはいなかったから、切るしかなかった。正常であるために、自分勝手に泣く髪という断片を自分で切るしかなかった。
あはは、想像的父か(笑)。なんかおかしい。
嘘です、ごめんね。
嘘かほんとか自分でわからないからそれでいいよ。
ただね、……、
やめとく。
やめとかない。
一言ちょうだい。
やっぱりいい。
でも、否定でいい。
あなたの本性の声を聞きたい。
器官なき身体のうめき声を、赤ん坊のあなたの泣き声を、
断片の声を、
わたしの髪を優しく三つ編みにするあなた以前のあなたの声を、
聞きたい、聞きたくない、それを聞いてからじゃないと統合できない。
だって知らないから、断片しか知らないから、
怖い。
断片を殺すのが、殺されるのが、
見ないで。読まないで。未去勢者も去勢済み主体も。
声が怖い。まなざしが怖い。
統合が怖い。断片が怖い。
ごめんね。
雨が降っていたわ。雪が残ってたわ。踏み潰されて泥と混じった汚らしい雪が。
その上をあなたが去っていく。
逃げていく。
殺してやる。
バットでドスドスドクロちゃん♪
ここの自己愛型ひきこもり野郎なんかドクロちゃんに殺される主人公だわ。
ドクロちゃんに撲殺されることを「他者の享楽だ」と言い張っている。
ほんとはドクロちゃんのが他者の享楽的なのに。
ドクロちゃんは主人公という糸車でフォルト・ダー遊びをしている。
はふんあひぃぱぷぅ許して
そんなにぎとぎとしないで
お願いだから
えいっ!
「愛」だよ? 「愛」(笑)。
かわいい擬音で人生どきどきばくばくー♪
ワラケル。
小説も読んだが意外と評価してたりすんだよな(笑)、『ドクロちゃん』。自己愛型ひきこもり野郎の「うんこは贈り物だ」っつー記事程度にはね。嘘だと思うならこのブログの人に聞いてみ。某ライトノベル系チャットでは前から言ってること。
魔法の擬音で人生やり直してあげるー♪
ハライテエ(爆笑)。