「子供を産む機械」という言葉の力
2007/02/11/Sun
柳沢大臣の「女は子供を産む機械」発言。
えーと。何か旬を逃してしまった感がありますが、まあそれについてちょろっと。
なんていうか、周りの女性の反応も私と似たような感じなので書いていいかなあ、と。
確かに言われて嬉しい言葉じゃないですけど、ここまでヒステリックに反応するのはちょっとなー。というのが私の感想ですねえ。しかしインパクトはあると思います。マスコミがこぞって取り上げて、女性議員が反発するのもまあ理解はできますが、その表出があまりにもヒステリックかつ政治的すぎて冷めてしまった、というのが一般の女性の感覚ではないでしょうか。
もちろん政治の駆け引き材料として使われているっていうのは重要なポイントだと思います。っていうかいろいろな議論を読む限りそれがほとんどのウエイトを占めているのでしょう。柳沢大臣の「無意識」に言及した論もありますが、そういう論を読む限り、その文章からもその筆者の政治的な「無意識」が立ち表れているものが多いように感じます。だから一般の女性は冷めてしまうわけですね。
次にあるのは社会学的フェミニズムの皆さんの論理でしょうねえ。社会で働く女性の権利をテーマにしている女性論者の方々にとってはやはり聞き捨てならないところはあると思います。しかし彼女たちが反論したとしても、社会制度問題に発展する議論となるはずです。そういう論点で述べている方もいるようですが、そういう方々にとっては言葉の揚げ足取りというより、議論の突端を与えてもらった出来事になるんじゃないでしょうか。この辺は私は子供がいないという妙な劣等感があるので言及しないことにしておきます……。
この二点については、私は政治関係を論じるつもりはないので、脇に置いておきたいと思います。政治的な問題、フェミニズムの問題という視点からインパクトのある言葉だったから、という結論では、では何故そういう問題においてインパクトが生じたのかという疑問の答えになりません。そこで思考停止すると肝心な何かが見えなくなってしまうような気がします。
この発言が人間の精神に与える影響という視点から、つまり、この発言の持つ、精神分析的な「言葉の力」について少し思考を巡らせてみようかな、と思います。
何故マスコミや野党が激しく色めき立つほどこの言葉が「不適切」だと思われたのか。「失言」だと思われたのか。
「機械」という言葉はこの文脈では明らかに比喩として用いられています。その比喩が何故許されないのか。
比喩表現というのは、言葉が持つ、シニフィエを中心としたその周辺の曖昧さを最大限に活かす表現方法です。曖昧さを活かすからその表現には様々な意味や文脈といった、言葉の辞書的な意味以外の要素も圧縮して表現できるわけですね。
この曖昧なところ、つまり言外に侮蔑的な感情が読み取れるから「不適切」な発言となったのでしょう。
もちろん柳沢大臣の問題発言の全文を読んで、侮蔑的な意味ではない、といった旨の発言があるのは知っています。この比喩の主要な役割は、講演会の聴衆にわかりやすく説明するというものとして、彼はそう発言したのでしょう。
女性を侮蔑している「ように」聞こえる比喩表現だから、「不適切」となったわけですね。
この、「子供を産む機械」という比喩表現。これを二つの部分に分けて考えてみましょう。即ち「子供を産む」という部分と「機械」という部分です。
まず「機械」という言葉から。
人間を「機械」という言葉で比喩すると侮蔑的に解釈されることが多いですね。「機械的な作業」とか。一方、まれですがスポーツ選手などを喩えて「精密機械」というような好意的な比喩になることもあります。
ここは簡単に説明しておきますと、要は、機械は他者の命令により動くもの、つまりそこにその人の意志や思考、即ち「自我が無い」という暗喩が働くわけですね。自我が無いということを侮蔑と感じるのは、近代的自我信仰と言うべき代物のせいでしょう。「我思う故に我あり」という言葉を短絡的に真理だと思ってしまう、男性的な近代的知による文脈的な影響だと思います。一方、仏教では「無我」という思想概念があります。無我の境地は聖性に通底するイメージがあります。スポーツ選手に対する「機械」が好意的な比喩になりえるのは、こういった無我的な印象を「機械」という言葉が暗喩するから侮蔑とならないのではないでしょうか。つまり、人間に対する「機械」という比喩は、「自我が無い」「無我」的なものを暗喩している、と考えれば、侮蔑的に感じることも好意的に感じることも説明がつく、ということです。
余談を少し。日本語文化で考えてそういう説明になりますが、私自身は「機械」という言葉が掴む概念に対して違和感があります。機械は命令に従うだけの結果しか出さない、というイメージですが、ドゥルーズの言う「文学機械」やフーコーの言う「言語機械」を考えれば、「機械」という言葉に違う印象が立ち上がると思います。機械は決して命令通りのアウトプットしか出さないのではなく、機械的で明確な部品が多数複雑に絡み合い影響しあった結果、予想できないアウトプットが出てきてしまう、という「印象」です(工学の世界では「悪い」機械になってしまいますが)。柳沢大臣もこの辺引用して煙に巻いたらいいのに、とうっすら思ってしまいます。
今回の発言には、女性差別的な「侮蔑」的行間が立ち表れたからこそ、こういう騒動が起こっています。「機械」という言葉が侮蔑的比喩になってしまったのは、やはり「子供を産む」という言葉の文脈が関わってきたから、と考えるのが妥当でしょう。
単純な連想を想定すると、「子供を産む」という言葉は出産→性交ということを暗喩し、「機械」に自我が無い人間という暗喩を当てはめると、「性交する、自我が無い人間」という読み解きになります。するとそこには性の対象への、「所有」的で男性的な支配的性的欲望を見て取れなくないですね。そこはかとなく「レイプ」を感じさせる解釈ですね。だからこの発言は、男性の無意識的な「女性差別」が表出した発言である、という解釈になるのだと思います。
しかし、この発言の「言葉の力」の正体とはそれだけでしょうか?
確かに、女性一般がこの言葉に感じる不愉快さの正体は、支配的な性的な行間が立ち表れているからなのかもしれません。
柳沢大臣の女性差別的な無意識に言及した論があるので、この発言に不愉快さを感じる女性側の無意識的なところを言及しても構わないでしょう。
もちろんこの男性の支配的な性的欲望への不愉快さはあると思います。この不愉快さを生み出すものは、精神分析的には自我である、と言えます。この不愉快さを顕著に感じ反発してしまうのは、先にも述べた、女性も男性のようにしっかりとした自律的自我を持つべきという、近代の男女平等思想的なものが助長しているからなのかも知れません。それは超自我的なものと言えるでしょうか。
ここで終わるとわかりやすいですが、あえて精神分析論的解釈をしてみます。
前の記事で幼児期の精神分析論での性差を書きましたが、それを元にします(先にこちらの記事を読んで頂くとわかりやすいと思います)。性的なものが関わるなら性差を基本にした方がいいですからね。
女性は男性と違ってペニスという母親との差異がないため、原抑圧、即ち象徴界への参入は曖昧に行われます。去勢がイニシエーションたりえないのです。なので「女性」というシニフィアンを受容する、即ち象徴界への「性の登録」は他者により行われる、ということになります。このことをフロイトは「女性は超自我が未熟である」というような表現をしています。
「女性」を象徴界に登録する他者とは、「父親」という最初の「男性」です。これは比喩表現ですので、「父性」のような言葉が暗喩するもの、ぐらいに思って下さい。女性は原抑圧によりエレクトラコンプレックスが始まり、愛する父親によりその性を象徴界に登録されるのです。
男性も女性も、この幼児期の原体験を、成長してからもまるでトラウマのように反復します。つまり、女性は大人になっても、原抑圧のような受動的な構図がトラウマのようにその言動を無意識的に規制し、受動的な恋愛をしてしまうのですね。ネットで見かける「男性は過去の恋愛を『名前を付けて保存』し、女性は『上書き保存』する」という言葉も、「女性」というシニフィアンが象徴界へ受動的に登録されるということと深く共鳴しているように思います。
受動的とはいえ、女性にも自我はありますし、象徴界に参入しています。ファルス的享楽のような能動性がないわけではありません。しかしそこで、「自我なんてものは必要ないんだ、能動性なんか必要ない」みたいなことを「父親」から言われたらどうでしょう? 「父親」により象徴界に参入させられた身としては、その言葉は「裏切り」のように思えるでしょう。柳沢大臣という人物は高齢の男性であり、その肩書きも象徴界=社会的に代表といえるものです。即ち「父性」を強く暗喩する人物(の名)であると言えます。
比喩的にまとめましょう。柳沢大臣のこの発言への強い反発は、父親に裏切られたことへの怒りである、ということになるでしょうか(こういった言い回しも女性が精神分析を嫌う一因になるのかなあ)。これは性的な女性差別という解釈による反発の奥にあるものとして捉えて下さい。
次に、「子供を産む」という部分にスポットを当てて考えてみます。
ラカン論では、象徴界、想像界、現実界という三界があります。象徴界は先に書いたように言葉の世界、象徴化されたものの世界、社会といったようなものです。想像界とは目で見たり耳で聞いたりする体感的な世界、という感じで思って下さい。最後に現実界。これは、そもそも人間というものは、外界からの刺激を目や耳や皮膚の感覚点などといった器官でキャッチし、それによる信号を脳で処理して事物を認知します。そういった意味では、人間の認知できる世界は、現実と虚構の区別が明確につかないものなのです。器官のない身体で認知する世界が本当の現実なのですが、それは理屈上無理な話です。この理屈上到達不可能な現実を、現実界と呼ぶわけですね。これら三界は、層になっているのではなく、ボロメオの輪のように絡み合って存在している、とラカンは述べています。
現実界は到達不可能なものです。あえて言うならば、全ての器官が機能停止する「死の瞬間」に現実界に近接したものが立ち現れる、と言われたりします。ここで私は、現実界に近接するもう一つの「場」として、「生の瞬間」即ち「出産」も挙げられるのではないか、と考えます。赤ん坊は確かに未熟ではありますが器官を持っていて、生まれた瞬間から器官を通して世界を認知しているでしょう。しかし大人と比べてそれら器官ははるかに未熟なので、「大人の世界と比較して」現実界に近接していると言えるのではないでしょうか。
次に対象aというものについて。対象aとは、他者と自我が等しいものとなった領域であり、「愛」などとといったようなものです。実際には想像界における他者や自我といったものに、対象aに近似されるものが立ち現れるでしょう。
この対象aは、ボロメオの輪として表現される三界の図の中では、三つの輪が全て重なる中央に位置しています。ちなみに想像界と現実界の重なりに「他者の享楽」があり、象徴界と現実界の重なりに「ファルス的享楽」というものがあります。想像界と象徴界の重なりは「sens=意味」となります。それぞれの重なりから他者の享楽やファルス的享楽を差し引いた「残り」が対象aという領域なのです。
対象aに近似できるものとして代表的なのは、「赤ん坊と母親の関係」です。愛情関係ですね。この対象aは先程述べたように三界の中心にあるものです。つまり到達不可能な現実界が、対象aという領域では関係してくるわけです。
これらのことから、「子供を産む」という言葉からは、対象a的な、現実界的なものが暗喩されると言えるのではないでしょうか。
以上のことを踏まえて。
私は今回のこの騒動から、政治的な視点、社会学的な視点、メディア論的な視点を除外して、四つの印象を持ちました。
まず一つ目は、ヒステリックに反発する女性たちに分析的に感じた印象。これは既に、エレクトラコンプレックス(の反復)を否定した父親への反発という表現で説明しましたね。
二つ目は、この言葉に反発しているのは実は男性に多いのではないかという印象。
三つ目は、女性たちはこの言葉の反論として、感情論的、倫理的なものがあまり聞かれないという印象。むしろ一般的な女性はこのことについて発言する女性議員たちに冷めた視線を送っているという印象。
四つ目は、何故このような言葉の揚げ足取り的な問題が、マスコミに大きく取り上げられ、政治に影響を及ぼすまでのインパクトを持ったのか、「言葉の力」という視点で何かの力があるのではないか、という印象。
これらを各々説明していきたいと思います。
二点目。
これは簡単ですね。先に述べた「子供を産む」という部分の言葉の力に由来するものでしょう。男性も等しく全員子供だったわけです。子供にとっての母親を「機械」と比喩表現されたわけですね。子供にとっての母親は対象aでもあります。対象aということは自我でもあります。つまりこの言葉は婉曲的に男性の自我も否定されるという解釈が成り立ちます。「三つ子の魂百まで」と言うように、幼児期の体験はトラウマ的に人の潜在意識に残ります。また男性は象徴界への参入において、去勢というイニシエーションを経験していますから、言葉により外骨格が形成された自我を否定されることには女性より敏感になるのではないでしょうか。自我が否定されることに対するトラウマ的な反応の度合いは男性の方が強い、ということです。このように潜在意識を揺さぶられた表出として、男性もこの言葉に反発してしまうのでしょう。
三点目。
これも「子供を産む」という部分に由来するものでしょう(ここはボーイズラブについて論じた記事を先に読んでいただくとありがたいです)。簡単にいいますと、女性にとって子供とは対象aであり自我です。しかし「女性」というシニフィアン=/Laは象徴界の他者(大文字の他者)の海を漂っています。象徴界の外側から対象aに向かうには、「他者の享楽」を経て中心に向かうことになります。このベクトルは象徴界の他者から離れていく方向です。つまり、女性にとって「子供を産む」ということに関して反論することが難しいわけです。これはレズビアンがその愛を他者に説明することが難しいという構図と類似していると思います。なので、これについての反論は「子供を産む機械」という言葉の意味そのものから離れた場所、即ち政治的、社会学的な象徴界の俎上でしか反論し得ないのです。またこのことから、政治や社会学から離れたところにいる一般の女性は、彼女たちの言葉に対して冷めてしまうのでしょう。
四点目。
この言葉のインパクト。これこそ現実界を暗喩させるという点に繋がるのだと思います。現実界というものは器官のない身体で認知する世界ですから、暗闇のように何が起こるかわからない、曖昧な世界ということになります(実際には、現実界との「間」が曖昧な世界となりますが)。それは石器時代の人類が認知した自然であり、外傷を受けやすい悲劇的な世界にも近いものでしょう。そういった世界を主体(エス)が器官を通して認知して自我が生まれます。そして言葉が自我の外骨格として機能します。
そういった「子供を産む」という言葉の暗喩の力が、「機械」という比喩表現に作用します。この言葉は文脈から「自我を否定する」という比喩になります。自我なしで世界を認知するのは動物的と言えるでしょう。「子供を産む機械」というものが動物的に感じるのはこのためです。自我が無ければ、言葉を纏うこともできません。現実界の中に自我無しで放り込まれるという意味では、理屈上不可能な器官のない身体で現実界を認知するということに近いものを暗喩するのではないでしょうか。
つまり、この「子供を産む機械」という言葉は、現実界的な本来の意味でのリアリティを持っていると言えるのではないでしょうか。
象徴界から現実界や想像界に刺さった杭のようなものを、ラカン論では「クッションの刺し縫い点」と呼び、これによりシニフィアンの滑走が縫い付けられます。対象aも「クッションの刺し縫い点」と言えるでしょう。この杭により言葉は完全に浮遊することなく、相対化されることなく、共有可能な道具となるのです。「クッションの刺し縫い点」は言葉の連鎖を止める点でもあり、連鎖の始まりの点でもあります。「子供を産む機械」という言葉は、この「クッションの刺し縫い点」的なものを暗喩してしまったのかもしれません。だから、柳沢大臣の発言全文が引用されることがないまま、この「子供を産む機械」という言葉のみが取り上げられ、一人歩きしていったのではないでしょうか。
以上で私が感じた印象を言葉にすることができたわけですが、私はあともう一つのある感覚を感じます。
それは時代性です。
この言葉は今の時代だからこそ、大きなインパクトがあったのではないか、という感覚です。
「我思う故に我あり」的な、近代的自我信仰というコンテクスト上にあるから、自我の否定を暗喩する言葉に強く反応するのではないか、ということについては先に述べましたね。
近代的自我というものは、感情を排した論理的なもので武装された自我だと私は思います。ロゴス中心主義的自我とでも言い直せるでしょうか。近代的自我信仰となると、言葉が纏わりつく自我の外骨格的なところに意識が向くことになります。これに慣れてしまうと、自我の内のエスという空虚的なものへの耐性が低くなってしまうのではないか、という気がします。エスは空虚だからこそカオスであり、曖昧なものであり、そこから何が生まれるかわからないものとなるわけですが、曖昧なものというのは現実界(との「間」)と共通します。近代的自我信仰の強くなるほど、この言葉の持つ現実界的なリアリティと自我の否定という暗喩作用に敏感になっていくのではないでしょうか。だから、政治家や学者やマスコミの方々といった人種にとってはインパクトがあるように思え、そうじゃない一般の人々から見るとその反応は過剰に見える、ということの理屈にもなります。
近代的自我とは、前の記事に書いた斎藤環氏の言う「戦闘美少女」のような、外側にファルス的な「確かなもの」を纏わせ、内部は空虚的な「曖昧なもの」なのではないでしょうか。彼らはその空虚に言動を操られているという事実から逃避しようとしている、そんな印象を、今回の騒動から私は感じました。
もちろん、それはこういう記事を書いてしまっている私にも言えることですが……。
えーと。何か旬を逃してしまった感がありますが、まあそれについてちょろっと。
なんていうか、周りの女性の反応も私と似たような感じなので書いていいかなあ、と。
確かに言われて嬉しい言葉じゃないですけど、ここまでヒステリックに反応するのはちょっとなー。というのが私の感想ですねえ。しかしインパクトはあると思います。マスコミがこぞって取り上げて、女性議員が反発するのもまあ理解はできますが、その表出があまりにもヒステリックかつ政治的すぎて冷めてしまった、というのが一般の女性の感覚ではないでしょうか。
もちろん政治の駆け引き材料として使われているっていうのは重要なポイントだと思います。っていうかいろいろな議論を読む限りそれがほとんどのウエイトを占めているのでしょう。柳沢大臣の「無意識」に言及した論もありますが、そういう論を読む限り、その文章からもその筆者の政治的な「無意識」が立ち表れているものが多いように感じます。だから一般の女性は冷めてしまうわけですね。
次にあるのは社会学的フェミニズムの皆さんの論理でしょうねえ。社会で働く女性の権利をテーマにしている女性論者の方々にとってはやはり聞き捨てならないところはあると思います。しかし彼女たちが反論したとしても、社会制度問題に発展する議論となるはずです。そういう論点で述べている方もいるようですが、そういう方々にとっては言葉の揚げ足取りというより、議論の突端を与えてもらった出来事になるんじゃないでしょうか。この辺は私は子供がいないという妙な劣等感があるので言及しないことにしておきます……。
この二点については、私は政治関係を論じるつもりはないので、脇に置いておきたいと思います。政治的な問題、フェミニズムの問題という視点からインパクトのある言葉だったから、という結論では、では何故そういう問題においてインパクトが生じたのかという疑問の答えになりません。そこで思考停止すると肝心な何かが見えなくなってしまうような気がします。
この発言が人間の精神に与える影響という視点から、つまり、この発言の持つ、精神分析的な「言葉の力」について少し思考を巡らせてみようかな、と思います。
何故マスコミや野党が激しく色めき立つほどこの言葉が「不適切」だと思われたのか。「失言」だと思われたのか。
「機械」という言葉はこの文脈では明らかに比喩として用いられています。その比喩が何故許されないのか。
比喩表現というのは、言葉が持つ、シニフィエを中心としたその周辺の曖昧さを最大限に活かす表現方法です。曖昧さを活かすからその表現には様々な意味や文脈といった、言葉の辞書的な意味以外の要素も圧縮して表現できるわけですね。
この曖昧なところ、つまり言外に侮蔑的な感情が読み取れるから「不適切」な発言となったのでしょう。
もちろん柳沢大臣の問題発言の全文を読んで、侮蔑的な意味ではない、といった旨の発言があるのは知っています。この比喩の主要な役割は、講演会の聴衆にわかりやすく説明するというものとして、彼はそう発言したのでしょう。
女性を侮蔑している「ように」聞こえる比喩表現だから、「不適切」となったわけですね。
この、「子供を産む機械」という比喩表現。これを二つの部分に分けて考えてみましょう。即ち「子供を産む」という部分と「機械」という部分です。
まず「機械」という言葉から。
人間を「機械」という言葉で比喩すると侮蔑的に解釈されることが多いですね。「機械的な作業」とか。一方、まれですがスポーツ選手などを喩えて「精密機械」というような好意的な比喩になることもあります。
ここは簡単に説明しておきますと、要は、機械は他者の命令により動くもの、つまりそこにその人の意志や思考、即ち「自我が無い」という暗喩が働くわけですね。自我が無いということを侮蔑と感じるのは、近代的自我信仰と言うべき代物のせいでしょう。「我思う故に我あり」という言葉を短絡的に真理だと思ってしまう、男性的な近代的知による文脈的な影響だと思います。一方、仏教では「無我」という思想概念があります。無我の境地は聖性に通底するイメージがあります。スポーツ選手に対する「機械」が好意的な比喩になりえるのは、こういった無我的な印象を「機械」という言葉が暗喩するから侮蔑とならないのではないでしょうか。つまり、人間に対する「機械」という比喩は、「自我が無い」「無我」的なものを暗喩している、と考えれば、侮蔑的に感じることも好意的に感じることも説明がつく、ということです。
余談を少し。日本語文化で考えてそういう説明になりますが、私自身は「機械」という言葉が掴む概念に対して違和感があります。機械は命令に従うだけの結果しか出さない、というイメージですが、ドゥルーズの言う「文学機械」やフーコーの言う「言語機械」を考えれば、「機械」という言葉に違う印象が立ち上がると思います。機械は決して命令通りのアウトプットしか出さないのではなく、機械的で明確な部品が多数複雑に絡み合い影響しあった結果、予想できないアウトプットが出てきてしまう、という「印象」です(工学の世界では「悪い」機械になってしまいますが)。柳沢大臣もこの辺引用して煙に巻いたらいいのに、とうっすら思ってしまいます。
今回の発言には、女性差別的な「侮蔑」的行間が立ち表れたからこそ、こういう騒動が起こっています。「機械」という言葉が侮蔑的比喩になってしまったのは、やはり「子供を産む」という言葉の文脈が関わってきたから、と考えるのが妥当でしょう。
単純な連想を想定すると、「子供を産む」という言葉は出産→性交ということを暗喩し、「機械」に自我が無い人間という暗喩を当てはめると、「性交する、自我が無い人間」という読み解きになります。するとそこには性の対象への、「所有」的で男性的な支配的性的欲望を見て取れなくないですね。そこはかとなく「レイプ」を感じさせる解釈ですね。だからこの発言は、男性の無意識的な「女性差別」が表出した発言である、という解釈になるのだと思います。
しかし、この発言の「言葉の力」の正体とはそれだけでしょうか?
確かに、女性一般がこの言葉に感じる不愉快さの正体は、支配的な性的な行間が立ち表れているからなのかもしれません。
柳沢大臣の女性差別的な無意識に言及した論があるので、この発言に不愉快さを感じる女性側の無意識的なところを言及しても構わないでしょう。
もちろんこの男性の支配的な性的欲望への不愉快さはあると思います。この不愉快さを生み出すものは、精神分析的には自我である、と言えます。この不愉快さを顕著に感じ反発してしまうのは、先にも述べた、女性も男性のようにしっかりとした自律的自我を持つべきという、近代の男女平等思想的なものが助長しているからなのかも知れません。それは超自我的なものと言えるでしょうか。
ここで終わるとわかりやすいですが、あえて精神分析論的解釈をしてみます。
前の記事で幼児期の精神分析論での性差を書きましたが、それを元にします(先にこちらの記事を読んで頂くとわかりやすいと思います)。性的なものが関わるなら性差を基本にした方がいいですからね。
女性は男性と違ってペニスという母親との差異がないため、原抑圧、即ち象徴界への参入は曖昧に行われます。去勢がイニシエーションたりえないのです。なので「女性」というシニフィアンを受容する、即ち象徴界への「性の登録」は他者により行われる、ということになります。このことをフロイトは「女性は超自我が未熟である」というような表現をしています。
「女性」を象徴界に登録する他者とは、「父親」という最初の「男性」です。これは比喩表現ですので、「父性」のような言葉が暗喩するもの、ぐらいに思って下さい。女性は原抑圧によりエレクトラコンプレックスが始まり、愛する父親によりその性を象徴界に登録されるのです。
男性も女性も、この幼児期の原体験を、成長してからもまるでトラウマのように反復します。つまり、女性は大人になっても、原抑圧のような受動的な構図がトラウマのようにその言動を無意識的に規制し、受動的な恋愛をしてしまうのですね。ネットで見かける「男性は過去の恋愛を『名前を付けて保存』し、女性は『上書き保存』する」という言葉も、「女性」というシニフィアンが象徴界へ受動的に登録されるということと深く共鳴しているように思います。
受動的とはいえ、女性にも自我はありますし、象徴界に参入しています。ファルス的享楽のような能動性がないわけではありません。しかしそこで、「自我なんてものは必要ないんだ、能動性なんか必要ない」みたいなことを「父親」から言われたらどうでしょう? 「父親」により象徴界に参入させられた身としては、その言葉は「裏切り」のように思えるでしょう。柳沢大臣という人物は高齢の男性であり、その肩書きも象徴界=社会的に代表といえるものです。即ち「父性」を強く暗喩する人物(の名)であると言えます。
比喩的にまとめましょう。柳沢大臣のこの発言への強い反発は、父親に裏切られたことへの怒りである、ということになるでしょうか(こういった言い回しも女性が精神分析を嫌う一因になるのかなあ)。これは性的な女性差別という解釈による反発の奥にあるものとして捉えて下さい。
次に、「子供を産む」という部分にスポットを当てて考えてみます。
ラカン論では、象徴界、想像界、現実界という三界があります。象徴界は先に書いたように言葉の世界、象徴化されたものの世界、社会といったようなものです。想像界とは目で見たり耳で聞いたりする体感的な世界、という感じで思って下さい。最後に現実界。これは、そもそも人間というものは、外界からの刺激を目や耳や皮膚の感覚点などといった器官でキャッチし、それによる信号を脳で処理して事物を認知します。そういった意味では、人間の認知できる世界は、現実と虚構の区別が明確につかないものなのです。器官のない身体で認知する世界が本当の現実なのですが、それは理屈上無理な話です。この理屈上到達不可能な現実を、現実界と呼ぶわけですね。これら三界は、層になっているのではなく、ボロメオの輪のように絡み合って存在している、とラカンは述べています。
現実界は到達不可能なものです。あえて言うならば、全ての器官が機能停止する「死の瞬間」に現実界に近接したものが立ち現れる、と言われたりします。ここで私は、現実界に近接するもう一つの「場」として、「生の瞬間」即ち「出産」も挙げられるのではないか、と考えます。赤ん坊は確かに未熟ではありますが器官を持っていて、生まれた瞬間から器官を通して世界を認知しているでしょう。しかし大人と比べてそれら器官ははるかに未熟なので、「大人の世界と比較して」現実界に近接していると言えるのではないでしょうか。
次に対象aというものについて。対象aとは、他者と自我が等しいものとなった領域であり、「愛」などとといったようなものです。実際には想像界における他者や自我といったものに、対象aに近似されるものが立ち現れるでしょう。
この対象aは、ボロメオの輪として表現される三界の図の中では、三つの輪が全て重なる中央に位置しています。ちなみに想像界と現実界の重なりに「他者の享楽」があり、象徴界と現実界の重なりに「ファルス的享楽」というものがあります。想像界と象徴界の重なりは「sens=意味」となります。それぞれの重なりから他者の享楽やファルス的享楽を差し引いた「残り」が対象aという領域なのです。
対象aに近似できるものとして代表的なのは、「赤ん坊と母親の関係」です。愛情関係ですね。この対象aは先程述べたように三界の中心にあるものです。つまり到達不可能な現実界が、対象aという領域では関係してくるわけです。
これらのことから、「子供を産む」という言葉からは、対象a的な、現実界的なものが暗喩されると言えるのではないでしょうか。
以上のことを踏まえて。
私は今回のこの騒動から、政治的な視点、社会学的な視点、メディア論的な視点を除外して、四つの印象を持ちました。
まず一つ目は、ヒステリックに反発する女性たちに分析的に感じた印象。これは既に、エレクトラコンプレックス(の反復)を否定した父親への反発という表現で説明しましたね。
二つ目は、この言葉に反発しているのは実は男性に多いのではないかという印象。
三つ目は、女性たちはこの言葉の反論として、感情論的、倫理的なものがあまり聞かれないという印象。むしろ一般的な女性はこのことについて発言する女性議員たちに冷めた視線を送っているという印象。
四つ目は、何故このような言葉の揚げ足取り的な問題が、マスコミに大きく取り上げられ、政治に影響を及ぼすまでのインパクトを持ったのか、「言葉の力」という視点で何かの力があるのではないか、という印象。
これらを各々説明していきたいと思います。
二点目。
これは簡単ですね。先に述べた「子供を産む」という部分の言葉の力に由来するものでしょう。男性も等しく全員子供だったわけです。子供にとっての母親を「機械」と比喩表現されたわけですね。子供にとっての母親は対象aでもあります。対象aということは自我でもあります。つまりこの言葉は婉曲的に男性の自我も否定されるという解釈が成り立ちます。「三つ子の魂百まで」と言うように、幼児期の体験はトラウマ的に人の潜在意識に残ります。また男性は象徴界への参入において、去勢というイニシエーションを経験していますから、言葉により外骨格が形成された自我を否定されることには女性より敏感になるのではないでしょうか。自我が否定されることに対するトラウマ的な反応の度合いは男性の方が強い、ということです。このように潜在意識を揺さぶられた表出として、男性もこの言葉に反発してしまうのでしょう。
三点目。
これも「子供を産む」という部分に由来するものでしょう(ここはボーイズラブについて論じた記事を先に読んでいただくとありがたいです)。簡単にいいますと、女性にとって子供とは対象aであり自我です。しかし「女性」というシニフィアン=/Laは象徴界の他者(大文字の他者)の海を漂っています。象徴界の外側から対象aに向かうには、「他者の享楽」を経て中心に向かうことになります。このベクトルは象徴界の他者から離れていく方向です。つまり、女性にとって「子供を産む」ということに関して反論することが難しいわけです。これはレズビアンがその愛を他者に説明することが難しいという構図と類似していると思います。なので、これについての反論は「子供を産む機械」という言葉の意味そのものから離れた場所、即ち政治的、社会学的な象徴界の俎上でしか反論し得ないのです。またこのことから、政治や社会学から離れたところにいる一般の女性は、彼女たちの言葉に対して冷めてしまうのでしょう。
四点目。
この言葉のインパクト。これこそ現実界を暗喩させるという点に繋がるのだと思います。現実界というものは器官のない身体で認知する世界ですから、暗闇のように何が起こるかわからない、曖昧な世界ということになります(実際には、現実界との「間」が曖昧な世界となりますが)。それは石器時代の人類が認知した自然であり、外傷を受けやすい悲劇的な世界にも近いものでしょう。そういった世界を主体(エス)が器官を通して認知して自我が生まれます。そして言葉が自我の外骨格として機能します。
そういった「子供を産む」という言葉の暗喩の力が、「機械」という比喩表現に作用します。この言葉は文脈から「自我を否定する」という比喩になります。自我なしで世界を認知するのは動物的と言えるでしょう。「子供を産む機械」というものが動物的に感じるのはこのためです。自我が無ければ、言葉を纏うこともできません。現実界の中に自我無しで放り込まれるという意味では、理屈上不可能な器官のない身体で現実界を認知するということに近いものを暗喩するのではないでしょうか。
つまり、この「子供を産む機械」という言葉は、現実界的な本来の意味でのリアリティを持っていると言えるのではないでしょうか。
象徴界から現実界や想像界に刺さった杭のようなものを、ラカン論では「クッションの刺し縫い点」と呼び、これによりシニフィアンの滑走が縫い付けられます。対象aも「クッションの刺し縫い点」と言えるでしょう。この杭により言葉は完全に浮遊することなく、相対化されることなく、共有可能な道具となるのです。「クッションの刺し縫い点」は言葉の連鎖を止める点でもあり、連鎖の始まりの点でもあります。「子供を産む機械」という言葉は、この「クッションの刺し縫い点」的なものを暗喩してしまったのかもしれません。だから、柳沢大臣の発言全文が引用されることがないまま、この「子供を産む機械」という言葉のみが取り上げられ、一人歩きしていったのではないでしょうか。
以上で私が感じた印象を言葉にすることができたわけですが、私はあともう一つのある感覚を感じます。
それは時代性です。
この言葉は今の時代だからこそ、大きなインパクトがあったのではないか、という感覚です。
「我思う故に我あり」的な、近代的自我信仰というコンテクスト上にあるから、自我の否定を暗喩する言葉に強く反応するのではないか、ということについては先に述べましたね。
近代的自我というものは、感情を排した論理的なもので武装された自我だと私は思います。ロゴス中心主義的自我とでも言い直せるでしょうか。近代的自我信仰となると、言葉が纏わりつく自我の外骨格的なところに意識が向くことになります。これに慣れてしまうと、自我の内のエスという空虚的なものへの耐性が低くなってしまうのではないか、という気がします。エスは空虚だからこそカオスであり、曖昧なものであり、そこから何が生まれるかわからないものとなるわけですが、曖昧なものというのは現実界(との「間」)と共通します。近代的自我信仰の強くなるほど、この言葉の持つ現実界的なリアリティと自我の否定という暗喩作用に敏感になっていくのではないでしょうか。だから、政治家や学者やマスコミの方々といった人種にとってはインパクトがあるように思え、そうじゃない一般の人々から見るとその反応は過剰に見える、ということの理屈にもなります。
近代的自我とは、前の記事に書いた斎藤環氏の言う「戦闘美少女」のような、外側にファルス的な「確かなもの」を纏わせ、内部は空虚的な「曖昧なもの」なのではないでしょうか。彼らはその空虚に言動を操られているという事実から逃避しようとしている、そんな印象を、今回の騒動から私は感じました。
もちろん、それはこういう記事を書いてしまっている私にも言えることですが……。