『踊る大捜査線 THE MOVIE』――「不快だからそれを避ける」というプログラミングは現実ではない。
2009/07/12/Sun
『踊る大捜査線 THE MOVIE』を見た。
既に何回か見ているが、最初見た時小泉今日子の演技のあざとさに「ああエンタメってこんなレベルだよな」と2ちゃん実況板のレスのような印象を抱いたのだが、今はそうでもないな。
小泉の演技は偽悪だと思っていた。しかし、偽悪じゃない現実のために偽悪ではない悪を演じる、という事例もあるなあ、と思ったのか、自分でよくわからない。
善悪という事後的で恣意的なパラノイアの妄想と等質な区分が理解できないから悪が表面化してしまう、という単純な理屈ではなく、善悪という事後的で恣意的なパラノイアの妄想と等質な区分が、ただのルールとして、それこそパソコンのプログラミングのようなものとして理解はしているが、それが無意識の根っこに癒着していないという意味で善悪を理解できていない人は、小泉のようなあざとい演技という日常を生きるのかもしれない、ということだ。偽悪じゃなくむしろ悪にならないために仮設的に「偽悪」と設定すること。マザボとメモリの相性みたいな? それがよくない人は小泉のあざとい演技のような症状を醸し出すのではないか、ということか。すまんPCよくわからん。
でもやっぱ違うよ。小泉は。動物的な怯えが全くない。それを正常人より敏感にキチガイは察知している故、過剰に封じ込めようとする機制はあるだろう。しかし小泉の封じ込めは立派すぎる。小泉の演技はキチガイに、未去勢者になっていない。
真犯人のガキたちは言うまでもなく思春期病の対比としての中二病。最後に織田を刺した母親のが未去勢的。息子というそれまで所有できていたファルスを手離す瞬間。「子離れ」という幻想のなかへの解放(正確には封殺)としてのファルスの手離しなのではなく、現実的な本当の無限への、アブジェの海への(本当の意味での)解放としてのファルスの手離しである。
刺したその瞬間だけ、母親は未去勢的だ。
母親は刑事を刺しているのと同時に息子と心中している。
「現場」は汚いもの、苦痛なもの、不快なものを含んでいる。
「清濁併せ呑む」などという言葉には不快さがたりない。アブジェがたりない。
お前たち正常人は現場を生きていない。
作中に描かれている警察上層部と、真犯人グループは、現場を、現実を生きていない。
小泉も生きていない。
刺された青島と刺した母親だけが、その瞬間の二人だけが、現場を、現実を生きている。いや、他と比して現場よりな、現実よりな世界を生きている。
「不快だからそれを避ける」というプログラミングが現場ではない。現実ではない。
その証拠に、お前らはこのクライマックスシーンに感動したんだろ?
死刑執行に群がる群衆のようにこのドラマに欲情したんだろ?
詩人とは言語の死刑囚だ。
芸術家とは何度も処刑される死刑囚だ。
既に何回か見ているが、最初見た時小泉今日子の演技のあざとさに「ああエンタメってこんなレベルだよな」と2ちゃん実況板のレスのような印象を抱いたのだが、今はそうでもないな。
小泉の演技は偽悪だと思っていた。しかし、偽悪じゃない現実のために偽悪ではない悪を演じる、という事例もあるなあ、と思ったのか、自分でよくわからない。
善悪という事後的で恣意的なパラノイアの妄想と等質な区分が理解できないから悪が表面化してしまう、という単純な理屈ではなく、善悪という事後的で恣意的なパラノイアの妄想と等質な区分が、ただのルールとして、それこそパソコンのプログラミングのようなものとして理解はしているが、それが無意識の根っこに癒着していないという意味で善悪を理解できていない人は、小泉のようなあざとい演技という日常を生きるのかもしれない、ということだ。偽悪じゃなくむしろ悪にならないために仮設的に「偽悪」と設定すること。マザボとメモリの相性みたいな? それがよくない人は小泉のあざとい演技のような症状を醸し出すのではないか、ということか。すまんPCよくわからん。
でもやっぱ違うよ。小泉は。動物的な怯えが全くない。それを正常人より敏感にキチガイは察知している故、過剰に封じ込めようとする機制はあるだろう。しかし小泉の封じ込めは立派すぎる。小泉の演技はキチガイに、未去勢者になっていない。
真犯人のガキたちは言うまでもなく思春期病の対比としての中二病。最後に織田を刺した母親のが未去勢的。息子というそれまで所有できていたファルスを手離す瞬間。「子離れ」という幻想のなかへの解放(正確には封殺)としてのファルスの手離しなのではなく、現実的な本当の無限への、アブジェの海への(本当の意味での)解放としてのファルスの手離しである。
刺したその瞬間だけ、母親は未去勢的だ。
母親は刑事を刺しているのと同時に息子と心中している。
「現場」は汚いもの、苦痛なもの、不快なものを含んでいる。
「清濁併せ呑む」などという言葉には不快さがたりない。アブジェがたりない。
お前たち正常人は現場を生きていない。
作中に描かれている警察上層部と、真犯人グループは、現場を、現実を生きていない。
小泉も生きていない。
刺された青島と刺した母親だけが、その瞬間の二人だけが、現場を、現実を生きている。いや、他と比して現場よりな、現実よりな世界を生きている。
「不快だからそれを避ける」というプログラミングが現場ではない。現実ではない。
その証拠に、お前らはこのクライマックスシーンに感動したんだろ?
死刑執行に群がる群衆のようにこのドラマに欲情したんだろ?
詩人とは言語の死刑囚だ。
芸術家とは何度も処刑される死刑囚だ。