海外旅行の行き先として忘れられてるベルギーとともに
2009/08/13/Thu
モンティ・パイソンのカバーだったのか。知らなかった。
最近のCD買ってないのがモロバレだな。
ようつべ・ニコ動CDの売り上げに絶対影響あるわ、と他人事で思った。
モンティ・パイソンもそこそこ見たんだけどなー。全然気づかなかった。
精神分析において欲望と欲求は別物だ。どう違うのか。もっともよく言われる簡単な説明は、「欲求は満たされるが、欲望は満たされない」という奴だ。
たとえば食欲を考えよう。食欲は食べてしまうと満足できる。これは欲求だ。しかし同じ食欲でも、「よりおいしいものを食べたい」となると話は違う。人は完全に満足できる「おいしいもの」を食べることはできない。究極かつ至高のメニューなど存在しない。従って人は永遠に「究極かつ至高のおいしいもの」を求め続ける。これは欲望である。欲望は満たされない。
性欲を考えてみよう。ヤれば満足できるという欲求的側面もあれば、「より刺激的なセックスを」「より満ち足りたセックスを」などというように、際限のない側面もある。欲望的側面もある。
何故欲望は満たされないのか。理屈的には簡単な話である(感覚的に納得できるかどうかは別にして)。
欲動が欲望になるのは去勢による。
喩え話で説明しよう。
中国の宦官たちは去勢されている。しかし彼らに性欲はないというわけではない。彼らには性欲を満足させる性器が備わっていないため、いつまで経っても満足しない。到達できないエクスタシーを求め続ける。際限がない。彼らの性欲は欲望的である。
これと同じことが精神分析の去勢という用語にもあてはまる。人は生後二年以内の鏡像段階においてなべて去勢されている。満たされることのない欲望を持つことになる。むしろ欲望を持つことが現代の精神医学における正常であるということなのだ。
「満たされるか満たされないか」という示差で欲求と欲望を区別するならば、食欲にも性欲にも欲求的側面もあるが欲望的側面もあり、わたしの主観で言えば、食欲の方が欲望的側面は希薄であろう。
睡眠欲にしてもそうだ。寝れば満たされる。しかし「より快適な眠りを」などという寝具メーカーの宣伝文句を鵜呑みにすれば、この点に限って欲望的側面を帯びているとも言える。
まー感覚的に言うなら、欲望度の高い順に
性欲>食欲>睡眠欲
って感じかな。もちろんわたしの主観で。
さて、こんな風に「度合いの問題」化すると、「んじゃたとえば欲望度がもっとも低い欲求って何さ」って問いが生じると思う。生じないか。
完全に欲望化していない欲求はすでに欲動だとわたしは考える。無方向で部分的で自分勝手な、単純に「矢印」と表現したくなるような(ここのコメント欄参照)身体反応。去勢を心身二元論における二元の分岐点だと考えれば、欲動が心的に統合されたのが欲望で、身体的に統合されたのが欲求だ、なんて言い方も可能か。欲動は去勢前にもあるわけで、去勢により分化されて心が生じると考えるならば、身体的という意味で欲求と欲動は近しいだろう。
でも欲動ってわかりづらいよねー、そうだよねー、ということで、やっぱ「欲望度がもっとも低い欲求」ってなんだ? となる。わたしが。
(しつこく言うが)「満たされるか満たされないか」という示差で欲求と欲望を区別するならば、もっとも欲望度が低い欲求とは、わたしは排泄欲だと思う。単純に考えてごらん? 「よりよい排泄を」なんてあんまりないじゃん。「よりきれいな排泄を」ってのはあると思う。トイレなどはそういった要請から発明された文明だろう、と。だけど「もっとも美しい排泄シーン」など誰も美しいと思わないだろう。だれも究極かつ至高の排泄など欲さない。あくまでそれはケガレの棄却であり、欲望とは言いがたい。
また、排泄はしてしまえば満足する。いかにも欲求的である。
さらに言えば、排便を考えると、それは肛門欲動に密接に関係していることがわかる。排泄欲はもっとも欲求的であり欲動にも近しいのだ。
ま、そんな部分的な思考の断片さ。
仏教なんかでは「欲望」と言うとすぐ「イケナイモノ」とされ短絡的に否定されてしまいがちだが、精神疾患の治療においては肯定的に捉えられなければならない、ということがおわかりでしょうか?
欲望を捨て去りたい、なんて正常人のわがままにすぎないんだよ。こっちから見れば。
欲望は満たされないからここまで文明は発達したのだ。到達不可能なユートピアを目指す欲望が作り上げた現代。
欲望がわからない未去勢者たちが、たとえば自閉症者が人類において大多数だったなら、文明はここまで発達しなかっただろう。
再度ここのコメント欄から。
=====
ちなみに欲望は欲動が幻想的(ごっこ遊び的)に統合されたもの、となるな。欲求は現実的統合ではあろう。
=====
欲動の身体的・現実的統合たる欲求は、動物にも見られるだろう。動物にも食欲や性欲はある。しかし動物の欲は満たされてしまう。動物の欲は人間のそれと比して欲求的であり欲望は希薄である。従って文明は発達しない。
欲動を幻想的に統合できた人間だからこそ、欲望は満たされない。満たされないから文明は延々と発達し続ける。高度な文明を築くことになる。
……あーなんか大風呂敷広げちゃったな。最後の部分はいいや。気の迷いだと思って。社会学的領域に組み込まれるのはもう勘弁。そっち系の人に話が通じないのは経験からよっくわかってる。
そうそう、「欲望は満たされない、故に際限がない」状態って傍から見れば偏執ってことになるわけだが、このことも「正常人はなべてパラノイアックである」ってわたしの暴論にも繋がるかもね。
しんど。
最近のCD買ってないのがモロバレだな。
ようつべ・ニコ動CDの売り上げに絶対影響あるわ、と他人事で思った。
モンティ・パイソンもそこそこ見たんだけどなー。全然気づかなかった。
精神分析において欲望と欲求は別物だ。どう違うのか。もっともよく言われる簡単な説明は、「欲求は満たされるが、欲望は満たされない」という奴だ。
たとえば食欲を考えよう。食欲は食べてしまうと満足できる。これは欲求だ。しかし同じ食欲でも、「よりおいしいものを食べたい」となると話は違う。人は完全に満足できる「おいしいもの」を食べることはできない。究極かつ至高のメニューなど存在しない。従って人は永遠に「究極かつ至高のおいしいもの」を求め続ける。これは欲望である。欲望は満たされない。
性欲を考えてみよう。ヤれば満足できるという欲求的側面もあれば、「より刺激的なセックスを」「より満ち足りたセックスを」などというように、際限のない側面もある。欲望的側面もある。
何故欲望は満たされないのか。理屈的には簡単な話である(感覚的に納得できるかどうかは別にして)。
欲動が欲望になるのは去勢による。
喩え話で説明しよう。
中国の宦官たちは去勢されている。しかし彼らに性欲はないというわけではない。彼らには性欲を満足させる性器が備わっていないため、いつまで経っても満足しない。到達できないエクスタシーを求め続ける。際限がない。彼らの性欲は欲望的である。
これと同じことが精神分析の去勢という用語にもあてはまる。人は生後二年以内の鏡像段階においてなべて去勢されている。満たされることのない欲望を持つことになる。むしろ欲望を持つことが現代の精神医学における正常であるということなのだ。
「満たされるか満たされないか」という示差で欲求と欲望を区別するならば、食欲にも性欲にも欲求的側面もあるが欲望的側面もあり、わたしの主観で言えば、食欲の方が欲望的側面は希薄であろう。
睡眠欲にしてもそうだ。寝れば満たされる。しかし「より快適な眠りを」などという寝具メーカーの宣伝文句を鵜呑みにすれば、この点に限って欲望的側面を帯びているとも言える。
まー感覚的に言うなら、欲望度の高い順に
性欲>食欲>睡眠欲
って感じかな。もちろんわたしの主観で。
さて、こんな風に「度合いの問題」化すると、「んじゃたとえば欲望度がもっとも低い欲求って何さ」って問いが生じると思う。生じないか。
完全に欲望化していない欲求はすでに欲動だとわたしは考える。無方向で部分的で自分勝手な、単純に「矢印」と表現したくなるような(ここのコメント欄参照)身体反応。去勢を心身二元論における二元の分岐点だと考えれば、欲動が心的に統合されたのが欲望で、身体的に統合されたのが欲求だ、なんて言い方も可能か。欲動は去勢前にもあるわけで、去勢により分化されて心が生じると考えるならば、身体的という意味で欲求と欲動は近しいだろう。
でも欲動ってわかりづらいよねー、そうだよねー、ということで、やっぱ「欲望度がもっとも低い欲求」ってなんだ? となる。わたしが。
(しつこく言うが)「満たされるか満たされないか」という示差で欲求と欲望を区別するならば、もっとも欲望度が低い欲求とは、わたしは排泄欲だと思う。単純に考えてごらん? 「よりよい排泄を」なんてあんまりないじゃん。「よりきれいな排泄を」ってのはあると思う。トイレなどはそういった要請から発明された文明だろう、と。だけど「もっとも美しい排泄シーン」など誰も美しいと思わないだろう。だれも究極かつ至高の排泄など欲さない。あくまでそれはケガレの棄却であり、欲望とは言いがたい。
また、排泄はしてしまえば満足する。いかにも欲求的である。
さらに言えば、排便を考えると、それは肛門欲動に密接に関係していることがわかる。排泄欲はもっとも欲求的であり欲動にも近しいのだ。
ま、そんな部分的な思考の断片さ。
仏教なんかでは「欲望」と言うとすぐ「イケナイモノ」とされ短絡的に否定されてしまいがちだが、精神疾患の治療においては肯定的に捉えられなければならない、ということがおわかりでしょうか?
欲望を捨て去りたい、なんて正常人のわがままにすぎないんだよ。こっちから見れば。
欲望は満たされないからここまで文明は発達したのだ。到達不可能なユートピアを目指す欲望が作り上げた現代。
欲望がわからない未去勢者たちが、たとえば自閉症者が人類において大多数だったなら、文明はここまで発達しなかっただろう。
再度ここのコメント欄から。
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ちなみに欲望は欲動が幻想的(ごっこ遊び的)に統合されたもの、となるな。欲求は現実的統合ではあろう。
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欲動の身体的・現実的統合たる欲求は、動物にも見られるだろう。動物にも食欲や性欲はある。しかし動物の欲は満たされてしまう。動物の欲は人間のそれと比して欲求的であり欲望は希薄である。従って文明は発達しない。
欲動を幻想的に統合できた人間だからこそ、欲望は満たされない。満たされないから文明は延々と発達し続ける。高度な文明を築くことになる。
……あーなんか大風呂敷広げちゃったな。最後の部分はいいや。気の迷いだと思って。社会学的領域に組み込まれるのはもう勘弁。そっち系の人に話が通じないのは経験からよっくわかってる。
そうそう、「欲望は満たされない、故に際限がない」状態って傍から見れば偏執ってことになるわけだが、このことも「正常人はなべてパラノイアックである」ってわたしの暴論にも繋がるかもね。
しんど。