なんかワロタ。
2009/08/09/Sun
2ちゃん某スレから引用。
=====
このおもちゃは私が作ったんだよ
みんな喜んでこのおもちゃを使うがいい
みなが喜んで使ってくれることこそわが喜び
あ そこのあんた、そんなふうに乱暴に使うな
あ そこのきみ、その使い方はまちがっている
このおもちゃは私が作ったんだ それが理解できないのなら使うな!
このおもちゃは私が作ったんだぞ! 私に感謝できる人から使ってよし
だから、使い方はこうだって!こっちが指定したとおりの使い方ができないなら使うな!
あ こら!勝手にもってくな!
これは私が作ったんだから 私のものだ!
みんなー! さわるなー! これは、私のものだ!
=====
全く別の人間についてのネタのようだが、この「私」って笙野にもあてはまるよなあ、と思った。
精神分析はヒステリー研究から始まったと言っても過言ではない。
実際にヒステリー者を分析した分析家はたびたびこんなことを言う。
「表面上、私は患者に対して違った意見を言っているが、感覚的にヒステリー者が「こう言ってほしい」と思っていることを言わされているような気になる」
ヒステリー者だって理屈上去勢済み主体である。実際は、これまでヒステリー(あるいは解離性障害)と診断された患者の中にも、未去勢者(統合失調症、自閉症、スキゾイドなど)も混じっているとわたしは考える。表面上の状態だけ見たらそうなることは予測つくし、DSM主義的な現状を批判するつもりはない。むしろ未去勢者に対しては対症療法しか可能ではない事実を主張するだろう。何故なら未去勢であることとは、定義上、心因、環境因ではなく器質因、内因によるものだからだ。脳科学的なアプローチによる手術や薬物療法の方が効果的となるだろう。
ヒステリー者は「ノン」と言うのが仕事である。相手の全ての言葉に否認する。当然である。「ヒステリー者」の語らいにおける能動者S/は、去勢(棄却)された現実界であり、言語的認知や体感的認知によって表されるものではないからだ。ヒステリー者が言う「ノン」は自分の言葉や体感に対してもあてはまる。
「あなたの言っていることは間違っている。だけどわたしの言っていることも間違っている」
これがヒステリー者の言葉の隙間にこぼれ落ちている真理である。
結果、分析家は誘導される。転移しているのだから誘導されるのは道理である。むしろ誘導されない分析家は精神分析を行っていない、となる。
しかし、ヒステリー者といえども去勢済み主体である(も多く混じっているだろう)。去勢されているならば他者の立場にいるS1はファルスである。
人として原初の妄想。
ヒステリー者の内部にはそれがある。彼女らが真理にしている対象aは「ライナスの毛布」である。ビオンの言う「容器」である。
分析家はヒステリー者の「あなたの言っていることは間違っている。だけどわたしの言っていることも間違っている」という真理を容器だと思い込む。いやヒステリー者にとってもこの真理は容器である。
ヒステリー者と分析家はこの容器に閉じ込められる。「感覚的にヒステリー者が「こう言ってほしい」と思っていることを言わされているような気になる」。
冒頭の引用文に戻ろう。この言葉はアスペルガー症候群当事者が集まるスレで述べられたネタである。
自閉症者は未去勢者である。であるならば容器は壊れている。容器が壊れている故、彼らにとって与えられたおもちゃは自然物のようなものである。自然物に所有者などいない。所有者のことなど、字義通り「気にしないで」それを弄ぶ。結果、所有者が意図した使い方など無視して遊ぶ。壊したりすることもあるだろう。
「おもちゃを自分勝手に使う」立場は、正常人だってありうる。しかし、正常人たちは、その「おもちゃの所有者がいる」と無意識的、固定観念的に考えるため、おもちゃを大切に扱う。言葉やおもちゃの裏に自分と同じような他者がいると思い込める。
一方、アスペルガー症候群者は言葉の語義に拘る。これはむしろ、言葉というおもちゃの所有者をなかなか想定できないからである。正常人にとっては「言葉もおもちゃも人工物」なのが、彼らにとっては「言葉もおもちゃも自然物」なのだ。
従って、彼らの言葉やおもちゃに対する態度は、自然科学者のような態度になる。所有者や創造主などいない、ただそうである自然に対する態度。未知なる自然に対する態度。
こう考えると、アスペルガー症候群者に特徴的な、「言葉の語義に拘る」ことと「言葉を字義通りに受け取る」ことが、何故そうなってしまうのか理解できるだろう。おそらく正常人の感覚ではこの二要件は両立しないだろうが、それは「言葉やおもちゃの裏には(大文字・小文字の、あるいは所有・把握可能な)他者がいる」という精神疾患的症状を原因としているのだ。
わたしの容器は壊れているのだろうか。仮に壊れていると考えれば、わたしは笙野作品という自然物のごときおもちゃを弄んでいた、となる。
いや、言葉、おもちゃの裏にいるとされる笙野本人についてわかっていなかった。だからそれを探ろうとした、と言えるか。自然物だと思っていたそれに、人間臭さが混じっていた。わたしは「何かおかしい」と思う。おもちゃを解体する。
結果、笙野はわたしとは別人種であると判断した。もちろんそうでないわずかな可能性もあるだろうが、別人種の可能性が非常に高い、と判断した。それだけの話。
わたしここでも書いてるじゃん。
=====
深夜の通販番組のごとく心地の良いゆりかごを販促する笙野。ゆりかごが体に合えばいいさ。合わない人がクーリングオフしているだけ。お前の言う「器」からこぼれた人間がお前の販促するゆりかごの不具合を指摘しているだけ。クレーマーだな。
=====
まー容器がないってことは、製作者が込めた意図が理解できない、意図通りの使い方が困難だ、ってことなわけだから、(そいつにとっての)不具合が生じるのも当然だわな。
「器」なんてないんだよ。「器」こそが原初の妄想だ。
まー別に慰謝料目当てのクレーマーではないから、言いたいこと言ったらどうでもいいですお。このクレームを製品の開発に役立てるかどうかなんてのも企業次第。
「私は企業じゃない。現に傷ついた」と言うなら、「何の興味もないそのゴミブログ」は嘘だってことになるな。興味がなかったら傷つくわけがない。傷つくこと自体が一つの興味だ。
あ、もちろん作家本人が自作についての評論に反論するな、なんて言ってるわけじゃない。反論したければ反論すればよい。評論家も批判したければ批判すればよい。いがみ合えばよい。それが現実である。
だからわたしはいがみ合おうとする笙野に期待してしまった。
人と人とはわかり合えないのが現実なのだ。誤解が現実であり合意は幻想である。自分の快楽原則に則った許容範囲に誤解が収まるかどうかである。
自己という器に取り込んだ誤解。この穴から現実界のうねりは漏れる。
わたしが主張しているのはそういうことだ。
笙野は自分が気に入った奴しかおもちゃを使うな、と言っているわけだな。まさに教祖状態じゃないか。信者たちは精神分析家よろしく「ヒステリー者が「こう言ってほしい」と思っているようなことを言わされている」。まさにシャーマンだ。呪術師だ。
わたしは笙野の呪術師としての腕は認めている。
しかし、シャーマンが意図した使い方じゃない使い方をしていたわたしは、意図した使い方じゃないわけだから当然「なんか違うなー」と思う。思った末おもちゃを分析し、そのシャーマンはわたしとは別人種だと、シャーマンが生きている世界はわたしの生きている世界じゃないと判断したわけだ。
お互いそれでいいじゃないか。
少なくとも「何の興味もない」まま「弁護士に代わりに読んで貰っている」ような、つまり読んでいたとしても流し読み程度だと理屈的に判断できるそいつが、わたしのことを「正常人だ」と言っても信用できるわけがない。わたしの文章を読んでないのに「笙野作品を読んでない」と断言できるわけがない。この記事の推測通り、毎日必ずこのブログに一アクセスしてたとしても、笙野の「嫌い」あるいは「不快」あるいは「キモイ」などという負の転移により、わたしの実体を見えていないと思える。これは好感を持ってくれた場合、正の転移があった場合も同じである。正常人はこの正の転移だけしか許容できない。転移には正も負も関係ない。人間の本来の感情は好き嫌いで分別できるものではない。
まー笙野とは関係ない記事の日はほんと一アクセスしかないしな、例のホスト。「今日は書いてないな」と確認するだけで読んでない可能性が高いだろう。わかりやすすぎる。
わたしは笙野作品に興味を持っていたことは認めるし、隠すつもりはない。
笙野みたいに自己保身しないだけ。高度な自己保身が理解できないだけ。あ、ここでの「自己」は自体愛の対象としての自分ではなく、自己愛の対象としての「自己」ね。「自体」防衛ならわたしもできる。ぶっちゃけんなの子供の駄々だからな。
「転移は分析の邪魔になるが、転移しなければ分析はできない」
という精神分析の矛盾は、クライアントにとっても正しい。
「転移してくれないということは興味がないということだから、わたしのことを見てくれないが、転移されるということは色眼鏡だから、わたしの実体が改竄されることになる」
わかりやすい。
そういえばカルト宗教でも幹部信者ほど脱会が難しいらしいね。そりゃそうだよな、教祖様から直に「信用している」とか言われたら身を削って働くわ。わたしも多分そっち系。わたしを洗脳することができたらすげー働くと思うよー。
あ、笙野はもういいや。どうでもいい人のために働けない。
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このおもちゃは私が作ったんだよ
みんな喜んでこのおもちゃを使うがいい
みなが喜んで使ってくれることこそわが喜び
あ そこのあんた、そんなふうに乱暴に使うな
あ そこのきみ、その使い方はまちがっている
このおもちゃは私が作ったんだ それが理解できないのなら使うな!
このおもちゃは私が作ったんだぞ! 私に感謝できる人から使ってよし
だから、使い方はこうだって!こっちが指定したとおりの使い方ができないなら使うな!
あ こら!勝手にもってくな!
これは私が作ったんだから 私のものだ!
みんなー! さわるなー! これは、私のものだ!
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全く別の人間についてのネタのようだが、この「私」って笙野にもあてはまるよなあ、と思った。
精神分析はヒステリー研究から始まったと言っても過言ではない。
実際にヒステリー者を分析した分析家はたびたびこんなことを言う。
「表面上、私は患者に対して違った意見を言っているが、感覚的にヒステリー者が「こう言ってほしい」と思っていることを言わされているような気になる」
ヒステリー者だって理屈上去勢済み主体である。実際は、これまでヒステリー(あるいは解離性障害)と診断された患者の中にも、未去勢者(統合失調症、自閉症、スキゾイドなど)も混じっているとわたしは考える。表面上の状態だけ見たらそうなることは予測つくし、DSM主義的な現状を批判するつもりはない。むしろ未去勢者に対しては対症療法しか可能ではない事実を主張するだろう。何故なら未去勢であることとは、定義上、心因、環境因ではなく器質因、内因によるものだからだ。脳科学的なアプローチによる手術や薬物療法の方が効果的となるだろう。
ヒステリー者は「ノン」と言うのが仕事である。相手の全ての言葉に否認する。当然である。「ヒステリー者」の語らいにおける能動者S/は、去勢(棄却)された現実界であり、言語的認知や体感的認知によって表されるものではないからだ。ヒステリー者が言う「ノン」は自分の言葉や体感に対してもあてはまる。
「あなたの言っていることは間違っている。だけどわたしの言っていることも間違っている」
これがヒステリー者の言葉の隙間にこぼれ落ちている真理である。
結果、分析家は誘導される。転移しているのだから誘導されるのは道理である。むしろ誘導されない分析家は精神分析を行っていない、となる。
しかし、ヒステリー者といえども去勢済み主体である(も多く混じっているだろう)。去勢されているならば他者の立場にいるS1はファルスである。
人として原初の妄想。
ヒステリー者の内部にはそれがある。彼女らが真理にしている対象aは「ライナスの毛布」である。ビオンの言う「容器」である。
分析家はヒステリー者の「あなたの言っていることは間違っている。だけどわたしの言っていることも間違っている」という真理を容器だと思い込む。いやヒステリー者にとってもこの真理は容器である。
ヒステリー者と分析家はこの容器に閉じ込められる。「感覚的にヒステリー者が「こう言ってほしい」と思っていることを言わされているような気になる」。
冒頭の引用文に戻ろう。この言葉はアスペルガー症候群当事者が集まるスレで述べられたネタである。
自閉症者は未去勢者である。であるならば容器は壊れている。容器が壊れている故、彼らにとって与えられたおもちゃは自然物のようなものである。自然物に所有者などいない。所有者のことなど、字義通り「気にしないで」それを弄ぶ。結果、所有者が意図した使い方など無視して遊ぶ。壊したりすることもあるだろう。
「おもちゃを自分勝手に使う」立場は、正常人だってありうる。しかし、正常人たちは、その「おもちゃの所有者がいる」と無意識的、固定観念的に考えるため、おもちゃを大切に扱う。言葉やおもちゃの裏に自分と同じような他者がいると思い込める。
一方、アスペルガー症候群者は言葉の語義に拘る。これはむしろ、言葉というおもちゃの所有者をなかなか想定できないからである。正常人にとっては「言葉もおもちゃも人工物」なのが、彼らにとっては「言葉もおもちゃも自然物」なのだ。
従って、彼らの言葉やおもちゃに対する態度は、自然科学者のような態度になる。所有者や創造主などいない、ただそうである自然に対する態度。未知なる自然に対する態度。
こう考えると、アスペルガー症候群者に特徴的な、「言葉の語義に拘る」ことと「言葉を字義通りに受け取る」ことが、何故そうなってしまうのか理解できるだろう。おそらく正常人の感覚ではこの二要件は両立しないだろうが、それは「言葉やおもちゃの裏には(大文字・小文字の、あるいは所有・把握可能な)他者がいる」という精神疾患的症状を原因としているのだ。
わたしの容器は壊れているのだろうか。仮に壊れていると考えれば、わたしは笙野作品という自然物のごときおもちゃを弄んでいた、となる。
いや、言葉、おもちゃの裏にいるとされる笙野本人についてわかっていなかった。だからそれを探ろうとした、と言えるか。自然物だと思っていたそれに、人間臭さが混じっていた。わたしは「何かおかしい」と思う。おもちゃを解体する。
結果、笙野はわたしとは別人種であると判断した。もちろんそうでないわずかな可能性もあるだろうが、別人種の可能性が非常に高い、と判断した。それだけの話。
わたしここでも書いてるじゃん。
=====
深夜の通販番組のごとく心地の良いゆりかごを販促する笙野。ゆりかごが体に合えばいいさ。合わない人がクーリングオフしているだけ。お前の言う「器」からこぼれた人間がお前の販促するゆりかごの不具合を指摘しているだけ。クレーマーだな。
=====
まー容器がないってことは、製作者が込めた意図が理解できない、意図通りの使い方が困難だ、ってことなわけだから、(そいつにとっての)不具合が生じるのも当然だわな。
「器」なんてないんだよ。「器」こそが原初の妄想だ。
まー別に慰謝料目当てのクレーマーではないから、言いたいこと言ったらどうでもいいですお。このクレームを製品の開発に役立てるかどうかなんてのも企業次第。
「私は企業じゃない。現に傷ついた」と言うなら、「何の興味もないそのゴミブログ」は嘘だってことになるな。興味がなかったら傷つくわけがない。傷つくこと自体が一つの興味だ。
あ、もちろん作家本人が自作についての評論に反論するな、なんて言ってるわけじゃない。反論したければ反論すればよい。評論家も批判したければ批判すればよい。いがみ合えばよい。それが現実である。
だからわたしはいがみ合おうとする笙野に期待してしまった。
人と人とはわかり合えないのが現実なのだ。誤解が現実であり合意は幻想である。自分の快楽原則に則った許容範囲に誤解が収まるかどうかである。
自己という器に取り込んだ誤解。この穴から現実界のうねりは漏れる。
わたしが主張しているのはそういうことだ。
笙野は自分が気に入った奴しかおもちゃを使うな、と言っているわけだな。まさに教祖状態じゃないか。信者たちは精神分析家よろしく「ヒステリー者が「こう言ってほしい」と思っているようなことを言わされている」。まさにシャーマンだ。呪術師だ。
わたしは笙野の呪術師としての腕は認めている。
しかし、シャーマンが意図した使い方じゃない使い方をしていたわたしは、意図した使い方じゃないわけだから当然「なんか違うなー」と思う。思った末おもちゃを分析し、そのシャーマンはわたしとは別人種だと、シャーマンが生きている世界はわたしの生きている世界じゃないと判断したわけだ。
お互いそれでいいじゃないか。
少なくとも「何の興味もない」まま「弁護士に代わりに読んで貰っている」ような、つまり読んでいたとしても流し読み程度だと理屈的に判断できるそいつが、わたしのことを「正常人だ」と言っても信用できるわけがない。わたしの文章を読んでないのに「笙野作品を読んでない」と断言できるわけがない。この記事の推測通り、毎日必ずこのブログに一アクセスしてたとしても、笙野の「嫌い」あるいは「不快」あるいは「キモイ」などという負の転移により、わたしの実体を見えていないと思える。これは好感を持ってくれた場合、正の転移があった場合も同じである。正常人はこの正の転移だけしか許容できない。転移には正も負も関係ない。人間の本来の感情は好き嫌いで分別できるものではない。
まー笙野とは関係ない記事の日はほんと一アクセスしかないしな、例のホスト。「今日は書いてないな」と確認するだけで読んでない可能性が高いだろう。わかりやすすぎる。
わたしは笙野作品に興味を持っていたことは認めるし、隠すつもりはない。
笙野みたいに自己保身しないだけ。高度な自己保身が理解できないだけ。あ、ここでの「自己」は自体愛の対象としての自分ではなく、自己愛の対象としての「自己」ね。「自体」防衛ならわたしもできる。ぶっちゃけんなの子供の駄々だからな。
「転移は分析の邪魔になるが、転移しなければ分析はできない」
という精神分析の矛盾は、クライアントにとっても正しい。
「転移してくれないということは興味がないということだから、わたしのことを見てくれないが、転移されるということは色眼鏡だから、わたしの実体が改竄されることになる」
わかりやすい。
そういえばカルト宗教でも幹部信者ほど脱会が難しいらしいね。そりゃそうだよな、教祖様から直に「信用している」とか言われたら身を削って働くわ。わたしも多分そっち系。わたしを洗脳することができたらすげー働くと思うよー。
あ、笙野はもういいや。どうでもいい人のために働けない。