ゲームの失効
2009/08/08/Sat
ゲームは、プレイヤーだけが参加者ではない。いるならば審判も観客も参加者である。
参加者は人とは限らない。しかし参加者たちがそれに人格を与えなければならない。神に人格を与えたら、神はゲームの参加者となる。おそらく多くの場合審判という役割を担うだろう。
精神分析家とは人と限らない。これまで精神分析家たちが構築してきた理論体系だって、それに人格を与えれば精神分析家である。精神分析家は人格がある限りゲームの参加者である。おそらく多くの場合観客という役割を担うだろう。
プレイヤーたちは死闘を繰り広げる。生死を賭けたゲームだが、ゲームである限り実際に死ぬことはあまりない。殺されかけているのが精神疾患者たちであり自然であり、殺しかけているのが学徒であり科学者である。
精神分析家は、長椅子の傍を離れれば、観客が取り囲む戦場に踊り出せば、学徒であり研究者である。殺されていく精神疾患者たちを観戦する側か、殺す側に回るしかない。
精神分析家は曖昧な立場にいる。もちろん曖昧な立場にいるのは何も精神分析家に限らない。日常生活で体験するレベルの立場である。誰でも殺される側になり殺す側になり審判になり観客になる。
精神疾患者とて同じである。しかし彼は、治療を望むなら、殺される側にならなければならない。精神疾患者における治療とは自らを殺されることである。
要するに、今の社会において、このゲームは八百長化しているのである。プロレスのようなものである。
しかし、プロレスに軍人が混じったらどうなるだろう。ゴングと同時に隠し持ったナイフで相手の喉を切り裂いてしまったならば。軍人はこう言うだろう。「パイプ椅子で殴ったりしてるじゃないか。それとこのナイフは同じ凶器である」と。
もちろん軍人は試合に負ける。反則負けである。観客からも総スカンを喰うだろう。
軍人はゲームを失効させているのだ。
逆精神分析とは、ゲームの失効である。
殺されるはずである精神疾患者が、殺すはずである学徒や科学者を、あるいは審判を殺してしまえば、ゲームは失効する。観客を殺しても失効するだろうが、確率は若干低くなる。
ともかく、精神疾患者は、誰を殺してもゲーム失効の可能性がある。
精神疾患者たちにとって重要な選択とは、治療を受けるか否かなどではなく、ゲームを維持するか失効させるかなのである。
つまり、精神疾患者にとって、「治療を受けにきたのに治りたがらないのはおかしい」あるいは「治療を受けにきたのだから治りたがっているはずだ」という理屈は成り立たないのだ。
多くの人たちが「現実」だとするゲームを維持するか失効させるかどうか。
治療はゲームの一場面でしかない。
……あ、この文章すげーラカニアン臭い。文体じゃなく視点が。
追記。
前記事の
=====
まあ少なくともPanzaブログ見る前から某ライトノベル系チャットで笙野作品をベタボメしてたはずなので、Panzaのアクセス解析ログとその時のチャット参加者の証言を照らし合わせればこのことは確認取れるかもしれない。
=====
について。
正直Panzaブログ読み始めたのいつか覚えてないのだよね。でPanzaブログ覗いてみたわけだが、コメントし始めたのが2008年4月なのは確認。その前にもトラバ打ってたと思うし、もっと前から覗いてたとは思う。
このブログではじめて笙野作品について触れたのが多分これ。2007年4月。
まーこれだけじゃ「読んでることの証明」にはならんけどな。また当時読んでなくて今読んでいるということもありえるし。物的証拠は挙げられないなー。
んじゃ、もう一方の「チャット参加者」うんぬんの方を見てみよう。
そのチャットに入り浸ってたのはこのブログ始める前からなのだな。実際このブログの初期は精液塗れになってねちゃねちゃ遊んでいる若い「おんたこ」向けに自分でもぞっとする口調で喋ってたりするしね。そのサイトに書いた文章とか転載した記事もある。
まあわたしって人間のことだからそのサイトでもいつも通り嫌われてたわけで、今はほとんど行かなくなったけど、そのチャット行って「脂」ってHNで聞いたら古参は覚えていると思うよ。そこそこ有名人だった。要注意人物として。
こっちから証人立ててみよう、ってことでこいつを紹介しとく。こいつに(時期は特定できないが、おそらくPanzaブログ行くようになる以前に)「笙野すげえよ、一回読んでみろよ」って呪文ばりに繰り返してたのは事実。それこそ田中和生みたいな読み方してるこいつに朝まで説教垂れたこともあるわ。こいつが笙野読み始めたのはわたしの影響(一因ではあろうが)。リンク先記事思ったより最近なのな。2008年1月。まーわたしがPanzaブログにはじめてコメントしたのより前なのは事実。
つーか、「この粘着ラカヲタ(わたし)は私(笙野)の作品を読んでおらず、与夢子(Panza)ブログの文章だけを読んで笙野作品を論じているのだ」なんてすげーわと思ったわ。トンデル。この部分に限れば、(精神病としての)パラノイアの妄想臭すらする。つか『金毘羅』とかもろパラノイアだもんな。パラノイアっぺー人の文章はネット結構多いからなー。分裂症系より。
ちょっとこの辺はキチガイ臭感じたお。もちろん(「卑劣犯罪を天才芸術家へのパスポート」と言うより)「狂気は芸術の感動の裏打ちだ」とするこのブログでは褒め言葉です。実際『金毘羅』褒めてるし。お前も作中自分を「キチガイ」とか表現してるじゃん。
なんかギャグにしか思えなくなってきたわ。実際ギャグなのか。
あ、こういうのも「現実と妄想を混同して」いる状態なんですか? 「この粘着ラカヲタは笙野の作品を読んでおらず、与夢子ブログの文章だけを読んで笙野作品を論じているのだ」ってのはあくまでフィクションであり、現実のわたしの話じゃない、と。ということは事実でないことを根拠に一個人を誹謗中傷しているわけですよね。これって名誉毀損って奴じゃないですっけ? わたしの記憶が正しければ、実名を書かずに誹謗中傷しても、大体の人がそれが誰だかわかるような書き方をすれば、名誉毀損は成立したと思いますが。登場人物のモデルになった人に訴えられて負けた作家さんもいますよね。
卑劣犯罪を行ってるのは笙野、お前なのだよ。
いえ、どーぞどーぞやってください。訴えなんかしませんよ。今のところはそんなこと全く考えておりません。
ただあなたのやってることが卑劣犯罪的行為であるという事実を指摘しているだけです。
「卑劣犯罪は天才芸術家へのパスポートである」ということと「狂気は芸術の感動の裏打ちである」ということは、全く別物ではありますが、連関可能です。「卑劣犯罪は天才芸術家へのパスポートである」は表象的ですが。「狂気は芸術の感動の裏打ちである」という言説を、一般の人たちに説明する際、「卑劣犯罪が天才芸術家へのパスポートみたいなとこもあるじゃん、ゲージツって。そんなようなことよ」みたいな「わかりやすい言説」として、利用可能な表現ではありましょう。
なのであなたが卑劣犯罪的行為を行っていることについては批判しませんよ、ということです。
そだ、笙野いいこと教えてあげる。「串 ネット」でぐぐってみそ。
まーよーするに「Panzaのアクセス解析ログ」をさらっても、わたしがはじめてPanzaブログURLを踏んだのはいつか断定できない、って話。実際串刺して見たことあるわ、一回か二回。はてなメンテ中に踏んであれ? って思って刺した。
本当の現実なんてそう簡単にたどり着けないもんなんだ。犯罪捜査でもそうだ。DNA鑑定などといったただの新しい技術によって見出される事実は変わる。昔は有罪とされた人が無罪となったりするし、逆もある。
つまり、「現実と妄想の区別」なんて、そう簡単につけられるものじゃない、ってこと。
当たり前のように区別できると思っているお前たちの「現実」は、本当に現実なのかい?
そもそも本当の現実が到達困難なものなのだ。従って、「現実と妄想の区別」あるいは「現実と妄想の混同」なんて以前の問題になるわけ。
おわかりー?
「その場しのぎの屁理屈」だなんて思わないでね。わたしはこの他の人たちが共有できている「現実」と自分にとっての現実の齟齬にずっと苦しめられてきた。こんな屁理屈をいつも考えながら生きてきたのだ。
確かにこういった言説はポスト構造主義ではありがち、っていうかお題目にすらなっているとは思う。そういうの見ると「糞が」って思うよ、わたしゃ。だってお前ら(ポモ野郎ども)とは年季が違うんだから。屁理屈の。
あ、それと。前記事の「千葉県の一部をエリアにしている」「ケーブルテレビのプロバイダ」が、もし仮にお前だったなら、今後串刺して見るようにすると、わたしに粘着していることはばれないよ。
ほんっとわたしってネタバラシ好きだな。
追記2。
どうも昔のことを思い出すと余計なことまで思い出してしまう。芋づる、って表現でも構わないが、それらの記憶はつるで繋がっているわけじゃない。煮込んでいるカレーに浮かぶあぶくみたいなもの。あぶくという記憶を取り出すために鍋を火にかける。ぐつぐつ。あぶくが浮かぶ。目当てのあぶく以外のあぶくも浮かぶ。そんな感じ。
地方の工場に勤めていた頃、まだ大学デビューのイケイケモードが残っていたわたしは、即効で現地彼氏を作った。十いくつ離れたおっさんだった。
付き合い始めたきっかけがだな。金の貸し借りなんだ。
わたしが貸した。二十万。
いくつか店を経営していて、その店にも連れて行ってもらったことあるのでフカシじゃないんだが、話を聞いた時はさすがに引いたね。ヨソジ手前のおっさんが社会人なりたての小娘に金借りようってんだぜ? さすが地方は常識に囚われない。
貸したよ。きっちり耳揃えて。
それでいろいろ話してるうちにいろいろあって付き合うようになった。
信じてたのかって? 信じるわけないじゃん。頭だけはいいんだから。
でも、友人なんかには借金のことを話さなかったが、もし話してそいつが善良な友人面して「やめなよー、別れなよー」とか言ってきたら反論してただろうな。この反論が、
「自分は彼氏に対して疑惑の意見を言っている」+「わたしはそれに反論している」=「わたしは彼を信じている」
なんて方程式になるのだろう。
疑惑の意見には反論するが、反論する当人が疑惑を持ってないとは限らない。そもそもの論点が違うのだ。わたしはおそらく、自覚的に騙されたがっていたのだろう。騙されることで彼についての所有権をゆるぎないものにしようとしたのだ。信じている信じていないの問題とは全く違う場所にあること。
しかしお金は期限通りにちゃんと返ってきたのでした。
その後ちょっとして別れた。
飽きた。
彼は、多少期限すぎてもいいから(利子つくし)返さない方がよかったのかもしれない。
お金が返ってこないかもしれない、という不安感が、吊り橋効果になって、もうちょっと長続きしたかもしれない。
いや長続きさせたかったわけじゃないけど。
本当に、テレビのスイッチを切るかのように、ぷつんと彼がどうでもよくなった。
何年か後、結婚詐欺師の手口をテレビを学んだ。はじめのうちは借りた金をちゃんと返し信頼を得る、っていうのがセオリーらしい。
……もうちょっと我慢すればよかったかな、なーんて。
あーそうそう、このブログの笙野関連記事をはてブ登録してくれてる「アヴァンポップ文学者」さん(?)さ、登録されてないのもあるからチェックしといてね。ブログ内検索で「笙野」って入れればすぐわかる。
敵を増やさないと気が済まないのかわたしは。
参加者は人とは限らない。しかし参加者たちがそれに人格を与えなければならない。神に人格を与えたら、神はゲームの参加者となる。おそらく多くの場合審判という役割を担うだろう。
精神分析家とは人と限らない。これまで精神分析家たちが構築してきた理論体系だって、それに人格を与えれば精神分析家である。精神分析家は人格がある限りゲームの参加者である。おそらく多くの場合観客という役割を担うだろう。
プレイヤーたちは死闘を繰り広げる。生死を賭けたゲームだが、ゲームである限り実際に死ぬことはあまりない。殺されかけているのが精神疾患者たちであり自然であり、殺しかけているのが学徒であり科学者である。
精神分析家は、長椅子の傍を離れれば、観客が取り囲む戦場に踊り出せば、学徒であり研究者である。殺されていく精神疾患者たちを観戦する側か、殺す側に回るしかない。
精神分析家は曖昧な立場にいる。もちろん曖昧な立場にいるのは何も精神分析家に限らない。日常生活で体験するレベルの立場である。誰でも殺される側になり殺す側になり審判になり観客になる。
精神疾患者とて同じである。しかし彼は、治療を望むなら、殺される側にならなければならない。精神疾患者における治療とは自らを殺されることである。
要するに、今の社会において、このゲームは八百長化しているのである。プロレスのようなものである。
しかし、プロレスに軍人が混じったらどうなるだろう。ゴングと同時に隠し持ったナイフで相手の喉を切り裂いてしまったならば。軍人はこう言うだろう。「パイプ椅子で殴ったりしてるじゃないか。それとこのナイフは同じ凶器である」と。
もちろん軍人は試合に負ける。反則負けである。観客からも総スカンを喰うだろう。
軍人はゲームを失効させているのだ。
逆精神分析とは、ゲームの失効である。
殺されるはずである精神疾患者が、殺すはずである学徒や科学者を、あるいは審判を殺してしまえば、ゲームは失効する。観客を殺しても失効するだろうが、確率は若干低くなる。
ともかく、精神疾患者は、誰を殺してもゲーム失効の可能性がある。
精神疾患者たちにとって重要な選択とは、治療を受けるか否かなどではなく、ゲームを維持するか失効させるかなのである。
つまり、精神疾患者にとって、「治療を受けにきたのに治りたがらないのはおかしい」あるいは「治療を受けにきたのだから治りたがっているはずだ」という理屈は成り立たないのだ。
多くの人たちが「現実」だとするゲームを維持するか失効させるかどうか。
治療はゲームの一場面でしかない。
……あ、この文章すげーラカニアン臭い。文体じゃなく視点が。
追記。
前記事の
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まあ少なくともPanzaブログ見る前から某ライトノベル系チャットで笙野作品をベタボメしてたはずなので、Panzaのアクセス解析ログとその時のチャット参加者の証言を照らし合わせればこのことは確認取れるかもしれない。
=====
について。
正直Panzaブログ読み始めたのいつか覚えてないのだよね。でPanzaブログ覗いてみたわけだが、コメントし始めたのが2008年4月なのは確認。その前にもトラバ打ってたと思うし、もっと前から覗いてたとは思う。
このブログではじめて笙野作品について触れたのが多分これ。2007年4月。
まーこれだけじゃ「読んでることの証明」にはならんけどな。また当時読んでなくて今読んでいるということもありえるし。物的証拠は挙げられないなー。
んじゃ、もう一方の「チャット参加者」うんぬんの方を見てみよう。
そのチャットに入り浸ってたのはこのブログ始める前からなのだな。実際このブログの初期は精液塗れになってねちゃねちゃ遊んでいる若い「おんたこ」向けに自分でもぞっとする口調で喋ってたりするしね。そのサイトに書いた文章とか転載した記事もある。
まあわたしって人間のことだからそのサイトでもいつも通り嫌われてたわけで、今はほとんど行かなくなったけど、そのチャット行って「脂」ってHNで聞いたら古参は覚えていると思うよ。そこそこ有名人だった。要注意人物として。
こっちから証人立ててみよう、ってことでこいつを紹介しとく。こいつに(時期は特定できないが、おそらくPanzaブログ行くようになる以前に)「笙野すげえよ、一回読んでみろよ」って呪文ばりに繰り返してたのは事実。それこそ田中和生みたいな読み方してるこいつに朝まで説教垂れたこともあるわ。こいつが笙野読み始めたのはわたしの影響(一因ではあろうが)。リンク先記事思ったより最近なのな。2008年1月。まーわたしがPanzaブログにはじめてコメントしたのより前なのは事実。
つーか、「この粘着ラカヲタ(わたし)は私(笙野)の作品を読んでおらず、与夢子(Panza)ブログの文章だけを読んで笙野作品を論じているのだ」なんてすげーわと思ったわ。トンデル。この部分に限れば、(精神病としての)パラノイアの妄想臭すらする。つか『金毘羅』とかもろパラノイアだもんな。パラノイアっぺー人の文章はネット結構多いからなー。分裂症系より。
ちょっとこの辺はキチガイ臭感じたお。もちろん(「卑劣犯罪を天才芸術家へのパスポート」と言うより)「狂気は芸術の感動の裏打ちだ」とするこのブログでは褒め言葉です。実際『金毘羅』褒めてるし。お前も作中自分を「キチガイ」とか表現してるじゃん。
なんかギャグにしか思えなくなってきたわ。実際ギャグなのか。
あ、こういうのも「現実と妄想を混同して」いる状態なんですか? 「この粘着ラカヲタは笙野の作品を読んでおらず、与夢子ブログの文章だけを読んで笙野作品を論じているのだ」ってのはあくまでフィクションであり、現実のわたしの話じゃない、と。ということは事実でないことを根拠に一個人を誹謗中傷しているわけですよね。これって名誉毀損って奴じゃないですっけ? わたしの記憶が正しければ、実名を書かずに誹謗中傷しても、大体の人がそれが誰だかわかるような書き方をすれば、名誉毀損は成立したと思いますが。登場人物のモデルになった人に訴えられて負けた作家さんもいますよね。
卑劣犯罪を行ってるのは笙野、お前なのだよ。
いえ、どーぞどーぞやってください。訴えなんかしませんよ。今のところはそんなこと全く考えておりません。
ただあなたのやってることが卑劣犯罪的行為であるという事実を指摘しているだけです。
「卑劣犯罪は天才芸術家へのパスポートである」ということと「狂気は芸術の感動の裏打ちである」ということは、全く別物ではありますが、連関可能です。「卑劣犯罪は天才芸術家へのパスポートである」は表象的ですが。「狂気は芸術の感動の裏打ちである」という言説を、一般の人たちに説明する際、「卑劣犯罪が天才芸術家へのパスポートみたいなとこもあるじゃん、ゲージツって。そんなようなことよ」みたいな「わかりやすい言説」として、利用可能な表現ではありましょう。
なのであなたが卑劣犯罪的行為を行っていることについては批判しませんよ、ということです。
そだ、笙野いいこと教えてあげる。「串 ネット」でぐぐってみそ。
まーよーするに「Panzaのアクセス解析ログ」をさらっても、わたしがはじめてPanzaブログURLを踏んだのはいつか断定できない、って話。実際串刺して見たことあるわ、一回か二回。はてなメンテ中に踏んであれ? って思って刺した。
本当の現実なんてそう簡単にたどり着けないもんなんだ。犯罪捜査でもそうだ。DNA鑑定などといったただの新しい技術によって見出される事実は変わる。昔は有罪とされた人が無罪となったりするし、逆もある。
つまり、「現実と妄想の区別」なんて、そう簡単につけられるものじゃない、ってこと。
当たり前のように区別できると思っているお前たちの「現実」は、本当に現実なのかい?
そもそも本当の現実が到達困難なものなのだ。従って、「現実と妄想の区別」あるいは「現実と妄想の混同」なんて以前の問題になるわけ。
おわかりー?
「その場しのぎの屁理屈」だなんて思わないでね。わたしはこの他の人たちが共有できている「現実」と自分にとっての現実の齟齬にずっと苦しめられてきた。こんな屁理屈をいつも考えながら生きてきたのだ。
確かにこういった言説はポスト構造主義ではありがち、っていうかお題目にすらなっているとは思う。そういうの見ると「糞が」って思うよ、わたしゃ。だってお前ら(ポモ野郎ども)とは年季が違うんだから。屁理屈の。
あ、それと。前記事の「千葉県の一部をエリアにしている」「ケーブルテレビのプロバイダ」が、もし仮にお前だったなら、今後串刺して見るようにすると、わたしに粘着していることはばれないよ。
ほんっとわたしってネタバラシ好きだな。
追記2。
どうも昔のことを思い出すと余計なことまで思い出してしまう。芋づる、って表現でも構わないが、それらの記憶はつるで繋がっているわけじゃない。煮込んでいるカレーに浮かぶあぶくみたいなもの。あぶくという記憶を取り出すために鍋を火にかける。ぐつぐつ。あぶくが浮かぶ。目当てのあぶく以外のあぶくも浮かぶ。そんな感じ。
地方の工場に勤めていた頃、まだ大学デビューのイケイケモードが残っていたわたしは、即効で現地彼氏を作った。十いくつ離れたおっさんだった。
付き合い始めたきっかけがだな。金の貸し借りなんだ。
わたしが貸した。二十万。
いくつか店を経営していて、その店にも連れて行ってもらったことあるのでフカシじゃないんだが、話を聞いた時はさすがに引いたね。ヨソジ手前のおっさんが社会人なりたての小娘に金借りようってんだぜ? さすが地方は常識に囚われない。
貸したよ。きっちり耳揃えて。
それでいろいろ話してるうちにいろいろあって付き合うようになった。
信じてたのかって? 信じるわけないじゃん。頭だけはいいんだから。
でも、友人なんかには借金のことを話さなかったが、もし話してそいつが善良な友人面して「やめなよー、別れなよー」とか言ってきたら反論してただろうな。この反論が、
「自分は彼氏に対して疑惑の意見を言っている」+「わたしはそれに反論している」=「わたしは彼を信じている」
なんて方程式になるのだろう。
疑惑の意見には反論するが、反論する当人が疑惑を持ってないとは限らない。そもそもの論点が違うのだ。わたしはおそらく、自覚的に騙されたがっていたのだろう。騙されることで彼についての所有権をゆるぎないものにしようとしたのだ。信じている信じていないの問題とは全く違う場所にあること。
しかしお金は期限通りにちゃんと返ってきたのでした。
その後ちょっとして別れた。
飽きた。
彼は、多少期限すぎてもいいから(利子つくし)返さない方がよかったのかもしれない。
お金が返ってこないかもしれない、という不安感が、吊り橋効果になって、もうちょっと長続きしたかもしれない。
いや長続きさせたかったわけじゃないけど。
本当に、テレビのスイッチを切るかのように、ぷつんと彼がどうでもよくなった。
何年か後、結婚詐欺師の手口をテレビを学んだ。はじめのうちは借りた金をちゃんと返し信頼を得る、っていうのがセオリーらしい。
……もうちょっと我慢すればよかったかな、なーんて。
あーそうそう、このブログの笙野関連記事をはてブ登録してくれてる「アヴァンポップ文学者」さん(?)さ、登録されてないのもあるからチェックしといてね。ブログ内検索で「笙野」って入れればすぐわかる。
敵を増やさないと気が済まないのかわたしは。